全く信用できない。今朝の地震に関する気象庁の発表だ
今朝(28日)の午前8時前に、山梨県の富士五湖を震源
とする地震があり、河口湖や忍野村で震度5弱を観測した
東京の我が家、世田谷区などでもドンッと突き上げる大き
めの震度3の揺れがあった
気象庁は「東海地震や富士山の火山活動との関連性はない」
と発表した…が、去年の3月に起こった未曾有の大震災も
予想できず、津波の高さも「本物の半分以下」しか警告で
きなかった気象庁が、「関連がない」と断言できるのか?
むしろ、発展途上・稚拙な気象庁だけに、逆に「これは
危ない」と思ってしまうのは僕だけではあるまい
気象用語に「バタフライ効果」というのがある。気象・自
然界では、関連が無いと思われる事象でも、互いに影響し
合っているため、予想外の結果を招くという意味の言葉だ
それを判っていて、富士山の断層近くで起こった地震なの
に、小島よしお並に「大丈夫、大丈夫」とおどけるのか?
へんくつで疑心暗鬼コリン星人の僕は、気象庁の言うこと
は、民主党や官僚や東スポや警察や弁護士やエセ宗教屋と
同じとみなして、絶対に信じないのだ。風呂敷に家財道具
一式を包み、それをヨッコラショと首に巻き、ネコを抱え
カミサンの手を取って、安全な場所に逃げることを決意し
た。何処へ逃げればいいかは判らない。とりあえずは、環
八を北へ進もう…
企業の不祥事、重大な事故。それらが起きた後には
問題を傍観してきた関係者が、しばしば非難される
「見て見ぬふり」は、人間に本来備わる特質から来ている
「選択的知覚」という言葉がある。人間は、情報をそのまま
受け取るのではなく、自身の信条・関心・経験に添うものだけを
都合よく選択して認識する。「見たくない」ものは「見えない」のだ
あらゆる組織が馴れ合い、先送り、事なかれ主義と
無縁でない理由がここにある
問題はあるが、取りあえず組織は動いている。問題を指摘すると
孤立するかもしれないし、人間関係など、自分の生活にストレス
がかかる。そうして重大な問題も見過ごされ、限界点で“破裂”する
「青年は、正義の批判力を手放してはならない」(創立者)
組織や社会を良くしていこうとする勇気の正論を叫び続けよう
日本では14年連続で3万人以上の人間が自殺しているという
交通事故死が毎年5~6千人、殺人による死亡が千人余りな
のと比べても、これは異常な数だ
多額の予算を使った政府の「自殺対策」も、全く功を奏してい
ないと言っても過言ではない。毎年3月に行われる「自殺対策
強化月間」にしても、ポスターなどで「自殺をやめましょう」
「悩んでいる人に気づいて声をかけましょう」と宣伝するだけ
ものは、いわゆる“お役所仕事”で、とても自殺が減るものと
は思えないし、事実全く減っていない。特に今年の「あなたも
GKB47宣言!」(ゲートキーパーベーシック“47都道府県
悩んでいる人を支援しよう”AKB48にあやかったゴロ合わせ
のアピール)なるものは、もう悪ふざけとしか言いようがない
政府の役人のオバカ加減には、怒りを通り越して、呆れ、更に
情けなくなってくる。彼らこそ、いなくなって欲しいくらいだ
自殺を無くするには、一人ひとりの生命観・死生観の転換が必
要なのだ。自殺する人間の多くは“死ぬば苦しみから解放され
