Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

生硬なるドロドロ(ならびに追悼・星由里子):『妻として女として』

2018-05-26 | 成瀬巳喜男



 成瀬巳喜男「妻として女として」(1961年、東宝)


 エリートのダメ男(森雅之)の妻(淡島)と愛人(デコ)がエゴむきだしで壮絶なる一騎打ちを繰り広げるドロドロの昼メロにして同時代の『日本の夜と霧』も真っ青の生硬なディスカッションドラマ。『めし』三部作では妻の側に肩入れしてきた井出俊郎だが、松山善三との共同脚本による本作では、妻と愛人の分身性を強調することでいわば公平な立場を守っている。本妻の家庭と愛人の家庭(飯田蝶子演ずる元芸者の祖母との二人暮らし)が並行モンタージュ的に対比される。たとえば鏡台の前の娘・星由里子(合掌)から同じく鏡台の前のデコへのカットバック。なによりもくだんの分身性は、愛人が子供を産めない体になっていた本妻の“代理母”であるという事実によって際立つ。

 これまでのいくたの成瀬作品をいろどってきた脅迫者的な愛人役をデコが迫真のホラー的演技で怪演し(影の差した鬼の面のようなアップ)、それを淡島がもちまえの演技力で発止と受けとめる。お宝物の演技満載のデコのショーケース。登場シーンの半分くらいでデコは泥酔してくだをまいている印象がある。襖を衝立がわりにしたストリップシーンのサービスもある(ゴザのようなものを無造作に畳に広げ、そこに着ているものをいちまいいちまい投げていく)。『女が階段を……』で仲代にしたように、ここでは裏切り者のホステス水野久美に酒入りのグラスを投げつけ、“酒投げ姫”の本領発揮。“階段”といえば、仲代のアパートに上っていき、体を許さずにふたたび一人で下りてくる階段の場面では『俺もお前も』を思わせるクレーンショットがつかわれる。詰襟の中学生らとジェットコースターではしゃぐ場面もある。森とデコが馴れ初めを振り返る場面では防空壕から空を眺めるまさかのフラッシュバックが挿入される。ここでの淡島は『鰯雲』の“ミスキャスト”いらいすっかり板についたもんぺ姿(デコもだが)。別のフラッシュバックのシーンでは子供らを呼ぶ若き淡島の声に応えて入ってきたのがすでに成長した子供らであるといった成瀬ごのみのトリッキーなモンタージュもある。「宝田明似の男」なる内輪ギャグも。安元淳のキャメラは玉井正夫時代には考えられなかったバロック的キアロスクーロをときとして志向する。本妻宅に乗り込んだ愛人が夫をまじえて妻と立ったまま議論する場面。あるいは森とデコの逢瀬の舞台となる宿屋では障子を閉め切った室内の二人が必然性のない逆光でとらえられる(『夜の流れ』には密会する五十鈴と三橋をとらえた類似のショットがあった)。実の母親であることをデコにばらされ家を飛び出た星由里子の許を弟(大沢健三郎)が訪ねていくラストは、公園での笠智衆と三益愛子の出会いで終わる『娘・妻・母』どうようの“開かれすぎた”ラスト。物語の収拾がつかなくなったのをごまかすために成瀬的な結論の先送りというギミックをちゃっかり援用。

成瀬巳喜男の60年代:『女が階段を上る時』

2018-05-17 | 成瀬巳喜男



 成瀬巳喜男「女が階段を上る時」(1960年、東宝)

 60年代の成瀬・第一弾。後期成瀬のキャリアがここからはじまる。それまでの成瀬映画とは雰囲気ががらっと変わる。しかしワイドスクリーンで撮られた本作を成瀬じしんはスタンダードサイズ向けのストーリーととらえていたという。

 脚本は作為のきわみ。書いた菊島隆三は「オレが当ててみせる」と自分でプロデュースまで買って出た。

 『稲妻』で完成された、ふてくされて吐き捨てるようなデコ節の台詞回しが全開のわれらがデコ代表作の一本。

 『稲妻』につづいてお得意の唾吐きシーンまである。仲代のスーツにグラスの酒をひっかけたうえ、唾まで吐きかけるのだ。『あらくれ』のヒロインも顔負けの暴力女ぶりである。

 いまひとつの見どころはデコが前夜に見た夢を仲代にしみじみ語る場面だ。キャメラはソファに横たわる遠い目のデコの薄明かりに浮き上がる白い顔をとらえつづける。夢の内容は『驟雨』で佐野周二が妻の原節子に語り聞かせるそれのようなエスプリこそ欠いているものの、ヒロインのみせるもっとも穏やかな表情をとらえたわるくないシーンである。

