Negative Space

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ツイン・ピークス・ノー・リターン:『ツイン・ピークス The Return』

2018-03-29 | ドラマ






 デヴィッド・リンチ「ツイン・ピークス The Return」(2016年)


 オリジナルシリーズから四半世紀の月日が経ち、功成り名遂げたセレブなアーティストとなったリンチにはやりたい放題が許されるようになった。

 難解さはもはや野心の高さというよりは安心できるブランドイメージをしかいみしない。

 光量を落としたテレビらしからぬライティングの多用が目を引くが(本作はなによりもまずフィルム・ノワールであることをおもいだそう)、ブラウン管時代ならさておき、解像度がすばらしく上がっているきょうびの受像機をかんがえれば前衛的でもなんでもない。

 ぐっとハイブラウでアーティーになったぶん、オリジナルシリーズを彩っていたソープオペラ的な要素は薄まっている。

 このスタイルをストイックにワンシーズン貫いたのは天晴れだが、“映像作家”としての文体をつきつめて純化させる見返りとして、『The Return』は連続ドラマとしての豊かさの同義語であるいわば“雑味”をうかつにも洗い落としてしまった。

 俺にとってオリジナルシリーズはこれまでにもっとも入れあげた“海外ドラマ”でありつづけている。

 ただし俺にとっての「ツイン・ピークス」は、ファーストシーズンの幕切れ、すなわちもっとも感動的なキャラであったリーランド・パーマーの死とともに終わってしまった。

 “リーランド・ロス”に陥った俺は、クーパーと狂気の上官との対決にヘザー・グレアムとの安っぽいラブストーリーが絡むかなんかのセカンド・シーズンには最後までノレないままだった。

 『The Return』にはオリジナルシリーズ(もはや通して見直す気力はない)の懐かしい面々が顔を揃える。

 マイケル・オントキーンとララ・フリン=ボイルの不在は寂しいかぎりだが、クーパーもアンディもルーシーも“ローラ・パーマー”さえも、その面影は意外なほどに昔のままだ。ホークの精悍さには渋みのある貫禄が加わった。

 ミゲル・ファラーの頭髪の薄さは従弟のジョージがまだ無名だったあの当時そのままだが、その人格はかなり丸くなり、かつてのむちゃくちゃな毒舌は影を潜めている(御大演じる上官ゴードン・コールのお守役がすっかり板についてしまった)。

 ウェンディー・ロビーとエヴェレット・マックギルの変態夫婦ぶりはオリジナルシリーズの最大の見所のひとつであったと記憶するが、出番もすくなくなり、ずいぶんとアクが抜けてしまった。

 丸太オバサンはつねに同一のアングル、同一の暗い照明によるショットでしか登場しないが、前作と同じ女優が演じているはずだ。

 メッチェン・エイミックは年相応に贅肉がついてキツネ目の度合いが増した(たいして娘役のアマンダ・ゼイフライドは日野日出志の漫画の登場人物みたいな目玉の持ち主だ)。

 ペギー・リプトンはオリジナルシリーズにおいてその瞳にたたえていた神秘的な深みさえ消えたようにみえるが、どうみても七十路とはおもえぬほどの若々しさを保ち、てっきり別の似た女優にバトンタッチしたものと思い込んで勝手に落胆してしまっていたほどだ(いまでも一抹の疑いが消えない)。

 そのリプトンがすこし気をもたせたあとで長年思い合ってきたエヴェレット・マックギルに求婚し接吻をあたえる場面は新シリーズ中でもっとも幸福感にあふれた一幕であり、涙なくしては見られない(「俺はあまりにも長いあいだお前を愛してきた……」と歌うオーティス・レディングをバックに、薄雲が刷毛を引く爽やかな青空のショットがその余韻をしばし引き継ぐ)。

 オリジナルシリーズきってのファム・ファタールにしてディーヴァというべきシェリリン・フェンにいたっては酷いまでにオバサンと化してしまった(かのじょはどこかにすてきなほくろがなかったか知らん)。

 てっきりもう聞けないものと思っていたかのじょオードリーのテーマ曲がシリーズ終盤、第16話の幕切れに至ってニューアレンジで突然奏されるところは新シリーズ中でもっとも驚きにみちた瞬間だ。

 ローラに捧げたシンプルな曲をステージで再演するジェームズの高音の歌声も心にしみる……。(以上の条りには歳月の経過ゆえのとんだ記憶ちがいがまじっている可能性大いにあり。)

 青春時代は去った。『The Return』はもじどおりかれら“帰還者=幽霊”たちのものがたりである。舞台はいまや俗界を離れてスピリチュアルな空間(くだんの Red Room?)へと移動し、世俗のしがらみから解き放たれた物語はフィルム・ノワールにやつした聖杯探求(“Lancelot Court”)の旅路を一直線に突き進む……。

 新シリーズのコンセプトをさしずめそんなふうに要約できようか?

