Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

『アンソロジー・オブ・ラップ』を読む:エリックB&ラキム「I Ain't No Joke」

2022-04-25 | ヒップホップ



I Ain’t No Joke (Eric B. & Rakim), in Paid in Full (1987)

ファーストアルバムの一曲目で勇ましく名乗りを上げるR。JB’sの Pass the Peas のビートに乗って名刺がわりのライムを披露。

I ain’t no joke, I used to let the mic smoke
Now I slam it when I’m done and make sure it’s broke

おれのライムはマイクが煙を発し、壊れるまで止まることを知らない、ほんとだぜ、と啖呵を切る。このあと実際にRを前にしたバトルの相手が縮みあがり(あの七人のMCと同じく地獄送りにしてやるわ)、ヒートアップしたマイクが煙を発しはじめ、壊れる爆音で曲が閉じられる。

一行目から得意のインナー・ライミング(joke/smoke)が炸裂。次行のbroke で相手を三連打。

少し飛ばして(0:42)

Another enemy, not even a friend of me
‘Cause you’ll get friend in the end when you pretend to be
Competing…

enemy / friend of me のライムは愛唱したいね。

いよいよライムが佳境に入る。(0:56)

But soon you start to suffer, the tune’ll get rougher
When you start to stutter, that’s when you had enough of
Biting, it’ll make you choke, you can’t provoke
You can’t cope, you should have broke because it ain’t no joke

soon/tune, suffer/rougher とダブル・インナー・ライミング。
後者はさらに次行の stutter, enough of(擬似的な押韻)のインナー・ライミングにつながれ、その後は choke, provoke, cope, broke, joke の連打で相手をロープ際に追い詰める。

イエール大学出版局『アンソロジー・オブ・ラップ』を読む:エリックB&ラキムの巻(その1)

2022-04-24 | ヒップホップ



新企画 <イエール大学出版局『The Anthology of Rap』を読む>

第1回 エリックB&ラキム: Paid in Full

 グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス5、アフリカ・バンバータ&ソウル・ソニック・フォース、DJジャジー・ジェフ&ザ・ヴァイオレント…(笑)もとへフレッシュ・プリンス‥‥。
 シア・セラーノの『The Rap Year Book』が指摘するとおり、初期ヒップホップのコンビ(グループ)がDJの名前を先に出しているのは、初期ヒップホップの花形がほかならぬDJであった事実を反映している。エリックB&ラキムもそうだ。ただし、このコンビにおいてはDJとMCの比重が逆転している。同書によれば、ラキムの歴史的意義はそこにある。今に至るまで、ラキムはヒップホップの歴史でもっとも偉大なMCとみなされていることが多い。少なくとも、もっともスキルフルなMCであることは疑問の余地がなさそうだ。

 同じく『The Rap Year Book』によれば、ラキムの発明になるテクニックはインターナル・ライミング(行間ではなく同じ行の内部で押韻)とマルチシラビック・ライミング(2音節以上の押韻)という2つのスキームということになるが、イエール大学出版部の『The ANthology of Rap』はそれに加えて slant rhymes(擬似的な押韻)を挙げている。

 エリックB&ラキムの代表曲の筆頭が「Paid in Full」であることに異論をさし挟むものはいないようだ。短い曲であることもあり、リリックの完成度の高さが際立つ。

Thinkin of a master plan
‘Cause ain’t nothing but sweat inside my hand
So I dig into my pocket, all my money’s spend
So I dig deeper but still comin up with lint

2〜4行目にすでにストーリー性が構築されている。
<掌の中の汗→ポケットの中の空虚→ポケットの奥の糸くず>
が語り手の<あせり→期待→絶望>という心の動きをユーモラスかつドラマティックに伝える。

So I start my mission, leaving my residence
Thinkin, “How could I get some dead presidents?”