 デコが占い師(千石規子)を訪ねる場面もある。占いの結果にぬか喜びしたデコはやがて痛い目を見ることになるのだが、徹底して現世に内在的な世界を描いてきた成瀬がここでスピリチュアルな世界に接近していることはきょうみふかい。もちろん、夜、そして死という主題もそれと無関係ではないだろう。

 胃潰瘍で佃島の実家に引っ込んだデコは鏡のなかのやつれた顔をみてつぶやく。「ひさしぶりに美顔術でもやってこようかしら……」。『稲妻』の葡萄の食し方どうよう、消滅した身振りや死語もさまになるのがデコである。

 中北千枝子以下のホステスらに細川ちか子、沢村貞子、賀原夏子、本間文子、千石規子といった常連のベテラン女優らの力強い現前が対置される。これぞ成瀬。


愛の不毛:田中絹代最後の監督作『お吟さま』

2018-05-04 | 田中絹代




 田中絹代「お吟さま」(1962年、文芸プロダクションにんじんくらぶ、配給・松竹)


 田中絹代最後の監督作もまた強いられた結婚の犠牲者を描く(「恋文」「乳房よ永遠なれ」「流転の王妃」)。そして愛のない結婚とはいわば売春と同義である(「女ばかりの夜」)。

 しかし田中の怒りは封建社会(もしくは現代社会の封建性)にたいしてというより、女の愛をうけとめられない男の不甲斐なさに向けられている。仲代演ずる高山右近は既婚者ゆえに吟(有馬稲子)の求愛にこたえられず、地上の愛のむなしさを説いて言い逃れをするばかりだ。右近はほとんどの場面で吟にたいして背を向けている。道端でみかけた引かれもの(岸恵子)に吟が勝手に投影するような純愛などもともと望むべくもないのだ。けなげなヒロインにわれわれがさっぱり感情移入できないのは有馬の大根演技ゆえである以前にこうしたブレヒト的もしくはアントニオーニ的なアイロニーゆえであろう。

 田中は雨を使った演出が好きなようだ。本作でもやはり仕組まれた密会の場面で雨を降らせるが、ロマンティスムをかきたてるべきその雨が醸し出すのはアイロニーでしかない(「この雨が早く降りやむよう」と高山は他力本願的な弱音を吐くことしかできない)。

 冒頭、時代背景を説明する字幕の背後で夜間の野営地を横切る複雑なクレーンショットや吟と引かれものを同一画面のなかへと導くトラヴェリングといったスコープ画面を駆使したダイナミックな移動撮影もどこか空虚だ。

 序盤に謎めいた場面がある。茶室に吟と母親(高峰三枝子)と右近が座っている。会話が途切れ、吟が行灯の火を消し、立ち上がって天窓を開ける。真っ暗な室内に陽光が満ち、右近が首からかけている十字架像を照らす。陽光をまぶしがったものか、右近がゆっくりと視線を下に落とす。

 本作をもって田中の監督としてのキャリアがポシャってしまったのはよくわかる。依田義賢の脚本を戴くリメイクは未見。


フェルメール的な映画作家:田中絹代の『女ばかりの夜』

2018-05-03 | 田中絹代




 田中絹代『女ばかりの夜』(1961年、東京映画、配給・東宝)


 赤線の娼婦の更生施設を経て社会復帰をめざす女性(原知佐子)が、世間の壁になんどもぶちあたっては挫折しかけるが、一部の理解者らを心の支えに前向きに生きていこうとする。

 逃れられない過去という宿命論によって本作はフィルムノワールの系譜に位置づけられるとどうじに、そうした宿命論への執拗な抵抗においてアンチ・フィルムノワールと名づけることもできるだろう。

 ちょっぴりだが“女囚もの”の香りも。ただし所長・淡島千景以下の“看守”は善意のひとたちなるも徹底して無力な存在として描かれる(施設では「知能指数」および性病の有無による隔離政策が敷かれている)。あるいみでは女囚もののあからさまに抑圧的な看守以上にたよりにならない人たちなのだ。

 監督デビュー作『恋文』につうじるテーマを扱った力作であり、今村昌平もしくは鈴木清順あるいは岡本喜八はたまたひょっとして増村保造さもなくば川島雄三が撮っていたとしてもおかしくないとおもえるほどの堂々たる語り口の歯に衣着せぬエネルギッシュな映画であるが、ぎゃくにいうと演出に田中ならではのものがかんじられず、物語展開も人物造形も型通りにすぎて驚きや発見があまりない。

