Negative Space

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太鼓が鳴りやむ時:リュートン=フレゴネーズの傑作西部劇「Apache Drums」

2015-02-01 | その他



ウェスタナーズ・クロニクル(No.20)

ヒューゴ・フレゴネーズ「Apache Drums」(ユニヴァーサル、1951年)

 ヴァル・リュートンの手がけた最後の作品で、唯一のカラー作品。モノクロの美学でおなじみのリュートンとしては意外だが、リュートンらしさが横溢した隠れた大傑作B級ウェスタン。ちなみに本作はもっとも安価に撮影されたテクニカラー作品であるらしい。
 エキゾティックなコミュニティー、マイノリティへのまなざし(酒場のアフリカ系の使用人)、善悪のあいまいさ、抑えた演技、大胆な省略(たとえば娼婦たちの皆殺し場面)、そしてラストの三十分におよぶあまりにも異様なシークェンス。
 先住民に包囲され、ホールに閉じこめられた老若男女の一群。キャメラはホールを一歩も出ない。敵のすがたはみえない。低く単調に流れてくる太鼓の響きがそれだけいっそう不安をおある。リュートン一流の「見せない」演出が冴えわたる。高いところに不気味に穿たれたいくつかの窓。そこからときおり全身を原色の染料で塗りたくった先住民が飛び降りてくる。応戦する主人公たち。このへんはホラー映画のノリで、ふつうの西部劇とは異質な空気が流れている。蝋燭が消され、スクリーンはしばし真っ暗になる。そして闇のなかにマッチの一点の光がともり、光の輪がひろがって周囲をてらしだす……。リュートンがジャック・ターナーとくんだ傑作群でおなじみの光と闇のドラマティックな弁証法。狂気にかりたてるかのような低い太鼓の音を打ち消そうと、おのずからひろがる村人たちの歌声(本作では何箇所かで歌がながれる)。人々の渇きと疲れが極限に達する。跪き、じぶんたちの神に祈りはじめる味方の先住民。牧師がそのそばにいき、かれじしんの神にいのりはじめる。固く閉ざされた扉に外側から火が放たれる……。全員が死を覚悟したそのとき、かすかに騎兵隊の遠い喇叭が聞こえてくる。しばしつづく銃声。燃えさかる重い扉が開かれ、なかから囚われの人々がつぎつぎと出てくる。キャメラは最後まで扉の外を写さない。騎兵隊の姿も、殺された先住民の姿も一瞬も画面に映らない(これは現実の出来事なのだろうか?)。前述の歌の使い方も含めて、ドラマティックなサウンド世界の絶妙な構築術。歓喜のおももちで扉のそとにでてくる人々と入れ替わりに、一頭のこどもの驢馬が入れ替わりにひょこひょこと室内に入っていく。飼い主の傍らに、いっしょに閉じこめられていた母親驢馬がおとなしく立っている。こどもの驢馬が母親の乳房に顔をうずめ、そこにエンドマークがかぶさる。余韻に満ちた象徴性豊かなエンディング。まちがっても抱き合う恋人たちのショットで終えたりしない。
 山地の奇岩をとらえたロングショットで幕を開ける本作。前半のアクションの舞台となる荒野の大空間とラストの閉鎖空間との対比が鮮烈。
 冒頭近く、この館の巨大な扉が内側から開けられて、黒一色の画面が光で満たされる印象的なショットがある。この数年後に撮られることになる『捜索者』のオープニングをいやがうえにも想起させるショットなのだが(筆者のプロフィール写真参照)、ラストで濃厚な象徴性をになわされた扉が開かれる場面の心憎い伏線になっている。

 演出はアルゼンチン出身の異才ヒューゴ・フレゴネーズ。エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤ、ムリリョらの民衆画、宗教画を随所で連想させるスタティックでバロック的なフレーミングと大胆な色彩設計には突出した造型的才能があきらかだ。なにげないショットにもたえず緊張感がみなぎる(突然つぎつぎ倒れ込む騎兵隊の列、etc.)。撮影・チャールズ・P・ボイルの貢献も特筆すべき。
 脚本は『陽のあたる場所』のハリー・ブラウン。マイルストン(『激戦地』『凱旋門』『オーシャンと十一人の仲間』)ほか、ルードヴィク(『怒濤の果て』)、フライシャー(『ならず者部隊』)、ドワン(『硫黄島の砂』)、ゴードン・ダグラス(『明日に別れの接吻を』)らの傑作・佳作をも手がける。ホークスの『エル・ドラド』にも原作を提供。
 リュートンの手がけたB級作品の例に漏れず、大スターは出ていない。主演はスティーヴン・マクナリー(『ウィンチェスター銃’73』『恐怖の土曜日』)。悪人として登場するが、物語が進行するにつれて善悪の判断が不可能になる。相手役にコリーン・グレイ(『死の接吻』『悪魔の往く町』『赤い河』『対決の一瞬』『現金に体を張れ』)。ワルのマクナリーと善人の医師にして市長(スターリング・ヘイドンふうのウィラード・パーカー)のあいだで揺れる。ほかにフォード一家のアーサー・シールズ(牧師)。