Negative Space

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『乱れ雲』序章:成瀬巳喜男の『女の中にいる他人』と『ひき逃げ』

2018-06-03 | 成瀬巳喜男





 成瀬巳喜男『女の中にいる他人』『ひき逃げ』(1966年、東宝)


 60年代も後半に入り、成瀬映画も浮気した、しないの能天気な昼メロから、殺した殺さないの“シリアス”なサスペンスドラマへとシフトする。松本清張=野村芳太郎的な“社会派サスペンス”まではあと一歩である。

 『女の中にいる他人』はアメリカの無名作家の原作を井出俊郎がアレンジしたノワール。ローキーのモノクロ・スタンダード画面がスタイリッシュ。雨に濡れた夕刻の舗道を悄然と歩いてきた小林桂樹が立ち止まり、しきりに背後を気にしてみせるオープニングはなかなかにムーディ。しかし物語が進行するにつれて、ナンセンスな世界に突入し、意に反したコメディーへと反転する。

 親友(三橋達也)の妻(ボンドガール前夜の若林映子)を殺した小林は典型的に成瀬的な優柔不断男。じぶんが楽になりたいために妻(新珠三千代)に、ついで当の親友に罪を打ち明け、それでもおさまらずにあげくのはては自首して出ると言い出してけっきょく妻に毒殺される。

 妻への告白場面では、情事の最中の窒息プレイが昂じて愛人を殺してしまう一部始終がネガポジ反転で描かれる。おもわぬ夫の変態ぶりにドン引きした新珠三千代が「やめて!」と耳を塞いだかとおもうと、それでも変態話の続きを聞かずにはいられなかったものとみえ、一呼吸置いて「続けて」と落ち着いた口調で命ずるところはいちばん笑えるところだ。

 個人的には、新珠三千代という女優にこれまでまったく感心した経験がなかったが、『乱れる』のデコさながらに、物語の経過とともに妻が内なる「他人」へと変貌していき、どんどん美しくなっていくさまは成瀬演出の真骨頂だろう。

 松山善三の脚本による『ひき逃げ』は場末のパチンコ屋で玉拾い(?)をしている少年がヤクザの叔父(黒沢年雄)に見つかって摘み出されるところからはじまる。そのあとどういうショットがつづいたか忘れてしまったが、割烹着姿の肝っ玉おっ母(デコ)が必死の形相で路上を駆けてくる(まだ息子が轢かれたわけではない)ショットにストップモーションがかかり、そこにタイトルがかぶさる。

 アヴァンタイトルだのストップモーションだのの“モダン”な意匠に早くも一抹の虚しさの予感が走る。ほかにも作中、『女の中にいる他人』でも使われたネガポジ反転(偽のフラッシュフォワードの場面)や傾いて揺れるカメラ(デコがおとくいの泥酔演技をみせる酒場の場面)などのギミックが援用される。

 後期成瀬らしくアップも多い。“大女優”となり仰せ、大女優の常として“汚れ役”だの“体当たり演技”だのの誘惑にほだされたらしいデコのアップはギャグとしてたのしめるが、司葉子のアップは息を呑むほど美しく、次作の『乱れ雲』を予感させるにじゅうぶんだ。

 デコが一人息子を殺したひき逃げ犯に復讐すべく真犯人の屋敷に女中として潜入する女を演じるという、前作どうようのいっしゅのノワール。司の息子への殺意に憑かれたデコが『妻として女として』のような迫真の鬼婆演技を見せる。短いフラッシュバックのなかに登場するパンパン時代のデコは「リリイ・カルメン」こと「おきん」を彷彿とさせて微笑ましい。

 本作では『女の座』『放浪記』『女の歴史』のモノクロ・ワイド画面に回帰しているが、鋭角的な縦の構図を効果的に使った演出はいかにも成瀬。とくに少年への殺意を抱いたデコが車の行き交う車道に少年を誘い出そうとするサスペンスフルな場面で、手前に少年の後ろ姿のアップ、画面奥に手招きするデコを配し、そのあいだを奔流のように流れていく自動車の列をとらえたショットはインスピレーションに満ちている(似た状況はすでに『秋立ちぬ』で使われていた)。

 『女の中にいる他人』の小林は自首することで楽になろうとするが、残された自分と子供の境遇を懸念した妻が抵抗する。『ひき逃げ』の司も愛人の勧めにしたがい自首しようとするが、自動車会社社長の夫(進藤英太郎)がそれを許さない。小林は妻に毒殺され、司は自殺する(小林のように自殺を偽装した他殺である可能性は排除されない)。