る”“死ぬば神・仏の下で楽に過ごせる”“死ねば無になる”な
どと思っているようなのだ。その死生観が、安易に自殺へと向
かわせる。そういった死生観を植えつけた念仏などの邪教は断
罪されるべきだが、ともかく、前者とは全く異なる死生観を広
く喧伝する活動をするべきだと思うのだ
さて、ここでひとつの仮説を立ててみよう
すなわち、命は死ぬと“死後の世界”“あの世”“極楽・地獄”
などに行くのではなく、生死生死を繰り返すのだと。いわゆる
起きては寝て、寝ては起きるように、生命は永遠なのだ…と
生命とはページの際限のない本のように、永遠に終わらないの
だ、と…。彼または彼女の人生は1ページに全て綴られ、その
1ページが終わると次の項に移り、新たな人生を綴るのだ…と
だが、新たなページに移っても、前のページで作った借金が消
えることはなく、その返済から逃れることはできない。人の目
は、誤魔化せても、この生命の因果律からは、誰人も、絶対に
逃れることはできない。だから、自らの様々な罪、自ら命を絶
つという最大の罪は“自分”という書籍にしっかりと刻印され
永遠に消えることはないのだ
逆に、善行も消えない。文字通り“金字塔”として永遠に残る
罪を重ねた者が、次のページで再び人間として活動できるかは
保証されていない。考えるのも恐ろしいことだが、来世は海底
の熱線に暮らす深海カニかもしれないし、ゴミのなかで暮らす
ゴキブリかもしれない…。だから、次も人間として太陽を浴び
られるように、この人生を『正しい人間として生きる』ことが
求められる。『正しい人間』は、自ら命を絶たないし人を殺さ
ないし、他人を騙して金を取ったりしない
さて、このような、三世にわたる生命の因果の理法を広く喧伝
し、それが浸透し信じる人が多くなれば、自殺率は下がるので
はないか。そして、善の王道を歩くというモラルが確立されて
良き人生を築こうと努力するなかで、人格も磨かれていく
そういう人間の集まった社会では、いじめや迷惑行為、不正行
為、そして凶悪犯罪も減るのではないか…と思うのだ
この仮説が正しいとか、良いとか悪いとかを議論するのは愚だ
何故なら、この仮説を信じた結果の社会と、今までの死生観の
はびこる社会と、どちらが健全かは明らかだからだ。良い社会
を作る死生観は、結果的に正しい論理なのだ
さてこの喧伝、政府のやることではない。少なくとも野田総理
の役目ではないなと、ここまで書いて気付いたのであった
喫煙室の前を通ると、いつも決まって同じメンバーがタバコを
吹かしながら雑談しているのが見える。彼らの仕事は「タバコ
を吸う」ことなのだと、僕は半ば本気で思っている。タバコを
吸う人間とそうでない人間の仕事に費やす時間には、大きな差
があるに違いないとかねがね思っていたが、ドイツの経済団体
がそのことに(ようやく)気付き、就業中のタバコ休憩の禁止
を提案した。同団体によると、喫煙者の年間のタバコ休憩時間
を賃金に換算すると、最低でも20万円ほどになる、というのだ
つまり、喫煙者は企業に20万円の損害を与えていることになる
更に嫌煙者にとっては、喫煙者より年間20万円も給与が低いの
と同じことになってしまい、不公平感は否めない
だから、就業時の喫煙休憩を禁止することは、当然のことと思
える。僕などは完全な、そして強烈な嫌煙者であるから、ドイ
