Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

第七の封印:『七人の無頼漢』

2015-05-09 | バッド・ベティカー


 ウェスタナーズ・クロニクル No.23

 バッド・ベティカー『七人の無頼漢』(1956年、バットジャック・プロダクション)


 バート・ケネディー、ランドルフ・スコットとのトロイカ体制(?)による記念すべき第一作。

 アンドレ・バザンが(『裸の拍車』および『捜索者』にならぶ)戦後最良の西部劇ともちあげていわば殿堂入りした作品だが、あくまでつつましい小品である。

 雷鳴とどろく豪雨の荒野。サボテンの影から人影がフレームイン、灯りの漏れる洞窟に入っていくのを追うトラッキングショット。そこを一晩のねぐらと定めた二人の男がコーヒーを啜っている。警戒する男たち。各々がセルフサービスで注ぐコーヒーをおかわりしながらしばしの談笑。馬はもたないのか? 先住民に取られて、かれらの胃袋におさまった……。正体がばれそうになったお尋ね者が拳銃を抜くが、一瞬遅かった。洞窟の外で、繋がれた馬が銃声に驚いて暴れるショットにカットバック。幕。ランドルフ・スコットが復讐の銃弾を打ち込むところは画面に映らない。ノワールの香りもゆたかなオープニング。

 ラストでリー・マーヴィンを射つところでもスコットが銃を抜くところは見せない。早撃ちのマーヴィンとライフルを杖代わりにして死神のように仁王立ちしたスコットの切り返しがしばしつづく。銃声とともに緑のスカーフ(マーヴィンみずからの調達)を血に染めて立ちすくむマーヴィン。両手は腰の銃に届いてさえいない。マニエスティックなコレオグラフィーとともに金庫を後ろ手で抱きかかえるようにしてくずおれるマーヴィン。短銃を手にしたスコットがよろよろとフレームインして、画面奥の岩に腰をおろす。

 「まるで保安官が拳銃を発射するのがあまりに速すぎて、カメラが正面から撮影するための時間がなかったかのようだ」。この省略技法に「ユーモア」をみてとったバザンはただしい。やがてセルジオ・レオーネの映画がそれを証明してくれるだろう。レオーネはある映画祭で出会ったベティカーに、「わが友バッドよ、わたしのしていることはぜんぶあんたの真似なんだ」と言ったとか。バザンによれば、このユーモア(ないしアイロニー)は、映画作家が登場人物にたいする敬意ゆえにとる距離であり、この距離こそが『七人の無頼漢』を「もっとも知性的な、ただし同時にもっとも知性主義的ならざる西部劇」にしている。

 ゲイル・ラッセルの水浴シーンでも省略が効果的につかわれている。いまひとつの潜在的なラブシーンでは、幌馬車の床を隔ててスコットとラッセルが「同衾」する(『或る夜の出来事』?)。このラブシーンを必然化するのは雨である。オープニング・シーンの雨というモチーフがここでまた再利用される。

 オープニング・シーンのコーヒーという小道具もシステマティックに作品に組み入れられている。先住民の訪問を受ける場面では、ゲイル・ラッセルが手にしたコーヒーポットを落とすリアクション・ショットによって画面外の訪問者の到来を告げている。スコットは先住民が食糧をもとめていることを悟り、馬を譲って帰らせる。あるいはコーヒーは、狭い幌馬車のなかでスコット、マーヴィン、ラッセルとその夫(何本かのフォード作品に出演したウォルター・リード)が会話する白眉の場面でも重要な役割を演じる。手渡されるコーヒーと四人の人物のあいだに高まる緊張とのコントラストが、絶妙の編集とあいまって、効果を上げている。この場面は本作の真の主役マーヴィンの最大の見せ場("Do you want to hear the rest of the story?")。

 バザンは風景のナラティブな効果および馬のフォトジェニーを最大限に引き出していることを評価している。
 
 アンドリュー・サリスによれば、ベティカーの西部劇は「かつは寓話的なオディッセー、かつは結末のしれないポーカーの勝負としてくみたてられている。幕切れにいたるまで、すべての登場人物が手のうちをさらしては豹変をくりかえす」

 『聖なる映画』の著者でもあるポール・シュレイダーは、スコットのポーカーフェイスにブレッソンのジャンヌ・ダルクを重ね見ている。ベティカー研究者 Jim Kitses は、ベティカーを小津やチョーサーになぞらえる(身体性と精神性の共存??)。

 バート・ケネディはこれが脚本家としての第一作。もちまえのユーモアと含蓄にみちた台詞術がはやくも冴える(Some things a man can’t ride around…., I'm obliged to your concern..., I'd hate to have to kill you. ―― I'd hate to have you try...)