 『妻として女として』のような女の対決は本作では寸でのところで回避されるが、息子を自殺の道連れにすることでいわば司がデコの“欲望”を叶えてしまったことは犯人と犠牲者の分身性を暗示して余りある。加害者と被害者の逆説的な関係は次作『乱れ雲』でさらに突き詰められることになるだろう。本作が成瀬との最後のタッグとなるデコは、物語のうえでも画面のうえでも司に食われてしまった。女優への敬意を表するために、ラストでの“狂気”の演技は見なかったことにしておこう。本作は司の映画であり、遺作『乱れ雲』への序曲である。


生硬なるドロドロ(ならびに追悼・星由里子):『妻として女として』

2018-05-26 | 成瀬巳喜男



 成瀬巳喜男「妻として女として」(1961年、東宝)


 エリートのダメ男(森雅之)の妻(淡島)と愛人(デコ)がエゴむきだしで壮絶なる一騎打ちを繰り広げるドロドロの昼メロにして同時代の『日本の夜と霧』も真っ青の生硬なディスカッションドラマ。『めし』三部作では妻の側に肩入れしてきた井出俊郎だが、松山善三との共同脚本による本作では、妻と愛人の分身性を強調することでいわば公平な立場を守っている。本妻の家庭と愛人の家庭(飯田蝶子演ずる元芸者の祖母との二人暮らし)が並行モンタージュ的に対比される。たとえば鏡台の前の娘・星由里子(合掌)から同じく鏡台の前のデコへのカットバック。なによりもくだんの分身性は、愛人が子供を産めない体になっていた本妻の“代理母”であるという事実によって際立つ。

 これまでのいくたの成瀬作品をいろどってきた脅迫者的な愛人役をデコが迫真のホラー的演技で怪演し(影の差した鬼の面のようなアップ)、それを淡島がもちまえの演技力で発止と受けとめる。お宝物の演技満載のデコのショーケース。登場シーンの半分くらいでデコは泥酔してくだをまいている印象がある。襖を衝立がわりにしたストリップシーンのサービスもある(ゴザのようなものを無造作に畳に広げ、そこに着ているものをいちまいいちまい投げていく)。『女が階段を……』で仲代にしたように、ここでは裏切り者のホステス水野久美に酒入りのグラスを投げつけ、“酒投げ姫”の本領発揮。“階段”といえば、仲代のアパートに上っていき、体を許さずにふたたび一人で下りてくる階段の場面では『俺もお前も』を思わせるクレーンショットがつかわれる。詰襟の中学生らとジェットコースターではしゃぐ場面もある。森とデコが馴れ初めを振り返る場面では防空壕から空を眺めるまさかのフラッシュバックが挿入される。ここでの淡島は『鰯雲』の“ミスキャスト”いらいすっかり板についたもんぺ姿(デコもだが)。別のフラッシュバックのシーンでは子供らを呼ぶ若き淡島の声に応えて入ってきたのがすでに成長した子供らであるといった成瀬ごのみのトリッキーなモンタージュもある。「宝田明似の男」なる内輪ギャグも。安元淳のキャメラは玉井正夫時代には考えられなかったバロック的キアロスクーロをときとして志向する。本妻宅に乗り込んだ愛人が夫をまじえて妻と立ったまま議論する場面。あるいは森とデコの逢瀬の舞台となる宿屋では障子を閉め切った室内の二人が必然性のない逆光でとらえられる(『夜の流れ』には密会する五十鈴と三橋をとらえた類似のショットがあった)。実の母親であることをデコにばらされ家を飛び出た星由里子の許を弟(大沢健三郎)が訪ねていくラストは、公園での笠智衆と三益愛子の出会いで終わる『娘・妻・母』どうようの“開かれすぎた”ラスト。物語の収拾がつかなくなったのをごまかすために成瀬的な結論の先送りというギミックをちゃっかり援用。

成瀬巳喜男の60年代:『女が階段を上る時』

2018-05-17 | 成瀬巳喜男



 成瀬巳喜男「女が階段を上る時」(1960年、東宝)

 60年代の成瀬・第一弾。後期成瀬のキャリアがここからはじまる。それまでの成瀬映画とは雰囲気ががらっと変わる。しかしワイドスクリーンで撮られた本作を成瀬じしんはスタンダードサイズ向けのストーリーととらえていたという。

 脚本は作為のきわみ。書いた菊島隆三は「オレが当ててみせる」と自分でプロデュースまで買って出た。

 『稲妻』で完成された、ふてくされて吐き捨てるようなデコ節の台詞回しが全開のわれらがデコ代表作の一本。

 『稲妻』につづいてお得意の唾吐きシーンまである。仲代のスーツにグラスの酒をひっかけたうえ、唾まで吐きかけるのだ。『あらくれ』のヒロインも顔負けの暴力女ぶりである。

 いまひとつの見どころはデコが前夜に見た夢を仲代にしみじみ語る場面だ。キャメラはソファに横たわる遠い目のデコの薄明かりに浮き上がる白い顔をとらえつづける。夢の内容は『驟雨』で佐野周二が妻の原節子に語り聞かせるそれのようなエスプリこそ欠いているものの、ヒロインのみせるもっとも穏やかな表情をとらえたわるくないシーンである。

