Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

クライシス・オブ・アメリカ:『ポール・ニューマンの女房万歳!』

2013-09-09 | その他

 『ポール・ニューマンの女房万歳!』(1958年、20世紀フォックス)

 レオ・マッケリーの最後から二番目の作品で、公開当時フランスのシネフィルたちにカルト的にもてはやされた。

 典型的な中流サラリーマンであるポール・ニューマンの妻(ジョアン・ウッドワード)は社会参加に熱心で家庭を省みない。地元に軍が極秘の施設を建設することになり、反対運動の旗振り役をつとめることに。夫は近所のセクシーな主婦(ジョーン・コリンズ)ともども反対運動の一翼を担うはめになる。

 ニューマンは妻とコリンズのどちらを選ぶのか?軍と地元住民のどちらが勝利を収めるのか?地元のギャルたち(その筆頭がチューズデイ・ウェルド)は軍の若者と地元の若者のどちらのものになるのか?

 いわゆる American way of life をおちょくったデラックスカラーのゴージャスなセット(撮影はフォックスの重鎮レオン・シャムロイ)のなかで、シニカルな艶笑喜劇、社会派喜劇、サイレント期以来のどたばた喜劇(知られるとおりマッケリーはローレル&ハーディものの演出家)がごたまぜになった大騒動がくりひろげられる。

 もともとフランク・タシュリンのための企画だったと聞いて納得。じっさい、いかにもタシュリンが撮っていそうな映画。

 クレジットされていないが、脚本にタシュリンの『ロックハンターはそれを我慢できるか』のほか、『ティファニーで朝食を』『バス停留所』『女房の殺し方教えます』『パリで一緒に』『七年目の浮気』を手がけたジョージ・アクセルロッドが参加していると聞けばさらに納得というもの。

 で、『ティファニー……』とならぶアクセルロッドの代表作とされているのがフランケンハイマーの名作『影なき狙撃者Aka:失われた時を求めて』というわけ。ジョナサン・デミの佳作『クライシス・オブ・アメリカ』はそのリメイク。

 こういう“現代的”なコメディーをふるきよきハリウッドの生き残りであるマッケリーがどう料理しているかがひとつの見どころといえようか。

 しかし皮肉なことに、いま見るとこの時代のシニカルコメディーって、マッケリーの最良の映画たちとくらべるとはるかに時代がかって見えてしまう。ロングショットをメインにしたマッケリーの演出が端正であればあるほど、予め狙ったアイロニーというよりは空回り感が際立ってしまうのだよね。

 ニューマン夫婦が受話器を奪い合い、電話口のむこうではコリンズとその連れ(ニューマンのライバル役、愉快なジャック・カーソン)が同じように受話器を押しつけ合っているといういわば4人での電話の場面などはじつにたのしい。

 二人きりの部屋でニューマンとコリンズがチャチャチャのリズムで踊り出すところも思わず頬がゆるむ数少ない瞬間の一つ。

 当時の“現代娘”役のチューズデイ・ウェルドのナチュラルな演技もわるくない。

 沖縄の基地問題を背景にして洒落たリメイクを作ったらおもしろいんじゃないかしら。

デライラ嬢の中の悪魔:エドガー・G・ウルマーの“The Strange Woman”

2013-09-07 | その他
不定期連載 エドガー・G・ウルマーの映画(その2)

“The Strange Woman” (1946年、ユナイテッド・アーティスト)

 19世紀半ばのニューイングランドが舞台。主人公の少々漫画的な悪女にヘディ・ラマール。保護者役の中年男にジーン・ロックハート。若い女の魅力に参ってちゃっかり夫になる。その息子にウルマーお気に入りルイス・ヘイワード。幼い頃からラマールにいびられつづけ、成長後はラマールと不倫したあげく、新しい男が現れるとポイ捨てされる。ジョージ・サンダースがその新しい男。ラマールに一目惚れして堅物の婚約者を袖にする。

 小川を挟んでその両岸を駈けていく子供たちをとらえた移動撮影。女の子が男の子を挑発して橋から突き落とす。水中でもがくカナヅチの男の子の頭を上から足で押さえつける女の子。教師がやってくると自分も水に飛び込んで救助者のふりをする。