 ジョン・ウェインのプロダクションBatjacの手がけた作品。製作の一人としてアンドリュー・V・マクラグレンがクレジットされ、撮影は巨匠ウィリアム・H・クローシア。ゲイル・ラッセルの起用も共演歴のある友人ジョン・ウェインのはたらきかけによるものであるようだ。というわけでいろいろないみでマブダチ、フォードの兆しのもとにある作品。



メイミー・ストーヴァーのあこがれ:『流転の女』

2015-05-06 | その他


ラオール・ウォルシュ『流転の女』(1956年、ワーナー)

 夜の港に到着する一台の車。警官にともなわれて降り立つジェーン・ラッセル。ふりかえり、キャメラをにらみつけるアップ。けばけばしい赤字のタイトルがかぶさる。「メイミー・ストーヴァーの反抗」。タイトルが流れるあいだ、スーツケースを提げ、背筋をのばして梯子をわたり、乗船するラッセルをキャメラが追う。

 自己検閲によってちょくせつそう名指されてはいないが、かのじょは娼婦で、街を追放されたらしい。船内でリッチでハンサムな若手作家(『ペルシャ大王』のリチャード・イーガン)と出会い、恋心を抱くが、かれにはフィアンセがいた。

 降り立った街で、アグネス・ムーアヘッドが仕切る水兵相手の娼館(それと名指されてはいない)ではたらきはじめるラッセル。したたるようなブルーのドレスでフラナンバーの一節を踊り歌うシーンはうっとりするほどすばらしい。店でイーガンと再会するかのじょ。イーガンはかのじょのためにフィアンセを袖にする。

 戦時の混乱に乗じて不動産で荒稼ぎするラッセル。かのじょは病的な金の亡者だが、不幸な生い立ちゆえあらかじめ奪われた社会的地位を金を稼ぐことで得ようとしている。「男性映画」の撮り手としてしられるウォルシュは何本かのいわば女性映画の秀作を手がけている。これはその一本。メロドラマだが、メロドラマ的なタッチは一切排されている。

 スコーブ画面にどぎつい原色を配した映像。ファスビンダーが愛した一本という。

 ラストでは冒頭と瓜二つの映像が反復される。ラッセルは稼いだ金をばらまいて帰郷する。

 脚本は『大いなる男たち』のシドニー・ボーム。もともとは、『南部の反逆者』『ながれ者』でウォルシュとくんだゲーブルが、『大いなる男たち』につづいてラッセルの相手役をつとめるはずであった。

 娼館(ハレム)は『ながれ者』『ペルシャ大王』を想起させる。娼館に出入りする兵士たちの描写は『裸者と死者』『愛欲と戦場』をおもわせる。

 

エヴァーグレイズを渡る風:『最後の酋長』

2015-05-05 | バッド・ベティカー



 ウェスタナーズ・クロニクル No.22

 バッド・ベティカー『最後の酋長』(1953年、ユニヴァーサル)

 スコット時代以前のベティカー作品。

 1835年フロリダ。ロック・ハドソンを被告とする法廷場面からフラッシュバック。親セミノール派の中尉ハドソンは、強硬派の少佐(リチャード・カールソン)に反抗。さらに欺かれて捕虜となった酋長オセオラ(アンソニー・クイン)を殺害した容疑で起訴されていた。銃殺刑判決がくだり、刑場におもむくハドソン……。

 物語の大半は、野鳥の叫び声がぶきみに響き渡るジャングルのなかの行軍の描写。これに二年先だつウォルシュの『遠い太鼓』(本作にさきだってセミオール戦争を題材にした唯一の作品)のほか、のちにニコラス・レイの傑作の舞台となるエヴァーグレイズのふかい闇をラッセル・メティのキャメラがなまめかしくうつしだす。ヘルツォークずきの批評家が、『アギーレ』との類似を指摘しているが、はたしてどんなものだろう? 底なし沼の場面は白眉。泥にのまれた負傷兵をハドソンがすくいだす。全身を原色に塗った先住民が木の上から飛び降りてくる襲撃場面はフレゴネーズの『Apache Drums』をいやがうえにも想起させる。

