Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

松方、総会屋やめるってよ:『暴力金脈』

2014-11-04 | 中島貞夫



 中島貞夫『暴力金脈』(1975、東映)

 脚本は野上龍一と笠原和夫。おおよそ笠原が前半、野上が後半というイメージらしい。ほんらいコミカルなものを得意とする野上がハードスケジュールに根を上げて行き詰まり、近親相姦というシリアスなモチーフを持ち込んだ結果、前半と後半のギャップが目につく出来となった。中島は笠原の役割を「手伝い」程度の二次的なものと位置づけているが、笠原によれば、総会屋を「私兵」として「飼っている」銀行の体質を暴露するラストを書いたが、中島が「敵前回頭」して(「栗田艦隊」!)「つまらないものになっちゃった」。中島自身、銀行の体質を暴くことを主眼とすべき題材を社長の個人的な悪業に還元してしまった野上脚本の失敗を認めている。銀行に融資を仰いでいる手前、映画会社としては本来の形では企画を通すことができなかったということだろう。

 弱小総会屋の松方が標的にする大会社社長(若山)の愛人(池玲子)が松方を呼び出し、社長のスキャンダルを暴露する。愛人は社長の実の娘であった。その証拠を綴った母親の手記に目を走らせる松方と、ウィスキーを煽った池が全速力で走らせる車の素早いカットバックがひとしきり続く。壁に追突して絶命する池。勝利を確信した松方の顔に光が漲る。総会当日、松方が動議を提出し、若山に退陣を要求、フランク・キャプラふうの大演説をぶつが、ライバルの有力総会屋(丹波哲郎)によって阻止される。大都会を俯瞰したヘリコプター撮影のショットに足を洗う決心をした松方の「すべてが茶番である」というボイスオーヴァーがかぶさって終わり。松方の片腕・室田と、利権にたかってくるマブダチのやくざ(梅宮)の子分・川谷が繰り広げる犬っころの喧嘩のような「代理戦争」が愉快。


南へ:『にっぽん’69 セックス猟奇地帯』『鉄砲玉の美学』

2014-11-03 | 中島貞夫



 中島貞夫二題。


 『にっぽん’69 セックス猟奇地帯』(1969年、東映)

 当初は竹中労がイニシアティブをとっていた企画らしい。エログロ版『サンソレイユ』というか……。知的で洗練されているし、今の目で見るとレトロな関心こそそそられるが、手法的には新味がない。唐十郎の語りで描かれるラストのコザのエピソードは鮮烈。深い余韻に包まれる。



 『鉄砲玉の美学』(1973年、ATG)

 『にっぽん69’ セックス猟奇地帯』が日本列島を南下するという構成になっていたのに似て、鉄砲玉が桜島に送り込まれるという話。
 現地入りしてもミッションを果たせないまま実存的に無為をむさぼる鉄砲玉。この停滞感は『ソナチネ』に繋がるが、北野作品にあったような緊迫感がまるでない。
 食べ物を頬張る口や生ゴミの露悪的なクロースアップのモンタージュに頭脳警察の主題歌がかぶさるオープニング。
 渡瀬は鏡に向かって啖呵を切る練習に余念なく(デニーロか?)、ラストは血まみれで疾走し(ベルモンドか?)、桜島の観光バスの座席に座ったまま眠るように息絶える(優作か?)。バスガイドの悲鳴とともにバスの大ロングショットに切り替わり、エンドマーク。
 なんのツイストもない薄っぺらで紋切り型のチンピラ像。主題歌の歌詞も気恥ずかしいくらい直球ど真ん中の「プロテスト・ソング」(選曲・荒木一郎)。兎のシンボリズムもひたすらかったるい。
 監督は私財を投入して入れあげていたらしいが、「ヌーヴェル・ヴァーグ」を看板にしたよそゆきの作品といった趣が強い。タイトルもATGに押しつけられたものかとおもったら、監督自身の発案になるものらしい。美学科出身の監督らしい(?)飄逸なセンスを感じさせるコピーではあるが、およそ「中島貞夫」っぽくないタイトルだなあ。ちょっと失望。
 相手役に杉本美樹(『0課の女・赤い手錠』)。