 川の水に顔を映しながら、きれいな女になって成り上がってやる、と昼間から飲んだくれている父親に野心を吐露する女の子。父親が空になった酒壜を投げ捨てると水面に波紋が立つ。それがおさまると、美しい女に成長したかのじょの顔がそこに映っている。ウルマーの映画は水と相性がよい。

 グラマーな肢体を見せつけるようにタイトな服に濡れた手をなすりつけて拭く女。そのまま木立のあいだをたのしげに走って帰るようすをとらえた移動撮影。

 ラマールは育った環境のせいで性根のねじまがった危険な女になった。虜にした男をつぎつぎ死に至らしめる。しかし、貧しい女や恵まれない子供たちには同情を寄せ、ときとして善行をほどこしたりする。悪女の善行は逆にこりかたまった周囲の人間たちの性悪さを浮き彫りにする。

 かのじょはじぶんのなかの悪魔と闘っている。教会で見物した教訓劇の中で糾弾される悪魔憑きの女が自分のことだと信じ込み、家に戻ると恐怖のあまり家中のろうそくに灯を灯し、夫に自分の罪深さを譫言のように告白する。

 ラスト、ラマールから逃げたサンダースが人里離れた小屋で元婚約者といっしょにいるのを目撃したラマールは、かれらを轢き殺そうとするかの勢いで馬車を駆って突進していくが、馬が石につまづいて崖から転落する。駆け寄ったサンダースを見上げ、自分のしようとしたことがわからないと虫の息で語るラマールは、憑き物がとれたようにやすらかな顔をしている。

 ヒッチコックやワイラーで見覚えのあるような時代もののバロック風メロドラマ。この監督としては大作でキャストも一級のせいだからというわけではかならずしもなかろうが、全体として演出に冴えがみられない。

 ルイス・ヘイワードを誘惑しようと階段を下りてくるラマールがろうそくの灯を指で消したりといったディティールがいい。

ミロスラヴァの星の下に:ジャック・ターナーの西部劇 “Stranger on Horseback”

2013-09-06 | その他

ウェスタナーズ・クロニクル No.17

ジャック・ターナーの西部劇(1) 

“Stranger on horseback” (1955年、ユニヴァーサル)

 サボテンがちらほらと生えるアリゾナの山道。地平線の彼方から馬上の人影が小さく見えてくる。鞍にまたがったまま法律書らしき分厚い本に読みふけっている。判事のジョエル・マクリーだ。途中でふしぎな葬儀の光景が目に入る。祈りを捧げる赤毛の美しい女の姿がある。

 たどりついたスモールタウンは、街のボス一家に牛耳られ、腐敗が横行し、法は無力だった。マクリーの目的は殺人の容疑がかかる若者を裁判にかけることだったが、容疑者(ケヴィン・“ボディー・スナッチャー”マッカーシー)は街のボス(われらがジョン・マッキンタイア)の息子。目撃者(ナンシー・ゲイツとその父親)を説得し、容疑者の姉(ミロスラヴァ)をも見方に引き入れて裁判を開くことにこぎつける。

 ジャック・ターナーのウェスタンは例によってアンダートーンの演出に徹している。派手な見せ場は皆無。クライマックスの平原での一幕も至極地味。ジョエル・マクリーがチンピラにパンチをくらわす場面が2回ほど出てくるが、電光石火の早業で、バイオレンスは見えてないも同然。

 ミニマリズム俳優ジョエル・マクリーはまさにはまり役。この判事の過去は知らされない。家族も友もないようす。その無表情な顔からはあたまのなかもこころのうちもうかがいしれない。法律家としての使命をただたんたんと果たそうとするだけ。なにものかにとりつかれた人物としかいいようがない。畢竟、すぐれてターナー的な夢遊病者。

 舞台俳優のような威厳のある演技をすることが多いジョン・キャラディンが、マクリーにまとわりつく気さくでおしゃべりな保安官を演じている。れいの面長がときとしてフェルナンデルのそれのようにみえたりする。

