Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

スウィング・タイム:『喜劇・誘惑旅行』

2014-10-21 | 瀬川昌治



 瀬川昌治『喜劇・誘惑旅行』(1972年)

 これはまぎれもない傑作である。冒頭のクイズ番組の場面からしてすでに、そのスピーディーなテンポ設定に心が躍る。観光名所のショットがスライド式にモンタージュされていくシークエンスのリズムも心地よい。

 「私の演出は、リズムというものをとても大事にしてきた。兎に角お客を飽きさせないように予想される展開を裏切りながらストーリーを進ませる。これを、弾むようなリズムを刻みながら語ってゆくこと。もともとジョージ川口と並び称されるジャズドラマーで、弾みをもってスウィングする肉体感覚に富んだフランキー堺は、私のそうした演出にまさにぴったりの俳優だった」(瀬川昌治『素晴らしき哉映画人生!』清流出版)。

 倍賞千恵子は『男はつらいよ』のさくら役では抑えていた部分を本作で発散させた。

 本作の楽しさを伝えるには、監督自身の筆に委ねるに如くはない。

「……夫婦別々に部屋をとってあるホテルで、倍賞君は、フランキーの部屋に居座って煙草をふかしている。そこへ、フランキーが捲くし立てる。
「俺はすってんてんでねえ、煙草も吸えないんだよ!」
話を中断するように倍賞君がふうーっと煙をうまそうに吐く。フランキーは、言葉を途切れさせてその煙をうまそうに深呼吸してしまい、はっと取り直して、
「なんだ、その態度は! もともとここは俺の部屋なんだよ。無断で入ってきて、シャワーまで浴びて!」
 もう一度倍賞君がふうーっと煙を吐く。フランキーはやっぱりその煙をいかにもうまそうに深呼吸してしまい、また気を取り直して、
「それを俺は文句なんか言ったかい!? 俺の許可を取れと言ったかい!? まわしなさい、三万でもいいから!」
 倍賞君が隠しているカジノで勝ったお金を出せと、フランキーが手を差し出すと、倍賞君は、灰皿よろしく灰を掌の中にトントンと落とす。フランキーが、あちっ、とその熱に身を仰け反らせて、あたふたする。倍賞君はバッグから紙幣を何枚か持ってきて、それでフランキーの頭をはたく。
「部屋代よ! その代わり今晩はここが私の部屋よ!」
「何い!?」
こんなもの受け取れるか、と札をぶちまけるフランキー。
「あなたは隣の部屋!」
倍賞君は、ドアを指差す。フランキーは、憮然としてドアの外へと飛び出してゆく。
そんなやりとりが実に最高だった。
こういう掛け合いを徐々にテンションを高めながら絶妙に演じるのである。このような芝居は間が狂ってしまうと絶対に成立しない。二人は、ツーと言えばカーというか、ツーと言わないうちにカーと言ってしまったりするような間合いで応え、見事な速度のあるリズムを刻んだ一景を成立させてくれたのだった」(同上)。

 

昭和イデオロギー:『喜劇・急行列車』

2014-10-20 | 瀬川昌治


 瀬川昌治『喜劇・急行列車』(1967年、東映)


 寝台車で騒ぐ水商売の女たちの客室に検札に来た渥美。根岸明美がデコルテのワンピースからはみ出した胸の谷間に切符を挟み、車掌を挑発。迷うことなく傍らで弁当をぱくついていた女の割り箸をとりあげ、器用に切符をつまみだしてまた谷間に戻し、割り箸を女の手元に戻す渥美。

 ドキュメンタリー的な場面でよりも、こういう途方もないイマジネーションによって織り上げたディティールをとおして国鉄職員のプロフェッショナリズムを見せようとする演出は正解である。

 また、この早業は女性の着ている下着を剥ぎ取る掏摸の離れ業に呼応している。つまり車掌の出歯亀体質が笑いのめされているのだ。

 難病の子供(昭和まるだしの子役のおしつけがましいアップ)を励ます場面ではモノクロの車輪のアップがオーバーラップする。

 笑いあり涙あり……。列車ものの醍醐味というわけだ。サイレントクラウンの時代からジェリー・ルイスを経て北野武にいたるまで、喜劇映画はつねにオムニバス的(エピソード的)であったのであり、またそうあるべきものなのだ。

 「運転手の助手」ていどにしか思われていない車掌は、じっさいには車内を掌るキャプテンである、という渥美の親玉体質的なナレーションひとつとっても、農本主義=村落共同体的、軍国主義=八紘一宇的な車掌・渥美のイデオロギーが透けて見える(そもそもこのシリーズは元交通官僚の大川博の発案による)。軍国少年の過去あからさかに引きずった下駄面の車掌が主役のブラックすぎるコメディー。乗客のプライヴァシーに何かと首を突っ込もうとするさまがきわめて不快。いまのJRの、乗客を幼稚園児扱いする車内アナウンスひとつとってもそのナチ体質はまったく変わっていないことがわかる。昭和の風俗をなつかしがっているバヤイではない。

