Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

リアルタイムの『マッドメン』:『その場所に女ありて』

2012-08-06 | 鈴木英夫
 鈴木英夫の『その場所に女ありて』(1962年、東宝)。

 司葉子が広告ウーマンを演じる。ライバル会社のやり手広告マンに宝田明。

 タイトルバックは銀座あたりの街頭を写したモノクロのスナップショットがつぎつぎと映し出され、カラフルな文字でクレジットが入るというしゃれたもの。

 びっくりしたのは、オフィス内のようすにしろ、人間関係にしろ、あるいはファッションにしろ、ドラマ『マッドメン』そっくりだということ。あれも60年代の広告業界を描いていて、広告マン、広告ウーマンたちが戯画的なまでにぎらぎらと野心的に描かれ、不倫だのなんだのといった通俗的なエピソードをこれでもかとぶちこんでいた。

 逆にいうと、『その場所に女ありて』はテレビドラマ用の素材としていいんじゃないか。男言葉の同僚と自殺した同僚の関係とか、高利貸しをしているメガネ女のエピソードなんかは、もっとふくらませてもおもしろいだろう。てっきり連載小説かなんかが原作になっているのかとおもったくらいだが、ちがった。

 高度成長期のこと、広告業界は当時、花形の職業だったんだろう。そういえば、同じく広告業界を舞台にした“ブレイク”・エドワーズの『酒とバラの日々』もたしか同じ年の作品である。この作品でも、広告業が虚飾の象徴みたいに見なされていたと記憶する。(広告業をこういう文脈で使った傑作は『北北西に進路を取れ』だろう。)

 とにかく司葉子がかっこいい。まっすぐな視線、ハイヒールを美しくはきこなし、緋牡丹お竜のように颯爽と啖呵を切ったりするのにしびれる。部屋に入ってくるなり、わき目もふらずにライバル会社に寝返った同僚のところにつかつかと歩み寄ってくるところなんか、自分が裏切り者になった気がしてびくびくしてしまった。

 未練たらたらの宝田明に別れの言葉をつきつけるラストなんかもすばらしい。また会ってくれと電話してくる男に、どこかでばったり会ったらお酒でも飲みましょう。笑い話にしてもいいわ。じゃ、お元気で。さようなら。え?……さようならって言ったのよ。

 最後の台詞でふりかえる司にカットインしてアップになるときのわずかなアクションのだぶりが効いている。受話器をゆっくりと置く女。人前で別れ話するの?と驚くも、まわりにいるはずの同僚はいつのまにかいなくなっているというしゃれた演出。

 宝田明はいちばん戯画的に描かれているキャラクターだが(ぎらぎらときもちがわるい)、この男、商談にしろ別れ話にしろ、なんでも公衆電話で済まそうとする。なんでも電子メールで事が足りるとおもっている半世紀後のばかな若者をみごとに予告しているなあ。

心境小説+ネオレアリズモ+ヒッチコック:『蜘蛛の街』

2012-08-05 | 鈴木英夫
 鈴木英夫の『蜘蛛の街』(1950年、大映)。

 鈴木英夫の二作目。宇野重吉と中北千枝子の若夫婦。たがいに「ろくちゃん」「つるっぺ」と呼びあう。おさない息子がいて、宝物のようにかわいがられている。島尾敏雄か葛西善蔵かなんかの小説に出てきそうなつつましい一家。

 あるいはデ・シーカとかピエトロ・ジェルミの世界をおもわせなくもない。とくにかれらの住む団地とその周辺は、同時代のイタリア映画でよくみるのとそっくりな風景だ。団地に隣接する土手とか子供がいつも遊んでいる建設現場の描写がリアル。このへんはセミ・ドキュメンタリーふうのスタイルで注目された監督ならではのタッチが光る。

 勤めていた会社が倒産した夫はサンドイッチマンになり、ひたすら繁華街を歩きまわっている。昭和の東京の街頭のようすがなまなましくキャメラにおさめられていく。

 犯罪組織がかれの姿に目をとめ、スカウトする。小市民が犯罪にまきこまれるというおなじみのヒッチコックふうサスペンス・ドラマ。歓楽街の描写や団地周辺の逃走場面のヴィジュアルがたまらなくノワール。

 犯罪組織のボスが小心な常識人だったりするのも妙にリアルで、血気にはやる手下を始終いさめていたりするのが微笑ましい。三島雅夫のキャラをうまく活かしてる。『東京物語』は翌年の出演作。

 音楽に伊福部昭。タイトルバックの音楽がいきなり『ゴジラ』(1954年)そっくりでびっくり。そのほか、美術に木村威夫がクレジットされている。