Negative Space

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流されて……:リナ・ウェルトミューラーのマカロニ作品

2016-04-17 | その他


 西部瓦版~ウェスタナーズ・クロニクル~ No.48

 ネイサン・ウィッチ aka リナ・ウェルトミューラー Il mio corpo per un poker (The Belle Starr Story, 1968年)

 ジーン・ティアニーも演じたことのあるベル・スターのお話。監督の Nathan Wich はあのリナ・ウェルトミューラーと原案・脚本も担当しているピエロ・クリストファーニとの共同変名。

 ベル・スターはまずタイトルバックでお尋ね者のポスターの両目のアップとして登場し、そこに勇ましく馬を駆る女の姿がオーバーラップ。タイトルバックがつづくあいだ、モード写真ふうのなげやりなモンタージュが流れ、タイトルが終わると壁だけが映るショットに、葉巻をくわえた女の顔が画面左側からフレームインしてくる。傍らのポーカー相手が火を差し出す。のっけからおしゃれな演出。

 女がポーカーで負けた男(ジョージ・イーストマン)に身を委せる最中、過去の殺しの映像がアラン・レネふうに(?)フラッシュでちらちらインサートされる。でもけっきょく男の魅惑に溺れるみたいな、いかにものウェルトミューラー流。

 タイトな黒皮の上下に黒いソンブレロ姿が決まったエルザ・マルティネッリ。メイクもヘアもどこから見ても西部の女とは思えない現代そのまま。美麗な面相のアップ満載のうえ、敏捷な動きのアクションシーンもいちいち見事。

 曇った鏡越しのストリップシーンあり、水浴シーンあり、ギターつまびきムード音楽風の主題歌の一くさりを口ずさむシーンありと、純粋にエルザ嬢のショーケースとしてたのしめば、流麗なキャメラワークのおかげもあって、凡庸なストーリーもたいして気にならない。

 男との寝物語にベルがそれまでの半生を語る長い長いフラッシュバックがインサートされる。身寄りのない女が身を守るために男たちを仕方なく殺めてきたというフェミニズム的(?)解釈が女性監督らしいと言えば言えるかもしれないが、そもそも最初の男(ロバート・ウッズ)がコールという名前(ただしコール・ヤンガーではない)であるほかにヒロインがベル・スターである必然性まったくなし。

 クライマックスの宝石強盗シーンでは、同じヤマを狙ってイーストマンと張り合う。黒づくめのファッションに黒いマスクをプラスしてミュジドラと化したマルティネッリ嬢とその相棒たちが闇の中で身を踊らせるほとんど台詞なしの長い長いサスペンスシーン。最後は結局、捕まったイーストマンをピンカートン探偵局の手から救い出し、再会をほのめかしつつ別々の方角へと旅立っていく。

ジュ・テーム……マッスルメン:『The Ten Gladiators』『ヘラクレスの怒り』

2016-04-11 | その他


 Viva! peplum! ~古代史劇映画礼讃~ No.32

 ジャンフランコ・パロリーニ『I dieci gladiatori (The Ten Gladiators)』(1963年)、『ヘラクレスの怒り』(1962年)

 マカロニ・ウェスタン末期の名匠として知られるパロリーニは、コッタファーヴィ『剣闘士の反逆』の脚本に参加したり、「マカベア書」を題材とする数少ない作品(『Il vecchio testamento ; The Old Testament』)を残していたりと、古代史劇映画の歴史にも大いなる貢献を果たしている。そのパロリーニによるマッスルメン・ムーヴィー二本立て。「The Ten Gladiators」は脚本に三大セルジオの一角ソリーマが参加している。ネロの側近が実は反乱軍の首謀者で、十人の剣闘士を率い、こまわりくんふうのデカイ顔を白塗りにしたネロを血祭りにする。