札のことを「死んだ大統領」と表現する習慣があるのかどうかは知らないが、
leaving my residence(現実) / get some dead presidents(想像)の対比がペーソスをそそるよね。

次の二行もいいんだけど、割愛。

I used to roll up: “This is a hold up, ain’t nothing funny”

roll up は辞書に「上目づかいになる」といった意味が出てるから、強盗の犠牲者をにらみつけているのだろうか。ここで早くもインターナル・ライミングが登場(roll up/ hold up)

一行措いて、

But now I learned to earn ‘cause I’m rightous
I feel great, so maybe I might just
Search for a nine to five
If I strive, then maybe I’ll stay alive

I’m rightous / I might just は不完全な押韻だが、マルチ・シラビックに聞こえる。
で、文が完結しないまま、search 以下が次行に送られる。
a nine to five / stay alive。to で繋いで「食いつなぐための規則正しい勤め」と覚えたくなる。strive / stay alive のこれもあくまで感覚的な頭韻もラキムらしい。

三行措いて、クライマックスのめくるめく名フレーズが来るんだけど、疲れたから今日はこの辺で。

ちなみに筆者にはラップを聴き取る英語力はない。英語の詩法についても明るくないが、ラキムのどこがそんなに偉大なのかという積年の疑問を解決せんと素人なりに分析を試みようと思い立ちました。

全曲のリリックは『アンソロジー・オブ・ラップ』またはネットでどうぞ。



不思議の国のセリ:「愛の不時着」

2020-11-01 | ドラマ
 


イ・ジョンヒョ、「愛の不時着」(Netflix, 2019~2020)

 ネタバレ注意!

 金と地位を利用してそうゆう真似ができるのなら、最初からしてればいいのに。この人らバカなのかね? 38度線での悲痛な別れのシーンはなんだったの?……と言いたくなる不満の残る幕切れではあったが、そもそもがこのお話はいわばセリの見た夢。

 竜巻に巻き込まれてワンダーランド(「虹」ならぬ38度線の彼方)に不時着するという状況はいうまでもなく『オズの魔法使』をふまえている。夢の世界が日中の記憶のコラージュからでてきているとフロイトが言うように、『オズ』のワンダーランドとその住人たちはまさにドロシーの知人や身の回りの物体のコラージュでできている。ぎすぎすした商戦とどろどろした後継者争いのどす黒い世界から目覚めたセリの目の前にはドロシーにとってのテクニカラーならぬ韓流ドラマのファンシーなパステルカラーの北朝が広がっていた。ドラマ全篇が女子目線で物語られていることの理由もそこにある。(とゆうか、韓流ドラマって、すべからく女子目線で物語られているのだろうか?最後まで見たマクチャンドラマ?はこれがはじめてだからよくわからないけれど。)

 ふたたびフロイトを引けば、夢のなかで人は全能者になっている。セリが(そこそこの)美人で大富豪なのはそのせいだ。

 そしてフロイトのいう全能者の最たるものは幼児である。母親はじめまわりの者らが奴隷よろしく甲斐甲斐しく仕え、ただ鳴き声をあげるだけで即座に食べ物をあたえてくれるのである。幼児とは王様である(そしてたぶん王様とは幼児である。少なくとも幼児の比喩だ)。じっさいセリは童顔の若作りであり、周囲に長身の俳優(リ、ク、ダン、母親、義姉)を配すことで大柄なソン・イェジンを少女のように見せている。セリには子供がないだけでなく、そのアイデンティティは何よりも親(特に母親)との関係によって決定されている。そのいみでセリはすぐれて「娘」である。

 あらゆるメロドラマにとってそうであるように、子供(子供をもつこと、子供であること)は本作の重要なモチーフだ。セリの兄夫婦にはいずれも明らかに子供がなく、天涯孤独のチョも同じだ。子供をもたないことはメロドラマでは不幸の象徴である。占い師によって子を産まない一生を予言されてしまうダンはもっとも悲劇的な登場人物だ。しかし孤児であったクは人生の終わりにスラムで(いわばダンとの間の)「子供」を授かる。これは本作がキャラクターに捧げた贈り物の中でも最高のものだろう。リの四人の部下たちがセリの「息子」であることは言うまでもない。彼らの最大の存在意義はそこにある。

 銃弾の犠牲となり生死の境をさまようセリから同じく被弾して床に伏すチョへの違和感のあるマッチカットがある。おそらくセリの真の“恋敵”はダンではなくチョであろう。チョがセリの命を狙うために危険を冒すのはそのためだ。チョの「自死」は明らかにリとの心中という意味をもっている。こときれる前にチョがリに残す言葉は作中もっとも情熱的な恋の告白とも読める。そしてセリとチョには共通点がある。爬虫類的ともいえる(?)しつこいほどのしぶとさだ。

