Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

メロドラマのいちばん幸福だった時代:『泣き濡れた春の女よ』

2012-07-31 | 清水宏
 清水宏の『泣き濡れた春の女よ』(松竹、1933)。

 汽船に男たちが次々とのりこむ。なかにシャベルをかついでいる男がいる。北の炭坑に出稼ぎに行く男たちだ。

 船上には、玄人らしき女性たちの一群もいる。

 ふたつのグループのあいだにまもなくなにかがおこるだろう。

 デッキの階段に腰かけた男が、落ちている煙草を拾おうとする。傍らに立っていた女がその煙草を踏みつけ、自分の煙草を差し出す。だまって箱から一本拝借する男。ありがとうくらいいったら、と女。無言のまま煙草をもとの箱に差し入れる男。ついと立って少し離れた場所へ。小さな女の子がこんどはかれに菓子を差し出す。ありがとう、と言って受け取る男。

 女は岡田嘉子。男は大日方傅。女の子は女の娘である。

 女たちは女給の口を求めて同じ炭坑の町へ向かうところだ。

 小さな炭坑の町は雪景色がわびしくも目にしみる。

 女は男の気をひこうとするが、男のほうは女の妹格の少女に恋心をいだく。

 男の親友も同じ少女に思いをよせている。一方、男のふとった「上官」が女に岡惚れし、つきまとっている。

 「上官」の体格が、スタンバーグ作品や『男の敵』につうじる画面の雰囲気とあいまって、ちょっとヴィクター・マクラグレンをおもわせる。親友のほうは『黄金時代』のガストン・モドーに似てコミカル。

 女は部屋に男を連れ込み、「お話」を聞かせる。むかしあるところにおじいさんとおばあさんがあったみたいな話かい? 似た話かもしれないわ。 むかしあるところに男と女がいたの。 それから? 女は男のシャツを洗濯してやったの。 それから? これからもいつも洗濯してやりたいとおもうようになったの。 それから? それだけでは満足できなくて所帯をもちたいとおもうようになったの。 それから? だけど男は女のきもちを感じないらしいの。 それから? (女が男の腕をとって)まだ感じないらしいの。それから? (男の腕を揺すって)まだ感じないのかしら?

 男は女に気がないようす。とはいえ、女の娘をかまってやっているうちに、忘れていた純真なきもちをとりもどす。うれしそうに女にそう話してやる男のやわらかな表情。夫のいない女は生き抜くのに必死で、子供をかまってやるこころの余裕をもてないでいた。

 母親と「だいすきなおじさん」が部屋にいるあいだ、ひとりぼっちの女の子は「上官」に連れられて家を出る。家の角を曲がって見えなくなる二人の後ろ姿がゆっくりとフェイドアウトする。

 なにかよからぬことが起こりそうな一抹の不安。このへんの間合いは『M』そっくりだ。

 案の定、炭坑で落盤事故が起きる。男の親友が犠牲になる。

 娘の姿が見当たらない。必死にさがしまわる母親。雪を踏みしだいて急ぐ足のアップ。

 娘は無事だった。はじめて子守唄を聞かせ、添い寝してやる女。

 事故死した親友の身の上について上官が口にしたこころない言葉が男の怒りを買い、二人は闇夜の雪原でとっくみあう。上官は身につけていた飛び出しナイフをとりだす。もみあうふたりの姿は土手に隠れてはっきり見えない。どちらかがナイフで傷ついたらしい。吹雪のなかを逃げる足のアップ。追っ手が何度も名前を呼ぶ声が雪原にうつろにひびく。

 女は男をかくまう。上官がさがしにくる。女は上官の目をごまかすために部屋に招き入れる。「お話をきいてほしいの」。

 女は恋敵の少女に男を連れて船に乗り込むようたのむ。

 上官とふたりきりの部屋。汽笛が聞こえる。窓をあける女。雪がふりこめている。大雪になりそうだな、と旦那気取りの男。沖が荒れなければいいのだけど、と女。

 男は女の子に書き置きをのこした。ミツチヤン サヨナラ アバヨ。おじさんはどこかに行ってしまったの? きょうもだっこしてねんねしてくれる? ええ。これからはいつだってだっこしてねんねあげるわ。頬を濡らす涙を娘が拭い取ろうとする。

