Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

きみの瞳に乾杯!:マイケル・カーティスの『エジプト人』

2014-01-28 | その他

 Viva! peplum! No.26

 『エジプト人』(マイケル・カーティス、二十世紀フォックス、1954年)

 ミカ・ワルタリのベストセラー小説の翻案。緻密な時代考証に基づき、多額の予算(当時にして500万ドル)を投入したゴージャスなセットと小道具が売りの古代史劇映画のクラシック。ワーナーに見捨てられたカーティスがザナックに雇われて撮った。

 相当ムラのある出来ながら(レナード・マーティン先生の Movie Guide では★★)、絶対「買い!」の一本だ。前半の展開がまだるっこしくていいかげん退屈しかけるが、色気のないジーン(Jean、シモンズ)が適当に消えてくれて、もう一人のジーン(Gene、ティアニー)がファラオ暗殺の糸を操ってにわかに悪女ぶりを発揮する終盤は、画面そのものが俄然引き締まる!

 これは古代史劇映画という仮面をかぶったフィルム・ノワールだ!

 と同時に、全篇を鮮やかなブルーが妖しく彩る“ブルージー”な映画。いうまでもなく、ブルーはジーン・ティアニーの瞳の色でもある。

 毒を煽り、「今私が口にしたのは死の杯か」と問うイクナートン(マイケル・ワイルディング。リズの元旦那)に、黙ってうなづく医者シムヘ(エドマンド・パードム)。死に行くファラオの長い演説も十分に感動的。

 ラストで、「これはキリストの生まれる1300年前の物語なのです!」みたいな字幕が出て笑った。非暴力主義者のイクナートンをキリストに見立てて、ファラオ殺しというインモラルなストーリーを正当化しているつもりなのか?

 もともとハリウッド製の古代史劇映画は、なんでもかんでもキリストに関係づけとけば安心みたいなところがある。デミルもそれを盾にして好き放題やっていたではないか。からみさえ入れとけば、あとは何をやってもいいというロマンポルノみたいにクリエイティブな土壌だったとも言える。

 史実では、ホルヘムヘブ(ヴィクター・マチュア)は、ツタンカーメンを継承して第十八代王朝のラストエンペラーになるが、ここでは狂信の度を超したイクナートンを暗殺してファラオの座につくという設定。

 ちなみに主人公はモーゼみたいに「水から救い出された」捨て子。当時はそういうのが多かった、というナレーションが入る。イクナートンはモーゼに先駆けて一神教をはじめた人とされている。

 ティアニー様は、文字どおり虫も殺せぬイクナートンの「男勝りの」妹役。エジプトふうのボブヘアーが、ルイーズ・ブルックスふうに決まってる! ローレン・バコールみたいなドスの効いた低音で喋り、杯を剛毅に煽っては腕の甲でワイルドに口元を拭う。ヴィクター・マチュアとアーチェリー合戦(?)するなんていうアクションシーンまで披露!

 「私の演技は、鬱状態に落ち込んでいるせいで苦しんでいるようには見えなかった。私の演じたプリンセスは悪賢く、精神的にアンバランスで、不安定でデンジャラスだった。私はそんな女を忠実に演じなければならないと思ってしまった」(ジーン・ティアニー『セルフ・ポートレイト』)。
 
 男運の悪さで人生を狂わされた美女の、これは最後の大きな役柄だろう。このあとの見るべき作品としては、育ての親プレミンジャーの『野望の系列』にちょっと姿を見せている程度。

 童貞シヌヘはバビロン人奴隷あがりの高級娼婦に幻惑される。「病とは別の熱さが体を苛む!」と童貞。娼婦を演じるのは、ザナックに囲われていたポーランド人ベル・ダルヴィ。Darvi という芸名は、「旦那」のダリルとダリル夫人ヴァージニアにちなんでるんだとさ。で、これが超大根。『市民ケーン』のドロシー・カミンゴアのパロディーかと錯覚してしまった。赤やブルーのドレッドふうウイッグがきょうびのギャルにもよろこばれそう。

 着替えシーンで、裸(吹き替えだろう)がプールの水面に逆さに映るというショットがある。その直後、童貞に首を絞められ、プールに逆さに突っ込まれた顔を間の抜けた水中撮影で映す。主人公をマーロン・ブランドがやっていたら(依頼を断った)、この場面、どうなった?

