Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

マカレナとスニッカーズとタッパー:『リチャード・ジュエル』

2020-02-07 | その他



 
クリント・イーストウッド『リチャード・ジュエル』(2018年)

 オフィスの仕切りの間を手押し車を押して肥満体の配達係(ポール・ウォルター・ハウザー)が歩いてくる。かれはとあるブースで電話する弁護士(サム・ロックウェル)の声に足をとめる。

 どうやら聞かれてはまずい話を耳にしてしまったらしいことがわかる(これがかれの冤罪の原因に繋がるのかとそれとなく匂わせる演出だが、これはフェイクでじっさいにはそうはならない)。われわれはいかにも愚鈍そうな見かけの主人公の耳聡さを意外におもう。

 弁護士はかれをやわらかくたしなめる。配達員はデスクの引き出しを示す。弁護士が引き出しを開けると好物のスニッカーズが大量に補充されている。弁護士は驚いてなぜ好物がわかったのかとたずねる。配達員は弁護士の出すゴミの中にパッケージを見つけたと話す。弁護士は一瞬相好をくずすが、すぐに真顔に戻って、配達員の抜け目のなさを警戒するような顔でふたたびやんわりたしなめる。

 リチャード・ジュエルがいつ何時テロリストに転んでもおかしくないキャラであることをそれとなくほのめかす効率的なオープニングだ。

 つづいて昼休みにゲームセンターで射撃をして遊んでいるリチャード・ジュエルのところに弁護士が合流する。リチャード・ジュエルは法の執行官になる夢を吐露し、そのために日夜公法を独学していると話す。

 つぎのオフィスの場面にもいぜんとして二人以外は登場しない。

 物語が二人の友情を軸に展開することがはっきりとわかる。本作の舞台は利害渦巻く生臭い地上の世界である以上に二人だけの構成するスピリチュアルな空間である。

 じっさい、映画はこのあと二人の分身性をきわだたせていくだろう。リチャード・ジュエルと母親(キャシー・ベイツ)との関係は、弁護士と秘書(ニナ・アリアンダ)の関係にはっきりと重ね合わされ、FBI捜査官(ジョン・ハム)とスクープ記者(オリヴィア・ワイルド)の関係と対比される(ライティングからして対照的だ。捜査官と記者の怪しげな逢瀬の場面はいかにも人工的な、毒々しい照明設計がなされている。新聞社ではブラインドから差し込む強い西日?で記者の顔に格子状の濃い影が映る)。

 『パーフェクト・ワールド』の犯罪者と捜査官のように、あるいは『トゥルー・クライム』の容疑者とジャーナリストのように、もしくは『ミリオンダラー・ベイビー』のコーチとその親友のように、二人のスピリチュアルな結びつきが強調される。

 熱血漢で口の悪い弁護士にたいしてリチャード・ジュエルはけっして怒りを外に表すことがない。弁護士はそんなリチャード・ジュエルに苛立ちさえする。こうした点でも二人が分身の関係にあることが明らかだ。

 映画では母親がクローズアップされるぶん、この分身性は目立たない。

 大学の警備員となったジュエルは雇用者の依頼に応えるためには手段を選ばない。かれにはダーティ・ハリー的な無法者の横顔もある。いよいよ油断のならないキャラであることがあきらかにされ、われわれは一抹の不安をいだく。

 正義と悪の相対性はイーストウッドが一貫して扱ってきたテーマである。この主題が本作では「間違えられた男」(冤罪)というサスペンスとして生かされる。

 映画の舞台はアトランタ五輪が開催された四半世紀まえであり、ノスタルジーが全篇をひたす(マカレナetc.)。

 マイケル・ジョンソンのストック映像が効果的に使われる。スタートの号砲とともに弁護士の秘書がストップウォッチのスイッチを入れ(『黒い罠』のオープニングみたいだ)、弁護士とともに歩き出す。リチャード・ジュエルが警備についていた位置から脅迫電話のかけられた公衆電話までの所要時間を計るためだ(このあとスクープ記者が同じ道のりを歩き、かのじょの陥れた男の無罪を確信することになるだろう)。規則正しい足取りで進む二人を追う移動撮影とトラックでのマイケル・ジョンソンの疾走のカットバックがスリリングな興奮をうむ。

 母親が戻ってきたタッパーの蓋にマジックで無造作に書かれた証拠品番号を指でこするときの表情、ラストでリチャード・ジュエルがドーナツにかぶりつくときの表情はなんともいえずよい。