 ミロスラヴァは赤毛に純白のブラウス、黒の革手袋と鞭がよく似合っている。このひとは数奇な経歴で知られる女優。チェコ生まれで強制収容所に送られた経験をもつ。北欧を経てメキシコに流れてきてそこそこの人気を博す。この作品のあとブニュエルの『アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生』に出てかまどで焼かれる女性を演じ、クランクアップ直後に睡眠薬自殺を遂げる。享年三十。元恋人のスター闘牛士の写真を手にしたままベッドに横たわっていた。闘牛士が新しい恋人のルチア・ボゼーと結婚したことが伝えられたばかりだった。そのルチア・ボゼーはブニュエルの次回作『それを暁と呼ぶ』に主演する。ブニュエルはその自伝でミロスラヴァの葬儀に立ち会った際のふしぎな感慨を語っている。
 
 アンスコカラーという特殊なカラーシステムを使って撮られている。きわめて褪色しやすいカラーらしく、ネガプリントも残っていないらしいので、公開時そのままの色はすでに再現不可能のようだが、DVDでみると油絵のようなソフトな画調がふしぎな魅力をかもしだしている。赤茶けた大地がシュール。








桜の森の満開の下:「妖刀物語 花の吉原百人斬り」

2013-09-05 | その他


内田吐夢監督「妖刀物語 花の吉原百人斬り」(1960年、東映)


 雪の日に夫婦が捨て子を拾う。赤ん坊の顔の右半分には大きな痣がある。

 月日は流れ、かつての捨て子・次郎(片岡千恵蔵)は大規模な製糸問屋を切り回す実業家に成長している(三十歳には見えないけど)。使用人を家族のように扱う経営方針と無類の人柄のよさゆえに使用人と取引先のだれもから慕われているが、容姿のせいで嫁の来手がない。

 江戸に見合いに行き、売れ残りの年増と見合いするが、先方の返事はまたしても「しばらく考えさせてほしい」。

 そそくさと栃木に帰ろうとすると、見合いの話をもってきた得意客から吉原に誘われる。無礙に断るのもわるかろうと誘いに応じる。

 吉原では次郎の容姿をこわがって、ついた遊女がつぎつぎとチェンジを要求、仕方なく血筋のわるい見習い(水谷良重)をためしに遣ったところ、次郎の容貌を気にする様子もない。「心の内側にも痣があるわけじゃないだろ」(記憶により引用)

 はじめて女性にやさしくされた次郎はすっかり上機嫌。堅物とはいえそこは男、吉原通いがはじまるのは理の当然。

 水谷は格の低さゆえに日頃から花魁連中からパワハラを受けており、松の位の太夫になって見返してやろうという野心に燃えている。太夫にすることを次郎に約束させる。店の主人(三島雅夫)も話題作りにしようとの魂胆から次郎の酔狂に乗る。

 ここから吉原という無情なシステムの歯車が動き出し、少しの狂いもなく作動して、うぶな田舎者を食い物にし、破滅させるまでのプロセスが、息苦しいほど冷静な観察眼によって正確無比に記録されていく。

 おりわるく天候不順で蚕が全滅、次郎の商売が傾きかける。実の親がのこした唯一の財産である名刀を金に換えようとするも、なんと!不吉な刀という評判ゆえに引き取り手がない。金が尽きた次郎は罵られながら吉原を追い出され、笑いものになる。

 妖刀を携えて数日間部屋に籠った次郎は心をきめた様子。かわいがっている若い番頭とその許嫁に店を譲り、じぶんは上方へ行って一から出直すとのこと。

 主人が結婚できないばっかりに若い二人は自分たちの結婚を長いこと見合わせていた。その二人の簡素な婚礼の式を次郎が司り、祝いの歌を一節うなる。泣き崩れる新郎新婦。

 上方へ出発の日はたまたま(?)遊女が太夫としてお披露目する日。仲見世を埋め尽くした見物客にまじって、頬かむりをして様子をうかがう次郎の姿があった。傍らの見物客たちの会話から自分が騙されていたことを知り、奉納しようとたまたま(?)持参していた刀を振り上げ、遊女に向かっていく。とめようとした男たちは魔物の乗り移った刀によってばったばったと斬り倒されていく。

 次郎の刃を必死に逃れ、着物の裾を乱しながら這うように大門の方へとにじりよっていく女。しかし無情にも大門は頑丈な閂によって堅く閉ざされたままだ。毒々しい緑色もあざやかなその門にすがりついたまま妖刀に体を刺し貫かれる女。振り返り、門を背に一帯を睨回しながら、妖刀を振りかざし、門内全体に響き渡ろうかというおそろしい叫びをふりしぼる異形の男。吉原のわるいやつ、全員出てこい!