 主人公が訪ねてくるシーンで、背中を向けた彼女の顔が手鏡に映るというショットもある。手鏡は、もっと後で、主人公(実は先代ファラオの妾の子)が実の父の骸骨を自分の骨格と比べるシーン(ティアニーが無理やりさせる)でも使われている。

 『聖衣』『スパルタカス』のジーン・シモンズは主人公に思いを寄せる鉄火肌で貧相な酒場の女。コメントに値せず。「酒場で男の欲望を目のあたりにしてきたわ」だとさ。拾って育てている子供に「お母さん」と呼ばせている。

 主人公の押しかけ奴隷役のピーター・ユスティノフ(『クウォ・ヴァディス』)が絶妙のコメディーリリーフ。断然、本作でいちばん魅力的なキャラ。台詞のいちいちが感動的。「私を雇えば、あんたのような若医者でも、奴隷を雇う余裕があると思われて一目置かれますぜ」「おれがこの年で父親になるとは」「空腹でワニでも食える」。隻眼になった理由を「主人に薦められたビールを吐き出した罰」、「主人の閨を覗き見た罰」、「お国のために戦争に行って失った」などとその都度別様に説明するのがcool。

 脚本は『聖衣』などのフィリップ・ダンとメロドラマの名手ケイシー・ロビンソン。全篇ファンファーレ風の音楽にアルフレッド・ニューマンとバーナード・ハーマン。キャメラはレオン・シャムロイ(オスカー受賞)。

 悪女に身ぐるみ剥がされ、死を欲して砂漠をさまよう主人公が墓泥棒に出くわす。「あなたは神様ですか?」とシヌヘ。ジョン・キャラディンの慈愛に満ちた声。デヴィッドとキースを彷彿とさせるシルエット。

 ネフェルティティは旦那の傍らに鎮座ましましているだけでドラマにからんでこないが、有名なかぶりものは実物をかたどっている。

 この翌年にはホークスの『ピラミッド』が撮られている。カーティスにはこのほかに『ノアの箱舟』といった古代史劇作品もある。こちらもアロノフスキーの新作公開に備えてチェックしておきたい一品だ。
 



 


映画の殿堂:『十戒』(1956)

2014-01-19 | その他

Viva! peplum! 古代史劇映画礼讃 No.25

 『十戒』(1956、パラマウント)


 「人間が深い信仰をもっていた時代、人間は神への愛を表現するために壮麗な大聖堂を建立した。バーニー・バラバンとフランク・フリーマンは、パラマウントの取締役アドルフ・ズーカーの後押しで、6000メートルのフィルムを使って、私が映画という新たな芸術形態によって現代人の神への愛を表現するための資金を調達してくれた」(セシル・B・デミル)。


 25,000人のエキストラを動員し、1,350万ドルを費やし、上映時間4時間半になんなんとするデミルの遺言は、文字どおりその規模においても「大聖堂=映画」という形容にふさわしい。

 本ブログでもすでにとりあげたサイレント作品のリメイクということになっているものの、あの作品のような説教臭さはまったくない。モーゼの生涯をたんたんとたどる悠揚迫らざる叙事詩。バイブルの頁をめくっていくように、ひとつひとつのエピソードが余韻に満ちたディゾルヴによって連ねられていく。

 旧約にある誕生とエジプト脱出の間の空白を、デミルは歴史家の見解(石碑に消された王子の名前が実際にある)とみずからの想像力で埋めた。
 
 デミルの神への愛は、乱舞する女たちの群と、汗に光る男たちの裸の上半身と、ぎらぎらした原色の洪水と、子どもも大喜びのわかりやすい特撮と、お年寄りもにっこり微笑む親密で素朴なユーモア(「レベッカはどこ?」「400年の軛からやっと解放される日だというのに動けやしない」)をつうじて捧げられる。

 全篇見え見えのフロント・プロジェクション(トリックであることを隠さないトリック)。電飾のようにそそり立つ紅海のまっさおな水。このべったりとした素っ気なさ、気取りのなさ。小賢しい演出たるや一切なし。すべてが正面切って見据えられ、物語られる。この抽象的なまでにシンプルな世界こそリアルな聖書の世界!