ツのこの提案を日本でも是非行って欲しいと思うのだ
(僕の嫌煙度は自分でも少し異常と思う。街で歩きタバコをして
いる人間とすれ違う際に、小声で「臭い、迷惑だ」と実際に言っ
てしまうし、ましてや食堂やレストランで喫煙している人間を発
見すると、店の人間に大声で「ここはタバコOKなのか?そうな
ら入るときに言ってくれ。僕はタバコの臭いを嗅ぐと吐き気がす
るんだ。食事どころではない。いま食べかけだが、このまま残し
て帰る」と席を立つのが常だ。その際、一応、料金は払う。払わ
ないと無銭飲食になるからだ。だが、たいていは喫煙者はタバコ
を消すし、店側も謝罪するので、不機嫌な顔で食事は続ける。勿
論、その店には二度と行かない)
だが実際に、煙を吸うヤニ中毒患者の原始人に「仕事中のタバコ
は禁止」といっても、トイレに行くフリをしたり、その他色々な
理由をつけて喫煙するに違いない。原始人ゆえに「マナーだなん
だ」と言ったところで通じない。そこで、彼らの給与を年間20万
円下げることにすれば、皆が納得するのではないか
嫌煙者にしてみれば「彼ら喫煙者は、我々より20万円も給与が少
ない」と納得できるし、喫煙者も「喫煙料を払っているも同然な
のだから、堂々と吸おう」ということになる
これで日本も平和になる…と考えるのは甘いのだ。なにせ原始人
は「権利の主張」にかけては「文明人」を超える。「俺たちはタ
バコ税を払うことで、お前たちより多く国にお金を納め貢献して
いる」とか「喫煙者差別だ!」とか「君が代を立って歌わないの
が何故悪い」とか(あ、これは違うか)、とにかく色々文句をつ
けてくる。そうやって四の五の言う人間に紳士を求めるのは所詮
無理。だから、戦国武将の「鳴かぬなら…」式にやってしまうの
が一番だ
さてさて、その武将だが、豊臣なら「鳴かせてみせよう(タバコを)
止めさせてみせよう」で家康なら「鳴くまで待とう・止めるまで
待とう」。因みに信長なら「殺してしまえ」だ
さて、アナタは豊臣派? 家康派? それとも信長派? 僕は当然…
幼い時に一家が離散した為か、世間並みの「家族意識」
に疎い自分は、普通に暮らしてきた人たちとは「家族」
に対する感覚が大きくズレているのかも知れない。そん
な事を認識する事が今までに幾つかあったが、昨年末に
観た番組の「ドッキリ企画」は、その際たるものだった
その番組とは…
あるプロレスラー夫婦の細君が仕掛け人となり夫を騙す
もので、細君が一般人に暴力を振るったとして、警察が
被害者を連れて夫婦の元を訪れ夫の反応をみる、という
もの。当初は妻の暴力を信じない夫だったが、見せられ
た防犯ビデオには、妻が一方的に青年に暴力を振るう様
子が映っていた。動かぬ証拠に夫は口をつぐむが、被害
者の青年と二人っきりになった際に(そう仕掛けたのだ
が)、夫は相手を威嚇しだした
妻が窮地に立っているのは、まるで被害者のせいのよう
に振舞ったのだ。「お前が妻に殴られなければ、妻は逮捕
されなかった」のような本末転倒の態度に、僕は大いに
憤ったのだが、番組では「妻を守る模範の夫」のように
取りあげ、その行動は正しく、美しい家族愛の模範のよ
うに扱われていたのだ
僕は、それに大きな違和感を感じた。世間の「家族愛」
の定義はこういったものなのか?
