Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

荒野の女たち:『Meek's Cutoff』

2018-10-31 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.62


 ケリー・ライヒャルト「Meek’s Cutoff」(2010)


 欧米で高い評価を受けたもののなぜかわが国未公開でソフト化もされていないちょっとした掘り出し物。

 近年の arty な西部劇にありがちな(たとえば『ジェシー・ジェームズの暗殺』みたいな?)もったいぶっただけの作品ではないのかと高をくくり、見るのを延ばし延ばしにしていたが、これは“買い”であった。

 1845年、オレゴン。開拓者の三組の夫婦(そのうちの一組には子供がある)がスティーヴン・ミークなるうさんくさいガイド(実在人物)に伴われて幌馬車を進める。飲み水が尽きてきた頃、道に迷ったことに気づいたかれらは、捕えた先住民に道案内をさせるが、いつまでたっても水のある場所にたどりつけない。一本の巨木を見つけたかれらは、そこにとどまるべきか先住民についていくべきかの選択を迫られる。

 全篇、家一軒見当たらぬ荒野をさまよいつづける一隊を追うロードムーヴィー。スタンダードサイズのスクリーンに映し出される鮮烈な風景、極端に照明を落としたナイトシーン、大胆に削られ、しかもおおくは囁くように話される台詞。

 生々しい風景と自然音、ミニマルな日常的身振りの淡々とした積み重ねがいつしか一幅の抽象画に反転し、そこを舞台に純度の高い精神的な(倫理的な)ドラマが展開する。

 二人のサミュエル(ベケット、フラー)とテレンス・マリックをこきまぜたような世界観とでも要約できようか。

 何日間の出来事を描いた物語なのかは不明であるが、カラフルな衣装とエキゾティックな被り物をまとった女たちは小綺麗でひたすら美しいままで、憔悴しているようにはとてもみえないのはご愛嬌か、もしくはギャグなのか。

 冒頭ちかく、幌馬車隊が画面手前へとフレームアウトしてエンプティショットが数秒持続したかとおもうと、画面奥の丘陵の頂を同じ一隊が画面右側から小さなシルエットとしてフレームインしてくる。このへんのウィッティな語り口も好ましい。

 運命を伴にすることになる先住民は、ヒロインであるミシェル・ウィリアムズの視点を介して観者に紹介される。

 ふと遠くの山頂に小さな人影を認めたウィリアムズの視界が、画面手前を横切る幌馬車によって一瞬遮られる。幌馬車が通り過ぎると、すでに山頂の人影は消えている。

 ついである夕刻、マジックアワーの残光の中、身をかがめ薪を拾って歩く同じウィリアムズがふと目を上げると何者かの足が目に入る。

 『捜索者』で、幼いデビーが飼い犬を追って外に出るとコマンチの酋長に出くわす場面をいやがうえにも想起させる。

 『捜索者』のようにそのままキャメラが足元からティルトアップするかとおもうと、驚愕して立ち尽くすウィリアムズのショットにすぐさま切り返される。腕に抱いた薪を音を立てて落とし、振り向いて走り去るウィリアムズのリアクションにつづけてはじめて先住民の顔が映し出される。

 先住民のほうもあわてて馬を駆って逃げ去り、ついでキャンプに戻ったウィリアムズが息を切らせたままおもむろに銃の手入れをはじめ、空砲を空に向けて一度、二度と放ってみせるようすがロングショットで淡々と描写される。

 英語を解さず、ポーカーフェイスをとおす先住民の心のうちはかのじょらにもわれわれ観者にもわからない。

 かれは一行を救おうとしているのだろうか、あるいは罠にかけようとしているのだろうか。

 こうした心理的なサスペンスが見る者の興味を一瞬もそらさない(ついでに言えば、視界を制限するスタンダード・サイズの選択もまたサスペンスの創出に寄与している)。

 その出会いの場面からもわかるように、先住民は、ウィリアムズの(幻とはいわないまでも)いっしゅの創造物であり、投影である。

 先住民と、その心理をなんとか推し量ろうとするウィリアムズとはいっしゅの分身的な関係に置かれている。

 ウィリアムズは繋がれた先住民に毎日水を届け、その傷んだ靴を繕ってやりさえする。ミークが先住民を見限って銃口を向けると、ウィリアムズがライフルをミークに向けて先住民を守ろうとする。