 ある研究者が本作が南北朝鮮の社会の同質性を描いているとしているが、南北の鏡像関係という舞台装置が徹底的に活用されているとはお世辞にも言えない。胡蝶の夢みたいなシュールな展開は期待すべくもないまでも、物語のロジックから言えばセリは(理由はどうあれ)もう一度北に入らなければならないのでは? ドラマのなかで南北統一させちゃえとまでは言わないけど。

 本作のいまひとつの魅力はスマートなアイロニーだ。一例を挙げれば、最年少の中隊員が自販機のしくみについてのほらを信じているの背後でピョ・チスとキム・ジュモクが口を押さえて笑い転げているだとか(もちろん二人に対する皮肉である。そもそもこのシーンはつぎのサスペンスシーンとのコントラストによって記憶に残りにくい)、あるいは、二組の兄夫婦が金銭欲と権力欲に取り憑かれるあまり性的にはきわめて潔癖(儒教的?)に描かれているが、長兄の嫁がイケメンのリに興味津々で、理由をつけてセリを見舞うと言い張り、旦那に叱責されるとか。
 
 なぜか未亡人の姉と同居している中途半端に美男のコミックリリーフであるダンの叔父が可笑しい。

さかしまのフィルム・ノワール:アイダ・ルピノの監督作『陵辱』

2020-06-15 | アイダ・ルピノ



 アイダ・ルピノ『陵辱』(Outrage, 1950年)

 薄暗い街灯の下、小走りに誰かから逃げているらしき若い女を大俯瞰でとらえたタイトルバックのクレーンショットからはやくも並なみならぬ緊迫感が画面にみなぎり渡る。

 婚約したばかりの女性会社員が顔なじみの男に暴行され、周囲から容赦ないセカンドレイプ(好意に発するそれであれ)の辱めを受けたあげくに行き場所を失い、衝動的にロス行きの深夜バスに飛び乗るまでの最初の30分の息もつかせぬ堂々たる筋運び。

 ラストこそ表向きメロドラマ仕立てにしてあるとはいえ、1950年の映画界では絶対的タブーであった主題にここまでストレートかつ妥協のない姿勢で迫れているのは奇跡というほかない。

 前半、深夜の夜道を逃げ惑うヒロインがサーカスのポスターの前を横切る。巨大な道化師の似顔が皮肉っぽく見下ろす。すぐあとで同じポスターの前を男が横切る。男は破れかけたポスターの端をちぎり、ヒロインを追って角を曲がって闇のなかに消える……。

 足がつきそうになってロス行きのバスから逃げ、夜道で気を失ったヒロインを拾って車で去っていく男はなにものか?

 のちの『ヒッチハイカー』につながるようなフィルムノワール風のサスペンス演出が効いている。逃げても逃げても追ってくる「男」の影はフィルムノワールの主人公にまとわりつく運命の影のようでもある。あるいはむしろ、本作はさかしまのフィルムノワールだ。逃亡「せねばならない」のは犯罪者ではなく犠牲者のほうなのだ!

 事件のあと出社したヒロインが周囲の物音(臨席の事務員が規則的にハンコを押す音、正面の女性事務員が無意識に指で机を叩く音……)にパニックを起こす場面などのヒッチコックふう心理描写。

 前半からヒロインのすがたが画面手前の物体越しにとらえられることが目を引く。案の定、後半でもじどおり囚われの身となった彼女を鉄格子ごしにとらえるショットの予告であった。

 体当たり演技でヒロインを演じるマーラ・パワーズは神がかっている。スターになってもまったくおかしくなかった素材だ。彼女はほかのルピノ作品のヒロインたちと似た面立ちをしている。つまりルピノ自身の演じてきた女たちに似ている。

 『望まれずに』『恐れずに』に続く監督ルピノの第三作。夫コリアー・ヤングの独立プロ The Filmmakers作品。ルピノは脚本にも参加。撮影はフォード作品で知られるアーチー・スタウト。

 スモールタウンの偏狭なモラルの告発、田園の理想化などに『天の許し給うすべて』との類縁性がある。


マカレナとスニッカーズとタッパー:『リチャード・ジュエル』

2020-02-07 | その他



 
クリント・イーストウッド『リチャード・ジュエル』(2018年)