 ネロによるキリスト教徒迫害といったモチーフを絡めてはいるが、パロリーニの本領は代表作のひとつ『西部悪人伝』(フランク・クレイマー名義)に典型的な悪ノリ気味のお祭り騒ぎにある。本作にもパロリーニらしいサービス精神が横溢していて、曲芸とガジェット満載の『西部悪人伝』がジェームズ・ボンドものだとすれば、ひたすら物量戦に訴えた本作は『オーシャンズ11』とでも言えようか。一人でも暑苦しい半裸のむくつけき巨体が十人も(+小さい人)束になって画面狭しと躍動するさまは、パロリーニ一流の華麗なキャメラワークと相俟ってとにかく壮観である。マッスルメン好きにはたまらないだろう(そのぶん、きれいどころは十字架上で火刑に処されかかるバービー人形ふうのずべ公一人だけ)。

 十人が闇の中を忍者よろしく敵陣に切り込む場面ではじまる緊張感に満ちたオープニングに期待が高まる。アクションシーンとコミカルなシーンを織り交ぜるさじ加減も絶妙。口先より筋肉にものを言わせるマッスルメンの常として、口が立たない(うち一人は聴覚障害者)のを補うためか、もしくはストーリーの単調さをごまかすためか、仲良しの十人、とにかく始終じゃれあってはつまらぬ冗談を飛ばし、地をも揺るがす豪快な洪笑をあたりに響きわたらせている(“無意味な笑い”の法則はマカロニ・ウェスタンに引き継がれる)。

 主役にフィーチャーされているのはマッチョ俳優ダン・ヴァディス。なお本作はシリーズ化され、ほぼ同じキャストで二本の続編が製作されている。

 さて、マカロニ・ウェスタンにはピエロ・パオロ・パゾリーニやオーソン・ウェルズやジャン=ルイ・トランティニャンといった大物がけっこう出演しているのに対し、同じイタリアの古代史劇映画にはこれといったカルチャー・ヒーローが出演していない。そんな中で気を吐いているのが(というほどでもないが)あのセルジュ・ゲンズブールであり、三本ほどの出演作がある。そのうちの二本をパロリーニが監督していて、『ヘラクレスの怒り』はその一本。




 ヘラクレス役は斯界の大御所ブラッド・ハリス。反乱の民を導いて独裁者のゲンズブールと張り合う。ゲンズブールは典型的なタイプキャスティングで、その悪役ぶりに期待するとあてがはずれる。あのギョロ目と鷲鼻と巨大な耳はじゅうぶんに倒錯的な独裁者の貫禄をそなえているものの、基本的にそれだけ。悪役らしい演技と言えば、木箱の蓋を開けて裏切り者の死体(短刀を腹に突き立て目を見開いたまま)を側近に示し、サディスティックにニカッと笑ってみせたり、女に一発びんたを食らわせるくらいで、基本、棒立ちで事務的に台詞を言っているだけ(とうぜん吹き替え)。憎々しげな顔とむきだしの貧弱な太もものコントラストがかえってギャグとして笑えてしまう。女性のキャラが無駄に多いので艶福家のゲンスブールとしてはご満悦だったかも。

 本作においてもやけくそ気味の物量作戦は顕在。ヘラクレスは象やライオンやゴリラと続けざまに格闘する。なお本作は専制君主が敗れ去り民衆が勝利する唯一の古代史劇映画である(?)とする資料あり。


ペキンパーを探そう:『法律なき町』

2016-04-07 | その他


 西部瓦版~ウェスタナーズ・クロニクル~ No.47

 ジャック・ターナー『法律なき町』(1955年、ワーナー)

 ブームタウンを目指す男たちが平原に野営している。はるかな丘の頂に小さな人影が現れ、野営地に下りてくる。初っ端からシネマスコープの可能性をフルに生かしたミザンセーヌ。

 ビジネスを生業としているという男が名乗るが、トゥームストーンでは初対面の誰をも恐れおののかせることになるワイアット・アープという名前に反応する者は誰もいない。

 ウィチタの街に到着すると、ビジネスマンは金を預けに銀行に行くが、そこへ強盗が押し入ってくる。たちまち強盗を取り押さえたアープは保安官就任を依頼されるが、自分の目的はビジネスであると固辞。