 ウィリアムズの強いまなざしが心に残る。『ウェンディー&ルーシー』『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』でも組んでいるライヒャルト=ウィリアムズは、女性監督と女優のタッグとして現在もっとも注目すべき組み合わせといえるだろう。

 キャストはほかにブルース・グリーンウッド、ゾーイ・カザン、ポール・デイノ、シャーリー・ヘンダーソンとなかなかに豪華。



二十八人の怒れる男:『牛泥棒』

2018-10-28 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.61


 ウィリアム・ウェルマン「牛泥棒」(1943年、フォックス)


 1885年、ネバダ。二人の流れ者(ふたりのヘンリー、フォンダとモーガン)が町にたどり着く。建物を抱き込むようにカーブを描く坂道をゆっくりと下ってくる馬上の二人をとらえたロングショット。

 この印象的な地形のオープンセットはフォックスの西部劇でよくお目にかかる(『地獄への道』『無法の王者ジェシー・ジェームズ』などでも使われていたと記憶する)。

 酒場の扉を押して無言のままカウンターに陣取る二人。バーテンダーを無視して目の前の額に見入るヘンリー・フォンダ。額には半裸の眠れる美女に男が忍び寄るいっしゅの夢魔をモチーフにした絵がかけられている。絵の中の男は永遠に女性にたどりつけない、となにほどか哲学的なセリフをつぶやくフォンダ。

 物語の進行とともに、これがかれじしんの肖像にほかならないことがわかってくる。じっさい、彼が迎えに来た女性はすでに町を後にしていた。

 クライマックスのリンチ場面においてもかれは一介の傍観者的な立ち位置にとどまることを強いられるだろう。ほかのすくなからぬウェルマン作品どうよう、主人公は物語の終わるまで目前の状況にたいして絶望的なまでに無力なままである。

 牛の盗難および持ち主殺害の知らせが酒場にもたらされると、保安官不在のままたちまち犯人狩りの一隊が組まれ、総勢二十八名による山狩りがはじまる。

 山中で偶然、昔の女(メアリー・ベス・ヒューズ)に再会するも、すでに人妻となっていた彼女に主人公は手を出すことができない。

 偶然そこに野宿していた三人連れ(ダナ・アンドリュース、アンソニー・クイン、フランシス・フォード)がたちまち犯人に仕立て上げられる。

 裁判にかけるか否かが有無を言わせぬまま多数決にかけられ、フォンダら七名の反対を押し切ってリンチが決行される。

 リンチは画面外で進行し、ことが済んだあとで吊るされて揺れている死体の影だけがちらっと映る。

 揚々と引き上げてきた一隊はかれらを探しに来た保安官から被害者が生きており、真犯人が捕まったことを知らされる。保安官はその場で保安官補を解任し、一同を無罪放免とする。

 気弱な息子を男にするために無理やり人間狩りに引き立てていった自称元南軍大佐(フランク・コンロイ)は、息子になじられ自殺する(やはり閉ざされたドアの向こうでことが起こる)。

 バーのカウンターに意気消沈した一隊の面々が無言のまま並んでいる。リンチの犠牲になった男(ダナ・アンドリュース)に託された手紙をフォンダが一同に読んで聞かせる。

 そこには家族への愛情と法の超越的な力への一途な信仰が綴られていた。「法を無視した者はそれによって生涯くるしむであろう」との一節に一同の顔は凍りつく。

 手紙を読むフォンダの目は、画面手前に写り込んだヘンリー・モーガンの帽子の庇に隠されて観客には見えないようになっている。

 それによって主人公の心のうちをみずから想像することを観客は強いられるのであり、手紙のメッセージが生身の人間を超えた超越的な存在の声のように響くことになるのだ。

 俯いたまま身動きもできないでいる一同を残して、フォンダはそのまま酒場を出て行く。あわててついてきたモーガンが問いかける。「これからどうする?」「手紙を未亡人に届けねば。子供たちを世話する者も必要だろう」。