 オフィスの仕切りの間を手押し車を押して肥満体の配達係(ポール・ウォルター・ハウザー)が歩いてくる。かれはとあるブースで電話する弁護士(サム・ロックウェル)の声に足をとめる。

 どうやら聞かれてはまずい話を耳にしてしまったらしいことがわかる(これがかれの冤罪の原因に繋がるのかとそれとなく匂わせる演出だが、これはフェイクでじっさいにはそうはならない)。われわれはいかにも愚鈍そうな見かけの主人公の耳聡さを意外におもう。

 弁護士はかれをやわらかくたしなめる。配達員はデスクの引き出しを示す。弁護士が引き出しを開けると好物のスニッカーズが大量に補充されている。弁護士は驚いてなぜ好物がわかったのかとたずねる。配達員は弁護士の出すゴミの中にパッケージを見つけたと話す。弁護士は一瞬相好をくずすが、すぐに真顔に戻って、配達員の抜け目のなさを警戒するような顔でふたたびやんわりたしなめる。

 リチャード・ジュエルがいつ何時テロリストに転んでもおかしくないキャラであることをそれとなくほのめかす効率的なオープニングだ。

 つづいて昼休みにゲームセンターで射撃をして遊んでいるリチャード・ジュエルのところに弁護士が合流する。リチャード・ジュエルは法の執行官になる夢を吐露し、そのために日夜公法を独学していると話す。

 つぎのオフィスの場面にもいぜんとして二人以外は登場しない。

 物語が二人の友情を軸に展開することがはっきりとわかる。本作の舞台は利害渦巻く生臭い地上の世界である以上に二人だけの構成するスピリチュアルな空間である。

 じっさい、映画はこのあと二人の分身性をきわだたせていくだろう。リチャード・ジュエルと母親(キャシー・ベイツ)との関係は、弁護士と秘書(ニナ・アリアンダ)の関係にはっきりと重ね合わされ、FBI捜査官(ジョン・ハム)とスクープ記者(オリヴィア・ワイルド)の関係と対比される(ライティングからして対照的だ。捜査官と記者の怪しげな逢瀬の場面はいかにも人工的な、毒々しい照明設計がなされている。新聞社ではブラインドから差し込む強い西日?で記者の顔に格子状の濃い影が映る)。

 『パーフェクト・ワールド』の犯罪者と捜査官のように、あるいは『トゥルー・クライム』の容疑者とジャーナリストのように、もしくは『ミリオンダラー・ベイビー』のコーチとその親友のように、二人のスピリチュアルな結びつきが強調される。

 熱血漢で口の悪い弁護士にたいしてリチャード・ジュエルはけっして怒りを外に表すことがない。弁護士はそんなリチャード・ジュエルに苛立ちさえする。こうした点でも二人が分身の関係にあることが明らかだ。

 映画では母親がクローズアップされるぶん、この分身性は目立たない。

 大学の警備員となったジュエルは雇用者の依頼に応えるためには手段を選ばない。かれにはダーティ・ハリー的な無法者の横顔もある。いよいよ油断のならないキャラであることがあきらかにされ、われわれは一抹の不安をいだく。

 正義と悪の相対性はイーストウッドが一貫して扱ってきたテーマである。この主題が本作では「間違えられた男」(冤罪)というサスペンスとして生かされる。

 映画の舞台はアトランタ五輪が開催された四半世紀まえであり、ノスタルジーが全篇をひたす(マカレナetc.)。

 マイケル・ジョンソンのストック映像が効果的に使われる。スタートの号砲とともに弁護士の秘書がストップウォッチのスイッチを入れ(『黒い罠』のオープニングみたいだ)、弁護士とともに歩き出す。リチャード・ジュエルが警備についていた位置から脅迫電話のかけられた公衆電話までの所要時間を計るためだ(このあとスクープ記者が同じ道のりを歩き、かのじょの陥れた男の無罪を確信することになるだろう)。規則正しい足取りで進む二人を追う移動撮影とトラックでのマイケル・ジョンソンの疾走のカットバックがスリリングな興奮をうむ。

 母親が戻ってきたタッパーの蓋にマジックで無造作に書かれた証拠品番号を指でこするときの表情、ラストでリチャード・ジュエルがドーナツにかぶりつくときの表情はなんともいえずよい。

 テレビ画面に映り込んだ戦争映画のフッテージはどこから引いているのだろう。