 テレビ画面に映り込んだ戦争映画のフッテージはどこから引いているのだろう。

倒錯のテクニカラー:フライシャーの『夢去りぬ』

2019-08-08 | その他





 リチャード・フライシャー「夢去りぬ」(20世紀フォックス、1955年)

 オリジナルタイトルは The Girl in the Red Velvet Swing という。なんとも心騒がせるタイトルである。二十世紀初頭、ピンナップガールの先駆けであるイヴリン・ネズビットをめぐる情痴事件に題を取った現代史劇。

 有名建築家スタンフォード・ホワイト(レイ・ミランド)はあるパーティーで売り出し中の“ギブソン・ガール”イヴリン(ジョーン・コリンズ)を見初める。二人は恋に落ち、ホワイトはかねてから犬猿の仲であった富豪ハリー・ソー(ファーリー・グレンジャー)とかのじょを奪い合う。

 妻帯者のホワイトはイヴリンをショービジネスから引退させ、ヨーロッパの全寮制のカレッジに送って教育を受けさせる。イヴリンはホワイトと離れて暮らすことにたえられず精神的な均衡を崩す。そんな折、ソーにかけられた慰めの言葉に心を動かされ、ソー夫人となる。ホワイトはイヴリンへの執着を断ち切れず、ソー夫婦の出向くところにじぶんも押しかける。これを挑発ととったソーは観劇の席上でホワイトを射殺する。裁判でイヴリンはソーに有利な証言を強いられる。ソーは無罪となるが、その判決理由は精神疾患ゆえであった。

 筆者にとって本作はシネマスコープというフォーマットの美に目覚めるきっかけとなった思い入れのある作品だ。作品についての予備知識なしにすこし遅れて入場し、いつもはまず座ることのない上映会場のほぼ真ん中に席をとってスクリーンに目をやった瞬間、スコープ画面に収まった見事に均衡のとれた構図の美しさに目を吸い込まれた。本作がシネマスコープおよびテクニカラーの使い方の見事さで知られる作品であることをあとから知り、深くうなづいた次第であった。

 内容の方はほぼ忘れてしまったので、ひさしぶりに見直そうとずいぶんまえにエアチェックしてあったディスクをかけると、なんとズタズタにトリミングされているではないか!会話の場面では相手がフレームの外にはみ出していたりすることがしばしばで間抜けであることこのうえない。キャメラの動きひとつとってもどういう必然から動かしているのかが理解できず、ストレスがたまりにたまる。我慢して半分くらい眺めていたが、まったく集中できず、けっきょく海外版のディスクを取り寄せて見直すはめに。やはり本作はオリジナルのフォーマットで見なければ完全に無意味であると確信した次第。

 ジョーン・コリンズのブルーの瞳とブルネットの髪とカラフルな衣装のとりあわせには(もちろんボデーにも)、小さな画面で眺めているだけでもはげしく心乱される。ヒロインにはもともとモンローが予定されていたが、新境地を模索中だった(というか、役に伴うリスクにおじけづいた?)マリリンはオファーを断った。しばしば指摘されているように、なるほどジョーン・コリンズの演技力不足は否定しようもないが、かのじょの陶磁器の人形のような顔にときとして閃く狂気というか妖気のようなものゆえに本作にマイケル・パウエル作品のような存在論的に不気味(フロイト的な Unheimlich)で倒錯的な空気が漂うことになっていることを見逃すべきではない。たとえば幕切れのショット(ここでオフュルスの『歴史は女で作られる』を連想するのは筆者だけではあるまい)におけるコリンズの無表情な顔のインパクトをみるがよい。ここでのコリンズは『ピラミッド』のラストでサディスティックな殺され方をするかのじょとおなじくらいゾクゾクさせる。

 映画では言及されないが、じっさいのホワイトはイヴリンが十四歳のときにかのじょを強姦し、愛人にしたという。めっぽううつくしい赤いブランコの場面は言うまでもなく性行為のメタファーである(無人のブランコがかすかに揺れているショットにフェイドアウトして終わる)。コリンズの昂揚した顔にどうしても目がいってしまうが、コリンズの背中を押すミランドの倒錯的な表情を見逃すなかれ。のちの悪夢の場面でイヴリンの脳裏に蘇ってくるホワイトはなぜかステージ上にいて、ラインダンスの真ん中で女たちに囲まれているが、よく見れば同じ表情を浮かべている。ちなみに二重焼き付けを巧妙に使った悪夢のシーンも、シュルレアリスムの傑作というべき名場面だ。

