奇想庵@goo

Sports, Games, News and Entertainments

2012.11.14 つぶやきし言の葉

2012年11月15日 02時18分35秒 | Twitter



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
>自覚的 (名無し)
2012-11-17 13:44:49
問題というか、必然ではあるかなと。
SFならガジェットに、ミステリなら意匠にそれが現れて、過去作品を読み返すと「そういう時代だったんだ」と思える事はあれど、問題意識にまで踏み込んで書かれてるかどうか、までは意識できないことも多いのでw 何か特定の対象を批判してたりする作品は、これは特にですね。それが面白さに繋がるのであれば、構成として意味があるとは思えますし、特定の時代性にのみ寄与するような問題意識でなければ、普遍的な何かを読み取れる事もあるとは思います。
まあ同時代性で考えても、自覚的である方が読みの取っ掛かりとしやすいことも多いわけで、そこに関してはやはり意識してくれている方が有り難いですし、ちゃんとしてるな、とは思いますけれど。
行き過ぎればメタ化か意識の偏向に向かってしまうようなジャンルもありますがw

ヨコハマ~は自分も去年辺りに知った(というか実際に触れた)作品で、結構驚きましたね。ちょっと検索したら初出が1994年らしくて、某大魔王以前の空気があった頃からそれ以降まで描いてたというのは、これはちょっと凄いなと。
あと筒井先生はラノベでも筒井でした、ということなのではないかとw というか、魔王、というと、どうしても最近はまおゆう系のあれこれを思い浮かべてしまって、これも意識内でテンプレ化しちゃったなーとか(苦笑)。
返信する
>自覚的 (奇天)
2012-11-17 20:39:24
たとえばハーレム系ラブコメにしても、様々なお約束に対して自覚的であるかどうかは面白さに直結するわけではありません。ただ自覚的であれば、メタ的な部分で楽しめる要素が出来るのは確かでしょう。

研究として著者や作品を取り上げるのであれば、その意図がどこまで自覚的に及んでいたかは重要な課題なのでしょうが、普通に楽しむ分にはそうした深読みは必要とされません。

社会的な風潮や常識が作品に反映されるのは、自覚的であれ無自覚であれ必然ではありますが、自覚の有無に関わらず、作品を通して批評されていくことだとは思います。

結局、自覚の有無が問われるのは、受け手の作り手に対する信頼形成に関与するだけなのかもしれません。それが大きな問題なのかどうかも微妙なところですが。

同じ内容の文章でも、書き手への信頼が異なれば受け取り方も異なることはあると思います。しかし、その程度の度合いは人によって違うでしょう。また、メディアによっても変わってくると思います。

そういう意味では自覚性はかなり個人的な評価に繋がるもので普遍性のある評価ではないのかもしれませんね。何に自覚的であるべきかは受け手それぞれ異なるものだとも思いますし。

>ヨコハマ買い出し紀行

OVAが発売された1998年頃にかなり興味を持っていたのですが、読む機会がないまま過ごしてしまいました。
読んでいると『神戸在住』や『ARIA』などを思い浮かべることもあります。もちろんこの作品の方が先行しているわけですが。
緩やかな時間の経過を描くという意味においては、空気系へ与えた影響もあったと思います。一方で、この作品がどのような影響の中から生まれてきたのかに興味があります。

キャラの雰囲気に手塚っぽさを感じたり、少女マンガの影響も色濃いように思いますが、明確な関係性はよく分からないですね(鶴田謙二の影響を受けたとWikiには書かれていますが、鶴田の作品はちゃんと読んだものがないのでなんとも・・・)

>筒井康隆

筒井作品は七瀬三部作を除くと初期の短編を多く読んでいて、中期以降はほとんど手付かずなのですが、まあ筒井らしさはあったかなと思いますw
魔王に限らず「良い子」すぎるというのはラノベなどで強く感じています。その点でキャラクターたちの奔放さは新鮮だったかもしれません。まあ続編を作っても儲かるとは思えませんがw
返信する

コメントを投稿