Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

傷だらけのローラ:『歴史は女で作られる』

2014-08-17 | マックス・オフュルス


 

 まだまだつづくオフュルス・チクルス……

 『歴史は女で作られる』(マックス・オフュルス、1955年)

 企画が立ち上がった時点では、ジャック・ターナーがルドミラ・チェリナ(『赤い靴』『ホフマン物語』)主演で監督する予定であった。その後、監督候補として一時マイケル・パウエルの名前も挙がり、ユスチノフの役はオーソン・ウェルズが演じるという話も出ていたようだ。

 『市民ケーン』にも比せられる複雑なフラッシュバックのみならず、総天然色のシネマスコープというチョイスそのものが当時としてはアヴァンギャルド。そもそもフランスでカラー映画が撮られるようになったのはほんの数年前のこと。シネマスコープに至っては、前年に『聖衣』が公開されたばかり。オフュルスは当初このフォーマットに抵抗を示した(ところどころでカッシュが使われている)。

 フラッシュバックのひとつひとつが別の季節を舞台とし、別の色調に彩られるが(リストとの秋の別れはゴールドとイエロー……)、家屋全体にチュールをかぶせたり、何キロにもわたって道をペイントしてドミナントになる色を際立たせた。

 オペラハウスのセットは、四階分の客席をもつ巨大なものだが、幅はわずか数メートル。サーカスの観客は生身のエキストラのかわりにシルエットを使っていたりするらしい。

 D.O.A.状態のヒロインの生涯がフラッシュバックで語られる典型的なオフュルス映画。しかし、主役は演出家的役回りのユスティノフだろう。ドイツ、フランス、イタリア、アメリカ……各地をさまようヒロインは永遠の亡命者オフュルスそのひと。ババリア国王(身分違いの恋)の謎めいた台詞「3月には63歳になる……」は死を悟った映画作家の遺言か?

 冒頭の質問ぜめのエピソードは同種のラジオ番組からアイディアを得た。「なんでも知りたがるこういう悪い習慣、神秘を前にしてのこういう不敬はおぞましい」。

 同時録音にこだわった台詞は切れ切れにしか聞こえないこともあるが(トリュフォーによると「初見時には5分の1が聴き取れない」)、それも含めてリアリズム。

 海外版のディスクには貴重なボーナスがたくさんついているらしいが、紀伊國屋書店版には何もなし。リーフレットもおざなりの極み。

私生活のない女:『永遠のギャビー』

2014-08-16 | マックス・オフュルス


 『永遠のギャビー』(マックス・オフュルス、1934年)
 
 アイリス・イン。回転するレコード盤のバックで、可憐な歌声をかき消すような大声で男たちがなにやら言い争っている……。

 ヒロインは、La signora di tutti (みんなの女)。皆の崇めるスターになる前に、住み込みで働いていた家庭で主人夫婦と息子全員に「愛されていた」。

 一家の半身不随の妻がギャビーに(あるいは夫に)嫉妬し、狂乱の体で車椅子ごと階段から転げ落ちる。この映画、ずいぶん前にたてつづけに二回見ているのだが、『風と共に散る』と『戦艦ポチョムキン』を足したようなこのド派手な場面すらすっかり記憶から抜け落ちていた。本作は由緒正しいイタリア映画にならった二部構成。ここで第一部の幕が閉じられる……。

 スターの伝記を執筆中という設定で、魔性の女の半生がフラッシュバックで物語られていく。自殺を謀り、手術台に運ばれた彼女に女陰のような形の麻酔用マスクが下がってきて彼女の顔を覆うと画面が真っ暗になり、おもむろに寄宿舎生時代の合唱の授業のシーンへフェイドイン。教師が自殺した(?)との報がもたらされると、大柄なブロンドの美少女が大袈裟に卒倒する。教師と関係をもっていたギャビーは即刻退学、父親には「恥めが」となじられる。転落の人生のはじまり。
 
 天井からスパンコールのリボンがおびただしく垂れ下がるスタンバーグふうのセットのなかを、くるくる回転しながらいくつもの部屋を横切る『たそがれの女心』みたいなダンスシーン。ボートを漕ぐギャビーと愛人の運転する車とのユーモラスなカットバック。肖像画(『笑う相続人』)。彼女を愛した男の別れの言葉を受話器ごしに聞きながら、苦い涙流すヒロインのクロースアップを、印刷中のポスターの上で輝かしい笑顔振りまくスターの顔が覆い隠す。とそこへスターの死の知らせが届けられ、けたたましい音とともに稼働していた輪転機がただちに止められる。FINE。