 深夜、酔ったカウボーイたちが通りを占拠して拳銃を乱射、流れ弾が窓辺の少年に当たって命を奪う。少年一家の経営するホテルに泊まっていたアープは保安官就任を決意し、その場で酔漢らを逮捕。さらに武器の携帯を禁じ、従わない者を追放するという強硬な改革に乗り出したことが町の名士らを困惑させ、町民との軋轢が生じる……。

 本作のアープはあるしゅのスーパーヒーローであり、ラストに決闘場面らしきものも用意されてはいるが、善玉のアープが悪玉とはりあい、最後にこの悪玉を派手に始末して一件落着といったお話ではまるでない。

 ブームタウンに悪が必然的にはびこるのはここウィチタとて同様。とはいえ、本作では悪の元凶らしきものが特定されることは最後までない。子供の命を奪ったのは長旅の疲れを酒で癒そうとした無害なカウボーイの仕業だし、一旦はアープを敵にまわした町の名士が最後には彼の命を救う。ラストの決闘も行きがかり上の出来事にすぎない。絶対的な悪人は登場しない。逆に言えば、悪の由来が見極められることがなく、悪という謎が解明されることがない。アープはその場その場でこまごまとした悪と対峙し、その悪を消滅させるという保安官の義務を淡々と果たすだけだ。町からひととおり悪を一掃したかれは、つぎの義務に従事すべく、ラストでドッジ・シティーへと旅立って行く。

 物語に山場といえるような山場はなく、アープが誠実に目の前の悪に対処する個々のエピソードが淡々と積み重ねられていく。アープは銃の力で平和をもたらそうとするのではなく、いかに町民に銃を使わせないかに心を砕く。おなじみの無血逮捕という行政手法。それゆえアクションシーンは最小限に抑えられ、スペクタクル豊かなシーンと言えば、平原で馬を駆ってのおおらかなチェイスに指を屈するくらいのものだ。くだんのバントリー・スペシャルも、発砲されるよりは棍棒代わりに使われる。

 ミニマリズム俳優ジョエル・マクリーの演技は、『フロンティア・マーシャル』のランドルフ・スコットにもましてコンパクト。そのポーカーフェイスは人間を超越した何ものかに導かれているような神秘をさえ漂わせる。本作のアープのキャラは、ターナーがホラー映画で描いてきたゾンビたちのそれをかたどっているようにさえおもえてくる。

 アープの伝記作者スチュアート・レイクが、本作では技術顧問として参加している。音楽にハンス・サルター。主題歌がそこそこヒットしたという。キャストはほかに、ヴェラ・マイルズ、ロイド・ブリッジズ、ウォレス・フォード、エドガー・ブキャナン、ピーター・グレイヴス、ロバート・J・ウィルク、ジャック・イーラム、メエ・クラーク。

 バット・マスターソン(キース・ラーセン)が新聞記者として登場するが、実際にマスターソンが記者をしていたのは晩年のことらしい。

 あのサム・ペキンパーがダイアローグ・コーチとしてクレジットされているほか、エキストラを務めている。さて、どこに出ているでしょうか?

ファミリー・アフェアー:『荒野の決闘』

2016-04-06 | その他


 西部瓦版~ウェスタナーズ・クロニクル~ No.46

 ジョン・フォード『荒野の決闘』(1946年、フォックス)


 『駅馬車』からほぼ二十年ぶりの西部劇。フォードもフォンダもマチュアも軍隊生活を経ての復帰第一作。戦争はこの作品に大きく影を落としている。ある論者によれば、本作は戦争の寓話ということになる。アープの戦いはドッジ・シティーでは終わらず、トゥームストーンにもちこされ、反復される。ドッジ・シティーが第一次大戦であるとすれば、OK牧場の決闘は終わったばかりの第二次大戦なのだというわけだ。その後のアープの半生を考えるならば、この「寓話」はきわめてペシミスティックな将来を予言していることになる。

 リンゼイ・アンダーソンが本作をその主題的な親近性ゆえに、フォードのフィルモグラフィーにおいて『モホークの太鼓』『怒りの葡萄』『タバコ・ロード』の系列に位置づけられるものとみなすのにたいし、この論者タッグ・ギャラガーは、同時代の『逃亡者』『コレヒドール戦記』とともに「暗い三部作」をなすものと位置づけている。

