Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

映画作家の誕生:監督・田中絹代の傑作『恋文』

2018-04-29 | 田中絹代




 田中絹代「恋文」(1953年、新東宝)

 終戦から五年、殊勲をあげて出征先から帰還した真弓(森雅之)は弟(道三重三)の下宿に居候して主夫のような暮らしをしている。かれはにちや街頭に立って東京に嫁いだ昔の恋人・路子(久我美子)を探していた。偶然再会した兵学校の同窓生・山路(宇野重吉)に誘われ、パンパンらが帰国した情夫と交わす手紙を代読・代筆する仕事をはじめる。ある日、路子が代筆の依頼に訪れ、ふたりは再会を果たす。未亡人となったあと、寂しさをまぎらすために米兵に身を委ねた路子を真弓はなじる。弟が二人の和解を画策し、夕食の席を設けるが、真弓は来ない。意気消沈して帰宅の途に着くみちみち、路子は知り合いらしきパンパンらに親しげに声をかけられるが、知らぬふりを決め込む。路子は真弓弟にじぶんはパンパンではなく、進駐軍の事務員をしていたときにかのじょらと知り合ったのだと弁解する。半信半疑の体の真弓弟に路子は絶望し、ふらふらと車道に歩み出る(俯瞰のロング)。画面外で急ブレーキの音がする。駆け寄る真弓弟。いっぽう約束に赴かず戻ってきた真弓は山路にその意固地さを責められ、約束の店へ連れて行かれる。とうに路子のすがたはなく、下宿をたずねると、巡査がきて事故のことを知らせる。病院に駆けつけるタクシーのなかで山路は真弓に言い聞かせる。「罪なき者まず石を投げよ」。病室に横たわる路子が目を開くアップ。終。

 丹羽文雄の原作を木下恵介が脚本化。成瀬のサポートを仰いで完成された田中絹代の監督第一作で、女性映画の傑作である。

 路子はパンパンであったのか?映画はあえてその可能性を否定しさらずに終わる。田中じしんが『西鶴一代女』のお春をおもわせる年増のパンパンを演じていることからもわかるとおり、映画はパンパンを貶める世論にたいするつよい怒りに貫かれている。かのじょらをパンパンにおいやったのはとうの国家であり社会である。じぶんだけ手が汚れていないかのように思い込んでパンパンのモラルをことあげする卑劣な戦後日本人の代表が真弓である(甲斐甲斐しい“主夫”ぶりは敗戦による“去勢”の象徴か?)。

 再会したふたりが強風ふきすさぶ靖国神社で語り合うシーンは露光多寡ぎみで白日夢のような雰囲気に浸されている。パンパンらの追っ手を逃れた路子が真弓弟に真相を告げる場面ではカットを割らずに久我の横顔をとらえつづける。ラストでよこたわる久我がゆっくりと、ちからづよく目を開くアップは、頭を包む包帯と枕とによって背景が消され、久我のまなざしだけに観者の目がいくように撮られている。雨の午後に路子の下宿をたずねた真弓弟が川を挟んで対岸の反対側から歩いてくる路子に気づく場面も素晴らしい。この場面で久我がカメラの向こう側に振り向いてさしている傘がちょうどワイプのような効果を出している箇所がある。これに先立つある場面においても降り出した雨に傘を開く通行人らを印象的にとらえたロングショットがある。再会の場面ではまず代書屋をたずねてきた久我を宇野が応対し、隣室で昼寝していた森がその声にぴんときて飛び起きる。カーテン越しに覗く森に久我の顔は死角になって見えない。店を出た久我を森が遅れて追いかけるが、帰宅ラッシュの駅の群衆を縫ってのスリリングな追跡劇がしばしつづくあいだ(さながら助監督についた石井輝男作品のノリ)、久我のすがたは目に眩しいストライプの服と白いハイヒール、手に提げた白い手袋だけによって示され、その顔は映らない。すでに車輛に乗り込んだ久我が森の声に振り向き、乗客の波に飲み込まれそうになりながら必死に車外に出る。ホーム上で向かい合う二人を閉まるドア越しに車輌内から捉えたロングショット。電車が動き出し、かれらのすがたが画面外に消えるのと入れ替わりに四日市の少年少女時代へとおもむろにフラッシュバック。女学校の制服に身を包んだ久我が真弓の母(夏川静江)と語り合う場面は川と市街を遥かに見下ろす高台が舞台となる。手術室から出てきた医師に真弓弟が容体をたずねる場面では、医師と真弓弟の顔が影に沈み、セリフも消されている。毅然として背中を見せる医師と肩を落としうつむく真弓弟の姿勢だけから生命の危機が伝えられる。映画冒頭はタクシーを降りた真弓弟が兄と所帯をもつぼろアパートに帰ってくる場面。「月三千円の恋人」が車中からかれにしきりに手を振るが、車体がバウンドして椅子の背に投げ出される。めげずに愛想笑いを浮かべて何度も手を振るパンパンふうの女。こぎたない部屋で洗濯物を干していた兄に甲斐甲斐しく迎えられた弟(古本を横流しした利ざやで稼いでいる)は実は兄思いの好漢。とはいえすべてのキャラがスネに傷もつ身として描かれる。