 比類なく巨大でありながら、これほど慎ましい映画もまたとない。『ベン・ハー』と同じくらいの尺なのに退屈しない。これぞ究極の「晩年様式」。

 善悪の化身を体現する鏡像的な義兄弟、ヘストンとブリンナー。

 優等生顔にセクシーメイクぬりたくり、ベールの下に意外な豊乳透かし見せたアン・バクスター(ネフレティリ)。乳押しつけ、モーゼを誘惑するも無視され、旦那のラムセス2世に「あんた、コケにされて悔しくないの?」と八つ当たり。

 白肌を小麦色にぬりたくったデブラ・パジェットは、ジョン・デレク(ヨシュア)と恋仲だが、むりやり性悪なエドワード・G・ロビンソンの女にさせられる。

 3人目のきれいどころ、野性的な姉御役のイヴォンヌ・デ・カーロもおんなじような色の肌。

 おばさん軍も奮闘。ジュディット・アンダーソンはフレームの外で主人のアン・バクスターに刺されて「ぎゃあ」。生真面目な未亡人のニナ・フォックも水浴シーンあり。

 フォード一家も頼もしい助太刀に。ジョン・キャラディン(アーロン)の深い声。孔雀みたいな衣裳のエチオピア王役で一瞬、顔を見せる“ウッドロー”・ストロードの威厳。

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ロードス:『ロード島の要塞』

2014-01-16 | その他
 Viva! peplum!  古代史劇映画礼讃 No.24


 『ロード島の要塞』(セルジオ・レオーネ、1960年)

 夕陽に染まる地中海をパンでなめるカメラ。洞窟のようなところで奴隷が労働に従事している。潜水して侵入した男たちが水から上がり、見張りを殺して奴隷を解放する。火を放って逃げる男たち。激しく叩き鳴らされる銅鑼の表面にタイトルが浮かび上がる。アンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノの音楽は、早くもモリコーネふう。

 レオーネ本人の弁によれば、本作でのかれの意図はあくまで古代史劇のパスティッシュなのだそうだ。いわく、古代史劇映画で『ポイント・ブランク』をやろうとしたとのこと。「古代史劇というジャンルを火刑に処す」などとも述べているが、この言い方はかならずしも比喩ではない。本作にはじっさい、その後のレオーネのトレードマークとなる炎が全篇をとおして燃え盛っている!

 「私にはちょっとネロみたいなところがある」と御大。かれがダヌンチオのなかでいちばん好きな一節は、「炎は美しい」というものらしい。レオーネの解説によれば、この作品の炎は戦争と専制の象徴としての火であり、火を灯すために夜の場面をわざわざ多くしたという。

 本作が古代史劇映画のラインナップに連なる一作品ではなく、古代史劇映画のパスティッシュである所以。

(1)まず、呼び物として筋肉ムキムキ男ではなく、なんと青銅の巨像をフィーチャーしたこと。日本映画なら、チャンバラの主人公が仏像とか、そんな感じだろう。マッチョマンの代わりに銅像なぞにとても金を出せないとプロデューサー。「銅像が海の上を歩いて人間たちを踏みつぶす、というのはどうでしょう?」と出まかせを言って、ドケチなプロデューサーをなんとか説得したレオーネ。もちろん、じっさいにはそんな映画にはなっていない。(ちなみに本作は他の多くの古代史劇映画と同様、製作費用の安いスペインで撮影された。)

(2)主役のロリー・カルフーンは、ムキムキ男からほど遠いにやけた優男。登場早々、傍らにいるレア・マッサリに気をとられて会話も上の空。もともとは、『十戒』でのジョシュア役が評判をとったジョン・デレクが主役に予定されていた。天狗になったデレクは監督をやりたがったが、レオーネは他の人が監督できないようなカット割りをすでに組み立てていた。デレクをクビにしたレオーネは、デレク夫人のウルスラ・アンドレス(まだ『ドクター・ノー』は公開されていなかった)に脅迫を受けた。「絶望した夫は自殺したいと言っています。最上階にある部屋の窓から飛び降りたらあなたの責任ですよ!」レオーネは答えた。「もし飛び降りそうなときは、30分前に知らせてくれ。見物に出かけるよ」。

 ロリー・カルフーンは、御大の言によれば、「貧乏人のためのケイリー・グラント」といったところ。気のいい男で、ちょっと醒めていて、わがままだが憎めないキャラクターは本人の地であるらしい。セットに来たとき、誰彼をレオーネと思って抱きついた。ようやく本人を見つけて近寄ろうとしたとき、足許のプールに気づかずに水中に転落、照れ隠しに爆笑していた。このエピソードはクリストファー・フレイリングの伝記にも紹介されている。

