Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

モンタナ・スタンピード!:『バファロウ平原』

2012-08-31 | アラン・ドワン
 シリーズ<ビバ!ペプロム>が順調な滑り出しをみせたところで、いきなりですが、新シリーズを立ち上げます。

 名付けて<ウェスタナーズ☆クロニクル>(仮)。

 西部劇はこれまでそれなりに意識的に見てきたつもりのジャンルだが、見逃しているものがいくらもある。さらに、おなじみの作品もあるていど系統立てておさらいしてみたいとおもっている。<ビバ!ペプロム>ともども、お引き立てのほどを!

 記念すべき一回目は、“じゃじゃ馬荒野を行く”ものの佳作から。



『バファロウ平原』(Cattle Queen of Montana、アラン・ドワン監督、1954年)

 北西部度☆☆☆☆☆
 野生児度☆☆☆
 どら声度☆☆☆☆
 暴走度☆☆
 さやあて度☆

 バーバラ・スタンウィック主演のトレイル(キャトル・ドライブ)もの。父親と二人でテキサスから牛を運んでいるスタンウィック。目的地はモンタナ。その途上で先住民に襲われる。深夜の銃声に驚いた牛が暴走。スタンウィックの父親が死ぬ。襲撃者の背後には悪徳商人(ジーン・エヴァンズ)がいた。かれはウィスキーを餌に先住民を操り、スタンウィック一家の財産を狙っていた。スタンウィックは悪徳商人の使用人(ロナルド・リーガン)およびインテリ先住民コロラドスの協力で悪徳商人を始末し、財産を奪い返す。リーガンは実は軍の密偵で身分を偽って悪徳商人のもとに潜入していたのだった。二人の色男に挟まれて歩み去って行くスタンウィックのショットで幕。

 アラン・ドワンが1950年代にベネディクト・ボジャーズ製作で撮った一連の傑作群の一本。絶対的な『逮捕命令』(Silver Lode)『対決の一瞬』(Tenessee's Partner)の深みこそないが、簡潔にしてひきしまった好作といえる。巻頭、青々としたモンタナの山々を背景に颯爽と馬を駆るスタンウィック。ドワンの「ルソー主義」が刻印されたショット。キャメラは光の画家ジョン・オルトン。コントラスト豊かなモノクロの巨匠にして、『巴里のアメリカ人』のバレーシーンを手がけたカラリストでもあることは周知のとおり。この美しい自然を背景に人間たちのエゴがぶつかりあう。

 どぎついブルーに輝く泉で水浴する赤毛のディアーナを別々の場所から見つめる二人のアクタイオーン。コロラドスとリーガンだ。この楽園がやがて失われ、最後にはとり戻されるというのは、アラン・ドワンに典型的なストーリーテリング。三角関係は最後まで維持されるが(あきらかにリーガンに分がある)、物語の前景を占めることはない。

 いつも不敵な面構えで画面の奥からヒーローを睨みつけているという印象の強いジャック・イーラムがリーガンの同僚役で台詞まわしも軽やかに動き回っているのがほほえましい。意外とスリムね。

 撮影エピソードをひとつ。ロケ地となったモンタナの国立公園ではスタンダード石油が採掘をしていた。エキストラの先住民たちはみな土地を売った金で潤っており、なかにはキャディラックで撮影現場に乗りつける者もいたとか。(cf. ピーター・ボグダノヴィッチ著 Alan Dwan, The Last Pionieer)

Super(production) Mann:『ローマ帝国の滅亡』

2012-08-30 | アンソニー・マン
 ビバ!ペプラム No.5

『ローマ帝国の滅亡』(アンソニー・マン監督、1964年)

 大法螺度☆☆☆☆☆
 泰西名画度☆☆☆☆☆
 ギボン度☆☆
 マニ教度☆☆
 後期ストア派度☆☆
 赤狩り度☆
 リドリー・スコット度☆☆☆☆


 サミュエル・ブロンストン製作の超大作。セットの豪華さ、エキストラの数などなど、そのスケールの巨大さには半端でない金がつぎこまれていることがただちにわかる。スペインのブロンストンのスタジオで撮影された。

 マルコマンニ戦争のなさか、マルクス・アウレリウスが死ぬ直前(紀元180年)からコモドゥスが死ぬところ(192年)までが描かれる。タイトルが多少まぎらわしいが、要するにローマ帝国の「滅亡の始まり」を画す時期が舞台となっている。

 マルクス・アウレリウスにアレック・ギネス、コモドゥスにクリストファー・ブラマー、その姉ルキッラにソフィア・ローレン、コモドゥスの幼なじみで、マルクス・アウレリウスが帝位を託そうとする司令官リウィウスにスティーブン・ボイド、そのブレーンの哲学者にジェイムズ・メイスン。ギネス、メイスン、プラマーがとくにいい。