 クレーンがゆるやかに後退し、フェイドアウト。 終

 史実に想を得た河竹新七作の歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒」を依田義賢が脚色している。古典的な風格をたたえつつラディカルな政治性をこめた現代的な作劇法が冴える。

 心の寛さをもちあわせながらも境遇のうみだした怨恨ゆえに男を裏切らざるを得ない女の哀しさ。捨てられた過去を背負い、かんばせに刻み込まれた消せない傷ゆえに未来をも閉ざされた男は、その孤独ゆえに女を求め、果ては殺さざるを得ない。二人の情念の響き合いとすれちがい、二人の弱者が吉原というシステムによって容赦なく押し潰される一部始終を悠揚迫らざる悲劇の詩法に則って綴っている。

 依田の天才は、次郎を商才ある経営者と設定し、それを吉原的な経営のあり方と皮肉っぽく対比していることだろう。強大なシステム対無力な個人という図式の影に二つの経営哲学の対決という図式を重ねることで物語が豊かさを増している。

 冷害が出ると次郎は下請け的な問屋を救済する義務を負う。もちろん下請けを無礙に切り捨てることなどできない。
「こんな立派なお屋敷にお住まいなのに千両やそこらの金が工面できないというのはにわかには信じられませんな」
「手広く商売をやっておりますとそのぶん損失もまた大きくなるものでして」(記憶により引用)

 タイトルバックで糸を織る工女たちをとらえたなめらかな移動撮影にはじまり、流麗なカメラワークが全篇を彩る。クライマックス、満開の桜の花ごしに血腥い惨劇を追うクレーンショットが凄みを帯びる。

 吉原を再現したセットと豪華絢爛な色彩設計も見事である。日本映画の歴史のなかでもっとも完成された作品のひとつだろう。

 これほどまでの傑作が日本でDVD化もされていないのは、顔に痣のある主人公を「化物」扱いする差別的な台詞が多いせいだろうか。ヨーロッパ版の見事なディスクが入手可能。

突然炎のごとく:エドガー・G・ウルマーの西部劇 “The Naked Dawn”

2013-09-04 | その他

ウェスタナーズ・クロニクル No.16

『The Naked Dawn』(1955年、ユニヴァーサル)

 カーロフの『黒猫』を撮ったエドガー・G・ウルマーは、ユニヴァーサルのホラー映画の担い手の一人として知られているが、こんな異色西部劇も撮っている。

 フランソワ・トリュフォーが「発見」した作品としてフランスではむかしからカルト的な作品。

 舞台はメキシコ国境。冒頭、闇の中での列車強盗(戦利品は貴金属)。鉄道員と売店のおばちゃんのやりとりなどがテンポ良くインサートされる。

 ソンブレロかぶったひげ面の盗賊がアーサー・ケネディであるとはにわかにはわからない。

 相棒が負傷し、ケネディの腕の中で息を引き取る。悪行を懺悔する相棒に囁きつづけるケネディ。「この世でもうじゅうぶんに報いを受けたさ」。彼らはメキシコ戦争で政府軍に従軍したために盗賊に身を落としたものらしい。「すぐに聖ペテロが迎えにきて門を開けてくれるぜ。そこがおまえの土地なんだ」

 相棒を埋葬し山奥に逃げ延びると、沼で若い女(ベタ・セント=ジョン)が水を汲んでいる。水浴びするディアナさながらの美しさ。かのじょは既婚者だが、ケネディのちょっかいに満更でもなさそうな体。

 近くで井戸を掘っている気さくな青年(ユージン・イグレシアス)にトラックでマタモロスに連れていくよう頼むケネディ。青年の家に招かれると、先ほどの女がトルティーヤの粉を左右の手ではじきながら打っている。未練がましそうな視点をケネディに送る女。