 本作はのちにフライシャーがやはり倒錯と退廃の香り漂う三面記事を素材に撮ることになる『強迫/ロープ殺人事件』、『絞殺魔』(aka『ボストン絞殺魔』)およびBBCの『10番街の殺人』といった彼の真骨頂が発揮された作品群の先駆けとなる。

 スタンフォード・ホワイトはいわゆるボザール様式の担い手の一人。ミロシュ・フォアマンの『ラグタイム』にもイヴリン・ネズビット事件への言及があるが、こちらでホワイトを演じているのはなんとノーマン・メイラーである(イヴリン役はエリザベス・マクガヴァーン)。なお、リュディヴィーヌ・サニエとフランソワ・ベルレアン(+ブノワ・マジメル)の組み合わせで撮られたクロード・シャブロルの『引き裂かれた女』も同じ事件にインスパイアされている。

 脚本はウォルター・ライシュおよび製作も務めたチャールズ・ブラケット、撮影はミルトン・クラスナー、キャストはほかにルーサー・アドラー(弁護士)、グレンダ・ファレル(イヴリンの母)、ゲイル・ロビンズほか。ソーのキャラクターには単なるチンピラにとどまらない厚みが読み取れるだけにファーリー・グレンジャーの淡白な演技が悔やまれる。別の俳優が演じていたら本作が映画史上の大傑作になっていた可能性も否定できまい。





マリオ・バーヴァのコメディー・ウェスタン:『ロイ・コルト&ウィンチェスター・ジャック』

2019-03-08 | その他




 ウェスタナーズ・クロニクル 〜西部瓦版〜 No.63


 マリオ・バーヴァ「ロイ・コルト&ウィンチェスター・ジャック」(Roy Colt e WInchester Jack, 1970)の巻

 マリオ・バーヴァによるコメディー・ウェスタン。ロイ(ブレット・ハルセー)とジャック(チャールズ・サウスウッド)はじゃれあうような殴り合いに明け暮れる悪友どうし。ロイは更生して保安官となり、強盗団を率いるジャックと敵同士になる。二人は押し付けられた婚約者を殺して逃げてきた先住民のじゃじゃ馬娘(マリルー・トロ)をめぐって張り合うが、『続・夕陽のガンマン』のイーライ・ウォーラックも真っ青の欲の張った狸オヤジ(テオドロ・コッラ)への敵対関係によってふたたびタッグを組む。狸オヤジが勝手に自爆して果てたあと、最後は金をじゃじゃ馬に持ち逃げされたのも気にならないかの体で、もとのようにじゃれあうように取っ組み合ってホモソーシャルな絆をたしかめあう二人であった。めでたしめでたし。

 ジャックが計算高いじゃじゃ馬娘と寝たいばかりに翻弄されまくるマゾヒスティックな一幕。娼館でのいつ終わるともしれないどたばたシーン。スカトロジックなエピソード。ペキンパーふうの銃撃戦。ズームや手持ちキャメラの風変わりな使用がちらほら。何の変哲もないチープなマカロニ・ウェスタンであるが、霧深い森のショットや丘の上の男らを逆光で捉える仰角のショット、画面手前で焚き火を囲む人物らと画面奥で見張りに立つ人物を暖色と寒色で対比的に捉えるショットなどにバーヴァらしい美学がうかがえる。

 バーヴァはこれに先立ち La strada per Fort Alamo (1964) というやはりスターの出ていないウェスタンを撮っている。



荒野の女たち:『Meek's Cutoff』

2018-10-31 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.62


 ケリー・ライヒャルト「Meek’s Cutoff」(2010)


 欧米で高い評価を受けたもののなぜかわが国未公開でソフト化もされていないちょっとした掘り出し物。

 近年の arty な西部劇にありがちな(たとえば『ジェシー・ジェームズの暗殺』みたいな?)もったいぶっただけの作品ではないのかと高をくくり、見るのを延ばし延ばしにしていたが、これは“買い”であった。

 1845年、オレゴン。開拓者の三組の夫婦(そのうちの一組には子供がある)がスティーヴン・ミークなるうさんくさいガイド(実在人物)に伴われて幌馬車を進める。飲み水が尽きてきた頃、道に迷ったことに気づいたかれらは、捕えた先住民に道案内をさせるが、いつまでたっても水のある場所にたどりつけない。一本の巨木を見つけたかれらは、そこにとどまるべきか先住民についていくべきかの選択を迫られる。

 全篇、家一軒見当たらぬ荒野をさまよいつづける一隊を追うロードムーヴィー。スタンダードサイズのスクリーンに映し出される鮮烈な風景、極端に照明を落としたナイトシーン、大胆に削られ、しかもおおくは囁くように話される台詞。