 そのほか、アンソニー・クウェール(コモドゥスの側官にして「実父」)、メル・ファラー(マルクス・アウレリウスの家臣で下手人)、オマー・シャリフ(アルメニア王)、ジョン・アイアランド(ゲルマン人のボス)らの顔も見える。

 史実ではペストで死んだはずのマルクス・アウレリウスが家臣一味に毒殺されたということにされている。リウィウスは、ルキウス・ウェルス(マルクス・アウレリウスの共同統治者でルキッラの聟)あたりをイメージして創作されたキャラなのであろうか。高名な歴史家の名前を戴いているのはその証言者的な立ち位置ゆえかも。コモドゥスの最期はグラディエイターに殺されたとされるが、ここではそのリウィウスとの決闘で死んだことになっている。そもそもコモドゥスが母ファウスティナの不貞の子というのもほんとはちがうらしい。ルキッラがコモドゥスの暗殺を企てたり、政略結婚の道具にされるというのは史実を踏襲しているようだが、属州アルメニアの王に嫁ぎ、反乱を煽るという設定に変えられている。ラストでは弟の命により反逆罪で愛人リウィウスとともに火あぶりの刑に処せられそうになるが、寸でのところでご都合主義的に救出される。メイスンのキャラクターは、マルクス・アウレリウスの家庭教師であったエウポリオンという人(奴隷出身)あたりから着想したものであろうか。

 脚本にフィリップ・ヨーダン(アンソニー・マンとはすでに何本も組んでいる)、さらにジョゼフ・ロージーの盟友べン・バーズマン(『緑色の髪の少年』『非情の時』)と聞けば、ここで描かれたローマ帝国の運命にいろんな寓意を読みとることもできそうだ。ヨーダンと(クレジットされていないが)バーズマンは、同じくブロンストン製作のアンソニー・マン作品『エル・シド』の脚本も手がける。ヨーダンはほかにも同時期のブロンストンのプロダクションにコンスタントに参加している(『キング・オブ・キングス』『北京の55日』)。

 史実に大胆な創作をたくみにおりこんで緊密にしてメリハリにみちたドラマを一気呵成に見せる。ひとつひとつのショットがスコープ画面の隅々にいたるまで絵のように美しく、ゴージャスでカタルシスにとんだスペクタクルという要求を満たしながらも、濃密な人間ドラマ(ファミリードラマ?)が俳優の始終おさえた演技によって繰り広げられる。

 巻頭、辺境の属州でマルクス・アウレリウスが援軍に駆けつけた属州各地の支配者たちに謁見するところからはじまる。背後に雪山を臨む北方の要塞の荒涼感。古代ローマもののイメージを見事に裏切るオープニング。目に焼き付く雪景色や紅葉、森のなかの合戦といったモチーフが、同じ時代に取材したリドリー・スコットの『グラディエーター』にしっかり受け継がれていたのは記憶にあたらしい。映画はこのあと、コモドゥスの即位とともにローマへ、その後東方のアルメニアへと飛び、ペルシャ軍と相まみえる(ラストは硝煙をあげるフォーラムの大ロングショット)。シンフォニーの章立てのような鮮やかな場面転換。

 ジェームズ・メイスン演じる哲学者は、元奴隷のギリシャ人という設定(とうぜんストア派でしょう)。ゲルマン人との交渉をまかされていて、「蛮族」の代弁者的なキャラクターでもある。単身ゲルマン人たちのもとに送り込まれるシーンで、掌に火をおしつけられる拷問を受ける。同じアンソニー・マンの『ララミーから来た男』でもうひとりのジェームズ(スチュワート)が演じた場面の再現と言えるが(脚本はやはりヨーダン)、メイスンの演技が光るすばらしいシーンに仕上がっている。

 『ベン・ハー』の二番煎じの騎馬競争はご愛嬌だが、なかなかよく撮れている。

 マルクス=アウレリウスおよびルッキラの「モノローグ」はちょっと間が抜けているな。もしかして『自省録』が引用されたりしているのだろうか(ルッキラは「これこそがローマなのよ」とか言って『自省録』を元老院に託して嫁いで行く)。

 辺境で、ルキッラを恋しがっていることを言い当てられたリウィウスが照れ隠しに相手の馬のたてがみを撫でるといったディティールのリアリティやよし。

 ラストの決闘を前に、兵士たちの盾が壁と化し、一瞬のうちに整然とした四角いジャングルができあがるときの手品のような見事さ。

泳げディーン:『マラソンの戦い』(1960年)

2012-08-29 | その他
 <ビバ!ペプラム>その4

『マラソンの戦い』(ジャック・ターナー監督、1960年)

