Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

Strongly Scarlet:『悪の対決』

2015-08-30 | アラン・ドワン


 アラン・ドワン「悪の対決」(Slightly Scarlet, 1955, RKO)

 州刑務所の看板。キャメラが下にパンすると、そこから出てきた女を仰角気味のアップでとらえる。アーリーン・ダール。刑務所の前に駐車した車の運転席に別の女が座っている。われらがロンダ・フレミング。少し離れたところに別の車が止まっており、望遠レンズつきの写真機を構えたあやしげな男が外を見張っている。ジョン・ペイン。タイトルバックでメインの三人の登場人物が要領よく紹介される(原作ではダールは冒頭から登場しない)。けばけばしい原色、クロースアップ、まったく無駄なスローモーションとストップモーション。これぞ「キャンプ」。期待が高まる。

 ロンダは車を降り、出てきた女に近づいて抱き寄せる。この身振りのうちにレズビアン的な含意を読みとることは観客の自由。男はこのようすを盗み撮りする。女たちの関係は? 男の行為の目的は?

 ダールには盗癖があり、その科で服役していた。おまけに色情狂でもある。ロンダはその姉で、市長候補の恋人。市長候補は街にはびこるギャング団の追放を公約に掲げている。ペインはそのギャングの一味で、親分との勢力争いに勝つためにロンダに情報を提供する。ロンダとペインは恋に落ちる。市長候補は当選し、ペインは親分にとって代わる。ペインは組織の金を横領し、ロンダとの逃避行を企てる。そんな折り、ふたたびダールが窃盗で逮捕される。ロンダはペインにすがる。ペインは身内の保安官にダールの釈放を指示するが、清廉さを掲げる市長は釈放を認めない。ふてくされたダールは姉への反抗心とペインをめぐる嫉妬から家出し、ペインの別荘に身を隠す。ギャングの親玉がそこに入ってくると、寝椅子の陰から裸の女の足が揺れているのを目にする。親玉を誘惑するダール……。ラストはペインと親玉が撃ち合い、ペインは一命をとりとめる。

 セット、衣裳、女優の髪。原色に染まったノワールらしからぬ世界(むろん『哀愁の湖』という例外はある)を『逮捕命令』につづきジョン・オールトンの照明設計が艶やかな漆黒に沈める。そして『逮捕命令』につづきジョン・ペインをめぐってかれを争う二人の対照的な女が配される(髪の色こそ同じ赤毛だが)。しっかりものの姉と堕落した妹という設定だけは『三つ数えろ』の姉妹と同じだが、エロティックコメディーのヒロインみたいな姉とダグラス・サークのヒロインみたいな妹をむりやりくっつけたミスマッチが逆にそそる。ちなみに脚本のロバート・ブリースはサークの『わが望みのすべて』『心のともしび』を手がけている(すでにとりあげた『平原の女王』もこの人)。原作はジェームズ・M・ケイン。善悪のはざまを揺れ動くペインのキャラは典型的にノワール。


7月4日に追われて:『逮捕命令』

2015-08-29 | アラン・ドワン



 ウェスタナーズ・クロニクル No.25


 アラン・ドワン『逮捕命令』(Silver Lode, 1954年、RKO)


 独立記念日のスモールタウン。いたるところに飾られた星条旗を、ベネディクト・ボージャス製作になる一連のドワン作品(本作はその第一弾)に共通するプリミティブなテクニカラーが際立たせる。祭りの垂れ幕からティルトダウンして、路上にかがみこんで遊ぶ子供たちをとらえる。近づいてくる蹄の音に一斉に飛び退く子等。馬の足のショットからティルトアップ、馬上のダン・デュリエと三人の手下らをとらえる。一瞬で悪人とわかるたたずまい。USマーシャルを名乗るデュリエは(一瞬で嘘だとわかる)奇しくもこの日、婚礼を迎えた村人(ジョン・ペイン)への逮捕状を携えている。容疑は殺人(背後からの銃撃)と金銭強奪。ペインを信頼していた村人らは徐々に疑いを深め、血に飢えた暴徒と化していく(ラストシーンでは教会の扉をぶちやぶって生贄を血祭りに上げんとする)。ペインの味方は富豪の婚約者(われらがリザベス・スコット)と元恋人の娼婦(ドロレス・モラン。製作者の奥方で、この作品を最後に引退)のみ。無罪を証明するために2時間の猶予をあたえられたペイン。カウントダウンと三角関係の相乗効果によってその尺わずか77分の物語はいやがうえにも加速し、大団円にむけて突っ走る。白眉は追いつめられたペインが星条旗だらけの村の広場を逃げ回る長い長い移動撮影であろう。日本でも放映された英国映画協会製作『映画100年 アメリカ編』においてマーティン・スコセッシはこのシーンを引用し激賞していた。撮影は巨人ジョン・オールトン。画面手前の室内のハリー・ケリーJr.(ペインの提示した賞金につられてデュリエを裏切る)のシルエットと明るい窓外のデュリエらを捉えたコントラストなどはノワールの名手としての面目躍如。全体的に窓越しのショットが目立つが、ハリー・ケリーJr.が殺される納屋のシーン、ラストの教会の時計台の梯子のシーンも、暗い屋内に戸外からの光が射すドラマティックなライティングが印象的だ。