 宜しい。しかしハリー・ディーン・スタントンがもちまえの存在感にどんなにものをいわせ、ナオミ・ワッツや裕木奈江がどんなに熱演してみせたところで、オリジナルシリーズに匹敵するような魅力的な新キャラをただの一人もクリエイトできなかったという厳然たる事実は否定できない。

 俺的には、たとえば周囲の誰からも“寒がられる”検死官の見せ場をもっとつくってほしかった。

 それいじょうに、もうちょっと若い世代に花をもたせてやってもいいのではないか?

 なんでもありの予定調和的なリンチワールドと死臭ただよう過去への郷愁が『The Return』のいっさいである。

 郷愁そのものがいわばシリーズの中心的なテーマであり(ローラ・パーマーが象徴するものにたいしてひとつのコミュニティぜんたいが無意識のレベルで抱くことになるそれだ)、シリーズがリンチにとっての「失われた時」であることはさておいて。

 やはりあの「ツイン・ピークス」は帰ってこなかった。全18話をさいごまでみるにはよほどの忍耐力が要る。ただし「スターウォーズ」に飽き足らない子供の視聴者は目を輝かせて食いつくことだろう。リンチもさいしょからそれを見込んでいたのではないか?


あはれ令嬢女優之貞操危機壱發之巻:『四つの恋の物語』『怒りの街』

2018-03-28 | 成瀬巳喜男





 成瀬巳喜男、豊田四郎、山本嘉次郎、衣笠貞之助『四つの恋の物語』(1947年、東宝)

 東宝争議の渦中で製作されたオムニバス映画。小國英雄の脚本を頂く成瀬篇は翻訳劇調の作為がめだつ。サザエさんふう終戦時パアマネントにやけっぱちで安白粉塗りたくった木暮実千代はアゴのシャクレばかりが目立ち貧相。部屋で年下の燕(存在感ゼロの某沼崎勲)と別れ話する小暮と、その向かいに位置するらしいうらぶれたバアでその首尾を伺いつつ待機する小暮と燕それぞれののちぞい候補(菅井一郎、竹久千恵子)とをカットバックでみせる。

 スザンネ・シェアマン『成瀬巳喜男 日常のきらめき』(キネマ旬報社)によれば、ロングテイクのほか、構図のつくりかたに成瀬らしさがみえるが(あるカットでは貧しい新聞売りの竹久と虚飾に染まった水商売の女性・小暮との分身性を暗示)、概して凡庸。

 むしろ見ものは劈頭におかれた黒澤明脚本による豊田四郎篇か。これは久我美子のデビュー作となる。遠方に出向した父の同僚(志村喬)の家に滞在することになった女学校生徒(久我)とその家の息子のバンカラ高校生(池部良)のあいだに兄と妹のような絆が芽生えるが、その感情はやがて淡い恋へとかわっていく。

 素人くささも含めて躍動感あふれるおきゃんな久我の演技に目を奪われる。『春の目ざめ』で高校生に唇を奪われることになる久我だが、ここではふとした好奇心に駆られた池辺に胸を触られる。このあとふたりの関係はぎくしゃくしたものになり、ほどなく別れのときがおとずれる。

 夕日がまぶしい縁台で顔を涙でびしょびしょにした久我が「試験が終わるまで会わないと約束して」とすがるように池部に訴える。久我にうつつをぬかし勉学がおろそかになった息子を危惧した母親(杉村春子)が「女親の嫉妬のようなもの」(杉村じしんが口にする!)もあってふたりを引き離したと説明されるが、それでなくともふたりの関係がもとにもどることはないだろうことが言外に暗示される。