 撮影・鈴木博、音楽・斎藤一郎。香川京子(弟の女友達の書店員)、入江たか子(久我の下宿のおかみ)、笠智衆(レストランの客)ほか多数が友情ないし賛助出演。

 溝口的? むしろドライヤー的というべき映画だ。

 

監督・田中絹代:『月は上りぬ』

2018-04-28 | 田中絹代




 田中絹代「月は上りぬ」(1955年、日活)


 『あにいもうと』で助監督として成瀬に演出の手ほどきを受けた田中絹代の監督第二作。脚本は小津安二郎と斎藤良輔(渋谷実作品で知られる)。奈良の唄いの師匠(笠智衆)の三人娘のトリプル婚を描くライトコメディー。“三人姉妹もの”という設定はいかにも成瀬的であるとどうじに笠が娘を嫁がせる小津映画のヴァリエーションといえる。

 映画の前半では三女(北原三枝)が次女(杉葉子)の結婚を後押しして成就させたかとおもうと、後半は三女自身の恋愛が長女(山根寿子)らの後押しで成就し、ラストでは父親が未亡人である長女の再婚を後押しするといういっしゅのロンド形式ともいえる三重構造の物語がしゃれている。ロマンティックな次女、感傷的で肉感的な三女、滋味あふれる長女の三姉妹がつぎつぎ奏でるトーンの変化がなんとも味わいふかい。まんなかのエピソードにもっともウェイトが置かれていて、グラマラスな北原三枝がその若さを弾けさせて全篇を引っ張る。

 三女はみずからが仕組んだ次女のための月夜の逢引をみずから反復することになる。おもいびとへのきもちをつたえられない次女を三女は責めるが、この非難は映画の後半で三女じしんに返ってくる。ラストでは父親が長女にたいしてやんわりとどうようの非難をする。人の言葉は信用できず目にこそ本心があらわれる(「目を見なきゃ」)との信条をもつ三女はさいごにみずからそれを身をもって証明してみせるに至る。

 ラストでは、次女ついで三女をあたふたと東京に送り出した笠が色づいた(モノクロだけど)山に面した座敷で長女に稽古の支度をさせている。「いいお天気」と長女。「当分秋晴れが続くぞ。これからの奈良はいいぞ」と父が応じる。唄いの稽古がはじまり、寺のロングショット、月景色のロングショットがインサートされて幕。さいごのセリフには『東京物語』の名セリフ「きれいな夜明けじゃった。きょうも暑うなるのう」と響きあうものがある。