 くだんの坂道をふたたびゆっくりと上って行く馬上の二人のロングショットにフェイドアウト。THE END

 実際の事件に取材したというウォルター・ヴァン・ティルバーグ・クラークなる作家の原作を、『プリースト判事』『周遊する蒸気船』『若き日のリンカーン』『モホークの太鼓』といったジョン・フォード作品で知られるラマール・トロッティが脚本化。

 西部劇にしてはセリフが多く、舞台劇的な印象。予算の少なさをごまかすための窮余の策でもあるだろう。映画のほとんどが進行する舞台となる山中は低予算まる出しのシンプルこのうえないセットであるが、それが皮肉にも状況そのものの閉塞感をいやがうえにも際立たせる効果を出している。

 フォンダはこの十数年後、同じくきわめてディスカッション・ドラマ的な『十二人の怒れる男』においてまったく同じような役回りを演じることになるだろう。

 本作はクリント・イーストウッドのフェイバリット西部劇の一本である。『硫黄島からの手紙』が同じように手紙の朗読で終わっていることは偶然ではないだろう。

 ウェルマンは原作を読んでただちに映画化を心に誓った。およそ金になりそうのないこの企画に興味を抱いたのはダリル・ザナックだけであった。こういう野心的な作品のクレジットにじぶんの名前を掲げたいといういかにもザナックらしい見栄からではあったようだ。結果はもちろんヒットとはほどとおかった。ウェルマンは本作を撮る見返りとして気の進まない企画をいくつか手がけることを余儀なくされた。

 『怒りの葡萄』の母親役ジェーン・ダウェルが血に飢えた女傑をサディスティックに演じるという意表を突くキャスティング。リベラルな法治主義者役でハリー・ダヴェンポート。そのほかどれも一癖あるバイプレイヤーたちが脇を固める。

 撮影はフォックスの重鎮アーサー・ミラー。わずか75分の尺のなかできわめて密度の高いドラマが展開する。


追憶のオープン・レンジ:『星のない男』

2018-10-27 | その他





 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.60


 キング・ヴィダー『星のない男』(1955年、ユニヴァーサル)


 ワイオミング。貨物車を無銭で乗り継いでさすらうホーボー(カーク・ダグラス)が、同じ境遇の若者(ウィリアム・キャンベル)を鉄道会社の警備員の手から救って弟分にする。

 ホーボーはかつて同じくらいの年代の弟の命を有刺鉄線によって奪われていたことが事後的に明らかにされる。

 女性大牧場主(ジーン・クレイン)に雇われたホーボー(契約金はかのじょの肉体)は、モラルを無視して所有地を広げようとする牧場主のあくどさに愛想がつき、彼女に土地を狙われる小牧場主たちの側に寝返って有刺鉄線での防戦をたきつける。

 勝利した小牧場主たちから土地の提供を申し出られたホーボーは一言のもとに固辞、追ってくる弟分を地元のおぼこ娘に押し付け、逃げるように一人去っていく……。

 地味ながら、現代的な西部劇の先駆けとなった無視し得ない作品。

 脚本はボーデン・チェイス。いわずとしれたアンソニー・マンの西部劇のクリエイターのひとりだ(製作も同じくアンソニー・マンじるしのアーロン・ローゼンバーグ)。本作はなによりもチェイスの世界観が色濃く刻印された作品に仕上がっている。

