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「空気系」である『けいおん!』のキャラクターが「成長」しないワケ

2011年12月07日 21時09分12秒 | アニメ・コミック・ゲーム
Wikipediaの『けいおん!』の項目の中に、「空気系としての『けいおん!』」というものがある。少し長いがその一部を引用する。

京都国際マンガミュージアム所属の研究員・伊藤遊は、2010年10月21日付けの朝日新聞大阪本社版の夕刊における本作品への批評において「四コマ漫画の基本である「起承転結」や「オチ」が重視されていない」「ストーリーがないため、登場人物が成長しない」といった形で前述のストーリー性・成長要素の欠如を指摘しつつも、本作品のヒットを「オチも成長もない日常をユートピア的に描いた本作は、ブログやツイッターといったメディアを介し、他人の何でもない日々とゆるやかにつながりたい、と願う現代人の志向にぴったりなのかもしれない」として説明した。他方でこの伊藤の評価はインターネット上の掲示板2ちゃんねるでは作品に対する批判として受け止められ、「ストーリーがないってのは1万歩譲ってわかるけど 成長が無いってのは無い」「これはひどい 成長も変化もある」といった反応が寄せられ、そうした反響の一部がニュースサイト「J-CASTニュース」で取り上げられた。


ここで問題となるのは「成長」という言葉の意味だ。

最も記号的な成長として思いつくのはRPGのレベルアップだろう。経験値を獲得し、一定の値以上になるとレベルと共にHPなどが上昇する。ステータスが増え(増減するものもある)、スキルや魔法を覚えたりする。
しかし、この成長をリアリティのあるものと感じる人は少ない。

では、成長とは何か。

最も分かりやすい成長は、肉体の変化である。子供から大人への変化を成長と呼ぶことに抵抗を感じることはほとんどないだろう。それは人間に限ったものではなく、動物や植物など普遍的なものと言える。

だが、先の『けいおん!』の記述で語られる成長はそうした肉体的な成長を意味してはいない。

現代で肉体的な意味以外での成長を比較的実感できるのがスポーツの世界だ。選手の成長は成績として表れやすい。
例えば、マリナーズのイチロー。入団当初は非常に線の細い選手だったが、徐々に筋肉が増え、アスリートと呼ばれる体つきになっていった。これは肉体的な成長である。
入団当初からバットコントロールなどに非凡な才能を見せてはいたが、身体ができていないこともあって1軍で実績を示すことはできなかった。肉体的成長と共に技術的な面でも確実に成長し、入団3年目にブレイクし最多安打の日本記録を更新するなどの活躍を見せた。
日本ではその後首位打者を続け、ついには海を渡り、メジャーで打者として成功を収めるという素晴らしい結果を残した。そんなイチローを評するときに語られるのが精神面での成長ということになる。
スポーツの世界ではよく「心・技・体」という言葉が使われる。つまり、精神、技術、肉体の3要素が重要ということだ。成長もその3要素それぞれで評価されることがある。

スポーツ選手に限らず、社会に必要な様々なスキルを身に付けることも成長と呼ぶに足る行為だと言えるだろう。単なる資格であったり、運転免許や語学といったものだけでなく、コミュニケーションの技術や自分をアピールする技術などもスキルの部類と言える。

しかし、この成長も『けいおん!』で語られた成長とは異なっている。楽器を演奏する技術について語られているわけではないのだ。

結局、語られている成長は精神面に限った話ということになる。では、精神的な成長とはなんだろう?

フィクションにおけるキャラクターの成長を非常に巧みに描いてみせた作品の例として『機動戦士ガンダム』が挙げられる。この作品は様々な切り口で楽しめる作品だが、根幹となっているのは主人公の成長譚である。作品中のほぼ全ての出来事はそのために用意されている。
主人公アムロは社会性に欠けるタイプの少年であり、彼が人との出逢いや仲間とのやり取り、恋愛感情、戦いと身近な人の死といった経験を経て社会性を身に付けた大人へとなっていく。成長のための契機が次々と訪れ、それを通して社会との関わりを学び、生きる意味を理解していく。まさに成長のお手本のような物語である。

『機動戦士ガンダム』は1979年から80年にかけて放送された。その15年後の1995年に作られたのが『新世紀エヴァンゲリオン』である。
同じように社会性に欠ける少年を主人公としながら、ガンダムとは全く異なる展開が繰り広げられた。成長のための契機は訪れるが、主人公はそこから社会との関わりを学んだり、生きる意味を理解したりできない。世界は複雑怪奇で少年の手に負えるものではなく、少年の周囲の大人たちも自分たちのことで精一杯で少年の成長を助けてはくれない。

