Negative Space

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アッティラの怒り:『異教徒の旗印』

2016-07-17 | その他



 古代史劇映画礼讃 〜 Viva! Peplum 〜 No.33;ダグラス・サーク『異教徒の旗印』(1953年、ユニヴァーサル)の巻


 メロドラマの巨匠サーク唯一の古代史劇。ローマ帝国最末期。百人隊長のマルキアヌス(ジェフ・チャンドラー)とアッティラ(ジャック・パランス)の対決を描く。

 冒頭、囚われの身のマルキアヌスが聖セバスチャンさながら足に矢を突き立てたまま木に縛りつけられている。アッティラの野性的な娘(リタ・ガム)がその男前にほだされたのにつけこんでまんまと逃走するマルキアヌス。一方、アッティラはアッティラでマルキアヌスの妃となるプルケリア(リュドミラ・チェリーナ)に色気を出すというように、史実は大幅に虚構化されている。

 サークはマーローの『タンバレン大王』を映画化するというアイディアをかねてから温めており(「マーローの劇の過剰なほどのルネサンス性が気に入ったのです。仮面とか象徴とか」)、降板した監督の後を襲い企画がかなり進んだ時点で参加をもちかけられた本作にはヴィクトリア朝的な世界観が色濃く投影されている。

 アッティラはサーク好みの「じぶんのまわりをまわってばかりいる人物」、つまりハムレット的な人物として描かれており(「でもハムレットのようにおとなしいこの手の人物のなかで、アッティラだけが暴虐的な変種だった」)、予言にふりまわされて破滅する強迫的なところはマクベスをおもわせる。

 騎馬のまま教会に踏み込もうとしたアッティラは、薄闇に浮かび上がる十字架におそれ戦いて退却する。霧のなかから白装束の老人が現れるという予言は、舟で面会に来た教皇の姿として実現される。娶った女奴隷に殺されるラストでは、アッティラの亡骸に突き立てられた短剣が地面に鮮やかな十字の影を描く。

 アッティラを滅ぼしたのはキリスト教の神であるというわけだ。宗教的なミスティシズムは、サークが同年に撮った『心のともしび』にもあきらかなところ。

 悪評を買ったタイトル(Sign of The Pagan)はサーク自身によるもの。サークが本作にいい思い出をもっていないのは、シネマスコープサイズのスクリーンと従来型のスクリーンいずれのフォーマットでも上映可能なように撮影することを強いられ苦労したせいであるという。さいきんフランスでリリースされたディスクにはその二つのヴァージョンが収められている。

 撮影ラッセル・メティ、音楽フランク・スキナー、衣裳ビル・トーマスという常連で固められたスタッフ。リュドミラ・チェリーナは本作では踊らないが(お約束の饗宴シーンはもちろん用意されている)、その体の動きには流石に無駄がない。

 くしくも同年、大西洋の向こう側では『ヘラクレス』の巨匠ピエトロ・フランチーシがアンソニー・クインを主役に『アッチラ』を撮っているが、後者のほうがずっと史実に忠実ではあるようだ。



荒野のバニシング・ポイント:『荒野に生きる』

2016-07-15 | その他



 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.54;リチャード・C・サラフィアン『荒野に生きる』(1971年、ワーナー)の巻


 ミニ・シリーズ「『レヴェナント』への道」最終回は、真打ち『荒野に生きる』登場。

 『レヴェナント』の実在した罠猟師ヒュー・グラスは、原作を同じくする本作ではザカリー・バースとして登場する。

 本作は製作のサンフォード・ハワード、脚本のジャック・デウィット、主演のリチャード・ハリスのトリオが『馬と呼ばれた男』に引き続いて世に送り出したもうひとつのサヴァイヴァルもののウェスタンであり、さらに同年に同じワーナーによって配給された『大いなる勇者』のいわば双子の映画でもある。

 プロモーションにあたりワーナーは大スターをフィーチャーしたビッグバジェットのポラック作品を低予算の本作(安上がりのスペインにロケ)よりもあからさまに優遇。サラフィアンはワーナーの責任者を呼び出して怒りのパンチをくらわせた。

 フロックコートにひしゃげた山高帽という出で立ちのジョン・ヒューストンが『白鯨』のエイブラハムさながらの誇大妄想的な船長を感動の熱演。滑車をつけた巨大な船を部下に曳かせて山越えを試みる(この数年後にヘルツォークが『フィッツカラルド』を撮ることになる)。かくも不条理な任務の遂行のためにグリズリーに襲われて半死半生となったお気に入りのガイド(リチャード・ハリス)をも見捨てることを辞さぬ狂気ぶり。

 見捨てられたバースは奇跡的に生き延びて生命の尊さに目覚め、船長への復讐よりも息子との再会を優先する。彼に言われるまま武器を手渡す船長はこの選択を予期していたかのようだ。何事もなかったかのようにふたたびともに歩き出すかれらをついに手放された船が見守る幕切れは原作にはないオリジナル。

 ハーマン・メルヴィルないしジャック・ロンドンをおもわせる原作の形而上学的・宗教的な主題には本作のほうが『レヴェナント』よりもずっと忠実。主人公のサヴァイヴァルの過程は神との和解のそれに重なる。

 母親を奪い去った神を許さず牧師に鞭で責め立てられる子供時代のバース、妻の命と引き換えに授かった息子に憎しみの視線を向けるバースへのフラッシュバックが効果を上げている(もともと脚本になかった後者のシーンはサラフィアンが自腹で撮影)。

 テレンス・マリックの映画との近親性は、わざわざマリックのスタッフ(エマニュエル・ルベツキ、ジャック・フィスク、ジャクリーヌ・ウェスト)を集結させた『レヴェナント』がついに及びもつかなかったところ。ジョゼフ・ロージーのキャメラマンでもあったジェリー・フィッシャーの捉えた木漏れ日や水面のショットに息を呑む。