 とはいえもっとも笑えるとどうじにもっとも驚くべき場面は、なんといっても田中じしんが“女優”を演じるプライヴェート・ジョークの傑作ともいうべき場面だろう。くだんの月夜の逢引に次女のおもいびとをさそいだすべく、三女は下働きの田中絹代に命じて次女になりかわって電話を入れさせる。芝居勘のない田中に三女がなんどもダメ出しをしてきびしい“演技指導”をつける。田中絹代が「演出家=三女」にして「女優=下働き」であるみずからを演出するという目の眩むようなバロック的状況(言うまでもなくこのとき三女のすがたにメガホンをとる田中のすがたとどうじに田中に演技をつける溝口健二のすがたをだれもがオーヴァーラップさせずにはいないだろう)。小津の仕掛けたささやかな悪戯だろう。

 いくつかのショットにおけるバロック的なライティングは小津に由来するものでも成瀬に由来するものでもない。強いて言えばサイレント時代の溝口に親近性が見出せるかもしれない。ちなみに美術は木村威夫である。

 寺院を見せる場面が多いこともあり、師匠の成瀬が滅多に使わないような大きく引いたショットが目立つ。夜間に逢引する次女と恋人を背後からゆるやかに追う仰角気味のトラッキングショットなどにみられる不思議なカメラワークがいくつか。

 溝口の反対にもかかわらず小津の強い後押しによって本作は撮られた。笠の現前に加えて斎藤高順の音楽も小津っぽさをつよめる。しかし田中の演出はともすると叙情や重厚さを志向し、小津の脚本の要求する(ハリウッド的な?)テンポについていけていない。ありていに言えば冗長。北原と恋人の繋がれた手のアップ、ラストシーンでの山根の横顔のアップは余計だろう。キャストはほかに佐野周二、小田切みき。

成瀬巳喜男の家族人類学:『あにいもうと』『妻の心』『くちづけ』

2018-04-26 | 成瀬巳喜男



 成瀬巳喜男「あにいもうと」(1953年、大映)


 『めし』における上原と姪・島崎の“近親相姦”的モチーフは本作で顕在化し、次作『山の音』へと繋げられる。

 先行する『稲妻』にも後続する『妻の心』にも独身の“あにいもうと”の所帯が登場する。

 『妻の心』では三船敏郎と杉葉子が夫婦ではなくきょうだいであることがかなり経ってからでないとはっきりとはわからない。

 映画は高峰秀子と三船の潜在的な不倫関係によってきょうだいどうしのキケンな関係になんとかして罅を入れようとする。

 あずまやのようなところでデコと三船が雨に降りこめられる場面はすばらしい。雨が二人の潜在的な情熱を目覚めさせかけるのだ。しかし闖入者の登場によって盛り上がりかけたムードは一挙にしぼんでしまう。

 それにめげず映画はこの潜在的な不倫関係をデコの夫(小林桂樹)の芸者遊びによって正当化しようとする。あまつさえ小林との旅行先で芸者が自殺するという無理のある設定によって小林の罪深さを強調する念の入れよう(小林が芸者の死をデコに伝える場面は笑える)。

 ラストは杉の結婚を暗示することであくまできょうだいを引き離そうとするが、いつもの成瀬的な「開かれた」ラストによって、闖入者の義兄夫婦(中北千枝子の存在感の怖さは絶品)の始末やデコの喫茶店開店の実現とともにキケンなきょうだいの行方も先送りされたまま映画は終わる。

 『くちづけ』の成瀬篇「女同士」にも擬似的な近親相姦的モチーフが存在する。開業医の上原と妻のデコのあいだには子供がなく、適齢期をむかえた住み込みの看護婦(中村メイコ)がいわば娘のような位置を占めている。映画はコメディーの文脈に託して“娘”と“父”の“不倫”を描く。