 じっさい、異邦の地にヴァカンスを過ごしに来てわけのわからない事件に巻き込まれるという設定は、『北北西に進路を取れ』のケイリー・グラントそっくりだ。そこここに鏤められたコメディーの要素にしても、巨大な顔の下でのチェイスという設定にしても。(彫像は上半身と膝までのそれぞれ30メートルのものを使い、このチェイスシーンはトリックなしだそう。)


 さらに興味深いのは、カルフーンの「くたびれたノンシャランス」がイーストウッドにも通じるところがあると御大が述べていること。なるほどねえ。

(3)キッチュなデザインの衣裳、間抜けなメカ描写(反乱の民を追い散らすために、巨像の頭が花びらみたいに開いて溶けた鉛をぶちまける)、ナンセンスな拷問シーン、ラストはやけくそ気味のカタストロフ。古代史劇映画のお約束を律儀に守りつつ、確信犯的にやり過ぎる。時代設定もいい加減。銅像ができたのは、ギリシャとフェニキアが争っていた頃から一世紀後のことのはず。ローマふうのレースとか、綱渡り芸人とか、時代錯誤的なディティールも盛りだくさん。アテネ人の主人公の名前はなぜかペルシャ風。

 反乱奴隷のリーダーにジョルジュ・マレシャル。カルフーンは悪女のヒロイン、レア・マッサリと清純派のメイベル・カー(『暴力行為』など)のあいだで揺れる。

 概して冗長で退屈だが、祝宴場面の長い長いトラヴェリングと地下室での360度のパンには惚れ惚れ。





史上最長のプロモ:『ベン・ハー』(1959年)

2014-01-13 | その他
 Viva! Peplum! No.23

 『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー、1959)

 1880年、北軍の将校だったルイス・ウォレスによって出版された原作には、リンカーンを祖国統一(国民の宥和)を為し遂げたキリスト的人物と見なすイデオロギーが反映されていると言われる。

 この企画は、傾きかけたMGMを立て直すために製作者のサム・ジンバリストが打って出た賭けだった。本作公開時は冷戦まっただ中。唯物論的社会主義に対抗してキリスト教的理念を歌い上げたことが受けたという説もある。

 監督にはワイラーのみクレジットされているが、レースのシーンはアンドリュー・モートンとスタントのヤキマ・カヌートによって演出され、ワイラーはタッチしていない。海戦のシーンはリチャード・ソープが演出してワイラーがスーパーバイズ。ほかにマリオ・ソルダティも演出に参加。チーフ助監督にセルジオ・レオーネがついている。

 すでに経験豊かだったレオーネは、レースシーン用に特別な橇を開発して、低いアングルから馬が狙えるようにした。カメラを乗せた台車に乗り込んで危険な撮影を敢行したという。

 脚本はタンバーグのほかに、シドニー・フランクリン、マックスウェル・アンダーソン、S・N・バーマンが参加。

 途中から起用されたゴア・ヴィダルは、ベン・ハーとメッサラのあいだに同性愛的関係を想定しようとした。再会のシーンで「ボイドは料理を前にしてお腹を減らしている人のようにヘストンを見ている」(ヴィダル)。かどうかは別として、きれいどころもでてこなければ(エステル役は得体の知れぬイスラエルの大根女優)、お色気シーンも皆無(祝宴のシーンでは人種差別的な黒人のダンスがあるだけ)の本作を見れば、どんなに鈍い観客でもそういう勘ぐりは自然にするのではなかろうか。

 ヴィダルはけっきょくお払い箱にされ、ワイラーお気に入りの作家クリストファー・フライが後任に。

 ベン・ハー役にはポール・ニューマン、マーロン・ブランド、ロック・ハドソン、バート・ランカスター、ジョン・ギャヴィン、シーザー・ダノヴァ、メッサラ役にはヴィクター・マチュア、スティーヴ・コクラン、チャールトン・ヘストンが候補に。

 ヘストンはあきらかにメッサラ向けだよねえ。『黒い罠』の官僚的刑事から『ボーリング・フォー・コロンバイン』のエセ保安官気取りまで、人間味のない硬直した悪役専門の役者が全篇めそめそするのを見せられるのは拷問に近い。