 とはいえそれ以上に、底抜けの陽気さのなかに一抹のメランコリーと狂気をまとわせた主人公を息づかせているのは演じているカーク・ダグラス本人の個性にほかなるまい。

 ヴィダー自身は本作にいささかも執着をもっていなかったらしいが、大地という主題と個人主義というそれはヴィダー映画の王道であり、ダグラスとジーン・クレインとのあいだに交わされるダイレクトなセンシュアリティーとアンビヴァレントな愛憎関係はたとえば『白昼の決闘』をおもわせ、ダグラスと弟分の師匠関係はたとえば『チャンプ』をおもわせる。

 チェイスの脚本の巧妙さはすぐれて西部劇的な二つのオブジェの象徴的利用に集約される。

 ひとつは有刺鉄線であり、いまひとつはバンジョーである。

 オープン・レンジ(大西部)の終焉を象徴するオブジェである有刺鉄線(1874年に特許化)は、主人公のトラウマの原因であるとともに最後にはみずからの武器にもなる。

 すでに『群衆』『麦の秋』でも重要な小道具として登場したバンジョーは、本作では主人公の秘めた怒りが爆発し修羅場と化すかとおもわれたその瞬間、絶妙のタイミングで酒場の情深い女クレア・トレヴァーが主人公に投げ渡す。と一転してその場が作品中随一の愉快な場面に変貌を遂げるのだ。『リオ・ブラヴォー』で窮地にあるジョン・ウェインにリッキー・ネルソンが投げ渡すライフルもかくや。

 これに付け加えるべき三つめのオブジェは文明と官能とをともども象徴するバスタブだろう。

 主人公が農園主の家をさいしょに訪れる場面では、あるドアを開けたダグラスのおどけたリアクションだけが示され、浴室内のショットはない。もっと後の場面でつぎにダグラスが同じドアを開けると、カメラに背を向けて入浴中のジーン・クレインがバスタブから美脚を突き上げてダグラスを誘惑している。

 いまひとつの名場面。ダグラスから銃の手ほどきを受けた弟分がその技を自慢するために酒場でゴロツキを始末する。すかさずダグラスに殴られた弟分が師に挑発の言葉を投げると、ダグラスは拳銃を抜いて弟分に突きつけるが、すぐさま激しい自己嫌悪にかられて苦悩に顔をしかめる。

 本作のいまひとりの主役はラッセル・メティのキャメラだろう。とくに屋外場面での逆光を活用した味わいゆたかなテクニカラーを堪能したい。

 キャストはほかにリチャード・ブーン、ジェイ・C・フリッペン、etc。

自発的隷従:『人生は四十二から』

2018-10-21 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.59 


 レオ・マッケリー「人生は四十二から」(1935年、パラマウント)


 パリ。堅物のイギリス人執事(チャールズ・ロートン)がポーカーの抵当としてアメリカ人夫婦に売り渡され、かれらの故郷であるワシントン州の片田舎に連れていかれる。

 威厳のあるその物腰からセレブと勘違いされ、ちょっとした騒動が巻き起こる。

 独立して食堂経営に乗り出した執事はみずから“奴隷根性”を抛ち、コミュニティの面々に For He’s a Jolly Good Fellow の大合唱で迎えられる。


 キャプラと並び称されるアメリカン・コメディーの巨匠が手がけた本作は、わが国では西部劇とみなされていないようだが、欧米の西部劇事典のたぐいにはかならず載っている。

 なるほどヴィジュアル的には西部劇的なイコノロジーに乏しく、前半のパリのシーンはおよそ西部劇的な展開を予想させるものではない。

 とはいえ、その主題およびアメリカ的な精神のおおいなる顕揚によって、本作は西部劇の王道を行くものであるというべきだろう。

 “奴隷”解放というドラマが執事の精神的な自己解放をつうじて物語られる。

 料理の趣味の違いから口論がはじまると、ロートンはザス・ピッツ(ラストで結ばれる)に「国際紛争はよしましょう」という。

 まさに文明の衝突が本作のテーマであり、ヨーロッパ的“洗練”とアメリカ的“野蛮”の誇張された対照がギャグのシチュエーションとして利用される。

 とはいえマッケリーはそのいずれにも肩入れしない。

 粗野なアメリカ人がこれでもかとおちょくられるとどうじに、しゃちほこばったヨーロッパ人と対比されることで、ぎゃくにかれらの精神的な開放性と飾りけのなさが魅力的に映るという仕掛け。