また先日、暴力団との交際問題で芸能界を引退した島田
紳助氏について「いつの日か吉本興業に戻ってきて貰え
るものと信じている」と発言した同社の社長が、マスコ
ミなどから反発を招いた為か、「『復帰させます』とは明
言していない」。「吉本としては血がつながっていなくて
も家族。芸人との信頼関係を守るというのは引退しても
変わらない」という意味だったと釈明した。世間的に悪
いことをした“身内”を家族内で擁護する気持ちは判る
だが、それを表に向かって、「家族の御旗」を掲げ「うち
の子は本当は悪くない」と叫ぶのは、僕にはなんとも幼
稚で歪んだ精神の行動と思えてしまうのだ
この、間違った(と僕は思っている)「家族愛」は、極
論すれば「世間的に悪であろうと、自分たちだけが良け
ればよい」という結論にならないか。それは悪の思考だ
家族が社会正義・善なる行動・自己の成長を目指さねば
その絆は清潔なものとは程遠い、エゴと汚濁と悪の関係
となってしまう。そんな汚れた家族は、社会、そして世
界を濁らせ、環境さえも汚していく
一家族の意識の問題は、実は社会全体の問題なのだ、と
僕は思うのだが…
2012年の今日。東京に初雪が降った
南国生まれのカミサンは雪の珍しさに嬉々として、少しばかり
テンションもあがっているようだ。北海道で生まれ育った僕は
雪を見ると逆に、静かで温かく安全な“故郷”の空気に包まれ
る感覚に、心の芯の部分が落ち着き穏やかになっていく
「雪は温かい…」巨匠・黒澤明監督の映画「夢」の1シーンに
出てくるセリフだが、雪国育ちの、特に北海道の人間なら、無
条件に理解できる言葉だ。そう、「雪は静かで、温かい」のだ
深夜、そして朝に雪が降っているかどうかは、家の中にいても
それが判る。雪が降っている朝は静かで、近くの道を走る車の
タイヤに巻かれたチェーンの「シャンシャン」という大きな回
転音さえも、雪に吸収されて遠くに聞こえるのだ。子供の頃は
朝、目覚めると耳を凝らした。そして、今日は雪が降っている
かどうかのクイズを自分に出し、窓のカーテンを開けて「答え」
を確かめた。それは、ほぼ100%「正解」で、外れることは滅
多になかった
横殴りの雪が見える。小学校の入学式の思い出だ。僕は母の分
厚いコートの中に隠れ、隙間から外界を覗き見ていた。入学式
といえば、東京あたりでは桜のイメージなのだろうが、昔の北
海道では4月はまだまだ真冬で、降雪は珍しくなかったのだ
寒い体育館での入学式の際、隣にいた男子の肌の色がとても黒
かったのを覚えている。僕は彼に「色、黒いね」と言うと、彼
は「うん」と笑って答えた。それで彼と友達としてのキッカケ
が出来、僕は嬉しくなったのだが、その言葉を聞いていた母は
帰宅するとひどく僕を叱った。「人様に黒いなんて言っては駄
目です」と…。そんな半世紀近く昔の事を未だに覚えている
それはきっと、当時の僕は、母に理不尽に怒られている気持ち
になり、傷ついたからなのだろう。どうして母は、他愛もない
子供の言葉を、あんなに怒ったのだろう…。横殴りの雪の風景
と共に、怒った母の顔を思い出す
昼間の積雪で、家の周りが雪で埋もれていた。その夜、理由は
忘れてしまったが、父に怒られ、僕は号泣していた。父の怒り
は納まらず、泣いている僕を抱え、玄関から外に放り投げた
小さな僕は宙を舞い、柔らかく降り積もった雪の山にスボッと
落ちて、雪に埋もれた。父に怒られ、放り投げられたショック
と裏腹に、投げられたのが柔らかい雪だったことに、父の優し
さも感じたのだった。後年、道産子の同世代の壮年にこの話を
すると、同じような経験をした者がかなりの数いたことに驚い
た。北海道には、父親が男児を叱る際、雪に放り投げる儀式が
あった…と思う程、何処の家でもやっていたことだったのだ
「この悪戯っ子が!」という父親の声と共に、宙を舞い雪山に
落ちる何人もの子供が浮かび上がった。今はそれが、懐かしく