 淪落の女とおさない娘。船上での出会い。炭坑にふりこめる雪。遠い汽笛。南へむかう船。

 トーキー初期ならではの独特の静けさに浸された画面と表現主義の影響も色こいスタイリッシュなライティングが、これらのモチーフを最大限に輝かせる。メロドラマのいちばん幸福な時代だったのかもしれない。
 
 やはりこの時期ならではの繊細な実験精神も随所に。

黒澤の徴の下に:『独立愚連隊』

2012-07-30 | 岡本喜八
 岡本喜八『独立愚連隊』(東宝、1959年)

 所謂大東亜戦争末期、北支戦線、山岳地帯。

 新聞記者を名のるナイスガイが、さいはての部隊に送り込まれ、下士官の謎の死亡事件の真相を探るうち、軍の汚職をかぎあてる。

 コミックスをおもわせるけれん味たっぷりの構図とトリッキーな編集。ナンセンスなヒーロー像。マカロニ西部劇誕生以前のマカロニ西部劇にしかみえないとしても、黒澤明の徴の下に撮られた映画であればそれもあるいみ当然か?

 佐藤勝が軽快なスコアをつけ、狂気の三船が目を剥いて吠えまくり、上原美佐が『隠し砦』の記憶もあざやかな凛々しい姿を見せる。

 もちまえの小気味よくスピーディーなスタイルを監督はこの作品で開花させた。同年に発表された『勝手にしやがれ』のジャンプカットも顔負けのスピードでひたすらおしまくる。

 そういや、処刑されそうになる馬賊の女スパイ(上原美佐)は、ちょっと『カラビニエ』で処刑されるブロンドのレジスタンスみたいだったな。

 ところがもともと物語も登場人物も紋切り型のきわみであるだけに、スタイルだけが突出していればいるだけ、一抹の虚しさが浮き彫りになるのも事実。公開当時はそこが不評だったようだ。

 山根貞男さんが、これを戦中派の監督ならではのニヒリズムと解釈している。なるほどね!

 同じく山根さんによれば、『独立愚連隊』シリーズは、同じ監督の『暗黒街』シリーズと同様、安保世代の若者にばか受けしたとのこと。彼らは独立愚連隊に自分たちの身の上を重ねみたのだと。むかしの若者もばかだったんですね。


田舎槍芸人の日記:『下郎の首』

2012-07-29 | その他
 伊藤大輔の『下郎の首』(新東宝、1955)。

 囲碁ぐるいの旗本が、同じく囲碁ぐるいの客人に殺される。どちらも囲碁のことになると理性を忘れる質であることがほのめかされるも、殺害の場面の描写はまるごと省略されていて、われわれが目にするのは座敷にうつぶせに倒れたあわれな主人と、軒石に残された客人のものらしき人差し指の先だけである。

 フェイドアウト。

 にぎやかな広場で大道芸人が槍を豪快に操っている。いざりが物乞いをしている。鼻のない老婆が三味線を鳴らしている。どこかおどろおどろしい雰囲気がたちこめている。やがて大粒の雨が。あわてて雨宿りする人々。くだんの槍芸人(田崎潤)は、駆け込んだ軒先で、その家の女主人に声をかけられ、茶をふるまわれる幸運にあずかる。美丈夫のかれは、どうやら女主人(嵯峨三智子)に気に入られたらしい。

 ふたりの会話から、槍芸人が殺された旗本の息子の家臣であるらしいことがわかる。かれは復讐の旅に出た息子のお伴で、長旅で体をこわした主人を甲斐甲斐しく世話している。

 女は囲われもの。借りたものを返しに来た槍芸人を家に上げているところへ、旦那の急な訪問。やましい関係ではないものの、見つかったら厄介だ。男はなれない正座のせいで、足がしびれてなかなか立ち上がれない。艶笑喜劇みたいな一幕。押入に隠れるものの、すぐに旦那に見つかってしまう。となんと、人差し指の先のないその旦那こそ、驚くことか、主人の敵そのひとにほかならなかった。

