ウェスタナーズ・クロニクル No.23
バッド・ベティカー『七人の無頼漢』(1956年、バットジャック・プロダクション)
バート・ケネディー、ランドルフ・スコットとのトロイカ体制(?)による記念すべき第一作。
アンドレ・バザンが(『裸の拍車』および『捜索者』にならぶ)戦後最良の西部劇ともちあげていわば殿堂入りした作品だが、あくまでつつましい小品である。
雷鳴とどろく豪雨の荒野。サボテンの影から人影がフレームイン、灯りの漏れる洞窟に入っていくのを追うトラッキングショット。そこを一晩のねぐらと定めた二人の男がコーヒーを啜っている。警戒する男たち。各々がセルフサービスで注ぐコーヒーをおかわりしながらしばしの談笑。馬はもたないのか? 先住民に取られて、かれらの胃袋におさまった……。正体がばれそうになったお尋ね者が拳銃を抜くが、一瞬遅かった。洞窟の外で、繋がれた馬が銃声に驚いて暴れるショットにカットバック。幕。ランドルフ・スコットが復讐の銃弾を打ち込むところは画面に映らない。ノワールの香りもゆたかなオープニング。
ラストでリー・マーヴィンを射つところでもスコットが銃を抜くところは見せない。早撃ちのマーヴィンとライフルを杖代わりにして死神のように仁王立ちしたスコットの切り返しがしばしつづく。銃声とともに緑のスカーフ(マーヴィンみずからの調達)を血に染めて立ちすくむマーヴィン。両手は腰の銃に届いてさえいない。マニエスティックなコレオグラフィーとともに金庫を後ろ手で抱きかかえるようにしてくずおれるマーヴィン。短銃を手にしたスコットがよろよろとフレームインして、画面奥の岩に腰をおろす。
「まるで保安官が拳銃を発射するのがあまりに速すぎて、カメラが正面から撮影するための時間がなかったかのようだ」。この省略技法に「ユーモア」をみてとったバザンはただしい。やがてセルジオ・レオーネの映画がそれを証明してくれるだろう。レオーネはある映画祭で出会ったベティカーに、「わが友バッドよ、わたしのしていることはぜんぶあんたの真似なんだ」と言ったとか。バザンによれば、このユーモア(ないしアイロニー)は、映画作家が登場人物にたいする敬意ゆえにとる距離であり、この距離こそが『七人の無頼漢』を「もっとも知性的な、ただし同時にもっとも知性主義的ならざる西部劇」にしている。
ゲイル・ラッセルの水浴シーンでも省略が効果的につかわれている。いまひとつの潜在的なラブシーンでは、幌馬車の床を隔ててスコットとラッセルが「同衾」する(『或る夜の出来事』?)。このラブシーンを必然化するのは雨である。オープニング・シーンの雨というモチーフがここでまた再利用される。
オープニング・シーンのコーヒーという小道具もシステマティックに作品に組み入れられている。先住民の訪問を受ける場面では、ゲイル・ラッセルが手にしたコーヒーポットを落とすリアクション・ショットによって画面外の訪問者の到来を告げている。スコットは先住民が食糧をもとめていることを悟り、馬を譲って帰らせる。あるいはコーヒーは、狭い幌馬車のなかでスコット、マーヴィン、ラッセルとその夫(何本かのフォード作品に出演したウォルター・リード)が会話する白眉の場面でも重要な役割を演じる。手渡されるコーヒーと四人の人物のあいだに高まる緊張とのコントラストが、絶妙の編集とあいまって、効果を上げている。この場面は本作の真の主役マーヴィンの最大の見せ場("Do you want to hear the rest of the story?")。
バザンは風景のナラティブな効果および馬のフォトジェニーを最大限に引き出していることを評価している。
アンドリュー・サリスによれば、ベティカーの西部劇は「かつは寓話的なオディッセー、かつは結末のしれないポーカーの勝負としてくみたてられている。幕切れにいたるまで、すべての登場人物が手のうちをさらしては豹変をくりかえす」
『聖なる映画』の著者でもあるポール・シュレイダーは、スコットのポーカーフェイスにブレッソンのジャンヌ・ダルクを重ね見ている。ベティカー研究者 Jim Kitses は、ベティカーを小津やチョーサーになぞらえる(身体性と精神性の共存??)。
バート・ケネディはこれが脚本家としての第一作。もちまえのユーモアと含蓄にみちた台詞術がはやくも冴える(Some things a man can’t ride around…., I'm obliged to your concern..., I'd hate to have to kill you. ―― I'd hate to have you try...)
ジョン・ウェインのプロダクションBatjacの手がけた作品。製作の一人としてアンドリュー・V・マクラグレンがクレジットされ、撮影は巨匠ウィリアム・H・クローシア。ゲイル・ラッセルの起用も共演歴のある友人ジョン・ウェインのはたらきかけによるものであるようだ。というわけでいろいろないみでマブダチ、フォードの兆しのもとにある作品。