 D.O.A.状態の女性の生涯が走馬灯のように(他人の頭のなかに)断片的に去来するという物語話法は『忘れじの面影』を先駆けるものだ。くどいほどの階段の多用はじめ、オフュルス的な道具立てはひととおり出揃っているが、オフュルス作品としてはあくまで異質。ヒロインのたびたびの「狂乱の場」があまりにベルカントオペラ風で、オフュルスほんらいの親密なタッチとそぐわない。ヒロインは外側から冷静に観察される被写体にすぎず、観客もかのじょにすこしも共感できない。それが映画スターなるものの運命ってか? 私生活のない女(あらゆる意味あいにおいて)ってか? それを言っちゃあおしめえよ。

 主役のイザ・ミランダ(『輪舞』)は、公開当時、ディートリッヒにしきりと比較されたというのだが……。撮影は『無防備都市』のウバルド・アラタ。


ミンクのコートに魅せられて:『魅せられて』(Caught)

2014-08-15 | マックス・オフュルス




 マックス・オフュルス『魅せられて』(1949年)


 モード雑誌のページがめくられていくオープニング。二人の若い女性がお目当ての品を交互に指差しては夢見がちな嬌声を発している……。

 ミンクのコートに憧れるビンボーモデルを演じるのはバーバラ・ベルゲデス(『ママの想い出』、『めまい』のミッチ)。基本ドリス・デイ・タイプのはつらつそばかすお姐さんだが、見事なブロンドに加えてやけに地味なルックスがわずかに『忘れじの面影』のジョーン・フォンテーンを思い出させる。

 かのじょはあこがれのミンクを手に入れる代償として愛のない結婚をし、暴君的な夫に虐待されるが、さいごには用なしになったそのミンクがうっちゃられてハッピーエンド(夫の子どもも都合よく流産する)。

 夫役のロバート・ライアンは、ピンボールマシンに張り付き、妻に触れることも、まともに妻の目を見ることもないオタク的富豪。『ヴェンデッタ』の監督を降板させたハワード・ヒューズへのあてつけであり(ライアンと見かけが似ている)、プレストン・スタージェスのキャラも反映されているらしいが、チャールズ・フォスター・ケーンか、あるいはギャツビーか、はたまた『風と共に散る』のロバート・スタックか、と既視感が何重にもまといつくキャラ。リメイクするならディカプリオ?

 金に目が眩んだベルゲデスもベルゲデスなら、自分の鼻っ柱をへし折った精神分析家へのあてつけだけから独身主義を捨て去るこの男もこの男。分析家を演じているのは『忘れじ……』の聾唖の執事役のアート・スミス。

 次回作『無謀な瞬間』を予告するようなノワールタッチのメロドラマ。じっさい、夫にネグレクトされるヒロインをジェームズ・メイスン演じる純心な男が救い出すという筋書きは、『無謀な瞬間』そのもの。

 一方、主人公がモデルなのは前作の『忘れじの面影』との共通点。髪型の変化が境遇の変化を表現しているところも同じだ。

 ライアンの太鼓持ちのシニカルなピアニストにも、『忘れじ……』のルイ・ジュールダンのキャラがいくぶん反映されているだろう。

 もともとはリュイス・マイルストンがジンジャー・ロジャースで撮る企画だったらしい。ジョン・ベリーが早々にリタイアし、オフュルスが引き継いだが、ぴりっとしない出来は、撮影当時かれが病み上がりだったせいもあるだろう。

 ベリーはリアリズムを重んじた映画にするつもりでいたが、オフュルスが恋愛ものにしてしまったと文句をたれている。チーフ助監督だったロバート・アルドリッチも、オフュルスをひそかに Max Awfulsと呼んで呪っていたらしい。

 製作のウォルフガング・ラインハルトはマックス・ラインハルトの息子。脚本のアーサー・ローレンツ(『ロープ』『追憶』のほか『ウェストサイド物語』の原作)。撮影リー・ガームズ(オフュルスの仕事ぶりに感嘆していたらしい)。編集にロバート・パリッシュ。