 ディーン度☆
 入江度☆☆
 米満度☆
 内村度☆
 エコ度☆☆☆
 ホラー度☆☆
 
 ホラー(『キャット・ピープル』『私はゾンビと歩いた!』)やフィルム・ノワール(『過去を逃れて』『夕暮れのとき』)の巨匠として名高いターナーが西部劇(『インディアン渓谷』『法律なき町』)の名手でもあることは、残念ながらわが国ではほとんど注目されることがない(allcinemaのフィルモグラフィーを見てみたら、意外にもほとんどの作品が日本で公開されている!)。さらにこの人、キャリアの終わり頃にどさくさにまぎれて古代史劇映画も一本撮っているのだが、唯一の愚作との声もちらほら。複雑な心境。

 タイトルからわかるようにペルシャ戦争ものである。ギリシャ神話に取材した古代史劇は山ほどあるが、ギリシャの史実に基づいた作品はかならずしも多くないとおもわれるだけに貴重ではある(ミラー=スナイダーの『300』はその点でも有意義)。

 主演はスティーブ・リーブス、相手役にミレーヌ・ドモンジョと来て、キャメラがマリオ・バーヴァ。なぜかFINとエンドマークが出るし一瞬どこの国の映画かわらなくなるが、イタリア映画なのだった。

 本作が公開された1960年はローマでオリンピックが開催された年。とうぜんそれをあてこんだ企画なんだろう。オリンピュア競技大会でリーブスが槍投げの?チャンピオンになるところからはじまる。マラトンの戦いを記念してのちにマラソンがオリンピア競技に組み込まれたと言われているから、かれ自身はマラソン選手ではないんですね。さらに言うと、例の長距離走の描写は実にあっさりしたもので、むしろ水中作戦のくだりが目をひきつけます。「おまえは水泳部か!?」とおもわずつっこみのひとつも入れたくなったりするわけで。

 涼しげな水面のショットや水中撮影シーン(前回とりあげた『ヘラクレス』にも美しい水中撮影がありました)がふんだんに出てきますから、ロンドン・オリンピックは終わっても、いまの季節に鑑賞するのにぴったりです。そういえば『キャット・ピープル』にも有名なプールのシーンがありましたっけ。ありあわせの自然の要素を素材にして効率的に涼をとる(背筋を凍らせる)演出に長けてます。その点でターナーは『吸血鬼ノスフェラトゥ』の監督の後継者とも言えるでしょう。いずれにしても「エコ度」のポイント高いです。

 あと、最後にはリーブスの協力者になってアテネを救うことになるエルヴァイラふうの悪女がちょっとホラーっぽいかな。純白の衣裳着たブロンドのドモンジョに対する黒の女。いわば影とか闇を象徴する役回り。リーブスはこの二人のあいだを行ったり来たりする。ジャンルにかかわらずターナーの映画にはいつもこういう形而上学的ともいうべき図式が隠れている。

あまりにイタリア的な:『ヘラクレス』(1957年)

2012-08-28 | その他
 <ビバ!ペプロム> 其の参

『ヘラクレス』(ピエトロ・フランチーシ監督、1957年)

 ギトギト度☆☆☆☆☆
 むきむき度☆☆☆☆☆
 牧歌度☆☆☆☆☆
 ベルカント度☆☆☆☆
 アマゾネス度☆☆
 名作度☆☆☆☆


 華々しく幕を開けた<ビバ!ペプロム>。のっけからマンキウィツ作品2本立てとはハイブラウすぎるチョイスだったかも。古代史劇映画のダイゴ味は、むしろ今回とりあげるような作品にこそあるのです。

 欧米ではヘラクレスものの代表作として立派に認知されており、わが国でも公開はされたものの、いまや語る人さえいない。当然DVD化などはされておらず、わたしはアメリカ盤を取り寄せて見た。

 主役はこのジャンルの立役者の一人、スティーブ・リーブス。元「ミスター・ワールド」とやらのボディビルダー。人のよさそうな顔してる。シルヴァ・コシナが恋人(ペリアスの娘?)役。アマゾネスの首領にジアンナ・マリーア・カナーレ(“con”付きの特別出演扱い)。この人も美人コンテスト出身らしく、大監督リッカルド・フレダ作品で知られる。

 エピソードの豊富なヘラクレス神話だが、ここではゴールデン・フリースを求めてのアルゴー行きがメインの筋で、ライオン狩りとか牛の生け捕りの難行がなんとなく絡めてある感じ。神殿を腕力で倒すとかの『サムソンとデライラ』あたりから借りてきたらしいエピソードもちゃっかり混じる。本国イタリアでは記録的なヒットを飛ばしたらしい。