 物干しに忘れられ、風に寂しく揺れる久我のシュミーズをとらえた池部のPOVショットにフェイドアウトして幕。

 この挿話はもともと阿部豊が演出することになっていたが、阿部が東宝をおん出て新東宝に移ったために豊田にお鉢が回ってきたらしい。

 久我はそのごも成瀬作品につづけて出演するが、二年後の『不良少女』を経てその翌年に発表された『怒りの街』でも、ポマードべたべたの大学生(原保美)に金品を騙し取られたうえ貞操まで奪われそうになるという役どころ。どうやら終戦後の[すべてに]飢えた学生らのもっぱらの欲望のはけ口とされていたらしき感さえ伺える。

 セミドキュメンタリーふうにうつしとられた終戦後の街の風景はそれなりに興味ふかく(撮影は玉井正夫)、光クラブ事件に影響された二人のエリート大学生が金持ちの女たちを騙して金を巻き上げるという丹羽文雄の原作も題材としては面白いが(ラスコーリニコフふうの大学生を演じる宇野重吉はすでに三十代半ば。さすがに学生服姿が滑稽)、いかにも消化不良。音楽・伊福部昭。キャストはほかに東山千栄子、村瀬幸子、若山セツ子(『四つの……』山本嘉次郎篇)、木匠久美子(『春の目ざめ』)、志村喬、木村功、菅井一郎。



颱風倶樂部:成瀬巳喜男の『春の目ざめ』

2018-03-26 | 成瀬巳喜男




 成瀬巳喜男「春の目ざめ」(1947年、東宝)

 
 どことも知れない地方の町(とりあえず東京弁が話されている)。中高生らが“春の目覚め”に悶々とする。

 成瀬も参加した同年のオムニバス映画『四つの恋の物語』でデビューしたばかりの久我美子が入浴シーンをふくめた感動の体当たり演技(?)をみせる。

 中高生らの心の(下半身の?)もやもやを象徴するように、ある場面では永遠の雨が降り続いていたかとおもうと(「あたまがおかしくなる!」)、別の場面ではにわかに空がかきくもって風鈴がせわしなく鳴り響き、たちまち豪雨が降りこめる。

 厳しい家庭に育つヒロイン。恋人をつくった女中が暇をだされたことをきっかけに無邪気だったその表情にものおもわしさがくわわるようになり、仲のよかった妹を疎んじるようになる。

 おりしも学校で「とってもいやらしい」絵が発見され事件になっていた矢先、親に内緒で出かけたハイキングで親友に盗み撮りされた幼馴染の少年とのツーショットが教師にみつかり、親が呼び出されて叱責されるにいたって(叱責の場面は巧妙に省略される)、ますますふさぎがちになる。

 仲のいい芸者屋の娘(身体検査の場面で同級生らに豊乳をからかわれる)が宴席で客にセクハラを受けたり、下宿屋の娘である同級生が下宿人の子を宿すにいたって、幼馴染にたいする無自覚だった恋心に罪悪感を抱きはじめる。

 勉強を教えてもらっていた高校生に礼を言おうとかれが一人で絵を描きに行っていた山寺に赴くと、ふとしたはずみでかれに唇を奪われる(ことがおこるまでのサスペンスフルな演出が見事だ。かれの「裸体画」にたいする関心やヒロインへの視線といった伏線の張り方もわるくない)。

 帰宅後、明かりもつけない部屋で手拭いでなんども口をこするその目には思春期とくゆうの狂気じみた影が宿る。

 思いつめた表情で母親(杉村春子)に「子供はどうやって生まれるの?」と問うが、「それを知るには若すぎる」云々ののらりくらりとしたこたえに「じゃあ、ほかのひとに聞く」。部屋を出て行こうとするヒロインを慌てた母親が止めると、振り向いて母親の逃げ場を塞ぎ、パニックの体でさらに同じ問いをたたみかける久我のアップの連続はただならぬすごみを帯びる。

 同室で勉強している妹が布団の上に座ってぼんやりしているヒロインに「犬は dog、馬は horse、じゃあうさぎは?」と質問すると、「子供はうるさくていやあね」と突き放す。むっとした妹が「じゃあ、お姉さんは大人なの?」と返すと、狂気じみた笑いの発作に襲われて布団の上を転げ回る。いつなんどき号泣に反転するかもしれないヒステリックな笑いがいつまでも尾を引く。インサートされる曖昧な表情のアップはハッとさせるような色気を帯びている。

 ヒロインの唇を奪った画家志望の少年からの葉書のアップ。もとからきめていたとおりに少年は修行のために東京へ旅立っていた。

 ラストは幼馴染をふくめた親友らが赴いたキャンプ地にヒロインが遅れて到着する場面。水浴中の親友らがとおくからかのじょをすがたをみとめて名を呼ぶ。白い大きな帽子の縁で枠取られたヒロインの満面の笑みがそれにこたえるアップで幕。