 レヴィ=ストロースによれば、自然と文化を分け隔てるのはインセスト・タブーの存在であるが、成瀬映画のドラマトゥルギーの根本にあるのもまた近親相姦への魅惑と反発の葛藤である。『あにいもうと』の重要性はこのテーマを正面からとりあげていることだ。インセスト的関係が破られるとき、成瀬映画はハッピーエンドをむかえ、そうでないとき、ハッピーエンドはおあずけとなる。

 『あにいもうと』の幕切れに成瀬お得意の確信犯的にミスリーディングなカッティングがある。精霊流しの晩に久我は既婚者となった元恋人と出くわす。遠くから彼女を見る男のアップに、晴天をバックに笑顔で手を振る久我のショットがつづく。一瞬フラッシュバックとおもわせつつ、実は翌朝、実家の母親に別れの挨拶をしている久我のショットであることがわかる。『春の目ざめ』の幕切れのショットを想起させずにはいないこのショットによって、久我は「家族のみならず青春時代にも別れを告げているのだ」(シュザンネ・シェアマン)。

 『妻の心』には食堂のおやじ加東大介が見事なフライパンさばきでデコに料理のレッスンをつける微笑ましい場面がある。言うまでもなく『おかあさん』で田中絹代を相手にアイロンがけのコツを伝授する傑作場面の再演である。


そして人生はつづく:成瀬巳喜男の『めし』三部作

2018-04-23 | 成瀬巳喜男





 成瀬巳喜男『めし』『夫婦』『妻』(1951〜53年、東宝)

 『夫婦』の冒頭はビルの外階段らしきところから鉄柵ごしの街を見下ろす不安定なショット。デパートの屋上へつうじる階段を杉葉子が降りてきてそれが杉のPOVショットであったらしきことがわかる。降りてくる杉を屋上で待ち受ける二人の同窓生がきびしくファッションチェックし、杉の生活の困窮ぶりが暗示される。つかのまの解放感をしばし味わった杉はふたたび“地上”の生活に戻っていく……。

 『めし』の成功に乗じた二番煎じ的作品にして漠然とした後日譚。脚本は『めし』の井出俊郎と水木洋子(『めし』の田中澄江からバトンタッチ)。原節子が病気のため成瀬の推薦によって『めし』で原の実妹を演じた杉葉子が上原の妻役に抜擢されるが、結婚五年目の[第一次]倦怠期を演じるにはいかにも若すぎて違和感がある。

 『めし』では夫の姪(島崎雪子)、『夫婦』では夫の同僚にして同居者(三国)および同僚の若い女性(常連の木匠久美子あらためマユリ)の存在が夫婦の亀裂を深める。いずれの作品においても報われぬ家事労働に疲れた妻が実家に帰る。妻の実兄に小林桂樹(『めし』では原の義弟)、実妹に岡田茉莉子(『舞姫』とはちがいほんらいのはつらつさを発揮)。

 阿部嘉昭によれば『夫婦』はその中途半端な結末を除けば「『めし』の崇高性をすべて喜劇文脈に脱構築し終えた意地悪な(ママ)傑作」たりえたかもしれない作品ということになる。果たしてそうか?

 未完の原作にくっつけられた『めし』の作為的な幕切れよりも、『稲妻』どうようの「青臭」い「『微妙な余韻』のハッピーエンド」こそ成瀬的というべきである。阿部じしんが付け足しのように指摘する「忘れがたい細部」の「ひしめ[き]」においてこそ本作は輝く。

 三部作の掉尾を飾る『妻』は『めし』どうよう林芙美子の原作を仰ぎ、井出俊郎の単独脚本による。冒頭と末尾に『めし』のような夫婦それぞれによるヴォイスオーヴァーが使われ、結婚十年目の破局寸前の夫婦関係を描く。上原の相手役はわれらが「たかみえ」こと高峰三枝子がつとめ、杉葉子の五年後の姿としては違和感があるが、れいの能面顔にものをいわせて心の冷たそうな妻を演じている。ただし本作のたかみえははっきり言ってあまりよくない。コメディーリリーフを引き受ける間借り人の三国(前作からの再登板)とのかけあいなどにおける軽みとテンポと蓮っ葉なディクションはわるくないが、せんべいを頬張りながら口を開けて話し、食卓で歯茎を剥き出して楊枝をつかい、お茶で口をゆすぎ、間借り人の目のまえで耳垢をほじってはなんども指で払い落とすといった“シェイムレスな倦怠期の妻”の演技はわざとらしくて見るに耐えない。残念ながら、こと“演技力”にかんしてはたかみえはデコの足元にも及ばないと言わざるを得ない。