 女中の浦辺粂子が旦那に折檻されるところがちょっとエグい。

 斬りつける旦那から身を守るためにがむしゃらに逃げ回る槍芸人。自分の命はちっとも惜しくないが、自分がいないと病気の主人が暮らしていけない。と、どこまでも主人思いのまじめな男。もみあっているうちに、はずみで旦那を斬ってしまう。さあ、たいへんだ。結果的に主人の望みを果たしたことにはなるが、主人が命を賭けている仕事を家臣の分際で横取りしてしまうという、あってはならない挙に出たことに。

 家臣思いの主人のほうも苦悩のきわみに追いつめられるが、そうこうするうち追っ手が迫る。いまや自分たちのほうが復讐の的なのだ。くだんの女性の協力を得て逃亡するも、すぐに居所をつきとめられ、追っ手は主人に書簡を届け、下手人の槍芸人を引き渡せと要求する。さもなければ、手段を選ばず、主人ともども亡き者にするぞ、と。

 さあ、何と返事を書くべきか。ここで主人の苦悩は頂点に達する。スクリーンいっぱいに映し出された白紙の用箋をバックに主人の内的独白がヴォイス・オーヴァーで長々とつづく。ブレッソンの『田舎司祭の日記』をおもわせる実験的な手法。

 野暮なことを言うようだが、この作品の中で、文字はいわば悪を象徴するものと見なされている。文字が読めないことが、槍芸人のあるしゅの無垢をあらわしているのだ。そういうテーマにふかく結びついているからこそ、このアヴァンギャルドな演出がまったく不自然には感じられないのだろう。

 ナンセンスな効果音をふくめ、思わず笑ってしまうようなモダンな(?)趣向がちりばめられた、しかしどこまでも真摯な時代劇。その意味では、ちょっと成瀬の『お國と五平』のノリに似ているかも。

 オープニングからして意表をつく。鉄橋のシルエットが車窓を流れ去っていくデザイン性ゆたかなタイトルバック。それが終わると、鉄橋を渡る電車とその脇を自転車をこいで過ぎる人たちのロングショット。

 キャメラがパンして、道端のお地蔵さんを映し出す。ここでおもむろにお地蔵さんのヴォイス・オーヴァーが入る。味のある渋い声で、わたしは遠い昔ここで起こった出来事の一部始終をしかと目撃したのであ~る、とかなんとか。つまり、物語全体がお地蔵さんのフラッシュバックという体!

 トレードマークのよく動くキャメラは、いつもながら流麗のきわみ。ハビエル・バルデムかと見まがう田崎潤が、おひとよしの槍芸人を好演している。ラストは『白昼の決闘』みたいに、血まみれの男女が手をとりあって大地に倒れていたりするんだけど、このあたりはおよそ説得力ないなあ。

目で味わうジャズ:『貸間あり』

2012-07-28 | その他
 川島雄三の『貸間あり』(1959)。

 井伏鱒二の原作を、川島と藤本義一が脚本化。

 舞台は大阪。長屋に集う一癖ある人々がくりひろげるどたばた群像劇。井伏の原作は未読だが、とりあえず長屋と書いたこの共同住宅の間取りがさっぱりわからない。ただそれが逆にこのミクロコスモスの迷路然として混沌たる印象を深めているんだろう。貸間の札への桂小金治のなぞめいたこだわりからして、間取りそのものがこの映画のキモであることはたしからしい。

 桂小金治は薄汚い厨房でキャベツ巻やこんにゃくを製造している。元戦友のフランキー堺は、よろず代行屋。どちらが格上なのかわからない微妙な間柄。

 部屋を借りにくるのが陶芸家の三十女・淡島千景。

 代行屋に身替わり受験をたのみにくるのが小沢昭一。

 乙羽信子には三人の旦那がいて、いまの暮らしから足を洗いたい。

 清川虹子は闇で洋酒などを取引している。耳の遠い隠居と浪花千恵子演ずるがめつい家主。不能の骨董屋と色情狂のその妻。出産を控えた若夫婦(妻は市原悦子)。蜂飼い(山茶花究)。下着フェチのチンピラ(藤木悠)。怪しげな保険業者(増田喜頓)。 
  