 余計な説明の一切ない鮮やかな幕切れ。ラストでヒロインを水辺に佇ませるのは遺作『乱れ雲』を想起させ感慨ふかい。

 ヒロインの幼馴染は医者の息子。志村喬演じる父は息子とヒロインとの関係に気づいている。ある晩、塞ぎがちな息子の部屋に上がってきてズバリ『性医學』という書名の本を手渡し読むように言う。おまえはすでに知っておいてよい年齢だ。だれかをすきになるようなことがあったらわたしに相談にくるといいよ……。

 そわそわと懐を探るようすに息子が「マッチですか?」と気遣うと、「いや、いいんだ。下にまだ用があるから」とそそくさと退室する父。このあたりのフォローの呼吸が父=医者の理想主義をいささかも不自然に感じさせない。

 下宿屋のおかみがくだんの娘の堕胎をかれに泣いて頼み込んでも、かれは頑として首を縦に振らない。「でもこのままじゃ娘が不幸になるばかりです」「不幸になるときまったわけではない。不幸にならないようにしてあげるのが大人のつとめではないですか?」

 診察室に降りてきて息子はヒロインへの愛情を父親に告白する。「はなしてくれてありがとう。ただしいまのおまえにはこのことがすべてではない。からだを鍛えてしっかり勉強にうちこむんだね。休暇はどうするんだい?……仲間とキャンプか。それはいいね」

 腹痛を起こしたヒロインの妹の往診にきた医者は、ヒロインの両親に向かって、時が来たらひつような情報をあたえ、子供らが健やかな精神状態で思春期を通過できるように大人が適切に導いてやるべきだという健全な介入主義を持論として述べる。

 昨日だかの新聞でよんだが、都内のある中学校でおこなわれた性教育の授業で、安易な性交をいましめる内容を教育委員会が問題視し、議論が起こっているという。「月経」や「射精」は教えても、「性交」は教えてはいけないことになっているそうだ。いまだにこんなレベルにとどまっているわが国の性教育の実態に照らせばずいぶん進歩的な映画である。

 故田中眞澄は「戦後少年少女の生態に警鐘を鳴らす意図だろうが、抒情の勝った甘い作品になって、その分現実から遠ざかり、社会性が後退した」(『映畫読本 成瀬巳喜男』)などと評しているが、いったい本作の何を見ているんだろうか?

 思春期の生理を生々しく描いた作品として相米慎二のあるしゅの作品を先駆けるような佳作というべきだ。マイナーな成瀬はつくづく掘り出し物だらけである。

 脚本は成瀬と八住利雄。キャストはほかに飯田蝶子、村瀬幸子ほか。


サイドウェイ:『15時17分、パリ行き』

2018-03-16 | その他






 クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』(2017)


 冒頭、バックパックを背負った男が駅のエスカレーターを上がる後ろ姿を映し出すドリーショット。顔は映らずとも髪と髭の毛質の硬さでアラブ人=テロリストであることが即座に示される(このへんの描写は反動的なイーストウッドらしい)。手すりをつかむ手、歩く歩道を進むスニーカーのアップなどがスピーディーにモンタージュされる。

 車輌にのりこむ乗客らのすがたにまじって、丸太のような毛深い腕でカートを引っ張るむくつけき若者らの姿がそれとなく映り込み、これが正義の味方のアメリカ人トリオであることが観客にはすぐわかる。

 画面が暗転し、朗らかな日差しのなかをドライブする三人組の映像に繋がる。アフリカ系のアンソニーのナレーションによって、トリオ誕生の馴れ初めを物語るフラッシュバックが導入される。

 舞台はサクラメントのミッションスクールへ。なるほど、ご丁寧にここから語りはじめるわけなのね、とクライマックスまでの遠いみちのりが早くも予想されて軽い嘆息が漏れる。

 コーカサス系のスペンサーとアレクの母親(そのすくなくともいっぽうはシングルマザー)は狂信的なクリスチャンながら、バカすぎて公立を追い出されたらしきことも息子らじしんの会話からほのめかされる。