 マッケリーの笑いはいつもパセティックな要素と不可分に結びついている。たんなるギャグで終わらない。

 隠れた主役はグルーチョ・マルクスさながらの自由人であり、主人公の魂の導き手となる主人を演じるチャールズ・ラグルスだ。いっぽうで、アメリカ人たることに劣等感をもちつづけ、ヨーロッパ人になりたいと願ってばかりいる妻(メアリー・ボランド)がいちばん損な役回りを演じる。

 マッケリーこそ人間というものをいちばん理解している映画監督だ、とジャン・ルノワールがたしかその自伝でのべている。

 ルノワールはアメリカで撮った『自由への闘い』(ダドリー・ニコルスとの共同脚本)で、同じく精神的な脱皮を遂げる主人公をロートンに演じさせているが、残念ながら駄作である。

 酒場でロートンがゲティスバーグ演説の一節を滔々と暗唱してみせる有名な場面がある。

 「リンカーンもゲティスバーグで言っているように……」と主人がいつもながらの知ったかぶりをすると、妻が「何を言ったの」とツッコミを入れる。しどろもどろの主人が常連客に助けを求めると、尋ねられた客はその隣の客に同じ問いをフり、その客がまたその隣の客に、というふうに“無知”の暴露がつぎつぎと連鎖していくさまをキャメラが流麗な移動撮影で追っていく。

 そこで何事かをしきりに呟き続ける斜め後ろからのロートンのアップが続く……。

 クライマックスでの「演説」がアメリカン・デモクラシーへのオマージュを捧げるという状況はキャプラ(あるいはチャップリン?)の映画をおもわせるにじゅうぶんだ。

 本作で編集を手がけているエドワード・ドミトリクの回想によれば、この場面でのロートンの百面相が試写で不評を買ったため、ロートンのショットを減らし、“聴衆”のショットを増やしたという。正解だろう。

 大げさなこの“名場面”の陰に本作は数々の小さな楽しみを隠している。そのひとつとして元主人役ローランド・ヤングと歌手役レイラ・ハイアムズ(『フリークス』)のあいだで演じられるほのぼのとしたドラムのギャグを挙げておきたい。

 本作はチャールズ・ロートンの最初のコメディーになる。監督にマッケリーを指名したのはロートンのほうであるらしい。

 原作はこれ以前に二度映画化されており、ジェームズ・クルーズが監督した二度目の映画化(1923年)で執事を演じたのはあのエドワード・エヴェレット・ホーントンである。



フランク・キャプラもまた西部劇をつくる:『女群西部へ!』

2018-10-20 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.58


 ウィリアム・ウェルマン「女群西部へ!」(1951年、MGM)


 西部劇はアメリカの映画監督にとっての通行手形ともいうべきものである。

 エリア・カザンやジョージ・キューカーさえもが撮っているこのもっともアメリカ的なジャンルにあのフランク・キャプラが無関心であったはずがない。

 キャプラがじぶんで撮ろうとしたがコロンビアから撮影許可が下りなかったオリジナルストーリーを友人のウィリアム・ウェルマンに語ったことでMGMでの映画化が実現した。

 群像劇がすきなウェルマンがこのストーリーに食いついたことには納得がいく。

 1851年。カリフォルニアに渡ってコミューンを形成した男たちの許へ、遥か三千キロを隔てたシカゴから150人の花嫁候補が苦難のトレイルを敢行する。

 ロバート・テイラーがその護送役を任される。

 150名という人数は道中で三分の一の者が命を落とすことを前提して割り出された数字。

 決死のトレイルに志願した女たちは、いうまでもなく訳ありの者ばかり。

 15人の男たちがこれに付き添う。ある者らは早々に女に手を出してテイラーに射殺され、別の者らはまんまと女を連れて逃げおおせ、また別の者らは先住民の襲撃によって命を落とす。