 ペインは過小評価されているが、ドワンお気に入りのミニマリズム俳優。アラン・ドワンの代表作のひとつにして、この監督にはめずらしく(?)辛辣きわまりない一本。あからさまな赤狩りの寓話であるが(悪役デュリエの役名はマッカーシー)、ピーター・ボグダノヴィッチによる名高いインタヴューでは、この点についてドワンは見事に空っ惚けている。「この脚本のどこに関心がありましたか?」「どういうことかな? これだけの低予算でこの脚本をどうやって撮り上げるかということにだよ!」。リンチのテーマは『牛泥棒』『激怒』をおもわせ、リアル・タイムによる語りは『真昼の決闘』『決断の3時10分』をおもわせる。

大正七年の荷風散人:『断腸亭日乗』(1)

2015-08-18 | 文語文



 
 荷風『断腸亭日乗』


 十一月廿一日。「この日欧州戦争平定の祝日なりとて、市中甚雑沓せり。日比谷公園外にて浅葱色の仕事着きたる職工幾組とも知れず、隊をなし練り歩くを見る。労働問題既に切迫し来れるの感甚切なり」。

 荷風はこのとし不惑を迎えている。
 

 「十一月十六日。欧州戦争休戦の祝日なり。門前何とはなく人の往来繁し。猶病床に在り」。

 このように病気を理由に、あるいは散策によって、かれは時代の中心を離れようとする。

 八月十四日。「用事を終りて後晩涼を追ひ、漫歩神楽坂に至る。銀座辺米商打こはし騒動起こりし由。妓家酒亭灯を消し戸を閉したり」。

 荷風散人は偶然のドラマの演出家である。遊歩がその媒体である。散策はかれを世間と時代の外に誘うのではなく、そのただなかへと不意に引き寄せる。路地裏の角を曲がると現実につきあたるのだ。現実。これこそが外なのだ。

 かれを家から追い出し、放浪へとおいやるのもまた偶然である。

 「八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す」。すると包まれた陶器や文具のたぐいがなにげなく見つかる。「之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〴に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。」
 
 これは偶然のなせるわざだろうか。いってみれば放浪への欲望がかれの嗅覚を刺戟したのだ。


 転居がきまり、にわかに身辺が慌ただしくなる。

 「十二月廿三日。雪花紛々たり。妓と共に旅亭の風呂に入るに湯の中に柚浮かびたり。転宅の事にまぎれ、此日冬至の節なるをも忘れゐたりしなり。午後旅亭を引払ひ、築地の家に至り几案書筺を排置して、日の暮るゝと共に床敷延べて伏す。雪はいつか雨となり、点滴の音さながら放蕩の身の末路を弔ふものゝ如し」。

 多忙にまぎれることも現実逃避である。オブジェが(あるいは自然が、現実が)忘れていた自己をむりやり思い出させるのだ。ささいな日常の変転がもたらす深い味わい。


 『断腸亭日乗』は人間関係の即物的な描写と自然の詩的な描写から構成されている。放浪の予感によって、自然描写の味わいも深まりをます。

 「十一月廿日。本年秋晩より雨多かりし故紅葉美ならず、菊花も亦香気なし。されど此の日たま∧快晴の天気に遇ひ、独り間庭を逍遥すれば、一木一草愛着の情を牽かざるはなし。行きつ戻りつ薄暮に至る」。