 編集で見せるグリズリーとの格闘シーンは、CG技術の粋を誇示した『レヴェナント』よりもよほどリアル。


肝臓抜き:『大いなる勇者』

2016-07-03 | その他



 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜其の伍拾参; シドニー・ポラック『大いなる勇者』(1971年、ワーナー)之巻。


 ミニ・シリーズ“『レヴェナント』への道”第四弾です。

 主人公は実在のマウンテン・マン、ジョン“レヴァー・イーティン”ジョンソンをモデルにしている。別々の著者の二つの小説をジョン・ミリアスとエドワード・アンハルトが脚本化。

 1846年ワイオミング(たぶん)。軍服姿のジョンソンが街を後にする冒頭。ポラックによれば、俗世間を離れたところに安息などないというのが本作の教訓であるらしい。ニューシネマのひとつの帰結といえようか。

 『レヴェナント』の重要なソースのひとつであるリチャード・C・サラフィアンの『荒野に生きる』と同年の作品で、雪景色をはじめとして共通点が多い。『レヴェナント』はいかにもこの時代ならではの映画の再現を目論んだものかもしれない。

 ほとんどの場面がユタの標高4千メートル以上のロケ地で撮影される。

 プロットはシンプルで基本的に主人公がさまざまな人物に出会うエピソードの連続。つまり本作は『田舎司祭の日記』のようなスピリチュアルな物語であるということか。

 主人公はいやいや娶らされたクロウ族の酋長の娘と息子のように世話をしていた少年を殺され、復讐の鬼と化す。『レヴェナント』との類似点ということでいえば、台詞の少なさとか狼と格闘する逸話もそうだ。

 春樹もだいすきなジャック・ロンドン「火を熾す」との共通点を指摘する声あり。木につもった雪が落下してきて火を消すというエピソードは「火を熾す」にもあるようだ。

 当初はジョンソンが山中で凍死するというラストが想定されていたが、現行のしみじみしたラストに落ち着いた。序盤でジョンソンが凍死したハンターから譲り受ける名銃は本作の神話的な趣を強めている。

 山で死ぬことはジョンソン本人の願いでもあったらしい。1900年に死が確認されたあと、ジョンソンはロスの古参兵墓地に葬られるが、1980年代にワイオミングに移葬される。その際のセレモニーにはレッドフォードも参列した。

 グリズリー狩り専門のトラッパー役でウィル・ギア。主人公の心情がナレーションおよびティム・マッキンタイア(偉大なジョンの息子である)による歌で伝えられる。

 「頭に気をつけろ」が山の人間たちの挨拶がわりの言葉。主人公の道連れとなる人物によれば、スキンヘッドにしているとポールの装飾に役立たないので先住民に頭の皮を剥がされないらしい。ほんとなら西部劇はハンク・ウォーデンみたいなスキンヘッドだらけのはずだから、これはジョークだろう。






ジパングへの道:『北西への道』

2016-07-02 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜其の伍拾弐 キング・ヴィダー『北西への道』(1940年、MGM)

 ミニ・シリーズ“『レヴェナント』への道”第三弾!

 1759年、ポーツマス。ハーバードを除籍になり帰郷した画家志望の青年(ロバート・ヤング)が地図作製術の腕を買われてレンジャー部隊の鬼隊長ロジャーズ(スペンサー・トレイシー)にスカウトされ、旧友(ウォルター・ブレナン)とともに先住民からの人質奪回をミッションとするカナダ行軍に参加する。

 『レヴェナント』よりも半世紀以上前、独立戦争以前の未開な新大陸が舞台。ロープでボートを引っ張り上げながらの山地の行軍、ヤブ蚊の群れなす湿地帯の踏破、人間の鎖にしがみついての激流の横断、早朝の先住民の焼き討ち、先住民の首を持ち歩く狂った隊員、げてものを煮込んだシチュー、人肉食を暗示する逸話、木の幹がベッド代わりの夜営といった、ときに生々しくときにシュールなエピソードの連続。

 企画が立ち上げられた時点ではトレイシー、ロバート・テーラー(その代役がマヌケ面のヤングというのが笑える)、ウォレス・ビアリーの布陣でW・S・ヴァンダイクが監督するはずであった。テレビシリーズ化もされたケネス・ロジャーズを描いた小説を原作に戴くが、脚本化(『ミズーリ横断』のタルボット・ジェニングスおよびローレンス・スターリングスがクレジットされている)は難航を究め、フランセス・マリオン、ジュールス・ファースマン,ロバート・シャーウッドなどが起用されてはお払い箱に。決定稿を待たずに38年5月にクランクイン。スター抜きのシーンを撮影したあと、『影なき男』の続編『第三の影』の撮影をひかえていたヴァンダイクが降板、ヴィダーにお鉢がまわってくる。強行軍のロケ撮影はアクシデントつづきで、ヴィダーとトレイシーの不仲もわざわいし、ロジャーズの敗北を描く後半部は撮影を断念。結果、メガロマニアックな(「日本に至る道」)イケイケのファシスト率いる虐殺集団を言祝ぐだけのろくでもないプロパガンダ映画に仕上がった。

 砦のご都合主義的な救出劇につづくラストシーン(これを蛇足と言う)はジャック・コンウェイが演出。アクションシーンを第二班監督のノーマン・フォスターが担当。ヤングの恋人役で『フィラデルフィア物語』のルース・ハッセーが顔を見せるほかはほぼ女っ気なし。

 正体不明のモノクロヴァージョンのディスクが出回っているが、テクニカラーに収められた大自然こそ本作の醍醐味なのでご注意を。