10歳のとき新聞の観戦記に触れ将棋の本質を悟ったわたくしが、天職である将棋に、最善の環境の中、生涯を懸け全身全霊を傾け打ち込むことができましたのは、御支援賜りましたスポンサー、将棋ファンすべての皆様おひとりおひとりのおかげに他なりません。幸せな棋士人生をありがとうございました。
— 加藤一二三@皆様に感謝申し上げます (@hifumikato) 2017年6月20日 - 21:57
メロスは激怒した。王様に「どうして私が怒ってるか分かる?」と詰め寄った。王は答えが分からぬ。
— 燐酸 (@arcueid_brunest) 2017年6月20日 - 23:04
メインクリアしました。14メインシナリオ中最高の、FFの歴代シリーズすべてを通して見ても屈指のストーリーでした。何度もぼろぼろ泣いた。まさにFFだった。俺が子供の頃夢中になった『ファイナルファンタジー』そのものでした。 #紅蓮のリベレーターの感想を開発陣に届けよう #FF14
— 藤原祐@FF14ノベル発売中 (@fujiwarayu) 2017年6月21日 - 08:42
まあ誰かが制御できるものではないのであれこれいう物でもないですけど。
「~だったっけ」が「~だったけ」になったりするのを普通に見たりするとか、「発音に由来する打ち方」でもなさそうなのとか気になったりします。
どこから出てきたんだろう、みたいなw
「言う」「ゆう」とか、もう見ていくとキリがないですしね。
。」というのは多分、会話のシメのカッコで句読点の後に括弧を付けてるってことでしょうけど。
この種の決まり事は小説という構造の発展の中で読みやすさやお約束を指標化する中で生まれてきたので判らないではないですが、ネット小説だとなあという感じはします。
なろうあたりだと行間空けがぱっとやって読者のリーダビリティを上げる工夫が普通にやられてますけど、あれって作品の構造ともマッチしてるからああしてるんでしょうしねというのもありますし。
というかなろうの小説って段落を頻繁に変えることで人物の行動と展開と、その帰結に中心を置く書き方をやってますけど、昔のあかほりさとるのライトノベルとか読むとこれだし脚本ノベライズのあれこれもこれだなあと。
>タコツボ
エコーチェンバーなんか最近言われてますけど、そもそもSNS以降のネットと、中心の権威の失墜で無数の中心が生まれるだけって随分と前から言われてましたしね。
信じたいものを信じるのがポスト云々と言ったところで、それもまあ今更なんじゃないのみたいなのも。
エンタメでも結構感じることですけど、新聞の場合、素人が持ち得ないコネこそが唯一特権として、或いは力や意味として残されてる物かなと。
Webに特化した文章作法はこの20年間でそれなりに確立されているように感じます。小説の場合は当然「なろう」の中で手法が洗練されたという面もあるでしょうし。ただWebの場合は表示が各個人の環境に左右されるため、おおまかなルールはあってもあまり確固としたものには至っていないと思います。
長い文章だと横書きより縦書きの方が読みやすいですし、テキストエディタにコピペして縦書きビューアで読むことが多いですが、そういうことがやりやすいのはWebの利点かなと感じています。エディタやビューアにははっきり言って不満が募っていますがw
>タコツボ
人は自分が見たいものしか見ないですし、それは昔から変わらない事実だと思います。情報の量が今ほど大量でなかった時代はそれが可視化されなかっただけでしょう。ある程度はそれをコントロールできるかもしれませんが、限られた時間の中では情報の取捨選択は必要ですし、情報の偏りは避けられないものでしょう。不可能なことに無駄な労力を費やすよりは、偏りがあると自覚しておくことくらいしか有効な対策はないのかなとも思ってしまいます。