 すべて偶然のなせるわざであり、放浪への欲望のなせるわざだ。


 年の暮れの一連の場面の演出も心憎い。

 「十二月廿五日。終日老婆しんと共に家具を安排し、夕刻銀座を歩む。雪また降り来れり。路地裏の雪亦風趣なきにあらず」。

 あざやかな場面転換である。舞台はまわりまわってやまない。


 この三日後には芸妓と浅草寺に詣で御籤に大吉と出る。「冀はくはこの大吉一変して凶に返ることなかれ」。

 偶然がおのれをもてあそぶことを予感せざるをえないがゆえの祈りである。そして年が変わる。


 「十二月卅一日。新春の物買はむとて路地を出でしが、寒風あまりに烈しければ止む。寒檠の下に孤座して王次回が疑雨集をよむに左の如き絶句あり。

   歳暮客懐。
   無父無妻百病身。
   孤舟風雪阻銅塾。
   残冬欲尽帰猶嬾。
   料是無人望倚門。

 是さながら予の境遇を言ふものゝ如し。忽にして百八の鐘を聴く」。

地獄でなぜ悪い:『ザ・ワイヤー/THE WIRE』最終シーズン

2015-08-12 | ドラマ



 『ザ・ワイヤー/THE WIRE』シーズン5(2009, HBO)

 マルロ捜査への予算を引き出すためにマクノルティが捏造したシリアル・キラー事件に「ボルティモア・サン」の記者テンプルトンが功名心とルサンチマンからのっかり、上から下まで虚偽と腐敗に隅々まで冒されつくした一社会の地獄絵があぶりだされてくる。

 悪の化身マルロは警察の違法捜査の標的になる一方、伯父ブッチーを殺されて復讐の鬼と化したオマールも、亡霊同然のすがた(モップの杖)になりはてつつ日夜通りをさまよいながら鵜の目鷹の目でかれを狩り出そうとする。ブレヒトあるいはフリッツ・ラングをおもわせるシニカルな人間喜劇。ご都合主義的に現れた精神薄弱者のホームレスにすべての責任がなすりつけられる。それをよしとしないなんにんかのばか正直たちは左遷され、あるいは失職する。プロップ・ジョー、オマール、スヌープ(’’How my hair look, Mike?’’)、ついでにチーズが殺される。釈放されたマルロは闇夜にみずからの血の匂いに興奮する。マイケルは後戻りできない地点を踏み越える。先行するシーズンのいくつもの悪夢が反復強迫的にくりかえされ(ワンシーンのみ登場のプレッツのみる悪夢)、最終シーズンで“救済”されるのはワンシーン出演のネイモンドをのぞけばシーズン1からの影の主役のひとりバブルズだけだ(公式ガイド本「THE WIRE, TRUTH BE TOLD」にはマクノルティとバブルズの平行性を指摘する考察がある)。マクノルティの賭けは、フランク・ソボトカやバーニー・コルヴィンやストリンガー・ベルの思い描いた挫折したユートピアの夢につらなるものだろう。ラストで反復される wake のシーンでそれらの夢が葬り去られ、笑い飛ばされる。ボルティモアの朝。シーズン1の最初のエピソードのラストで通りを睥睨していた二体の巨大な彫像の下で今日も新たな死体が発見される。

 『ザ・ソプラノズ』がスコセッシのパロディーであり、『ブレイキング・バッド』がタランティーノへのオマージュであり、『バッドメン』がヒッチコックとダグラス・サークのブレンドであるとすれば、『ザ・ワイヤー』はロバート・アルトマン的な手法の可能性をテレビシリーズという枠組みのなかで全開させようとしたシリーズと思いっきり贔屓目な評価もできようか。

 錯綜した社会関係全体を描きとろうとするヴィジョン、アクションはじめ刑事もののクリシェを排した脚本、地元密着型のリアリティあふれるキャスティングとスタッフワーク、目先のテクニックを拒絶した禁欲的な演出。なるほどアヴァンギャルドではある。映画的というよりはコミックス的なタイプ・キャスティングはブレヒト的ふうと受け取っておけばよいのだろうか。しかし、一応の主役ジミー・マクノルティ=ドミニク・ウェスト(一挿話の演出を担当している)に積極的な魅力が欠けていることは、やはり決定的なウィークポイントだろう。そのために最終シーズンの不条理劇が図式に落ちてしまったのは惜しまれる。突出した中心人物のいない「群像劇」だから、キャラへの余計な感情移入はいらないということにはならない。この点がいい時のアルトマンとの決定的なちがいであろう。もっとも、ドン・ドレイパーにしても、トニー・ソプラノにしても、ウォルター・ホワイトにしても、われわれの感情移入を拒むように最初から造型されている[としか言いようがない]ところがある。きょうびのテレビシリーズ[いわゆる「海外ドラマ」]のひとつのトレンドなのか知らん。