 こんどは夫が元同僚の浮気相手(丹阿弥谷津子)と肉体関係を結ぶにいたったことが暗示され、たかみえが浮気相手のもとに単身のりこんでバトルをくりひろげる。本作でも妻は里へ帰るが、わりとあっさり戻ってくる。ただし関係が修復する兆しがまったく見えないまま、曖昧に幕を閉じる(ラストは無表情で—もともと表情がないが—黙々と部屋にはたきをかけるたかみえを窓の外からとらえたロングショットにフェイドアウト)。

 原作では二人は離婚することになっており、成瀬も井出もそのようなエンディングを望んでいたが、興行的配慮から映画では結末を曖昧にしたという。とはいえぎゃくに、結論を先送りしたエンディングこそがすぐれて成瀬的なそれであることはいうまでもない。成瀬の映画のなかで流れている時間はわれわれじしんの日常とおなじクライマックスのない平坦な時間であるから。映画が終わっても人生はつづいていくのだ。

 このいみで『めし』三部作をジャック・ベッケルの『幸福の設計』『エドワールとキャロリーヌ』『エストラパード街』の三部作、もしくはそれに倣ったフランソワ・トリュフォーのアントワーヌ・ドワネル三部作になぞらえることがゆるされよう。いずれにおいてもあとの作品になればなるほど夫婦の危機が深まるのであり、また、シリーズが幕を閉じたあともわれわれ観者のこころのなかに主役の夫婦が棲み続けている印象をあたえるのだ。

 上原が愛人宅の縁側で二人の今後について語り合う場面。上原は未亡人である愛人の息子と玩具の自動車で遊んでいる。ふと自動車が縁側から“脱線”し、庭に転落する。ダグラス・サークの There's Always Tomorrow に似たエピソードがあったはずだが、愛人が事故死するなりして夫婦が元の鞘に収まるのかと予想するとまんまと肩透かしを食う。とはいえ曖昧なラストはそのような展開の可能性をけっして排除しない。



けだもの組合、あるいはデコのむきだし:成瀬巳喜男の『稲妻』

2018-04-22 | 成瀬巳喜男




 成瀬巳喜男「稲妻」(1952年、大映)

 たとえば小津と原節子、溝口と田中絹代の関係とはちがって成瀬と高峰秀子のあいだには一貫して冷淡な感情のかよいあいしかなかったことはよく知られている。成瀬はアーティストとしてのデコをリスペクトしてはいたようだが、女性としてのデコにはあきらかに無関心であった。これがデコにはさいわいした。私見によれば、女優をもっとも美しく撮れる監督はゲイである。ヴィスコンティしかりキューカーしかりアルモドバルしかり。一方、いちれんの潜在的なゲイ監督というものが存在するが、女に関心のないかれらは女優の撮り方をまるで知らない(大島渚、ヴィム・ヴェンダース)。成瀬はゲイではなく、おそらく潜在的なゲイでもないが、その女性観には根本的な倒錯性がある。それは成瀬映画の偉大さの最大の源泉である。

 ブスをサディスティックにいたぶるというシチュエーションは成瀬にとってもデコにとっても持ち味を最高に発揮できるおいしい状況だ(ひとはそれを早とちりして「メロドラマ」と呼ぶ)。本作においてデコ(「車掌さん」ならぬバスガイド役)がもちまえの“醜女力(ぶすりょく)”とでもいうべきものを遺憾無く発揮し、決定的に成瀬的なヒロインの座に躍り出たことはぐうぜんではないだろう。