 ケネディと青年は奪った貴金属を換金するためトラックで街に繰り出す。酒場でのダンスと喧嘩のたのしい場面。保安官事務所で一悶着。

 青年はケネディの金に目が眩んでしまう。ケネディにもらった銃でケネディを狙おうとするが、がらがら蛇に噛みつかれそうになったところをケネディに助けられ、懺悔する。

 女はどん底の生活から逃れるために今の夫と一緒になったが、下女のように扱われている。人間扱いされたいと思っている。ケネディと逃げれば新しい生活がはじまるとおもっている。

 夫の留守に水浴びする女。服が足許に落ちるショット。つづいて肩から上のショットに膝から下のショットが続く。足にまといついて滴る水。すぐ横では鶏が餌をつついている。映画史にのこる「シャワー」シーンのひとつだろう。黄色いドレスを身にまとったところにケネディが戻ってくる。

 ヴェラ・クルスってどんなところ?連れてってよ。現状を切々と訴える女。やめとけ。おれみたいなおやじと。思いとどまるよう懇々と言い聞かせるケネディ。会話シーンだが、全身ショットのロングテイク主体。ドアの外は畑と山の眺めを描いたちゃちすぎる書き割り。人物の影が風景に映っちゃったりする。師の『サンライズ』でセットデザイナーを務めているウルマーだが、かれの関心はもっぱら俳優にある。観ているほうもセットのへぼさなどまったく気にならない名場面。

 おりしも追っ手が迫っていた。帰宅した夫をふりきってケネディについていく女。

 保安官が青年に銃を向け、ケネディの居所を聞き出そうとするが、青年は居場所を明かさない。助けようと戻るケネディ、一発で保安官を仕留めたつもりが、虫の息の保安官に背後から撃たれる。

 死を悟ったケネディ、青年に有り金を委ねようとするが、青年は受け取らない。

 旅立つ若い二人(女の腹には赤ん坊がいる)を見送る瀕死のケネディ。かつて相棒に言った自分の言葉が耳にこだまする。「聖ペテロが迎えにくるぜ。そこがお前の土地なんだ……」

 遠い目をしたケネディのアップにかぶさる哀歌ふうの調べ。つづけて逆光ぎみの仰角で馬にまたがる若い二人のショットに切り替わるや、陽気なメキシコふうの音楽が流れる。THE END

 音楽はプレミンジャー(『月蒼くして』『カルメン』)やラング(『口紅殺人事件』『条理ある疑いの彼方に』)作品も手がけているハーシャル・バーク・ギルバート。

 脚本にクレジットされているニナ&ハーマン・シュナイダーとは、赤狩りのブラック・リストに載ったジュリアン・ヘールヴィ(『サーカスの世界』『カスター将軍』『ホラー・エクスプレス ゾンビ特急“地獄”行き』)の偽名とのこと。本作品の脚本はゴーリキーの小説『チェルカッシ』に想を得たものとか。

 西部の黄昏を描いたモダンなウェスタンの走りの一本であろう。イーストウッドの『ペイルライダー』を思わせるところもある。西部劇お決まりのアクションも雄大な風景も出てこない。そのかわり三角関係の男女の複雑な感情の機微をじっくりと描く。カンマーシュピールふうのテイストただよう異色西部劇。

 たのしんで撮っているのが伝わってくる。ひとつひとつのショットに映画への愛と映画をつくることのよろこびがあふれている。なんども見に出かけたい映画であり、友だちと語り合いたい映画だ……。いみじくもトリュフォーがそう述べた。この作品が『突然炎のごとく』にインスピレーションをあたえたというのもけだし納得。

 アーサー・ケネディのベストの一本ではないか。ベタ・セント=ジョンは『回転木馬』『南太平洋』などのブロードウェイ作品に出ていた。映画では『聖衣』などのほか、リチャード・ソープの『兄弟はみな勇敢だった』というのがいいらしい。

 製作にかかわったジョゼフ・シャフテルという人は、その後、ジョゼフ・ロージーの『暗殺者のメロディ』なんかをプロデュースしている。