 デコが占い師(千石規子)を訪ねる場面もある。占いの結果にぬか喜びしたデコはやがて痛い目を見ることになるのだが、徹底して現世に内在的な世界を描いてきた成瀬がここでスピリチュアルな世界に接近していることはきょうみふかい。もちろん、夜、そして死という主題もそれと無関係ではないだろう。

 胃潰瘍で佃島の実家に引っ込んだデコは鏡のなかのやつれた顔をみてつぶやく。「ひさしぶりに美顔術でもやってこようかしら……」。『稲妻』の葡萄の食し方どうよう、消滅した身振りや死語もさまになるのがデコである。

 中北千枝子以下のホステスらに細川ちか子、沢村貞子、賀原夏子、本間文子、千石規子といった常連のベテラン女優らの力強い現前が対置される。これぞ成瀬。


成瀬巳喜男の家族人類学:『あにいもうと』『妻の心』『くちづけ』

2018-04-26 | 成瀬巳喜男



 成瀬巳喜男「あにいもうと」(1953年、大映)


 『めし』における上原と姪・島崎の“近親相姦”的モチーフは本作で顕在化し、次作『山の音』へと繋げられる。

 先行する『稲妻』にも後続する『妻の心』にも独身の“あにいもうと”の所帯が登場する。

 『妻の心』では三船敏郎と杉葉子が夫婦ではなくきょうだいであることがかなり経ってからでないとはっきりとはわからない。

 映画は高峰秀子と三船の潜在的な不倫関係によってきょうだいどうしのキケンな関係になんとかして罅を入れようとする。

 あずまやのようなところでデコと三船が雨に降りこめられる場面はすばらしい。雨が二人の潜在的な情熱を目覚めさせかけるのだ。しかし闖入者の登場によって盛り上がりかけたムードは一挙にしぼんでしまう。

 それにめげず映画はこの潜在的な不倫関係をデコの夫(小林桂樹)の芸者遊びによって正当化しようとする。あまつさえ小林との旅行先で芸者が自殺するという無理のある設定によって小林の罪深さを強調する念の入れよう(小林が芸者の死をデコに伝える場面は笑える)。

 ラストは杉の結婚を暗示することであくまできょうだいを引き離そうとするが、いつもの成瀬的な「開かれた」ラストによって、闖入者の義兄夫婦(中北千枝子の存在感の怖さは絶品)の始末やデコの喫茶店開店の実現とともにキケンなきょうだいの行方も先送りされたまま映画は終わる。

 『くちづけ』の成瀬篇「女同士」にも擬似的な近親相姦的モチーフが存在する。開業医の上原と妻のデコのあいだには子供がなく、適齢期をむかえた住み込みの看護婦(中村メイコ)がいわば娘のような位置を占めている。映画はコメディーの文脈に託して“娘”と“父”の“不倫”を描く。

 レヴィ=ストロースによれば、自然と文化を分け隔てるのはインセスト・タブーの存在であるが、成瀬映画のドラマトゥルギーの根本にあるのもまた近親相姦への魅惑と反発の葛藤である。『あにいもうと』の重要性はこのテーマを正面からとりあげていることだ。インセスト的関係が破られるとき、成瀬映画はハッピーエンドをむかえ、そうでないとき、ハッピーエンドはおあずけとなる。

 『あにいもうと』の幕切れに成瀬お得意の確信犯的にミスリーディングなカッティングがある。精霊流しの晩に久我は既婚者となった元恋人と出くわす。遠くから彼女を見る男のアップに、晴天をバックに笑顔で手を振る久我のショットがつづく。一瞬フラッシュバックとおもわせつつ、実は翌朝、実家の母親に別れの挨拶をしている久我のショットであることがわかる。『春の目ざめ』の幕切れのショットを想起させずにはいないこのショットによって、久我は「家族のみならず青春時代にも別れを告げているのだ」(シュザンネ・シェアマン)。

 『妻の心』には食堂のおやじ加東大介が見事なフライパンさばきでデコに料理のレッスンをつける微笑ましい場面がある。言うまでもなく『おかあさん』で田中絹代を相手にアイロンがけのコツを伝授する傑作場面の再演である。


そして人生はつづく:成瀬巳喜男の『めし』三部作

2018-04-23 | 成瀬巳喜男





 成瀬巳喜男『めし』『夫婦』『妻』(1951〜53年、東宝)

 『夫婦』の冒頭はビルの外階段らしきところから鉄柵ごしの街を見下ろす不安定なショット。デパートの屋上へつうじる階段を杉葉子が降りてきてそれが杉のPOVショットであったらしきことがわかる。降りてくる杉を屋上で待ち受ける二人の同窓生がきびしくファッションチェックし、杉の生活の困窮ぶりが暗示される。つかのまの解放感をしばし味わった杉はふたたび“地上”の生活に戻っていく……。