犬と豚と人間と:『暴動・島根刑務所』

2014-10-19 | 中島貞夫


 中島貞夫「暴動・島根刑務所」(1975年)

 『脱獄・広島殺人囚』のネタを提供した美能幸三の話にヒントを得て、大正時代の実話を終戦直後に置き換えた「実録」もの。

 脱獄し、山に籠る子分らしき川地民夫の小屋に逃げ込んだ松方。シェパードの品種改良を生業とする川地は妹を家政婦のようにこきつかっている。この妹に処女の牝犬の交尾を見せられた松方、傍らの処女にのしかかる。

 闇夜に兎跳びをさせられる全裸の囚人たちに無期懲役の田中邦衛が育てる豚のショットがカットバックされる。

 豚をとりあげられた田中、その場で投身自殺。これが看守への反逆と見なされ、二回分の食事が取り消しに。騒いだ囚人たちが派手な暴動を起こす。

 残虐な看守に佐藤慶、その同僚に戸浦、映画館に逃げ込んだ松方が「雪隠詰め」になる場面では小松方正と、大島組の面々。

 佐藤の裏切りによって網走(美能が服役中に『仁義なき戦い』の手記をしたためたところ)に送られた松方と北大路が手錠でつながれたまま逃走、汽車に轢かせて手錠を切るという展開は『網走番外地』?そのまま鉄橋の下の川に落ちた松方、『狂った野獣』の渡瀬みたいにどこへともなく泳いでいく。ストップモーション。終。

 「彼[松方]の演技は本当いうとリアリズムじゃないですよね。やっぱり彼芝居しているんですよ。だから一丁間違うと臭くなったり、時代劇なんかやるとたちまちそうなっちゃうんだけど、現代劇なんかやっていると、ぎりぎりのところでくるわけです。といって自然体で芝居してそうなるタイプではないんですね。彼は役者なんですよ」(『遊撃の美学』)。


鉄砲玉の美学:『ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派』

2014-10-18 | 中島貞夫


 中島貞夫「ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派」(1974年)

 燃える車はたしかに中島の映画によく出てくる。ここではそれが梶芽衣子の情念の「発火点」(『遊撃の美学』)になっている。

 渡瀬の妹の悪女ぶり、ぶちまけた金を奪い取ろうとたかってくる通行人といったエピソードは『狂った野獣』などにつうじる中島らしいアイロニー。

 曾根晴美のハンターから奪った猟銃で射撃練習する渡瀬に的として額縁に収まった日の丸差し出す梶。

 黒革のスーツの梶芽衣子、虫の息の渡瀬を射殺し、炎上する小屋を出て警官隊と果たし合い。
 
 冴え渡ったディティールが一つ。車を追突させたときに渡瀬の左手がフロントグラスを突き破り、指が切断されて弾丸のように前方に飛んでいく。鈴木一誌言うところの「意外性」の映画作家・中島の面目躍如。

 内田良平の情婦のずべ公ぶり。


テロルのシンフォニー:『日本暗殺秘録』

2014-10-07 | 中島貞夫


 中島貞夫『日本暗殺秘録』(1969年)

 エロ・ルポルタージュ『にっぽん ’69 セックス猟奇地帯』で当てた中島が、同様のドキュメンタリー的手法でテロをテーマに一本撮ろうと思いつく。俳優のギャラの高さで苦労してきた大川博は、役者なしでヒットした『……セックス猟奇地帯』に感激、報奨金を出したうえ、中島の企画をオールスターで撮ることを勝手に決める。

 アバンタイトルは若山富三郎をフィーチャーした桜田門外の変。以下、安田財閥創始者暗殺(スパイダーマンよろしく机に飛び乗る文太)、大久保利通暗殺(唐十郎とその劇団員による森の中での『ジャンゴ』ふう暗殺劇)、大隈重信暗殺未遂(吉田輝雄のスタイリッシュな玄洋社同志)、ギロチン社事件(チキンな古田大次郎役は高橋長英)など、明治大正期の有名なテロ事件が簡潔にエピソード化されて連ねられる。千葉真一と藤純子による血盟団事件の長編一本分のエピソードのあと、健さんによる長山鉄山斬殺(「天誅!」)、鶴田による比較的長い二・二六事件のエピソードがつづく。タッチも長さもまちまちなエピソードの集積は、いかにも笠原和夫らしいコラージュ的構成。