それはただフィクションの中の出来事ではなく、現実社会が変質したことが生み出したものだった。

肉体であれ技術であれ成長というイメージには到達点へ至る過程というものがある。大人の体つきへ向かうのが成長であり、ただ太ったり痩せたりすることは成長とは呼ばない。技術でも上達のイメージがあるからこそ成長と呼べる。
では、精神的な成長は何に向かうのか。古い話だと双葉山が木鶏を目指したとされる。スポーツ選手であれば、平常心で戦えるというのが一つの目標足りえるかもしれない。
だが、一般社会における精神的成長はどうか。例えば武士道精神であったり、国家に尽くすことが立派な大人とされる時代もあった。少なくとも時代時代に「立派な大人」という共通認識はあった。社会的に成功することも大切だが、それだけではなく人として立派であることが(ある程度は建て前だとしても)理想とされていた。
しかし、日本ではバブル期を経てそうした共通認識が崩壊したと言えるだろう。

価値観が多様化し、理想の生き方も人それぞれとなった。国家や企業への忠誠が求められた時代は終わった。それは生き方の自由が許される時代とも言えるが、自由とは不自由なものとも言える。自分で選択するということは自分で責任を負うことである。また、過去の価値観が相対化されたということは、過去のやり方を真似ればいいというわけにもいかない。

そんな時代に単純に主人公の精神的な成長を描いても文字通り「フィクション」の中だけの出来事となってしまう。『新世紀エヴァンゲリオン』の価値は同時代的にそれを表舞台へさらけ出したことだ。「エヴァ以後」とは精神的な成長が困難になってしまったという前提を踏まえてそ、れでもフィクションとしてどう成立させるかという苦闘を示している。

空気系の元祖とも呼べる作品が1999年にスタートした4コマ漫画『あずまんが大王』である。主人公の少女たちの日常を描いたギャグ漫画だが、その後の空気系に受け継がれるいくつかの要素がある。
まず、明確な主人公が存在せず複数のキャラクターが主人公格である点。次いで、リアルタイムと同じペースで作中で時間が流れる点。恋愛要素が希薄である点、そして、成長要素がほとんどない点である。

それまでも成長要素のないフィクションは数多く存在した。ただそれらの多くは、時間経過のない世界で描かれるものが多かった。作中で時間が経過しないというテクニックは長期連載を可能にすると共にキャラクターの成長を描かない(描けない)という要素を生み出した。それは時に利点となり、時に欠点となった。「永遠のユートピア」的な観念は支持も得たが、逃避的なイメージで捉えられることも多かった。

現代においても、若い世代の中でも、誰もが精神的成長への懐疑を抱いているわけではない。懐疑の程度も異なる。フィクションにおけるキャラクターの精神的な成長の描き方に対して、旧来通りに納得する人もいれば、記号的に感じる人もいる。多くのフィクションにおいて、これまでの成長の表現方法は今も使われているし、そういう「お約束」として成り立っているのも事実だろう。
ゼロ年代の空気系作品に対してもそれまでの「永遠のユートピア」と同じように捉えて支持している人もいるだろう。それが悪いわけではない。

ただ両者は決定的に異なる。

「空気系」のほんわかした空気の先に「覚悟」を感じると言えば大げさだろうか。

「永遠のユートピア」は現実社会からの逃避先だった。だが、空気系は現実社会の限界から生み出されたとも言える。精神的成長の核だった国家や道徳といった「大きな物語」を信じられなくなったとき、何を糧として生きていくのか。「自分探し」なんてものが流行ったりしたのもその表れだったろう。スピリチュアルなものであったり、ナショナリズムのような大きな支えを求める人もいる。しかし、生きる意味が分からなくても日常は否応なく訪れる。そして、そんな日常も捨てたものではないという気付きさえあれば生きていけるのだと「空気系」は示している。

『けいおん!』第1話の主人公たちと『けいおん!!』最終話の主人公たち。高校入学時と卒業時という3年という月日が描かれているが、そこに「成長」はあったのか。私には精神的な成長は感じられなかった。でも、成長しないことがいけないことだというのは、成長が信じられた時代の価値観に過ぎない。

成長を社会への適応と捉えるならば、現代においても成長は必須である。生きていくのに必死な社会でそれを否定することはできないが、でも、それは本当に「成長」なのだろうか。
精神的成長の理想像を見出せない以上、全ては「変化」に過ぎない。日常の中に幸せを見出す生き方も価値観のひとつに過ぎないことは分かり切っている。価値観を押し付けられないがために押し付けるのは間違いの元であると理解している。それでも、本当にそれでいいのかという疑問も捨てられずにいる。




もう少し個別の作品ごとに語るつもりだったが、論旨が乱れそうなので割愛した。機会があればまた語りたいと思う。また、平井和正を起点に高橋留美子や新井素子などに受け継がれた視点も絡ませられたら良かったが、これはエヴァ以後にどう受け入れられているか判断が付かないのでまた別の機会にといった感じだ。
3・11後に空気系は難しくなるという評論家もいるが、むしろ3・11後だからこそ空気系が必要とされると私は感じている。現実に『けいおん!』に匹敵するような空気系作品が生み出されるかどうかは分からないが。