 バーバラ・ヘイルをめぐるハドソンとクイン(幼なじみという設定)の三角関係は素描されているていど。オセオラ役には当初、ダグラス・サークの『アパッチの怒り』で先住民を好演したジェフ・チャンドラーが予定されていたようだ。キャストはほかにジェームズ・ベスト、ヒュー・オブライエン、リー・マーヴィン。リチャード・カールソンの監督作『四人のガンマン』はわるくないとの話である。

 ベティカー作品でもっとも不評を買った作品だが、ベティカーじしんはその誠実さゆえに愛着をもっていたらしい。文明の宥和にかんするペシミズムにはたしかに容赦がない。

決断の12時15分:『七人の脱走兵』

2015-05-04 | その他


 ウェスタナーズ・クロニクル No.21

 ヒューゴ・フレゴネーズ『七人の脱走兵』(The Raid、 1954年、ユニヴァーサル)

 『Apache Drums』のフレゴネーズのウェスタン。南北戦争終結まぎわの1864年。ヴァン・ヘフリンをリーダーとする七人の南軍の捕虜が脱走し、銀行強盗をくわだてる。ヘフリンはカナダ人をよそおって戦争未亡人アン・バンクロフトが営む宿屋に投宿し、未亡人とその息子と気心を通わせる。戦争の英雄にまつりあげられているリチャード・ブーンは、好意を寄せるバンクロフトがヘフリンに愛想よくするのが気にいらない。オークションに出ている北軍の旗をブーンとヘフリンが競り合ったさいにバンクロフトがブーンに味方したことで、ブーンは軍を脱走してきたことを告白する。仲間内の厄介者リー・マーヴィン(街に降り立ったとき、「よく燃えそうな建物だ」)が泥酔して教会で「ヤンキー」と悪態をつき、正体の露見をおそれたヘフリンはかれを射殺、市民に英雄視される。ブーンはヘフリンへの非礼をわびる。銀行襲撃の日、自室で南軍の軍服をまとったヘフリンを目にして恐怖におののくバンクロフトと息子。ブーンは銃をとって南軍兵に抵抗、脱走兵らにとらえられるも、バンクロフトの気持ちをつかむ(悪役でしられるブーンとしては異例の役どころ)。騎兵隊が救援に到着し、脱走兵らは退却。バンクロフトはヘフリンが一般市民を仲間の略奪行為から守るため退却命令を出したことを知る。橋を燃やして追っ手の追撃を防いだ南軍兵が馬を駆って森のなかを去って行くショットで幕。

 シンプルかつドライ。脚本はウォルシュの『たくましき男たち』のほか、『復讐は俺に任せろ』『悪徳警官』『恐怖の土曜日』といった犯罪映画で知られるシドニー・ボーム。本作も、設定こそ西部劇だが、西部劇的なイコノロジーは極力排除され、ハードボイルドなトーンはむしろフィルム・ノワールのそれ(復讐、スモールタウンへの潜入者、etc.)。慎ましくもタイトな映像。フレーミングで奥行きを演出するなど、控え目ながらフレゴネーズ的な造型センスがかいまみえる。襲撃のさいに広場に包囲される市民といった閉所恐怖症的な空間感覚は『Apache Drums』をおもわせる。

D.O.A. : 『ブレイキング・バッド』

2015-05-03 | ドラマ
ヴィンス・ギリガン『ブレイキング・バッド』(2008~2013年、AMC)





 (注意)物語の結末に触れています。

 深い感動とともにファイナルシーズンを見終える。

 ウォルター・ホワイトはかつて描かれた最兇の極悪人だ。アンチヒーローということばははじめてその実質をともなうことになった。

 家族という神聖な絆をまもるためならすべてがゆるされるのか。もっともおぞましい仕業に手を染めても? ファースト・シーズンで視聴者のなかによびおこされたこの疑問にたいしてシリーズがくだす結論には、シリーズの演出が一貫してそうであるように、一片のごまかしもない。奇跡的なハッピーエンドなど待っていようはずがない。家族愛というアメリカ映画を根底から支えてきた信仰が否定されたのだろうか。

 しかしウォルターのそもそもの動機は敗北者のルサンチマンである。家族愛はあったとしてもあとづけの動機にすぎない。かれがさいごに最愛の家族を失うのは必然すぎるほどの必然なのだ。しまいにだれもがかれの死を願い、呪いの言葉をなげつける。かれにたいする留保のない尊敬をおしまなかったジュニアもさいごには電話口で「死んじまえ」とののしる(かれはすでにファースト・シーズンで弱音を吐く父親に「死ねばいい」と言い放っている)。いうまでもなくジュニアのネガでありいわば分身でもある義理の「息子」ジェシー・ピンクマンもこの例にもれない。