 フォードは駆け出し時代に雑用係としてアープ本人と関わったことがあり、本作はアープ本人に聞かされた昔話に基づくとフォード自身は言うが、事実にそぐわない点が多い。

 アープが話しかけるジェームズの墓石には没年が1882年と記されているが、OK牧場の決闘は1881年10月26日の出来事である。前半で殺されるジェームズは兄弟の末っ子ではなく長男であり、クラントン兄弟の父親はOK牧場の決闘の時点ですでに故人、エトセトラ、エトセトラ。

 物語の推進力になっているはずの復讐のモチーフが、余計なエピソードがつぎからつぎへと挿入されることによって宙吊りにされ、先送りされることは脚本のウィンストン・ミラーも構成上の欠陥と認めているが、ぎゃくにこのユルさがいいのだという見方をする人もいる(遊びがなくお役所仕事的な『OK牧場の決闘』の味気なさを思い起こそう)。

 敵を背後から狙い、息子らを鞭打つ“オールド・マン”クラントン(ウォルター・ブレナン)の死が野蛮な原始的共同体の終焉を象徴するというヴィジョンは『フロンティア・マーシャル』と重なるが、アープ兄弟とクラントン一家の family affair という図式は『フロンティア・マーシャル』にはない本作のオリジナル。

 「フォードはフォンダの歩き方を愛した」(ウィストン・ミラー)。慈善舞踏会の場面は、フォードが愛した『若き日のリンカーン』におけるフォンダの足さばきを再現させるためだけに書かれた場面であるらしい。

 ファイナルカットにはフォックスの大君ザナックの手が入っていることが1990年代に判明している。試写版(104分)の出来に不満を抱いたザナックがロイド・ベーコンを呼び寄せて一部のシーンの取り直しをさせ、最終的にこれより7分ほど短いバージョンが公開された。

 「愛しのクレメンタイン」の旋律が最初に流れるタイミング(試写版ではアープとクレムがドックの部屋に入った時点で流れはじめる)、ラストの頬への接吻、そして手術の場面でのドックとクレムの簡潔な言葉のやり取りといった演出の根幹に関わる大きな相違点がある。

 とくに最後の箇所は、医師と看護師として出会い、恋に落ちた二人の過去を伝える唯一の箇所であり、現在では「ジョン」「クレム」と呼び合っている二人が、ほんの一瞬かつての関係に戻り、「ミス・カーター」「ホリデイ先生」と互いを呼び合うのである。それと同時に恋の炎がほんの一瞬、あくまで静かに、ふたたび燃え上がるのだ。傍らのアープにとってはなんとも妬ましい一瞬であるわけだが、クレムとツーショットで映されるフォンダの表情はというと、帽子の庇が大きく影を落として完全なシルエットになっており、あえて読みとれないようにしてある。ジョー・マクドナルドの手になる、いっけん無駄に審美的なだけの、コントラストが強く、逆光を多用した本作の画調が、このショットにおいていわばはじめてその必然性をともなうことになるし、このショットがなければフォンダは飄逸で純朴なところが魅力なだけのお気楽なアープで終わってしまう。

 恋が職業意識をつうじて現れるという点ですぐれてハワード・ホークス的な場面と呼びたいこの場面に無駄な変更を加えてしまったことで、胸をかき乱すタイトなドラマになり得た本作は、薄味の紙芝居(あるいはせいぜいが"詩")を超えるものではなくなってしまっている。

 コレクターズ・エディション版DVDに収められたドキュメンタリー「非公開試写の復活」はザナックを擁護する台詞でしめくくられているが、これがザナック一族への純然たる社交辞令にすぎないことはドキュメンタリー本篇を見ればばかでもわかる。

 生前のフォードはインタビューで好きな自作を聞かれるとその都度違った作品を挙げるのを習いとしていたが、名作の誉れ高い本作を挙げたことは一度もなかった。これは代表作になっていたかもしれない本作へのザナックの仕打ちをフォードが生涯許していなかったことを示す事実だとする見方がでてくるのもとうぜんであろう。