 これらキャラの立った人物たちが入り乱れる。 

 とにかくみんな身体能力が高く、複雑な振り付けを難なくこなしつつ、ディープフォーカスぎみのシネスコ画面を縦横に走り回る。このリズム感、躍動感、爽快感は、さしずめジャズ。それが目にここちよく、一瞬たりとも飽きさせない。

 スピーディーな台詞まわしから、奇声、しゃっくり、咳き込み、楽器や機械音まで、サウンドトラックにもふうがわりなカオスが渦巻いている。

 ひとつひとつのエピソードは、井伏の小説で読めば、たぶんいかにもゆったりと描かれているんじゃないかと思うが、川島はそれを猛スピードでたたみかけるように見せる。このへんのギャップがおもしろさの秘密ではないか。

 淡島千景はほんとにうまい。ときとしてクローデット・コルベールやキャロル・ロンバートさえ彷彿とさせるコメディエンヌぶり。共演者の笑いの引き立て役にまわろうとする控え目さも好感がもてる。

 フランキーと演じるちょっとしたラブシーンは、作品中、唯一スローな場面。ドラマティックな演技の素養を活かしながら、どこまでも軽快に演じ切る。望遠鏡を弄んだり、そのへんのものを無造作に手にとってみたり、スタンドに額をぶつけたりと、手数の多い演技を堪能させてくれる。

 フランキーが不能の骨董屋に色情狂の妻をおしつけられて逃げまわるところはそれだけでスラップスティック・コメディーの傑作と呼ぶにあたいする。狭い部屋にあふれた骨董品が笑いを増幅する。

 このきちがいじみたおいかけっこは、乙羽信子のパセティックなシーンとカットバックされるのだが、この作為的な演出は成功しているとはとてもいえない。

 ただ、チンピラ逮捕のために踏み込んだ警察との鉢合わせに終わるこのシークェンスを貫く息もつかせぬ勢いに、それもたいして気にならない。
  

双子の映画:『按摩と女』と『簪』

2012-07-26 | 清水宏
 清水宏の『按摩と女』(1938)と『簪』(1941)。

 言わずと知れた巨匠の名作。この二本には共通点が多い。というか、ほとんど双子の作品と言ってよいくらい。

 『簪』は井伏鱒二の原作を清水が脚色したもの。脚色にあたり、『按摩と女』の要素が大幅に持ち込まれたのだろう。

 坂本武、日守新一は、両方の作品に顔を出している。

 東京から小さな温泉町にわけありで身を落ち着けにきた女を、それぞれ高峰三枝子と田中絹代が演じている。

 ふたりとも、同じように東京からきている逗留客に恋心に似た淡い感情を抱く。

 旅先で幸運なアクシデントのように芽生える感情。東京にいたとしたら、たとえ同じ男に対してであろうともけっして抱かなかったであろう感情だ。女はやがて東京にもどり、このときの感情もあわただしい日々のあわいにうもれてしまうのだろう。

 清水宏は、はっきり自覚されることのないこのような淡い感情をすくいとるのがとてもうまい。おおらかさの一方でのこの繊細さが清水作品の魅力であろう。

 オープニングは、山道を歩いてくる旅の人をとらえた同じような後退移動。

 歩くことについての映画だ。人生の跛行についての映画である。

 ゆったりしたロングショット主体の清水作品でなんどか不意にインサートされる足のアップにはっとする。

 『簪』でリハビリする笠智衆のアクロバティックな跛行も、按摩さんたちの歩行のコレオグラフィーも、ユーモラスでありながら、ふかい悲哀をやどしている。

 『按摩と女』のどこまでも淡く、しかも心を引き裂くようなラスト。思いがけない前進移動は、いってみれば盲目の人の視点ショットだろうか。

 めあきの目は欺けても、みえない目は欺けない。按摩は女にそんなふうにさとす。

 ほかの客が帰ってしまい、さびれた山中の温泉宿にとりのこされたヒロインが、同じような番傘をさして同じような細い渡り板をつたって川をわたる同じような俯瞰ショット。

 ほかにもスティール写真のようにうつくしいいくつかのショット。

 若き日の佐分利信。