Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

踊らん哉:『暗黒街の帝王レッグス・ダイアモンド』

2015-11-27 | バッド・ベティカー



 バッド・ベティカー「暗黒街の帝王レッグス・ダイアモンド」(1960年)

 ローリング・トゥエンティーズ。主人公(にやけたやさ男レイ・ダントン)は、ダンス教師の地味な女(カレン・スティール)を口説くために場末のダンス教室に入門する。かれが実はダンスの名手であることを女は不審におもう。かのじょが出場するダンス・コンテスト当日、かのじょのパートナーをいためつけて病院送りにし、パートナーの座を奪う主人公。さらにコンテストのライバルの服をライターで燃やして棄権に追い込み、優勝カップをせしめる。カップを手にしたまま二人は映画館へ。トイレに立つとみせかけて、隣りの宝石店に侵入し、ウィンドーの宝石を奪う主人公。不可解な事件の連続に女の疑いは強まる。

 暗黒街のボス(ロバート・ローリー)のボディガードの職を手に入れた主人公はダンス教師をポイ捨てにし、ボスの愛人(エレイン・スチュワート)と不倫の関係を結ぶ。不倫はすぐにばれ、主人公はボスに関係を白状して女をポイする。

 その後、敵に銃撃された際にダンス教師の部屋に駆け込み、よりを戻して結婚する。警察にたよれないわけありの筋から強奪を重ねることでかれは勢力を拡大する。ビジネスに多忙な夫に省みられなくなり、妻は酒に溺れる。「あなたは何でもあたえてくれる。でも、ひとつだけしてくれないことがある。もう映画につれていってくれないのね」……。

 ここから場面はケッサクな“ブレヒト的”シークエンスに繋がる。妻の機嫌をとりなすために主人公はかのじょをヨーロッパ旅行につれていく。パリでもローマでもベルリンでもかれらはつねに映画館にいる。スクリーンにはニュース映画が流れ、禁酒法の施行にともなうギャング勢力の弱体化が外国語のナレーションで伝えられる。そのたびに不機嫌そうな客席の主人公にカットバック。

 帰国後、主人公の「転落」fall がはじまる。かれのキャバレーは封鎖され、暗黒街は近代的なシンジケートに牛耳られていた。「家族に手を出そうとしても無駄だ。そうならないようにおれは仲間をつくらなかった」とつよがる一匹狼。かつての腹心はみな離れていく。「みんなあなたが恐いからよ。それは私も同じ」と妻。

 昔の女の裏切りで殺される主人公。「かれはひとに愛されたが、ひとを愛さなかった。それがかれの死んだ理由」というもっともらしい妻の台詞で重々しく幕。

 “レッグス” ダイアモンドがダンサーであったことは偶然ではない。ダンサーさながらのしなやかなステップでかれは出世の階段を駆け上がり、その頂点から派手に身を踊らせる。

 演出もそのうごきに和す。銃撃の訓練を受ける場面から二丁拳銃を操って敵をなぎ倒す場面へ。あるいは昔の女を電話で呼び寄せる場面からいきなり情事の後の場面へ。アクロバティックな省略の連続。

 レナード・ローゼンマンの手になるテーマも軽快な洒落たタイトルバック。30年代ワーナーのギャング映画のドライなテンポとベルモンドらの大泥棒ものの軽快なコミカル・タッチが共存。撮影ルシエン・バラッド。哀れな兄役でウォーレン・オーツ。


家に帰ろう:『決闘コマンチ砦』

2015-11-25 | バッド・ベティカー



 ウェスタナーズ・クロニクル No.28;バッド・ベティカー「決闘コマンチ砦」(1960年)

 (注意)物語の結末に触れています。

 『七人の無頼漢』にはじまるランドルフ・スコットとの連作(“レナウン・サイクル”)の掉尾を飾る作品。

 コマンチのシマに単身乗り込んだスコットが身振り手振りで商談をする“サイレントふう”のオープニング。かれの目あては、コマンチに攫われ行方知れずになっている妻。けっきょく“買い戻す”ことができたのは別人の妻(ナンシー・ゲイツ)。かのじょを夫のもとに送り届けるための長い旅がはじまる。