楽しい思い出となっている
どうした訳か、母が産まれたばかりの末っ子男児の顔を剃り始
めた。後で聞いた話しだが、赤子の顔一面に生えている産毛が
気になって仕方がなくなったというのだ。母は、父の髭剃り用
の大きな剃刀で、赤子の顔を剃っている最中、手元が狂い赤子
の額を大きく切ってしまった。末の弟は「ギャーッ」と泣き声
をあげた。慌てた母は、末っ子を抱え病院に走った。小学校に
上がる前ではあるが長男だった僕は、留守番を言い付かり、不
安がる妹や弟を遊びでなだめようと、皆で雪だるまを作った
その夜、僕と妹弟は、病院から帰ってきた末の弟の絆創膏を張
った額を覗き込んだ。傷は大したことはなく、一応、一針だけ
縫ったそうだ。僕と弟は、末っ子の額にあるであろう“男の傷”
に、同情と共に少しばかり嫉妬も覚えた。産まれたばかりの弟
が、自分たちより早く大人になったように思えたのだ
翌朝、家の前に作った雪だるまの、その額の部分に細い枝が斜
めに埋め込まれていた。それは“傷”に見えた。その悪戯を僕
がやったのか、弟がやったのかは記憶にない。だが、それを見
た母親が怒り、雪だるまを壊してしまった。壊れていびつにな
った雪だるまを、弟と二人で長い間見ていたことを覚えている
記憶を辿る時間から我に返り、間断なく降る初雪を見上げると
白く染まった空に、若い頃の父母と幼い妹弟たちの笑顔が浮か
んでいた。遠い昔に離れ離れになった父は、母は、そして妹弟
たちは、元気で暮らしているのだろうか…
初雪に、そんなことを思ったのだった
イタリア中部沖で豪華客船コスタ・コンコルディアが
座礁した事故で、船が岩礁にぶつかった際、船内のレストラン
の一つで米映画「タイタニック」の主題歌がBGMとして流れて
いたと、19日付の英大衆紙サンがスイス人乗客の話として報じた
この主題歌はカナダ人歌手セリーヌ・ディオンさんの「マイ・ハート
・ウィル・ゴー・オン」。偶然の選曲とみられるが、船内がパニック
の中、乗客は曲が「頭から離れなかった」と話している(共同より)
ウソ~ 出来過ぎてるぅ~
少し前、石原慎太郎都知事は、産経新聞でのコラムで「日本は
そして地球は滅びる」と断じた。その理由を幾つか挙げていた
が、「肝心が判らなくなっている」というのがあった。慶應大
学教授で文芸評論家の福田和也氏の論文『なぜ日本人はかくも
幼稚になったのか』の「幼稚な人間とはIQが低いとか、常識
がないということではなしに、何が肝心かが分からぬ、そして
肝心なことについて考えようとしない者だ」との文を引き、目
先の利害損得にかまけてばかりで、“肝心”に考えが及ばない日
本人は「恐るべき幼稚」で、そんな民族の行く末に待っている
のは“滅亡”の二字しかない、というのだ
石原氏の「“肝心が判らぬ”ゆえに国が滅びる」という論に反対
しないが、しかし彼の論の根拠は幼稚だ。「何が肝心か」の答え
を、持論の「我欲を滅する」こととしているのだ。だが、欲を
抑えることは目的をなす為の過程の行為でありそれが目的とは
ならない。少なくとも「人間の肝心」は、人生においてもっと
も大事な目指すもの、または究極の目的でなくてはならない
我慢することが人生の目的ならば、人生はただの苦役となって
しまう。そんな念仏思想には同意できないし、それは全く正し
くない。では人生における、また人間における「肝心」とは何
なのだろう
第二次大戦当時、レジスタンスとして戦い、逮捕投獄された経験
を持つ、イタリアの経済学者で実業家の故アウレリオ・ペッチェイ
(1908~1984)は1972年、資源や人口問題、軍備拡張、環境破壊
など全地球的な問題に対処する団体「ローマクラブ」を創設し、2
年後に「成長の限界」という報告書をまとめ上げた
「成長の限界」では、人類がこのまま資源を使い消費生活を続け
更には武力による紛争解決を続けていると、100年以内に破局す