 Luxカラーといっただろうか、旧式テクニカラー系によくあるギトギトしたカラーが目を刺激する。このギトギト感、いかにもイタリアン・オペラふう。さらにキャメラがマリオ・バーヴァと知ってなんとなく納得。のちのバロック的ホラーのヴィジュアルを予告していると言えるかも。ちなみにバーヴァは『ヘラクレス対ヴァンパイア』なんていうキワモノ古代史劇も監督している。

 古代史劇の魅力であるチープ感はじゅうぶんすぎるほど漂っているが、いっぽうでけっこう金がかかっていることもわかる。ゴールデン・フリースのかけてある木の根元に眠るゴジラみたいな怪獣にしても、よくあるはりぼて感がない。わたしが見たのは英語版のせいか、音楽はむちゃくちゃだったが(なげやりな混声コーラス、閨房と祝宴場面でのムード音楽)。

 本作には『ヘラクレスの逆襲』という続編があるが(日本にも輸入された)、似たタイトルの映画を古代史劇映画のカリスマ的巨匠ヴィットーリオ・コッタファヴィも撮っている。こちらは十年以上前に京橋のフィルム・センターであったイタリア映画特集(アドリアーノ・アプラらの監修になるとてつもなく高密度な企画であった)でかかったことがあって、ほぼ無人状態の大ホールでかぶりつくように見入ったのを覚えている。

 ちなみにものの本によると、最初のヘラクレス映画はエミール・コールによるアニメだそう。

言葉、言葉、言葉:『ジュリアス・シーザー』(1953年)

2012-08-27 | その他
 <ビバ!ペプラム>2回目。前回にひきつづき、マンキウィツ作品をとりあげる。

『ジュリアス・シーザー』(MGM、1953年)

 ストア派度☆☆☆☆☆
 朗々度☆☆☆
 金言度☆☆
 任侠度☆☆☆
 ゴア度☆
 マシスモ度☆

 シェイクスピアの戯曲の脚色。シーザー暗殺前夜から、ブルータスが自殺するまでを描く。例の et tu, Brute はラテン語のままだったりするし、オリジナルの台詞を最大限活かしつつ、要領よく約めている印象。

 キャシス(Sir ジョン・ギールグッド)、ブルータス(ジェームズ・メイスン)、アントニー(マーロン・ブランド)、キャスカ(エドモンド・オブライエン)、シーザーの妻(グリア・ガースン)、ブルータスの妻(デボラ・カー)、シーザー(ルイス・カルハーン)。

 ひたすら禁欲的なこの映画のいちばんのセールスポイントは、やっぱりギールグッドの台詞まわしがたっぷり味わえることだろう。メイスンは可もなく不可もなし。シーザー役のカルハーンは言わぬが花。

 ひとりだけラテン系まるだしのブランド。浮いているが、そのぶんリアル。『欲望という電車』のランニングシャツをトーガに着替え、マッチョな上半身こそ封印してはいるが、秀でた額が美術学校のレプリカふうで真に迫っている。ビーフジャーキーを噛んでるような台詞まわしでシーザー追悼の大演説をぶつ。

 陰鬱な鉄砲玉オブライエンは、ワーナーのギャング映画からそのまま抜け出てきたみたいでわるくない。

 文芸映画御用達のグリア・ガースン、古代史劇常連のデボラ・カーは、いずれも演劇学校の生徒風。いやしくも古代史劇なのにきれいどころは事実上ひとりも出てこない。
 
 エセ思想家ロラン・バルトは、前髪と汗が本作の演出のキモだと言っている。前髪が乱れている(無垢のしるし)のは深夜に起こされるカルピュルニアとブルータスの使用人の少年だけであり、汗をかかない(苦労していない)のはシーザーだけであるとかなんとか。古代史劇映画をなめきった「映画におけるローマ人」というタイトルからして、この知識人の通俗性を露呈してあまりある。

 『白い恐怖』『深夜の告白』のミクロス・ローサは、古代史劇映画の巨匠でもあったコンポーザー(『クウォ・ヴァディス』『ベン・ハー』『キング・オブ・キングズ』……)。お得意のライトモチーフのテクニックをこの作品にも導入している。そういえば、『プロビデンス』にもギールグッドが出ていたなあ。古代史劇ではないが、どこか通じる精神をもった映画だった。

 戯曲の映画化ということもあり、セットは簡素。『クレオパトラ』は画面の隅々まで金のかかったカラフルな小道具がごてごてとてんこ盛りにされていて目が疲れるが、モノクロの『ジュリアス・シーザー』ではむしろ、簡素な衣裳、壁、階段の白さを(象徴的な意味あいをも込めて)効果的につかっている。撮影はMGMの巨匠ジョゼフ・ルッテンバーグ。この人のキャメラにはいつも天才ならではのキレを感じる。