 生々しい風景と自然音、ミニマルな日常的身振りの淡々とした積み重ねがいつしか一幅の抽象画に反転し、そこを舞台に純度の高い精神的な(倫理的な)ドラマが展開する。

 二人のサミュエル(ベケット、フラー)とテレンス・マリックをこきまぜたような世界観とでも要約できようか。

 何日間の出来事を描いた物語なのかは不明であるが、カラフルな衣装とエキゾティックな被り物をまとった女たちは小綺麗でひたすら美しいままで、憔悴しているようにはとてもみえないのはご愛嬌か、もしくはギャグなのか。

 冒頭ちかく、幌馬車隊が画面手前へとフレームアウトしてエンプティショットが数秒持続したかとおもうと、画面奥の丘陵の頂を同じ一隊が画面右側から小さなシルエットとしてフレームインしてくる。このへんのウィッティな語り口も好ましい。

 運命を伴にすることになる先住民は、ヒロインであるミシェル・ウィリアムズの視点を介して観者に紹介される。

 ふと遠くの山頂に小さな人影を認めたウィリアムズの視界が、画面手前を横切る幌馬車によって一瞬遮られる。幌馬車が通り過ぎると、すでに山頂の人影は消えている。

 ついである夕刻、マジックアワーの残光の中、身をかがめ薪を拾って歩く同じウィリアムズがふと目を上げると何者かの足が目に入る。

 『捜索者』で、幼いデビーが飼い犬を追って外に出るとコマンチの酋長に出くわす場面をいやがうえにも想起させる。

 『捜索者』のようにそのままキャメラが足元からティルトアップするかとおもうと、驚愕して立ち尽くすウィリアムズのショットにすぐさま切り返される。腕に抱いた薪を音を立てて落とし、振り向いて走り去るウィリアムズのリアクションにつづけてはじめて先住民の顔が映し出される。

 先住民のほうもあわてて馬を駆って逃げ去り、ついでキャンプに戻ったウィリアムズが息を切らせたままおもむろに銃の手入れをはじめ、空砲を空に向けて一度、二度と放ってみせるようすがロングショットで淡々と描写される。

 英語を解さず、ポーカーフェイスをとおす先住民の心のうちはかのじょらにもわれわれ観者にもわからない。

 かれは一行を救おうとしているのだろうか、あるいは罠にかけようとしているのだろうか。

 こうした心理的なサスペンスが見る者の興味を一瞬もそらさない(ついでに言えば、視界を制限するスタンダード・サイズの選択もまたサスペンスの創出に寄与している)。

 その出会いの場面からもわかるように、先住民は、ウィリアムズの(幻とはいわないまでも)いっしゅの創造物であり、投影である。

 先住民と、その心理をなんとか推し量ろうとするウィリアムズとはいっしゅの分身的な関係に置かれている。

 ウィリアムズは繋がれた先住民に毎日水を届け、その傷んだ靴を繕ってやりさえする。ミークが先住民を見限って銃口を向けると、ウィリアムズがライフルをミークに向けて先住民を守ろうとする。

 ウィリアムズの強いまなざしが心に残る。『ウェンディー&ルーシー』『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』でも組んでいるライヒャルト=ウィリアムズは、女性監督と女優のタッグとして現在もっとも注目すべき組み合わせといえるだろう。

 キャストはほかにブルース・グリーンウッド、ゾーイ・カザン、ポール・デイノ、シャーリー・ヘンダーソンとなかなかに豪華。



二十八人の怒れる男:『牛泥棒』

2018-10-28 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.61


 ウィリアム・ウェルマン「牛泥棒」(1943年、フォックス)


 1885年、ネバダ。二人の流れ者(ふたりのヘンリー、フォンダとモーガン)が町にたどり着く。建物を抱き込むようにカーブを描く坂道をゆっくりと下ってくる馬上の二人をとらえたロングショット。

 この印象的な地形のオープンセットはフォックスの西部劇でよくお目にかかる(『地獄への道』『無法の王者ジェシー・ジェームズ』などでも使われていたと記憶する)。

 酒場の扉を押して無言のままカウンターに陣取る二人。バーテンダーを無視して目の前の額に見入るヘンリー・フォンダ。額には半裸の眠れる美女に男が忍び寄るいっしゅの夢魔をモチーフにした絵がかけられている。絵の中の男は永遠に女性にたどりつけない、となにほどか哲学的なセリフをつぶやくフォンダ。