 しかし、それだけではコメディーとして成立しない。翻って車掌自身のプライヴァシーが危機にさらされるところがこの喜劇のキモ。(明らかにプライヴァシーということそのものが本作のテーマになっている。)

 乗客が産気づくが、夫の浮気を疑い、たまたま乗り込んでいた妻役の楠トシエがなぜか都合よく産婆の免許をもっている。ミッションを果たした楠が、乗客と職員たちの歓喜の輪の外で一人、疲労と安堵の体で首筋の汗を拭うショットは色っぽくも感動的であり、その姿をただ一人見守り、ねぎらいの言葉をかける渥美に観客はここではじめて心からの共感を覚える。

 和解した夫婦が長崎の公園でデート。ベンチで夫に寄り添いみかんを食べさせる妻をよそに「あー、しょんべんしてえ」と渥美。平成日本のスクリーンではまず耳にすることのない野蛮にして郷愁を誘う台詞だ。ラスト、尿意を抑えかねた渥美が薮に走り込むと、部下と婚約者(大原麗子。最高にチャーミング)がいちゃついている。笑いながら坂を下っていく二組のカップル。残尿感をのこしつつ、映画は終わる。

 掏摸の相棒の子犬を連れたジェーン・マンスフィールドふうずべ公もいい感じ。間違って客室の扉を開けた車掌目線でずべ公の足許から巨大な帽子までをキャメラがなめるようにティルトアップするのだ。

 嗚呼!女たち! 最高のコメディーはこう叫ばせてくれる。佐久間良子は残念ながら犬ころとしか見えないけれども。


犬と豚と人間と:『暴動・島根刑務所』

2014-10-19 | 中島貞夫


 中島貞夫「暴動・島根刑務所」(1975年)

 『脱獄・広島殺人囚』のネタを提供した美能幸三の話にヒントを得て、大正時代の実話を終戦直後に置き換えた「実録」もの。

 脱獄し、山に籠る子分らしき川地民夫の小屋に逃げ込んだ松方。シェパードの品種改良を生業とする川地は妹を家政婦のようにこきつかっている。この妹に処女の牝犬の交尾を見せられた松方、傍らの処女にのしかかる。

 闇夜に兎跳びをさせられる全裸の囚人たちに無期懲役の田中邦衛が育てる豚のショットがカットバックされる。

 豚をとりあげられた田中、その場で投身自殺。これが看守への反逆と見なされ、二回分の食事が取り消しに。騒いだ囚人たちが派手な暴動を起こす。

 残虐な看守に佐藤慶、その同僚に戸浦、映画館に逃げ込んだ松方が「雪隠詰め」になる場面では小松方正と、大島組の面々。

 佐藤の裏切りによって網走(美能が服役中に『仁義なき戦い』の手記をしたためたところ)に送られた松方と北大路が手錠でつながれたまま逃走、汽車に轢かせて手錠を切るという展開は『網走番外地』?そのまま鉄橋の下の川に落ちた松方、『狂った野獣』の渡瀬みたいにどこへともなく泳いでいく。ストップモーション。終。

 「彼[松方]の演技は本当いうとリアリズムじゃないですよね。やっぱり彼芝居しているんですよ。だから一丁間違うと臭くなったり、時代劇なんかやるとたちまちそうなっちゃうんだけど、現代劇なんかやっていると、ぎりぎりのところでくるわけです。といって自然体で芝居してそうなるタイプではないんですね。彼は役者なんですよ」(『遊撃の美学』)。


鉄砲玉の美学:『ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派』

2014-10-18 | 中島貞夫


 中島貞夫「ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派」(1974年)

 燃える車はたしかに中島の映画によく出てくる。ここではそれが梶芽衣子の情念の「発火点」(『遊撃の美学』)になっている。

 渡瀬の妹の悪女ぶり、ぶちまけた金を奪い取ろうとたかってくる通行人といったエピソードは『狂った野獣』などにつうじる中島らしいアイロニー。

 曾根晴美のハンターから奪った猟銃で射撃練習する渡瀬に的として額縁に収まった日の丸差し出す梶。

 黒革のスーツの梶芽衣子、虫の息の渡瀬を射殺し、炎上する小屋を出て警官隊と果たし合い。
 
 冴え渡ったディティールが一つ。車を追突させたときに渡瀬の左手がフロントグラスを突き破り、指が切断されて弾丸のように前方に飛んでいく。鈴木一誌言うところの「意外性」の映画作家・中島の面目躍如。

 内田良平の情婦のずべ公ぶり。


テロルのシンフォニー:『日本暗殺秘録』

2014-10-07 | 中島貞夫


 中島貞夫『日本暗殺秘録』(1969年)

 エロ・ルポルタージュ『にっぽん ’69 セックス猟奇地帯』で当てた中島が、同様のドキュメンタリー的手法でテロをテーマに一本撮ろうと思いつく。俳優のギャラの高さで苦労してきた大川博は、役者なしでヒットした『……セックス猟奇地帯』に感激、報奨金を出したうえ、中島の企画をオールスターで撮ることを勝手に決める。