 脚本は事実上笠原のオリジナル。「テロリストのある種の輝きというのかな、それを描きたかった。……例えば、マルローの『人間の条件』ですか、あれでチェンという男が商人を殺しに行くでしょ。あれにシビレちゃうんですなあ」(『映画脚本家笠原和夫 昭和の劇』)。

 「僕は本当に思うんですけどね、戦後、もっと暗殺事件があったら政治はよくなったんじゃないか」と戦中派の笠原。「僕には、例えば和田久太郎だとか後藤謙太郎だとか、そういう無名のアナーキストをやってみたいというのがあるんですけどね。ただ、アナーキズム――アナーキストたちの描き方というのは難しくてね……要するに、あまり正体というのがないんですよ。[……]右翼というものは元来はアナーキズムなんですよ。あるいはニヒリズムなんですね。だから玄洋社にしても右翼とはいうけれども、右翼である以前にある種のニヒリズム、あるいはアナーキズムみたいなものがあるわけですよ。それは明治の西南戦争にしても、萩の乱にしても、中央政権に反抗して出てくるわけでしょ。[……]それがある種の商いとして成立する時に、組織化されて右翼になっちゃうんですよ」。

 笠原によれば、二・二六も第一陣はアナーキズムの色合いが濃かった。その色が第二陣、第三陣によって薄められ、軍国主義的なイメージで捉えられるに至ったことを笠原は「非常に不愉快」と言い放つ。

 桜田門外のエピソードでは、重い生首を抱えた有村の「呼吸のあり方」(荒井晴彦)、生首の重さを描こうとしたが、中島がリアリズムを薄めてしまったと笠原は嘆く。「中島も結局、京都派であってね……。リアリズムというものがよくわかっていないんですね」。

 「有村は自刃する前に、竹胴から首を出して見るんですね。それで、刀を立てて首を近づけて死のうとするんだけど、疲れているからそれがズレちゃう。そこだけをちゃんと撮ればいいんですよ」と荒井が絶妙のフォロー。さらに笠原は中島を栗田艦隊になぞらえる。「いいところまで行くんだけど、ひき返してしまう」というわけだ。

 「中島は、全共闘みたいなことでラストに理屈をつけようとするでしょ。僕は違うんだよ。僕は陶酔というものを描きたかったんだよ」。笠原は、千葉真一が念仏を唱えているうちに陶酔で卒倒する場面を中島がカットしたことを憾む。

 「それでラストは、テロリストの陶酔というものが、最後はこうなっていくんだというのを見せようと、もちろん、そこには答えみたいなものはないよ。ないんだけども、僕は映像というのはそういうものを撮るべきだと思ってたわけだよ。……『仁義なき戦い』もそうなんだけど、僕は答えが出ない映像をやりたいわけですよ。だから僕としては、ロジックとしては漠然としているけれども、暗殺者の一瞬の華というか光輝を捉えて、それを羅列したいと。……そうやって映像で殺人の連続を見せていけば、シナリオでもないし、演出でもないという部分――こちらが予測しないある種の第三の答えみたいなものが、お客さん一人一人の中でピントが合ってくるんじゃないかという……。」

 つまり、ロッセリーニであり、やはりオムニバス形式をとる『戦火のかなた』であるというわけだ。「映像というのはあれが正解なんじゃないか……テロリズムというのは、ああいう形でしか見せられないんじゃないか」。「いわゆる写実的な手法は使うけども、描くものはテロリズムの光輝――その瞬間的な陶酔というものを描いているわけですからね。それで答えは出さないというのが僕が考えでしたからね」。

 笠原はネオレアリズモの本質を正確に見抜いている。というか、笠原自身がネオレアリストなのであり、かれの映画はネオレアリズモつまり現代映画なのだ。

 二・二六のクーデター場面がモノクロなのは、カラーで撮ったところカーキに赤い衿の陸軍の制服が映えすぎて「おもちゃの兵隊みたいな」作り物感が出てしまったからだという(『遊撃の美学』)。これによってラストの銃殺場面の鮮血が際立つ効果が増すに至った。

 藤純子に☆☆☆☆☆。