 フォードはその後、『シャイアン』の幕間のどたばたシーンにおいてふたたびワイアット・アープを登場させている。舞台はドッジ・シティーなのにアープ(ジェームズ・スチュワート)がドック(アーサー・ケネディー)とすでにつるんでいるのはアナクロニズムではないか、と勘ぐるなかれ。アープがトゥームストーンでドックと知り合ったというのは、それこそ『荒野の決闘』が流布させた伝説であるようで、実際には二人の出会いは1877年頃に遡り、ドックはドッジ・シティで歯医者を開業している。アープに「むずかしい手術はなぜいつも俺の役目だ?」と問われ、「俺は歯医者だから、歯を撃たれたら俺の出番だ」とドックが受けるギャグは辻褄が合うわけだ。

 なんでもアレックス・コックスがOK牧場の決闘を『羅生門』ふうに再現した新作を撮るそうな。




愛しのサラ:『フロンティア・マーシャル』

2016-04-05 | アラン・ドワン



 西部瓦版~ウェスタナーズ・クロニクル~ No.45

 アラン・ドワン『フロンティア・マーシャル』(1937年、フォックス)


 アープ没の翌々年に刊行されたスチュアート・レイクによる伝記『フロンティア・マーシャル:ワイアット・アープ』に基づく。アープ伝説はこの伝記によって生まれた。レイクはウィル・ギアがアープを演じた『ウィンチェスター銃73』にも原案を提供している。

 同じ原作に基づき、3年前にすでに同名の作品(ルイス・セイラー『国境守備隊』)が撮られているが、『荒野の決闘』のプロトタイプになったのは本作である。

 『フロンティア・マーシャル』でも『荒野の決闘』でも、アープの保安官就任のきっかけになるのは酒場で酔漢が起こした騒動を解決したことであるが、酔漢を演じているのはいずれの作品においても同じチャールズ・スティーヴンスである。ちなみにこの俳優はあのジェロニモの実の孫にあたるらしい。

 ウォード・ボンドも両作品に出演していて、『フロンティア・マーシャル』では保安官役、『荒野の決闘』ではアープ兄弟の長兄を演じている。

 アープ(ランドルフ・スコット)の札を覗き込み、ポーカー相手に目配せで手を伝えた酒場の女ジェリー(ビニー・バーンズ)をアープが外につまみだし、逆切れされてびんたをくらうと水桶に突き落とすという場面は『荒野の決闘』でそっくりそのまま反復されている。
 
 ドックが登場するのはその直後。演じるのはヴィクター・マチュアよりよほどスマートなシーザー・ロメロ。『荒野の決闘』と同じく白いハンカチで口を押え、はげしく咳き込む。本作では咳き込んだところを狙った敵をアープがたしなめ、友情が芽生える。サルーンのカウンターで互いの銃を見せ合う場面では、アープ自慢の”バントライン・スペシャル”(銃身16インチのコルト)が披露されるが、この銃は実際にはもっぱら棍棒代わりに使用されていたとか。

 ジェリーはドックをめぐるライバルのサラ(ナンシー・ケリー)に肩入れするアープへの恨みから、アープを罠にかけようと駅馬車襲撃を仕組むが、その駅馬車にドックも乗り込むめぐりあわせに。ドックは腕を負傷してサラに看病されるが(さらなるジェリーの嫉妬をかき立てる)、ときあたかも親しいバーテンダーの子供が流れ弾に当たって瀕死の重傷を負う。町医者は留守。ドックが呼ばれて子供の命を助けるが、外に出たところをカーリー・ビルの一味に射殺され、アープにも決闘状がつきつけられる。

 したがってドックはOK牧場の決闘には参加しない(『荒野の決闘』では決闘で命を落とすというやはり史実とは異なる設定)。『荒野の決闘』とは違って、そもそもアープの兄弟は登場せず、敵のクラントン一家も登場しない。結局、ジェリーがカーリー・ビルにこめた銃弾を残らず撃ち込んでドックの復讐を果たすという成り行きに。