 というわけで、『ミスティック・リヴァー』や『ジャージー・ボーイズ』みたいな悪ガキらの友情をえがく既視感たっぷりのシークエンスがしばしつづく。

 なにげない教室の場面で一瞬だけテロのショットがフラッシュ的にインサートされる。フラッシュバックとリアルタイムの列車内のシーンをカットバックで語っていくとはいかにもイーストウッドだな。とおもいきや、こうしたフラッシュは(たしか)あとにもさきにもこの一度だけで、おおいに肩すかしをくう。

 軍隊オタクのスペンサー(アレクだったか?)の部屋には『フルメタル・ジャケット』や、ちゃっかり『父親たちの星条旗』(『硫黄島からの手紙』だったか?)のポスターが飾られている。

 念願叶って軍隊入りしたスペンサー(うすのろ顔のほう)の母親は、旅立つ息子に尋常ならざる出来事がかれを待ち受けているとお告げを受けたと狂信的な顔つきで言い、息子を涙で送り出す。

 アフガンに派遣されたスペンサーだったが、いまや世界の目はもっぱらシリアとISに注がれており、暇をもてあます。スカイプで欧州勤務のアレクとヴァカンスの相談。

 このあと、垢抜けない南部の三人組がヨーロッパ各地で物見遊山にふけりひたすら浮かれさわぐようすがなんと延々30分いじょうにわたって映し出される。

 とりあえずローマで合流したアンソニーとスペンサー。高台からローマの市街を一望しつつ、スペンサーはじぶんが運命に向かって運ばれていくような気がしていると呟く。傍らのアンソニーは「いま吸ってるそれはマリファナか?」と茶化す。

 その頃アレクはドイツで昔のガールフレンドと旧交を温めている。なんでもかれの祖父が第二次大戦中にドイツのその街で戦ったという。で、アレクのほうもいっしゅの運命を悟って感慨にふけっている。

 というわけで、いつになく説明的な台詞によっていつものイーストウッド流運命論哲学が披瀝される。

 アムステルダムでついに三人が揃い踏み、ことのほかはちゃめちゃな一夜を過ごした翌朝、運命の列車に乗り込む。

 映画の前半ですでに映し出されていたテロ発生の瞬間がここでさらに念入りにくりかえされる(テロリストがトイレの鏡でじぶんの顔をみつめる、という主観ショットまで出てくる)。

 で、肝心の捕物の場面は意外にもあっけなく、短い。サスペンスたっぷりに描かれるだろうという大方の観客(筆者もおなじ)の期待は見事なまでにはぐらかされる。

 ラストはエリゼ宮にてのオランド大統領によるレジオン・ドヌール授与の一幕がアーカイブ映像と再現映像の巧妙なモンタージュによって見せられる。

 エンディングクレジットの途中で、サクラメントでの凱旋パレードのドキュメンタリー映像が流れる。『父親たちの星条旗』における写真のモンタージュみたいだ。

 というわけで、だれもが“その時”に至るのを待ち望んでいる運命のラストに向かってもじどおり猛スピードで疾走する黒澤リスペクトの手に汗握る鉄道サスペンスアクション、みたいなものを期待していたが、ただの一度も途中停車することなくしかもあの手この手を尽くして目的地までの道のりをおもいっきり遠回りしてみせるというもじどおりの“サイドウェイ”みたいな極限までスローな映画なのだった(いわばこれ以上速度を緩めると自転車ごと倒れてしまいそうなほどに)。

 なんとも人を食った映画であるが、“運命”への道はノンストップでまっすぐでありながらもこういうふうに長くて曲がりくねっているんだよ、とゆうのが御大のたどりついた境地なんだろう。齢九十になんなんとする老人にないものねだりをしてもしかたがない。

 世界的に批評家の受けが芳しくないらしいが、かの国のモラリスト、モンテーニュもまっさおのこの大胆きわまりない脱線と迂回の離れ業に喝采するかイラつくだけかが評価の分かれ目だろう。

 『ハドソン河の奇跡』どうよう実際の事件に取材して市民のヒロイズムをうたいあげている。『父親たちの星条旗』どうようスターはひとりもでてこない。主役のトリオはとても素人俳優とはおもえないほど堂に入っている。全篇キャメラが軽快によく動く。暗い画面のスペシャリストであるトム・スターン(「AFC、FSC」とのダブルクレジット)は燦々たる南欧の光をもてあましているようす。本作が西部劇の徴の下にあることは『決断の3時10分』(3:10 to Yuma)をいただいたタイトルからもあきらかだろう。