るとの警鐘が鳴らされていた。その内容に世界が震撼した
破局を回避するため、ペッチェイは、従来の経済のあり方を見直
し、世界的な均衡を目指す必要があると主張した。そして、それ
には、人間の意識の変革、一人ひとりの自己改革が必要と考えた
彼は「我慢」するのではなく、自己改革の道を志向した。我慢は
無理が生じ永続的ではないからだ
まず自らの意識を変える。それにより“自然と共存・調和する
自分”に変えるべき、人間の“意識改革=Human revolution”
こそが、再生の鍵と、彼は主張したのだ
自分を変えるのは容易ではない。ただ“我慢”するだけでは自分
は変わらない。どうすれば自分を変えられるか。それを可能にす
る『哲学』こそが“肝心”だと思うのだが、そのことに石原氏も
ましてや政権与党の面々、日本の識者らも考えが及ばないようだ
それこそ『「恐るべき幼稚」で「“肝心が判らぬ”ゆえに国が滅び
る」』原因と思うのだが…
東京北区十条に行ってきた
実に久しぶりで2年ほど経つか…
以前にあったサツマイモ揚げ屋さんは経営者が変わり
たこ焼き屋さんになっていた
今川焼きを買い、暫し懇談。実にいい店主だった
十条商店街から東十条に
商店街の旗は、何やら親しみを感じる
とても安い魚屋を発見
日曜だけの「お刺身バイキング」は
マグロ、イカ、鯛、アワビ入りのパックが
なんと1000円!
ここの商店街は“使える”と思った
さて、北区にはこれから何度も通うつもり
ほかにも、北海道、関西にも行かねば
やるぞー!
法務大臣に就任した小川敏夫氏が13日の会見で
死刑執行は「大変つらい職務ではあるが、職責を
しっかりと果たしたい」
でも実際に死刑を執行するのは刑務官で
アナタではありませんから
辛いのは刑務官ですから…
死刑の執行を判決を下した裁判官と検察、法務大臣にすれば
この時代遅れの法律も変えようという世論が起きるのでは?
いまはインターネットの世界。世界で起こったあらゆることが
瞬時に、世界中の一般家庭にまで知れ渡る
アフガニスタンに駐留している米軍兵士が、戦闘で死亡した
タリバン兵の遺体に、あろうことか放尿し、その様子が撮影
されてインターネットに流された。誰より驚いたのは米国政
府で、パネッタ国防長官は問題の行動に対し「米軍の規範を
反映したものではない」とし、「全く嘆かわしく不適切な行
動」で「最大限の言葉で非難する」と声明を出した
確かに彼らの行動は言語道断、あまりに酷い。けれども…だ
もっとも酷く「非人道的」なのは、無差別の大量「殺人」で
あり、それを「命令」する行為ではないのか?
そもそも、前線の兵士に「人道的行為」を望むことは絶望的
に無理なのだ。何故なら、彼らは「敵とはいえ、同胞の人間
を殺害する」という“非人道的野蛮行為”を強制されている
一方で、“一般市民が犯せば重罪になる非道行為”を命令され
同時に、“人道的行為”をせよと言われる。その矛盾を抱え込
んで苦悩する兵士の倫理規範は崩れ、先の行為となってしまう
のは、ベトナム戦争の時も、中東戦争の時も、更に第二次大戦
でも米国政府は経験済みのはずだ。それらの戦争で同胞を殺し
倫理観が崩壊した兵士は、強姦や略奪、麻薬服用などを繰り返
したのだ。米兵のみならず、第二次大戦中のドイツ兵、ロシア
兵は勿論、日本兵も中国で非道を繰り返した。誰がなんと言お
うとそれは歴史の事実なのだ
パネッタ長官は先の兵士たちを調べた後に「責任を取らせる」
と述べた。それは当然のこととして、最も重い責任を問われる
のは、兵士たちをそのように仕向けた国の責任者だ。それは歴
代大統領であり、国防長官ら政府高官だ。彼らを遡って責任を
追求し、「最大限の言葉で非難する」べきだ
二度と若者を戦場に送らない、否、武力で紛争解決しないと決め
ない限り、“非道行為”は繰り返し起こることを、そろそろ気付
いてもいいと思うのだが…