 「コマンチに囲われていた女を夫はどう思うかしら」。「愛があれば関係ない。それだけだ」と炉端を立つスコット。
 
 停車場でコマンチの奇襲を受けた際に三人の無頼漢(クロード・エイキンスと純朴な二人の若造)と共闘、そのまま道づれとなる。エイキンスの狙いはゲイツにかかった多額の賞金。リー・マーヴィンやリチャード・ブーンほどの派手さはないが、かれら同様、善人とも悪人ともつかない典型的にベティカー的な無頼漢。

 その後、若造の一人はコマンチの襲撃の犠牲になり(殺される場面は映さない)、いまひとりはエイキンスに仲間討ちにされる。そのエイキンスは岩場でスコットと一騎打ちに。背後から銃口をつきつけられたエイキンス。「おれがふりかえった瞬間、アマはおれのもの」と往生際のビッグマウス。制止を無視してふりむきざまに拳銃を抜いてスコットの銃弾をみずから浴び、おのれの強欲を呪いながら息絶える。

 地平線の彼方にゲイツの家の赤い屋根が見えてくる。家に到着すると、ゲイツに走り寄る幼い息子のあとから杖をついた盲目の夫が姿を現す。「そういうことだとは知らなかった」とスコット。「じぶんで連れ戻しに来られない事情があるとは思わなかった?」とゲイツ。「ずっとそう思ってたよ」。『捜索者』のデュークそのままに、抱擁を交わす夫婦を見守りながら一人その場を後にするスコット。かれの旅はつづく。

 撮影チャールズ・ロートンJr.。砂漠、山脈、奇岩、森。ピトレスクな自然がシネマスコープいっぱいに映し出される格調高い画面。

 婀娜な年増ゲイツ。停車場でコマンチの奇襲をうける場面では、スコットに水桶に投げ込まれ、びしょぬれショットを披露。


静かなる男:「灼熱の勇者」

2015-11-25 | バッド・ベティカー



 バッド・ベティカー「灼熱の勇者」(1955年)


 「美女と闘牛士」の徒弟関係に潜在していた父と息子の葛藤をめぐるメロドラマがここでは文字どおりに演じられる。(「ロデオ・カントリー」は潜在的なカインとアベルの物語だ)。

 ビロードのような黒地のバックにピンクの文字でクレジットが現れる。ずいぶん以前に最初に見たときから耳に染み着いているキティ・ホワイトによるテーマ曲。「グラディエーター」のハンス・ジマーがこのテーマを借用しているらしい。

 闘牛場での事故の夢にうなされるアンソニー・クインが『霧の中の逃走』のニナ・フォックのように叫び声をあげて跳ね起きる。杖をついた付き人が入ってきて、試合の衣裳を選んでいる。「今日はそれは着ない」とマタドール。「夢で着ていたのはこの服ですね」と付き人。真相を言い当てられ、ぎくりとするクイン。付き人はかつて試合中クインの身替わりになって負傷、闘牛士としてのキャリアを断念したらしいことがほのめかされる。

 国民的英雄クインはこれがデビューとなる新米マタドール(マヌエル・ロハス)とのタッグマッチをまえに教会に願掛けに出向くが、実子であるパートナーに凶兆が出たのをおそれ、試合をボイコットして身をくらます。富豪のグリンコでグルーピーのモーリン・オハラ(合掌)がかれを実家に匿う。散歩中にスコールに襲われた二人は濡れ鼠となって馬小屋に逃げ込む。オハラのグリーンのブラウスは肌に密着し、クインはシャツの前がはだけて腹の古傷が剥き出しになる。古傷を指でなぞるオハラ。クインはかのじょをかきいだき、熱烈な接吻をあたえる。『静かなる男』のほのかなエロスがいわばぐっとラテンふうで濃厚に再現される。




 平原に乗馬に出て、売られる前の闘牛の群をオハラに見せるクイン。牛に襲われるオハラを助けようと敷物(?)を使って手練の牛さばきを疲労するクイン。「早く逃げろ」。「いや。その牛さばきをもっと見たいわ」。