 当初フランスでは未公開だった本作をボリヴィアで見たジャン=リュック・ゴダールは、「アメリカ仕立てのマリアンヌ(Marianne made in USA)か、はたまたラミエルか。ようするにマリヴォー風味をまぶしたスタンダール」と、いつもながらの奇妙な褒め方をした。

 夫婦の諍いの発端になるホーム・ムーヴィーのシーンを『レベッカ』のホームムーヴィーのシーンと強引に結びつけ、この二本が「女を映像へと還元するという傾向が、女が映画を鑑賞している最中でさえ容赦ない力で働くものであるということを証明している」と吹聴しているフェミニスト批評家がいた。今どき流行らない説ですな(現にその本はとうに絶版)。このシーンが喧嘩の原因になるのは、たんにかかっている映画がおよそヒットしそうにない建設業のPR映像だったからだろう。


 本ブログではハリウッド時代のオフュルス作品4本のうち、これで3本取り上げたことになる。残りの『忘れじの面影』も取り上げちゃいますか?




俺たちに明日はない!:オフュルス『明日はない』『無謀な瞬間』

2014-08-14 | マックス・オフュルス



 マックス、モナムール。オフュルス2題。


『明日はない』(1939年)

 エドヴィジュ・フュイエール(『マイエルリンク……』)演じるシングルマザーのヌードダンサーが、かつて愛した男性(『ディヴィーヌ』のジョルジュ・リゴー)と再会(『忘れじの面影』)。落ちぶれた境遇を知られまいと借金をして豪華な暮らしを演出するが、ふたたび燃え上がった恋に明日はない。恋人の待つカナダで暮らすことを誓い、子どもを恋人に託したあと(駅のホームでの永遠の別れ)、最後は溝口のヒロインみたいに霧にけぶるセーヌ河畔に姿を消す。そのペシミズムが詩的リアリズム、とくに『霧の波止場』を想起させるといった声が多かったようだが、「ばかも休み休み言え」とある批評家。たしかにいずれもキャメラはオイゲン・シュフタンが廻しているが。撮影助手としてアンリ・アルカンの名も見える。


『無謀な瞬間』(1949年)

 ウォルター・ウェンジャーが女房のショーケースとして製作。ファミリーメロドラマにしてフィルムノワール。燦々と陽光輝く島のブルジョワ家庭と魑魅魍魎のうごめく猥雑な街の対比。黒眼鏡かけ、橋を渡って二つの世界を自家用車で往復するジョーン・ベネット。冒頭の男声のヴォイス・オーヴァーは、その後のシーンではなぜかふっつり途絶える。夫は最後まで一度も出てこない。電話の向こうの声さえ観客には聞こえず終い。男手は義父とわんぱく息子だけ。その空席に善良な脅迫者メイスン(『魅せられて』)が居座りに来る(このキャラクターももう一人の「ヒロイン」だろう)。禁じられた、不可能な愛が、ほんの束の間交わされる。美しくも無謀な瞬間。ラストは冒頭の場面の反復。階段を降りて行くベネットの視点を共有していたキャメラが、檻状の階段の手すりに象嵌された受話器を手にしたベネットにじわじわ寄っていってアップになる。観客の視線から逃れるようにキャメラから顔を背けるベネットの身ぶりの途中でフェイドアウト。THE END 

 ボートを漕ぎ出し、死体を隠蔽する長いシーンはドキュメンタリータッチ。その間、台詞も音楽もなし。波の音とモーター音だけが間遠に聞こえている。
 インモラルな世界を超然と観察し、時に応じてヒロインを導く黒人の女中はさながら『忘れじの面影』の聾唖の執事。
 公開時の批評にはリアリスティックなタッチを賞讃する声が多かった。キャメラは巨匠バーネット・ガフィ。オフュルスはベネットがこの3年前に出たルノワールの『浜辺の女』と同じルックを望んだらしい。脚本のロバート・ソダーバーグによれば、彼らはこの素材を「辛辣なコメディー」と呼び、しばしば笑いながら場面を書いた。脅迫者に支払う金を借りに行くヒロイン、郵便局の場面、ドラマティックな場面と日常的な場面の対比、等々。
 オフュルスはこれを最後にフランスに戻り、かの地で栄光のキャリアを築き上げる。