 最後まで生き残る男はテイラーと狂言回しにしてコメディーリリーフ役の日本人(大好演のヘンリー・ナカムラ)だけ。

 人物間の葛藤は簡潔に描写されるだけで、厳しい自然との戦いがこのジャンルにおなじみのかずかずのピトレスクなエピソードの淡々とした連鎖によって綴られていく。

 本作にあって人間関係はあくまで自然とのマテリアルな戦いを媒介として形成され、育まれるのだ。言い換えれば、登場人物の精神的な成長がもっとも映画的な表現方法によって描かれるということだ。

 英語いがいにフランス語、日本語、イタリア語が飛び交うポリグロットな映画であり、コミュニケーションの困難そのものが主題化されているともいえるが、そもそも全篇に亘って科白そのものが大胆なまでに削られている。

 おそらくキャプラが監督していたら、はるかに饒舌な映画になっていただろう。

 サイレント映画あるいはトーキー初期の映画かと見紛う瞬間に何度も出くわす。ぎゃくにいうとそれだけヴィジュアルとサウンドそれぞれのインパクトがつよい。

 たとえば出発直前、花婿候補の写真を各々品定めする女たちをよそに、テイラーに熱いまなざしを送るデニーズ・ダーセル(ラストでテイラーと結ばれる)のアップへのゆっくりとしたフェイドアウト。

 女らを乗せた幌馬車の列を盛装して迎える男たちを包む静寂。

 先住民の襲撃で命を落とした女らの名前がひとりひとり呼ばれる場面はもっともエモーショナルな場面のひとつだ。

 女らが三々五々、親しかった者の名前を告げる度に、キャメラがパンしてその傍の無残な亡骸を映し出していく。

 絵画的な構図に収められた亡骸のいちいちに哀悼の意を捧げるかのようにキャメラが一瞬フィックスになる。

 かつてクリント・イーストウッドはウェルマンの西部劇を「絵のように美しい」と形容したことがあったっけ。

 省略的なのは科白だけではない。これもウェルマン一流の“見せない”演出が冴え渡る。

 男の一人が手出しをして抵抗された女性を殺す場面は完全に省略に委ねられる。

 イタリア人女性の息子の命を奪う銃の暴発事故もフレームの外で起こり、事態はわれわれ観者に一瞬遅れて伝えられる。

 ジョン・マッキンタイアが命を落とす先住民の襲撃も、遅れてその場に到着したテイラーの視点によって事後的に、不意打ち的に報告される。

 いうまでもなく出産の場面も、テイラー(=観客)の目を遮る幌馬車の覆いの向こう側で進行する。

 音楽の使用もきわめて禁欲的。

 スター女優は一人も出ていない。女優がこれほどむき出しの自然光に容赦もなくさらされているハリウッド映画もめずらしい。女優たちは役柄どうように過酷きわまるロケーションに耐え、サバイバルの術を学んでいった。そのようすを伝えるメイキング短編映画(Challenge The Wilderness)が撮られている。

 女性をフィーチャーしたウェスタンは数あれど、これほど反フェミニズム的な作品はない。テイラーは兎を撃とうとして馬のスタンピードを引き起こしかけたダーセルを鞭で打擲する。逃げ出したダーセルを猛スピードで追撃するチェイスシーンでは同じダーセルに強烈な往復ビンタを喰らわせる(その直後に無言の抱擁シーンがくる)。“男性映画”の代表的な撮り手であるウェルマンの面目躍如というべきか?それにもかかわらず、女性たちのたくましさに捧げられたこれほど篤いオマージュがかつてハリウッドで撮られたことはないだろう。

 脚本は『赤い河』のチャールズ・シュニー、撮影は『裸の拍車』のウィリアム・C・メラー。製作ドア・シャリー。