 アバンタイトルは若山富三郎をフィーチャーした桜田門外の変。以下、安田財閥創始者暗殺(スパイダーマンよろしく机に飛び乗る文太)、大久保利通暗殺(唐十郎とその劇団員による森の中での『ジャンゴ』ふう暗殺劇)、大隈重信暗殺未遂(吉田輝雄のスタイリッシュな玄洋社同志)、ギロチン社事件(チキンな古田大次郎役は高橋長英)など、明治大正期の有名なテロ事件が簡潔にエピソード化されて連ねられる。千葉真一と藤純子による血盟団事件の長編一本分のエピソードのあと、健さんによる長山鉄山斬殺(「天誅!」)、鶴田による比較的長い二・二六事件のエピソードがつづく。タッチも長さもまちまちなエピソードの集積は、いかにも笠原和夫らしいコラージュ的構成。

 脚本は事実上笠原のオリジナル。「テロリストのある種の輝きというのかな、それを描きたかった。……例えば、マルローの『人間の条件』ですか、あれでチェンという男が商人を殺しに行くでしょ。あれにシビレちゃうんですなあ」(『映画脚本家笠原和夫 昭和の劇』)。

 「僕は本当に思うんですけどね、戦後、もっと暗殺事件があったら政治はよくなったんじゃないか」と戦中派の笠原。「僕には、例えば和田久太郎だとか後藤謙太郎だとか、そういう無名のアナーキストをやってみたいというのがあるんですけどね。ただ、アナーキズム――アナーキストたちの描き方というのは難しくてね……要するに、あまり正体というのがないんですよ。[……]右翼というものは元来はアナーキズムなんですよ。あるいはニヒリズムなんですね。だから玄洋社にしても右翼とはいうけれども、右翼である以前にある種のニヒリズム、あるいはアナーキズムみたいなものがあるわけですよ。それは明治の西南戦争にしても、萩の乱にしても、中央政権に反抗して出てくるわけでしょ。[……]それがある種の商いとして成立する時に、組織化されて右翼になっちゃうんですよ」。

 笠原によれば、二・二六も第一陣はアナーキズムの色合いが濃かった。その色が第二陣、第三陣によって薄められ、軍国主義的なイメージで捉えられるに至ったことを笠原は「非常に不愉快」と言い放つ。

 桜田門外のエピソードでは、重い生首を抱えた有村の「呼吸のあり方」(荒井晴彦)、生首の重さを描こうとしたが、中島がリアリズムを薄めてしまったと笠原は嘆く。「中島も結局、京都派であってね……。リアリズムというものがよくわかっていないんですね」。

 「有村は自刃する前に、竹胴から首を出して見るんですね。それで、刀を立てて首を近づけて死のうとするんだけど、疲れているからそれがズレちゃう。そこだけをちゃんと撮ればいいんですよ」と荒井が絶妙のフォロー。さらに笠原は中島を栗田艦隊になぞらえる。「いいところまで行くんだけど、ひき返してしまう」というわけだ。

 「中島は、全共闘みたいなことでラストに理屈をつけようとするでしょ。僕は違うんだよ。僕は陶酔というものを描きたかったんだよ」。笠原は、千葉真一が念仏を唱えているうちに陶酔で卒倒する場面を中島がカットしたことを憾む。

 「それでラストは、テロリストの陶酔というものが、最後はこうなっていくんだというのを見せようと、もちろん、そこには答えみたいなものはないよ。ないんだけども、僕は映像というのはそういうものを撮るべきだと思ってたわけだよ。……『仁義なき戦い』もそうなんだけど、僕は答えが出ない映像をやりたいわけですよ。だから僕としては、ロジックとしては漠然としているけれども、暗殺者の一瞬の華というか光輝を捉えて、それを羅列したいと。……そうやって映像で殺人の連続を見せていけば、シナリオでもないし、演出でもないという部分――こちらが予測しないある種の第三の答えみたいなものが、お客さん一人一人の中でピントが合ってくるんじゃないかという……。」

 つまり、ロッセリーニであり、やはりオムニバス形式をとる『戦火のかなた』であるというわけだ。「映像というのはあれが正解なんじゃないか……テロリズムというのは、ああいう形でしか見せられないんじゃないか」。「いわゆる写実的な手法は使うけども、描くものはテロリズムの光輝――その瞬間的な陶酔というものを描いているわけですからね。それで答えは出さないというのが僕が考えでしたからね」。

 笠原はネオレアリズモの本質を正確に見抜いている。というか、笠原自身がネオレアリストなのであり、かれの映画はネオレアリズモつまり現代映画なのだ。

 二・二六のクーデター場面がモノクロなのは、カラーで撮ったところカーキに赤い衿の陸軍の制服が映えすぎて「おもちゃの兵隊みたいな」作り物感が出てしまったからだという(『遊撃の美学』)。これによってラストの銃殺場面の鮮血が際立つ効果が増すに至った。

 藤純子に☆☆☆☆☆。