 『明日はない』が、潜在的に、十年後に撮られた『無謀な瞬間』の「ミラーイメージ」になっていると指摘している人がいる。いずれもヒロインは母親で、夫が「不在」。だからというわけだけでもないが(後者は舞台がクリスマスシーズンに設定されている)、余計な借金を抱え込んだりする。『明日はない』のヒロインは、若い頃に暗黒街の男に騙されて結婚、再会した恋人との仲を引き裂いたのもこの夫だったが、夫は殺されてシングルマザーとなり、現在の淪落の境遇に。一方、『無謀な瞬間』は、やくざな男に騙された娘の後始末をつけようとする母親の話だ。『明日はない』のヒロイン像が『無謀な瞬間』の母と娘に分裂している。あるいは、『明日はない』の旦那と恋人がメイスンの人物像に圧縮されているといえばよいだろうか。

 ……とかなんとか理屈をつけずには論じ甲斐もないのが『明日はない』という凡作、ということなんだけれどもね、結局。


1914:『マイエルリンクからサラエヴォへ』

2014-08-13 | マックス・オフュルス
 

 マックス・オフュルス『マイエルリンクからサラエヴォへ』(1940年)


 宮廷の広間に広げられるカーペットに刺繍された双頭の鷲のエンブレムのアップ。「ここはパリ、ここはロンドン……」と各国からのVIPの席順が指示されていく……。

 1889年。有名なマイエルリンク事件(ダリュー、ドヌーヴ、オードリーがスクリーンでマリー・ヴェッツェラを演じている)の直後から物語が始まる。従兄弟の情死によってオーストリア王位を継承することになったフランソワ=フェルディナン(ジョン・ロッジ)はリベラルな思想の持ち主。チェコの伯爵夫人ソフィー(エドヴィジュ・フュイエール)と恋に落ち、貴賎相婚を条件に結ばれるが、1914年、訪問先のサラエヴォで二人は射殺される。……かくて第一次世界大戦の火蓋が切って落とされた。

 ラストの暗殺場面はエキストラを多数動員してドキュメンタリーふう。二人を乗せた車が慌ただしくUターンしていくようすがロングショットで映されるだけで、車中はもちろん見せない。そのあと、砲火のアーカイブ映像にハーケンクロイツがデカデカとかぶさるショットがしばし流れ、この暗殺がけっして過去の出来事ではないという旨のナレーションが入って終わる。

 オフュルスの「もっとも完成度の低い作品」(「カイエ・デュ・シネマ」)という評価もある。フランスのグリア・ガースン(?)、エドヴィジュ・フュイエールはオフュルスが唯一もてあました主演女優だという声も。フランスのクローデット・コルベールというべきお粗末な(失礼)面相は問わぬとしても、いつもながら柔軟さというか深みに欠ける憾みあり。要するにこちらのエモーションをいっこうにかき立ててくれないのだ。

 記憶に値するシーンが少なくとも三つ。写真撮影の場面。国王の彫像が見守る部屋での深夜に及ぶ逢瀬の場面(彫像の視点ショット)。ソフィーがセレモニー列席者の面前で侮辱を受ける階段(!)の場面。ついでに民衆鎮圧の場面でのオペラグラスという小道具。

 スタッフは独仏の手練の職人で固めている。脚本に『嘆きの天使』、『描かれた人生』のカール・ツークマイヤー。撮影にクルト・クーラン(『月世界の女』『獣人』『チャップリンの殺人狂時代』)、撮影監修にオイゲン・シュフタン。美術にジャン・ドーボンヌ(『詩人の血』『オルフェ』)。音楽にオスカー・シュトラウス(『陽気な中尉さん』『君とひととき』)。ドーボンヌとシュトラウスは台詞のジャック・ナタンソンとともに50年代のオフュルス作品の主要スタッフ。王妃役にガブリエル・ドルジア(『偽れる装い』)が顔を見せている。

 戦局が険しくなり、編集作業を終えるとすぐに兵役に従事(助監督が完成させたという説もあるようだ)、その後はスイス経由でハリウッドに渡る。そこで最初に撮られた『風雲児』も王位継承者の身分違いの恋がとりあげられており、主人公がめずらしく男性である。ただし、オフュルスはこの主人公を「女性化」しているというフェミニズム批評家の説もある。