 『めし』の成功に乗じた二番煎じ的作品にして漠然とした後日譚。脚本は『めし』の井出俊郎と水木洋子(『めし』の田中澄江からバトンタッチ)。原節子が病気のため成瀬の推薦によって『めし』で原の実妹を演じた杉葉子が上原の妻役に抜擢されるが、結婚五年目の[第一次]倦怠期を演じるにはいかにも若すぎて違和感がある。

 『めし』では夫の姪(島崎雪子)、『夫婦』では夫の同僚にして同居者(三国)および同僚の若い女性(常連の木匠久美子あらためマユリ)の存在が夫婦の亀裂を深める。いずれの作品においても報われぬ家事労働に疲れた妻が実家に帰る。妻の実兄に小林桂樹(『めし』では原の義弟)、実妹に岡田茉莉子(『舞姫』とはちがいほんらいのはつらつさを発揮)。

 阿部嘉昭によれば『夫婦』はその中途半端な結末を除けば「『めし』の崇高性をすべて喜劇文脈に脱構築し終えた意地悪な(ママ)傑作」たりえたかもしれない作品ということになる。果たしてそうか?

 未完の原作にくっつけられた『めし』の作為的な幕切れよりも、『稲妻』どうようの「青臭」い「『微妙な余韻』のハッピーエンド」こそ成瀬的というべきである。阿部じしんが付け足しのように指摘する「忘れがたい細部」の「ひしめ[き]」においてこそ本作は輝く。

 三部作の掉尾を飾る『妻』は『めし』どうよう林芙美子の原作を仰ぎ、井出俊郎の単独脚本による。冒頭と末尾に『めし』のような夫婦それぞれによるヴォイスオーヴァーが使われ、結婚十年目の破局寸前の夫婦関係を描く。上原の相手役はわれらが「たかみえ」こと高峰三枝子がつとめ、杉葉子の五年後の姿としては違和感があるが、れいの能面顔にものをいわせて心の冷たそうな妻を演じている。ただし本作のたかみえははっきり言ってあまりよくない。コメディーリリーフを引き受ける間借り人の三国(前作からの再登板)とのかけあいなどにおける軽みとテンポと蓮っ葉なディクションはわるくないが、せんべいを頬張りながら口を開けて話し、食卓で歯茎を剥き出して楊枝をつかい、お茶で口をゆすぎ、間借り人の目のまえで耳垢をほじってはなんども指で払い落とすといった“シェイムレスな倦怠期の妻”の演技はわざとらしくて見るに耐えない。残念ながら、こと“演技力”にかんしてはたかみえはデコの足元にも及ばないと言わざるを得ない。

 こんどは夫が元同僚の浮気相手(丹阿弥谷津子)と肉体関係を結ぶにいたったことが暗示され、たかみえが浮気相手のもとに単身のりこんでバトルをくりひろげる。本作でも妻は里へ帰るが、わりとあっさり戻ってくる。ただし関係が修復する兆しがまったく見えないまま、曖昧に幕を閉じる(ラストは無表情で—もともと表情がないが—黙々と部屋にはたきをかけるたかみえを窓の外からとらえたロングショットにフェイドアウト)。

 原作では二人は離婚することになっており、成瀬も井出もそのようなエンディングを望んでいたが、興行的配慮から映画では結末を曖昧にしたという。とはいえぎゃくに、結論を先送りしたエンディングこそがすぐれて成瀬的なそれであることはいうまでもない。成瀬の映画のなかで流れている時間はわれわれじしんの日常とおなじクライマックスのない平坦な時間であるから。映画が終わっても人生はつづいていくのだ。

 このいみで『めし』三部作をジャック・ベッケルの『幸福の設計』『エドワールとキャロリーヌ』『エストラパード街』の三部作、もしくはそれに倣ったフランソワ・トリュフォーのアントワーヌ・ドワネル三部作になぞらえることがゆるされよう。いずれにおいてもあとの作品になればなるほど夫婦の危機が深まるのであり、また、シリーズが幕を閉じたあともわれわれ観者のこころのなかに主役の夫婦が棲み続けている印象をあたえるのだ。

 上原が愛人宅の縁側で二人の今後について語り合う場面。上原は未亡人である愛人の息子と玩具の自動車で遊んでいる。ふと自動車が縁側から“脱線”し、庭に転落する。ダグラス・サークの There's Always Tomorrow に似たエピソードがあったはずだが、愛人が事故死するなりして夫婦が元の鞘に収まるのかと予想するとまんまと肩透かしを食う。とはいえ曖昧なラストはそのような展開の可能性をけっして排除しない。