 敗北者の運命にひきずられるようにして、余命すくない病人という立場を逆手にとって(それによって不死身化して、あるいは隠れ蓑にして)ウォルター・「ホワイト」は悪に染まっていく。あるいは内なる悪(それがちっぽけな欠点のよせ集めであるとしても)を解き放つ。すべての登場人物がこの悪のために滅ぼされる。これほどペシミスティックな結末はない。この運命を免れるのはとりあえず娘のホリーだけだ。とはいえ、かのじょの人生もさいしょから暗すぎる影を背負っている。『ブレイキング・バッド』はフィルム・ノワールというジャンルのひとつの頂点をきわめた。

 物語のはじまりでいわば死刑宣告を受ける主人公にすべての視聴者は同情する。ファーストシーズンのユーモラスな家族会議の場面ではだれもがなみだするだろう。しかしやがてかれにたいする興味は、かれの行動の不可解さや動機の曖昧さによって維持されることになる。

 同じくファーストシーズンで監禁したディーラーにとどめをさす場面の演出は見事である(この「殺人」によってウォルターのなかで決定的なスイッチが入ってしまう)。ウォルターの行動はあいまいなままであり、かれのこころのうちはまったくわからない。ピンクマンの恋人の死を傍観している場面で、主人公にたいするわれわれの疑念はさらにふかまる。

 メス製造に手を染めることで、エブリマンW.W.のなかに眠っていたあらゆる悪の芽が一気に開花する。W.W.の悪に感染されるように、かれの周囲もその潜在的な暗部をさらけだしていく(ピンクマンを半殺しにするハンク、『スカーフェイス』に熱狂するジュニア、etc.)。

 さいごに満足げに死んで行くいい気なかれをわれわれはつめたく見守る。だれもかれを罰することができなかった。

 ホモソーシャルな本シリーズがひけらかすあからさまなミゾジニーは、フィルム・ノワールの伝統につらなるものだろう。性的な場面は物語が進むにつれて皆無になる。高齢出産の妻はシリーズ前半ずっと突き出た腹をもてあますスラップスティック的な役どころだが、出産後は急速にふけこみ、黒装束をまとって経理の腕を悪事に活用する。女優の演技力は高いが、ベッド・ミドラーをLiLicoふうにした面相に岩のような巨体は被写体としての魅力をいちじるしく欠く。ほかの女性キャラクターも例外なくステロタイプ。シリーズのクリエーターは、巨大な女と小柄でスキンヘッドの男たちがたいそうお好みらしい。ウォルターはジェシーをめぐる嫉妬から相棒の愛する者たちを死に追いやっていく。

 忘れがたいエピソードはドラマが走り出す後半よりも、前半に多い。ピンクマンとその弟、半身不随の元マフィアのからむサスペンスフルな一幕など。

 雲ひとつない蒼穹と黄砂のコントラストがどぎついアルバカーキの砂漠(西部劇へのオマージュ)、時間がとまったようながらんとした街頭。アメリカーナ感ゆたかなロングショットがきまっている。『ビリー・ザ・キッド/二十一歳の生涯』ディレクターズ・カット版のスリム・ピケンズさながらにマイクが静かに死んで行く夕暮れの川辺のロングショット、終盤でウォルターがつかの間の休息を得るニューハンプシャーの雪景色しかり。終盤のノワール色ゆたかな映像の切れもすばらしい。撮影のマイケル・スロヴィスの技量は相当なものとみた。

 アバンタイトルも効果的につかわれている。[一度使われた映像への]フラッシュバックあり、[その後使われる映像への]フラッシュフォワードあり。セカンド・シーズンのさいしょの方のエピソードで、砂漠を這って聖地をめざす巡礼のメキシカンたちに高級車から降り立ったスーツ姿の眼光鋭いスキンヘッドのふたごが加わるというのがあった。聖地にはウォルター・ホワイトの似顔絵も飾られている……。

 要のエピソードではクリエーターのヴィンス・ギリガンが演出にクレジットされていることが多い。シーズンの最初のエピソードはブライアン・クランストンが演出するのが慣例になっていた。『ツイン・ピークス』など多くのドラマを手がけた映画監督ティム・ハンターが最初のほうの一挿話を演出していた。