 けれども手紙というモチーフへのこだわりはそのひとつかもしれない。教育のあるなしにかかわらず、田中映画のヒロインはすぐれて文をかわす女性である。画面上ではそれが手紙を書く、もしくは読む女性(おそらく『恋文』の森雅之もそうした“女性”たちのひとりである)のフォトジェニーとして定着される。そのかぎりで田中絹代をフェルメール的な映画作家といえるかもしれない。

 脚本・田中澄江。中北千枝子という女優の芸達者ぶりにはいつもながら驚かされる。たとえば高峰秀子や原節子がいなかったとしても成瀬映画はじゅうぶんに成立するが、中北なしに成瀬は絶対に巨匠たりえなかった。ここでの夫・桂小金治とのかけあいも絶妙。


田中絹代は日本のダグラス・サークである:『流転の王妃』

2018-05-02 | 田中絹代



 田中絹代「流転の王妃」(1960年、大映)


 天城山中。薮に仰向けに横たわる片方の靴が脱げた女性の足、打ち捨てられた学帽、女学生の血の気のない顔のアップ、その顔を赤いブランケットで覆う女性の手のアップをつぎつぎ映し出す簡潔でスピーディーなモンタージュ。手の主はやつれた老けメイクの京マチ子である。かのじょが遠い目で前方を仰ぐと、色づいた銀杏の葉叢をバックにタイトルがあらわれる。

 キャメラがそのまま銀杏並木のあいだをクレーンでゆるやかに下降すると、画面右側から赤い表紙のスケッチブックとバッグを抱えた手に白い手袋をはめたセーラー服姿の女性(顔は映らない)がフレームインして足早に舗道を横切る。彼女の背後からこんどはカーキ色の軍服をまとった兵士らの隊列(やはり顔は映らない)がフレームインして、かのじょが横切ったばかりの舗道を軍靴の音も高らかに行進していく。立ち止まってかれらを眺める女学生は若き日の京。つづけて足早に行進する軍人らの足のアップを画面手前にとらえ、その奥にかれらと並行して歩道をゆっくりとあるきながらときおりかれらのほうをみやる京を小さくとらえるダイナミックな移動撮影にかぶせてクレジットが連ねられる。

 のっけから映画的な躍動感にみちた上々のオープニング。このタイトルバックのためだけでも一見の価値がある作品だ。

 前作『乳房よ永遠なれ』どうよう、ベストセラーとなっていた同名の原作をいち早く映画化。あいかわらず時流に聡い。いまの目でみると極端に省略的なアヴァンタイトルも、同時代の観客にはすぐに“あの事件”だとピンと来たわけだ。脚本は市川崑の片腕・和田夏十。京が『楊貴妃』につづいて中国の悲劇の要人を演じる。

 望まぬ結婚によって時代に翻弄される女性像は『恋文』『乳房……』を引き継ぐものだ。映画は記録映画さながらにヒロインのたどった数奇な運命を淡々と追いかけるだけだが、随所にヴィジュアル的な創意が盛り込まれて飽きさせない。

 サミュエル・フラーの映画どうよう田中の映画はしばしばエスタブリッシング・ショットを欠き、異化効果によって観者を不意打ちする。タイトルバックとどうよう足元のショットから入る場面が多いようだ。たとえば着物の女性と軍服の男性がはげしくもみあう下半身のショットがいきなりでてきたかとおもうと、女性が床に身を転がしてその上半身がフレームインし、かのじょが男から奪ったとおぼしきピストルを抱えていることから、京が溥傑(船越英二)の自殺をとめたのだとわかる場面がある。

 あるいはシュールなオレンジ色の夕陽に染まったテラスで絵を描く京の足元に娘の鞠が転がってくる場面。この場面では画面の奥行きを活用したフレーミングがあいかわらず冴える。蓋をしたピアノ鍵盤を画面左側に、ソファに腰かける侍女を右側に配し、扉の枠ごしに庭先で夕陽を眺める母娘の後ろ姿をとらえるエッジの効いたショット。あるいは下女と話しながら乳母車を押して庭を歩く京を追う長い移動撮影においてもまばらな立木を前景に配すことでダイナミズムがうまれている。

 窓越しのショットもあいかわらず多い。たとえば夫婦が扉を挟んで会話する長いシーン。柱が画面を二つに分断し、画面左側三分の一ほどの狭く薄暗いスペースに船越が立ち、いっぽう、なかば開け放たれ、鮮やかなブルーに染められた窓枠ごしに明るい室内に座った京を画面右側にとらえる鈴木清順ばりの奇抜なフレーミング。アンバランスに分断された夫婦の立ち位置が日満関係を脅かす見えない亀裂を暗示している。

 田中にとっては初のカラー作品。京のまとう真紅のチャイナドレスをはじめ、象徴性もゆたかな鮮烈な色彩感覚によって綴られたメロドラマ。