 『荒野の決闘』はアープが父親のもとに報告に戻るところで終わっているが、 『フロンティア・マーシャル』はジェリーが街を去るところで終わる。向かいにできた銀行の看板を見送りのアープに指差し、「町民が貯金をするようになちゃ商売あがったり」との捨て台詞を残し、乗り込んだ駅馬車の座席からアープに敬礼。駅馬車が街を後にするまえに、ドックの墓に窓から投げキスを送り、この墓石にキャメラが寄っていくところで幕。『荒野の決闘』よりも、『フロンティア・マーシャル』はクレム=サラ(ナンシー・ケリー)に冷淡で、チワワ=ジェリーにずっと花をもたせている。

 『荒野の決闘』では俳優の失念したハムレットの台詞をドックが引き取ってインテリぶりを示すが、『フロンティア・マーシャル』では、捨て鉢になることと勇敢であることとの違いをドックに諭すために、サラがかつて朗読して聞かせた『ジュリアス・シーザー』の一節(「臆病ものは何度も死ぬ。勇者は一度しか死なない」)をふたたび口にするというかたちでシェイクスピアへの言及がある。

 エディ・フォイ役を演じているのは『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディー』『パジャマ・ゲーム』などにも出演している本人の息子。ステージでの出し物よりも、からんできた酔漢にキックを食らわせ撃退するギャグが痛快。

 そのエディ・フォイを招聘した興行主が、「ジェニー・リンドとリリー・ラントリーも呼ぶぞ」。スウェーデンの歌姫ジェニー・リンドは1850年から52年にかけてアメリカ興行を行っている。リリー・ラントリーは、『ロイ・ビーン』でエヴァ・ガードナーが演じた女優ジャージー・リリー。

 冒頭は「石しかない」トゥームストーンの野蛮と無法の街が小刻みなモンタージュによってナレーションとともに紹介される。その街に銀行と学校ができ(サラは教師として街に残るだろう)、アープの活躍によって法の支配がもたらされる。つまり、砂漠に文明が芽生えるところで幕となる。とはいえ実際にはOK牧場の決闘によって街に平和がもたらされることはなかったし、保安官バッジをはずしたアープ自身はその後、さすらいの生活の果てにハリウッドで人生を終えている。

 地味な作品だがドワンお気に入りの一作であったようだ。「ランドルフ・スコットとキャストのほぼ全員を好きだったし、いい出来だと思っている」。

 同年の作品『スエズ』のセットに運び込まれた大量の砂で西部の街を再現。主役のフロンティア・マーシャルをワイアット・アープにしたのはスタジオの大君ザナックの指示によるもの。ドワンによれば、「われわれが撮っていたのは『フロンティア・マーシャル』という映画であり、じっさいにはどんなフロンティア・マーシャルでもよかったんだ」。アープの名前を使うために多額の使用料をわざわざ親族に支払ったが、サラとのロマンスが事実にそぐわないとかの理由で完成後にこの親族に告訴される。

 とはいっても、『荒野の決闘』とはちがい、二人のロマンスは少なくともあからさまに示されることはない。ジェリーがドックを取り戻すためにサラをしきりとアープに押しつけようとはするが、スコットのいつものポーカーフェイスからはかれの本心が読み取れない。もっとも、やはり『荒野の決闘』とはちがってアープは街に残るので(『荒野の決闘』のフォードも望んでいた幕切れ)、後日譚に委ねるというかたちでロマンスが暗示されているととることはかろうじてできる。

 歩く人物を長く追う移動撮影が数カ所。ぬかるんだ通りでスカートを捧げもったジェリーのくるぶしに馬が反応するとか、町医者のふとった家政婦にジェリーが体当たりするといったギャグがちらほら。『荒野の決闘』では床屋でのおめかしの場面で使われる鏡が、ここではシリアスな手術の場面に使われる。

 キャストはほかにジョン・キャラディン(如何せん精彩を欠く)、ロン・チェイニーJr.。