 ワイラーは、民族的対立を際立たせるため、ユダヤ人をアメリカ人俳優、ローマ人をイギリス人俳優に演じさせることにこだわったとか。

 監督も俳優も、しているのは演出でも演技でもなく、物語の「説明」ないし挿絵。キリストの顔を映さないなんてのは、フレッド・ニブロ版のパクリにすぎない。金をかけたセットを一秒でも長く映さなきゃ損とでも言わんばかりにもったいぶったスローテンポ。ラオール・ウォルシュなら3秒しか映さないだろうところを30秒に引き延ばして見せている。

 本作の主役はさしずめ歴史に残る長大なスコアを書いたミクロス・ローザだろう。全篇がローザのシンフォニーの長い長いプロモーションヴィデオに思えてくる。

 撮影のロバート・サーティースの名誉のためにも付け加えておくなら、チャチで退屈なガレー船のシーンの幕切れのショット、手前にオールを漕ぐシルエットになった奴隷を配し、甲板の上からその奴隷を眺めるヘストンを画面奥に捉えた短いショットに、『偽りの花園』や『我等の生涯の最良の年』の監督の面目がかろうじて垣間見える。

 ガレー船も馬車も出てくるのに、古代史劇のくせして機械学的な発見がないのも不満。せいぜいレースシーンの魚のかたちをしたカウンターくらい。

美しき賭博者:『西部に賭ける女』

2014-01-12 | ジョージ・キューカー
 ウェスタナーズ・クロニクル No.19

 ジョージ・キューカー 『西部に賭ける女』(Paramount, 1960)

 カルロ・ポンティが奥方のソフィア・ローレンのショーケースとして企画した。キューカー唯一の西部劇で、『男装』『Travels with My Aunt』と並ぶ旅役者もの三部作のひとつ。キューカー自身、もともと旅回りの劇団員であり、この三部作にはかれの個人的な経験が随所に投影されているとされる。

 脚本にはダドリー・ニコルスが起用されたが、病気のため降板(本作公開の年に死去)、リライトのためにウォルター・バーンスタインが指名された。

 舞台は1880年頃。アンソニー・クイン率いる旅役者一座。長年の恋人で一座の花形ソフィア・ローレン。ポーカーで体を賭けて負ける。勝ったスティーブ・フォレストが「財産」を守るために一座に加わる。荒野を横断する際に原住民とのいざこざ等があり、ローレンは結局、つけを払うが、最後はクインのもとに帰って行く。

 コメディータッチではじまり、中盤でアクションシーンが出て来て、最後はメロドラマに落ち着くという、トーンのたびたびの変調が魅力と言えば魅力。

 物語は薄っぺらいメロドラマだが、もともと脚本にはなかった、旅する一座のピトレスクなエピソードがいくつも撮影されていた。西部劇らしからぬこれらのエピソードの扱いに困って、スタジオは最終的にこれらをカットしてしまった。

 アリゾナの光はキューカーを魅了した。「原住民のみかけ、フロンティアのようす、メインストリートの泥」のリアリティは、写真などによる時代考証のたまものであるとキューカーは胸を張る。

 原住民との遭遇のシーン。岩に隠れていた二人の原住民(南北戦争の軍服でカモフラージュしている)が一座の前におずおずと姿を現す。頭皮をはがされ、目を見開いて仰向けに倒れている仲間の死体のアップ。振り返りながら、死体から目を離せない少女(かつての名子役マーガレット・オブライエン)のリアクションがリアル。

 見捨てられた劇団の幌馬車から取り出した色とりどりの衣裳をはおってはしゃぐ原住民。このエピソードは実際の旅役者ジョゼフ・ジェファーソンの回想に基づいているとのこと。もはや原住民たちの姿は見えず、色彩だけがスクリーンを覆いつくす目もくらむシーン。スペシャル・カラー・コンサルタントという名目でついているジョージ・ホイニンゲン=ヒューエンとアートディレクターのジーン・アレンの貢献が大きいようだ。

 ユーモアいっぱいではつらつとしたローレンの水も滴る官能美。まちがいなく彼女のもっとも美しかった映画だろう。ジャック・ドゥミも本作に魅了されたにちがいない。テーマ曲の出だしが『ロシュフォールの恋人たち』でダニエル・ダリューが何度か口にするメロディーに似ている。

 精彩を欠くクインの役には、若きロジャー・ムーアが候補に挙がっていたが、スタジオのお偉方を説得するには至らなかった。キャストはほかにエドモンド・ロウ、アイリーン・ヘッカート、ラモン・ナヴァロ。

 本作をキューカーの総決算的な作品とみなす批評家も複数いることを付け加えておこう。