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成瀬巳喜男「妻として女として」(1961年、東宝)
エリートのダメ男(森雅之)の妻(淡島)と愛人(デコ)がエゴむきだしで壮絶なる一騎打ちを繰り広げるドロドロの昼メロにして同時代の『日本の夜と霧』も真っ青の生硬なディスカッションドラマ。『めし』三部作では妻の側に肩入れしてきた井出俊郎だが、松山善三との共同脚本による本作では、妻と愛人の分身性を強調することでいわば公平な立場を守っている。本妻の家庭と愛人の家庭(飯田蝶子演ずる元芸者の祖母との二人暮らし)が並行モンタージュ的に対比される。たとえば鏡台の前の娘・星由里子(合掌)から同じく鏡台の前のデコへのカットバック。なによりもくだんの分身性は、愛人が子供を産めない体になっていた本妻の“代理母”であるという事実によって際立つ。
これまでのいくたの成瀬作品をいろどってきた脅迫者的な愛人役をデコが迫真のホラー的演技で怪演し(影の差した鬼の面のようなアップ)、それを淡島がもちまえの演技力で発止と受けとめる。お宝物の演技満載のデコのショーケース。登場シーンの半分くらいでデコは泥酔してくだをまいている印象がある。襖を衝立がわりにしたストリップシーンのサービスもある(ゴザのようなものを無造作に畳に広げ、そこに着ているものをいちまいいちまい投げていく)。『女が階段を……』で仲代にしたように、ここでは裏切り者のホステス水野久美に酒入りのグラスを投げつけ、“酒投げ姫”の本領発揮。“階段”といえば、仲代のアパートに上っていき、体を許さずにふたたび一人で下りてくる階段の場面では『俺もお前も』を思わせるクレーンショットがつかわれる。詰襟の中学生らとジェットコースターではしゃぐ場面もある。森とデコが馴れ初めを振り返る場面では防空壕から空を眺めるまさかのフラッシュバックが挿入される。ここでの淡島は『鰯雲』の“ミスキャスト”いらいすっかり板についたもんぺ姿(デコもだが)。別のフラッシュバックのシーンでは子供らを呼ぶ若き淡島の声に応えて入ってきたのがすでに成長した子供らであるといった成瀬ごのみのトリッキーなモンタージュもある。「宝田明似の男」なる内輪ギャグも。安元淳のキャメラは玉井正夫時代には考えられなかったバロック的キアロスクーロをときとして志向する。本妻宅に乗り込んだ愛人が夫をまじえて妻と立ったまま議論する場面。あるいは森とデコの逢瀬の舞台となる宿屋では障子を閉め切った室内の二人が必然性のない逆光でとらえられる(『夜の流れ』には密会する五十鈴と三橋をとらえた類似のショットがあった)。実の母親であることをデコにばらされ家を飛び出た星由里子の許を弟(大沢健三郎)が訪ねていくラストは、公園での笠智衆と三益愛子の出会いで終わる『娘・妻・母』どうようの“開かれすぎた”ラスト。物語の収拾がつかなくなったのをごまかすために成瀬的な結論の先送りというギミックをちゃっかり援用。