 物語の進行とともに、これがかれじしんの肖像にほかならないことがわかってくる。じっさい、彼が迎えに来た女性はすでに町を後にしていた。

 クライマックスのリンチ場面においてもかれは一介の傍観者的な立ち位置にとどまることを強いられるだろう。ほかのすくなからぬウェルマン作品どうよう、主人公は物語の終わるまで目前の状況にたいして絶望的なまでに無力なままである。

 牛の盗難および持ち主殺害の知らせが酒場にもたらされると、保安官不在のままたちまち犯人狩りの一隊が組まれ、総勢二十八名による山狩りがはじまる。

 山中で偶然、昔の女(メアリー・ベス・ヒューズ)に再会するも、すでに人妻となっていた彼女に主人公は手を出すことができない。

 偶然そこに野宿していた三人連れ(ダナ・アンドリュース、アンソニー・クイン、フランシス・フォード)がたちまち犯人に仕立て上げられる。

 裁判にかけるか否かが有無を言わせぬまま多数決にかけられ、フォンダら七名の反対を押し切ってリンチが決行される。

 リンチは画面外で進行し、ことが済んだあとで吊るされて揺れている死体の影だけがちらっと映る。

 揚々と引き上げてきた一隊はかれらを探しに来た保安官から被害者が生きており、真犯人が捕まったことを知らされる。保安官はその場で保安官補を解任し、一同を無罪放免とする。

 気弱な息子を男にするために無理やり人間狩りに引き立てていった自称元南軍大佐(フランク・コンロイ)は、息子になじられ自殺する(やはり閉ざされたドアの向こうでことが起こる)。

 バーのカウンターに意気消沈した一隊の面々が無言のまま並んでいる。リンチの犠牲になった男(ダナ・アンドリュース)に託された手紙をフォンダが一同に読んで聞かせる。

 そこには家族への愛情と法の超越的な力への一途な信仰が綴られていた。「法を無視した者はそれによって生涯くるしむであろう」との一節に一同の顔は凍りつく。

 手紙を読むフォンダの目は、画面手前に写り込んだヘンリー・モーガンの帽子の庇に隠されて観客には見えないようになっている。

 それによって主人公の心のうちをみずから想像することを観客は強いられるのであり、手紙のメッセージが生身の人間を超えた超越的な存在の声のように響くことになるのだ。

 俯いたまま身動きもできないでいる一同を残して、フォンダはそのまま酒場を出て行く。あわててついてきたモーガンが問いかける。「これからどうする?」「手紙を未亡人に届けねば。子供たちを世話する者も必要だろう」。

 くだんの坂道をふたたびゆっくりと上って行く馬上の二人のロングショットにフェイドアウト。THE END

 実際の事件に取材したというウォルター・ヴァン・ティルバーグ・クラークなる作家の原作を、『プリースト判事』『周遊する蒸気船』『若き日のリンカーン』『モホークの太鼓』といったジョン・フォード作品で知られるラマール・トロッティが脚本化。

 西部劇にしてはセリフが多く、舞台劇的な印象。予算の少なさをごまかすための窮余の策でもあるだろう。映画のほとんどが進行する舞台となる山中は低予算まる出しのシンプルこのうえないセットであるが、それが皮肉にも状況そのものの閉塞感をいやがうえにも際立たせる効果を出している。

 フォンダはこの十数年後、同じくきわめてディスカッション・ドラマ的な『十二人の怒れる男』においてまったく同じような役回りを演じることになるだろう。

 本作はクリント・イーストウッドのフェイバリット西部劇の一本である。『硫黄島からの手紙』が同じように手紙の朗読で終わっていることは偶然ではないだろう。

 ウェルマンは原作を読んでただちに映画化を心に誓った。およそ金になりそうのないこの企画に興味を抱いたのはダリル・ザナックだけであった。こういう野心的な作品のクレジットにじぶんの名前を掲げたいといういかにもザナックらしい見栄からではあったようだ。結果はもちろんヒットとはほどとおかった。ウェルマンは本作を撮る見返りとして気の進まない企画をいくつか手がけることを余儀なくされた。

 『怒りの葡萄』の母親役ジェーン・ダウェルが血に飢えた女傑をサディスティックに演じるという意表を突くキャスティング。リベラルな法治主義者役でハリー・ダヴェンポート。そのほかどれも一癖あるバイプレイヤーたちが脇を固める。

 撮影はフォックスの重鎮アーサー・ミラー。わずか75分の尺のなかできわめて密度の高いドラマが展開する。