 デコの最大(にして唯一?)の武器は生来の不愛想なじゃがいも面をさらに歪めた渋面と吐き捨てるようなシニカルな台詞回しである。押し付けられた縁談相手の成金パン屋(小沢栄)に向けられるデコの「軽蔑のまなざし」がいちいち笑える。長姉(村田知英子)を愛人にしたパン屋と寝取られ男(植村謙二郎)が狭い長屋でつかみ合いをはじめ、ビール瓶が飛び、引き戸のガラスが割れる。デコは二人にれいの「軽蔑のまなざし」を投げながら「けだものみたい」と吐き捨てるように呟く。
 そこへたまたま帰ってきた母親の浦辺粂子が「あらあら、いったいどうしたの?」と絶妙の台詞回しであきれ顔のフォローを入れ、フェイドアウト。

 そのご溺愛していた夫を失った悲しみで泣き暮らしていたはずの次姉(三浦光子の特筆すべき好演)もパン屋の毒牙にあっさり籠絡され、カフェヱの雇われマダムにおさまる。開店前のカフェヱをおとずれたデコは店の奥から現れたパン屋を見てたちまち顔を曇らせる。パン屋はデコににじり寄ってカウンターに追い詰め、デコの顔にじぶんの顔を近づける。デコはパン屋の腕に噛みつき、もじどおり毒でも吐き出すように横を向いて唾を吐く。くっきりと白い唾は綺麗な軌道を描いて画面左側へフレームアウトする。

 かのじょはきょうだいの父親が全員ちがうことにコンプレックスをもち、じぶんを「けだもの」どうぜんの素性と感じているが、成瀬はもじどおりにデコに「けだもの」じみた演技をさせているわけだ。いわば『浮雲』や『乱れる』において完成されるむきだしの、そのいみで“けもの”のような女性(をんな)像がここにクリエートされる。

 かのじょが「けだもの」扱いする母親との和解で物語は閉じられる。これに先立ちデコはあるしゅのけだもののようにしばらくすがたをくらますが(そのかん、いわば人間の住処である「世田谷」にねぐらをさだめていた)、ラストではおなじようにいずこへかすがたをくらました次姉を必死に探す母親が下宿のデコを訪ねてくる。浦部のとぼけた台詞廻しとデコの絶妙の合いの手がかけあい漫才さながらに観者を爆笑の渦に巻き込む。

 次姉のゆくえがしれないまま映画は終わる。『銀座化粧』や『おかあさん』のようなクライマックスを欠いたエピソード的な映画づくりが本作にも引き継がれていることがこうした幕の引き方からもわかる。スザンネ・シェアマン女史はこれを原作(林芙美子)の新聞小説ゆえの構成の緩さに帰しているが、「成瀬の作品においては、一条の光明しか与えられなくても、小さな希望こそが、大団円のハッピーエンドよりも長続きすると見なされる」とする指摘は洞見である。闇のなかへ並んで消えていくデコと浦部の背中を捉えたペーソスゆたかな幕切れのショットにはおもわず頰がゆるむ。

 お供えの葡萄をくすね縁側で頬張るデコが皮だか種だかを吐き出しては肩越しに投げ捨てたりする昭和の風習(?)や「蝙蝠傘の直し」という巡回職人の掛け声、あるいは「ビールのくちがね」といったかずかずの死語も笑えると同時に風俗史的に興味ふかい。デコが下宿先の老婦人にふるまわれた「長さが自慢」の蕎麦と格闘するくだりには身振りの観察者としての成瀬のセンスが生きる。中北千枝子が次姉から遺産を脅しとろうとする亡夫の愛人役ですごみをみせる(『薔薇合戦』にも印象的な恐喝者が出てくることはすでにのべた)。その年のキネ旬ベストテンでは同じ成瀬の『おかあさん』(7位)をおさえて2位。