Negative Space

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40歳の童貞男×2:『俺たちステップ・ブラザース -義兄弟-』

2018-02-01 | その他




 アダム・マッケイ『俺たちステップ・ブラザース -義兄弟-』(2008)

 それぞれ39歳と40歳のニートの息子をもつ片親どうしが一目惚れして即ファック、再婚へ。同じ屋根の下に暮らすことになった息子たちが自宅前でライバル意識むき出しでにらみ合うショットにタイトルの文字がかぶさる。

 プロデュースはジャド・アパトー。40歳の童貞男を二人登場させれば二倍おもしろくなると考えたわけでもなかろうが、アダム・マッケイ(名前からしてアイリッシュ系か?)が演出するとユダヤ流の晦冥さとナンセンスをとくちょうとするアパトーの世界もひたすら天真爛漫で単純明快なコメディーにおさまってしまうようで、むくつけきメタボ義兄弟のウィル・フェレルとジョン・C・ライリーがもじどおりの「子供」を演じるというおかしさ(可笑しさ)あるいはキモさによっていまのアメリカであればじゅうぶんにありうる設定じたいのおかしさ(異常さ)あるいはキモさを覆い隠す結果に終わってしまっている。たとえばの話、アパトーが監督していたら、むしろリアリズムによってキモさを表現したのではないか。

 義兄弟らは父親の宝であるヨットを壊した科で家を追い出され、自立してそれぞれプランナー、料理人としての才能を発揮するようになるが、社会に順応することでゾンビ化したかれらを哀れんだ親たちはかれらの「子供」の心をとりもどしてやるべく家に呼び戻す。めでたしめでたし。

 社会的な成功者であるイヤミな弟が落伍者の主人公に対置されるという図式はアパトーじしんの『無ケーカクの命中男/ノックトアップ』や『ファニー・ピープル』(aka『素敵な人生の終り方』)とおなじだが、義兄弟がとつぜん職業的に成功する必然性はまったく説明されず、子供の純真さに人間の理想をみるというルソーふうのロマン主義は如何ともしがたく、社会批判にも何にもなっていない。

 同じウィル・フェレルが出演しているベン・スティーラー(いまひとりの偉大なユダヤ人コメディアン)の『ズーランダー』は、歴史上のいくたの暗殺事件に職業的なファッションモデルが関与してきたという偽史に説得力をもたせることに成功している。あるいみでモデルにひつようとされるのは主体性ではなくカメラマンの指示に正確にしたがうことのできる能力だ。そのかぎりでモデルとは究極のイエスマンであり、ゾンビである。ズーランダーがトップモデルでありえたのはかれがそうしたいみでの“おバカ”の権化であったからだ。ズーランダーはフェレル演じるファッション界の黒幕による洗脳を脱し、テロを防ぐが、それはかれがトップモデルの座をオーウェン・ウィルソン演じるライバルに奪われたという事実に呼応している。

 ファッション業界の搾取体質へのダイレクトな批判をふくめて『ズーランダー』は現代の資本主義社会と正面から切り結んでいる。コメディーの良し悪しを分ける分岐点がそこにある。

 『俺たちステップ・ブラザース –義兄弟–』の最大のみどころはたまらなくチャーミングなメアリー・スティーンバーゲンの母親役だ。若い頃はばかに老けていた女優だが、年齢を重ねて逆に若々しくセクシーになった。