 クインが親子関係の真相を告げにレストランに息子を訪ねて行く場面はおもわず頬がゆるむ好シーンだ。スープを啜る息子のテーブルに歩み寄り、空いた椅子の背を抱えこんで座るクイン。「座ってください」と息子。気まずそうに腰を浮かし、ふたたび同じ姿勢で座り込む父。「何か飲むか」。「スープを飲んでます」。「ああそうか。じゃ、おれにもスープ」とウェイターにまたも気まずい顔の父。「おまえはおれの息子だ」「知っています」。ぽかんとする父。平然とスープを啜りつづける息子。「いいかげんにスープを啜るのをやめろ!」と切れる父。一瞬の沈黙。父子の顔にどちらからともなく笑いが萌す。つぎの瞬間にはしっかり抱き合っている二人。

 闘牛シーンはラストだけだが、カルロス・アルーザがテクニカル・アドヴァイザーとしてクレジットされており、かの地のマエストロたちが出演しているようだ。

 キャストはほかにリチャード・デニング(オハラをめぐるクインのライバル)、ローラ・アルブライト。過去にクインとのいわくがあるらしい女性闘牛士(ロレイン・シャネル)。脚本はベティカーとチャールズ・ラング。撮影はのちの西部劇でタッグを組むことになるルシエン・バラッド。シネスコだが、かつて発売されていたディスクは画質が最悪なうえに無惨にトリミングされている。(だから半分しかこの映画を見ていない。)

 メキシコとトレロにたいするベティカーの信仰心が垣間見れる。どうみても失敗作だが、駄作扱いされているのが歯がゆい。


シネマ・ヴェリテ:『美女と闘牛士』『ロデオ・カントリー』

2015-11-23 | バッド・ベティカー


 「美女と闘牛士」(リパブリック、1951年) 
 「ロデオ・カントリー」(ユニヴァーサル、1952年)

 ベティカーの(ほぼ)自伝的作品にして伝統競技の(ほぼ)ドキュメンタリー。二重のいみでいわば(ほぼ)“真実の瞬間”をとらえた(?)双子の二篇。

 名マタドールたちに挽歌を捧げた「美女と闘牛士」。都会の利己的で目立ちたがりやの若者が伝統競技のマイスターにじぶんを売り込み、競技者としても人間としても成長する。ホレス・マッコイ(『鉄腕ジム』『ひとりぼっちの青春』)が脚本を手がける「ロデオ・カントリー」でも、舞台をメキシコの闘牛場からフェニックスのロデオスタジアムに移して、ほぼ同一の無骨でシンプルきわまりない話が物語られる。

 “デューク”・ウェイン製作の「美女と闘牛士」。タイトルがしめすごとく徹頭徹尾類型的な物語。馬鹿面の若きロバート・スタックとギルバート・ロランの周囲に薄っぺらで雰囲気だけは香り高い業界人キャラを飾り物として配し、型通りの行動をとらせる。スタックと恋に落ちる“美女”ジョイ・ペイジはおぼこ。掩護役にローカルカラー豊かな糟糠の妻ケイティ・ジュランドーときれいどころヴァージニア・グレイを配すも、どこまでも汗臭くマッチョなドラマ。メキシコの陽光で彫り上げられたハリウッドらしくない埃っぽい画調がほのかにシュール。

 対して素朴な原色が際立つテクニカラーの「ロデオ・カントリー」はノーマン・ロックウェルの挿し絵ふう。人物はやはり類型だが、チル・ウィルス演じる道化師のキャラにそれなりの厚みがあり、唯一の女性キャラ(ジョイス・ホールデン)をめぐってほのかな三角関係が演じられる。「美女と闘牛士」ではスタックを救おうとしたロランが命を落とし、「ロデオ・カントリー」では似たような状況でウィルスがスコット・ブラディの身替わりになる。主人公が病室を見舞う同じような場面が続く。「大声を出すと傷が痛む。そばに寄れ」。道化師の気恥ずかしいほど臭い説教はあくまで小声で囁かれることで心に沁みる。

 ロングで捉えられたドキュメンタリーふうの競技シーンと執拗にインサートされる見物人のアップ。ロランとウィルスが痛手を追う場面では、獣の餌食になる犠牲者と妻(娘)のアップが素早いカットバックで交錯してエモーションを煽る。「美女と闘牛士」ではクライマックスでの布さばきに無駄なスローモーションがかけられる。「ロデオ・カントリー」では大鏡が小道具に使われるがさして効果を上げていない。



焔の映画:バッド・ベティカーの初期ノワール群

2015-11-10 | バッド・ベティカー


 ブロードウェイよりディスクが発売されているベティカーの貴重な初期ノワール作品、4連発!!

 「ミステリアスな一夜」(1944年)はスラップスティックふうもしくはタンタンふうノワール。闇のなかで女性のたなごころが水中花のようにひろげられ、なかから妖しい輝きを放つ宝石がすがたをあらわす。さいごに宝石は合歓のように握りしめられる掌のなかにふたたびすがたを消す。シュルレアリスムの香りも豊かな上々のタイトルバック。監督のクレジットはオスカー・ベティカーJr.。

 宝石盗難事件の捜査に元大泥棒の主人公(とそのトトふう相棒)がむりやり協力させられる。

 ベティカー流のノワールを貫くユーモアとミソジニーがこの処女作にすでに色濃く刻印されている。いけ好かない女性記者。兄を尻に敷く電話交換手。ガムを噛みながらガムを売る低能な女店員。マネキンのふりをするチンピラ……。


 「消えた陪審員」(1944年)。闇夜の衝突事故の短いプロローグのあと、ダイナーで朝食をとる小太りの編集長。かれのもとをおんでてフリーになったばかりの事件記者が入ってきて朗々とじぶんの素性を店主と観客に話してきかせるオペレッタふうオープニング。
 冤罪で死刑になりかけた男が釈放後に陪審員を一人ひとり殺していく。主人公は元陪審員の一人である女性にお熱になる。この女性とルームメイトの女性の関係にはほのかにレズビアン的な香りがただよう。
 手袋は「ミステリアスな一夜」でも使われた小道具。犯人が影絵に興ずる場面とサウナ殺人(未遂)の場面がたのしい。ラストは同じダイナーの朝食の場面。編集長のショットで幕。


 「霧の中の逃走」(1945年)。サンフランシスコ・ベイ・ブリッジのロングショット。霧のあいだから女の姿が現れる。ニナ・フォック(「巴里のアメリカ人」)。背後をしきりと気にしている。欄干に近寄る女。自殺志願者と疑った警官に呼び止められる(IMDBのトリビアによれば、自殺の名所はゴールデンゲイト・ブリッジのはず)。女の前に車が止まり、かのじょは殺人劇を目の当たりにする。悲鳴。これは戦争神経症のかのじょのみた外傷夢。悲鳴を聞いてたまたま駆けつけた男(オットー・クルーガー)は夢に出てきた男であった……。

 対日戦争をバックに霧と闇のなかをスパイたちが暗躍する夢幻的スリラーだが、やはり全篇ユーモアが支配する(省エネ設計ゆえ肝心なところが聞き取れない盗聴機、etc.)。

 主役のカップルが「ガス室」に閉じこめられるクライマックスシーンはヒッチコックふうのサスペンスが冴えわたる「メタ映画」。その場(時計屋)にたまたまルーペを見つけたクルーガーは、ニナ・フォックに化粧用ペンシルを借りてそのレンズに Hail Japan と殴り書きし、充満してきたガスに引火する危険を犯してライターを点火、レンズを裏返して反転した文字をライターの炎で時計屋のウィンドーに投影する。ウィンドーに浮かび上がるプロパガンダの文字。発見した通行人が反日感情に駆られてウィンドーを破壊し、かれらは難を逃れる。

 ちなみにこの場面は「ミステリアスな一夜」で囚われの主人公が火に包まれる場面、および「消えた陪審員」で主人公がサウナで窒息死させられそうになる場面の反復といえる。

 ちらっと出演しているシェリー・ウィンタースをみつけよう(簡単)。


 「閉ざされた扉の陰」(1948年)で閉所恐怖のオブセッションは極まる。精神病院に身を隠した悪徳判事を見つけ出すために恋人の記者(ミネリのミュージカル作品で知られるルシール・ブレマー)にそそのかされた野心家のリチャード・カールソンが入院患者を装って病院に潜入する。病棟内のバロック的な描写をふくめ、まさにフラーの「ショック集団」を先駆ける作品。ラストのハッピーエンドには「かれは恋に狂ってしまった」というやくたいもないオチがつく。

 「ミステリアスな一夜」「消えた陪審員」につづいて放火の場面がある。この炎がやがて「Ride Lonesome」のラストで炎上する大木に繋がるのだ。

 看護婦役でキャサリーン・フリーマン。