Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

永遠のキング・オブ・コメディー(その2):『最前線はどっちだ?』

2017-08-25 | その他





 ジェリー・ルイス:『最前線はどっちだ?』(Which Way to the Front?, 1970。配給ワーナー・ブラザーズ)

 1943年。すでに功成り名遂げてすべてに飽き飽きした大富豪バイヤーズが退屈まぎれに入隊を志願するも門前払いにされ、同じく職にあぶれたわけありどもを勧誘して自前のプチ軍隊を組織。五人の手兵を率いてドイツに上陸し、瓜二つのナチス将校ケッセルリングに変装してヒトラーに近づき、暗殺計画を成功させる。ついで、おなじみの「日本人」メイクをほどこしたバイヤーズが日本軍の将校らにまじって作戦会議に列席しているシーンで幕。

 『特攻大作戦』とか『荒鷲の要塞』みたいな戦略もの戦争映画のパロディで、ほのかに『M⭐︎A⭐︎S⭐︎H』の香りもただよう。シュールでナンセンスなシーンのオンパレードで興行的にも批評的にも大失敗、ルイスはそのご十年間映画を撮る機会を奪われることになった。わが国でももちろん未公開。

 「わが闘争のための音楽」と題された教則レコードでドイツ語を学んだバイヤーズは、ケッセルリングになりかわるや、その奇妙な発声法をまねて何語ともつかない(?)英語をがなりつづける。とうぜん記憶によみがえるのは『チャップリンの独裁者』。

 再会をよろこびあうヒトラー(シドニー・ミラー)とケッセルリング=バイヤーズのシーンでは、抱き合おうと互いに駆け寄るがなんどもすれ違いになるといういっしゅのダンスがスローモーションで延々映し出される。(『独裁者』でチャップリンがたわむれる地球儀状の風船の浮遊感をふと想起する。)

 マザコンの隊員の回想(母親役は常連のキャスリーン・フリーマン)、ドイツ軍の敷地内で合言葉を要求されたバイヤーズ=ケッセルリングが歩哨を煙にまくナンセンスなやりとり、ケッセルリングの独特の歩き方を部隊のそれぞれのメンバーがそれぞれの仕方で再現してみせる作戦会議の場面、ケッセルリングをたずねてくるイタリアの愛人(?)との絡みでのミソジニーぶりなど、頰がゆるむギャグはすくなくないが、そのことごとくがストーリー展開のうえではたいした必然性のない脱線的な挿話。おとくいのエピソード映画のスタイルがここでも活用されているといえようか。

 クリス・フジワラによれば、本作はルイスのもっともユダヤ的な作品(?)であるそうな。

 本作のあと干されている時期に、ルイスはヨーロッパで強制収容所に取材した映画を撮影している。ガス室送りになる子供たちにつきそう道化師の物語だ。その作品『道化師が泣いた日』はついに完成されることがなかった。


キング・オブ・コメディーよ永遠に:『底抜けシンデレラ野郎』

2017-08-24 | その他


 ジェリー・ルイスが亡くなった。このアーティストにたいするフランスを筆頭とするヨーロッパでのリスペクトはわが国においてはついに無縁であるらしい。









 フランク・タシュリン「底抜けシンデレラ野郎」(CinderFella、1960年パラマウント)


 ルイスじしんが監督するという話があったが、けっきょく気心の知れたタシュリンに演出が委ねられる。

 くしくもこの作品は同年の『底抜けてんやわんや』にはじまるルイスの監督作ぜんたいのプロトタイプになっている。いつものジャズがあり、あふれる色彩がある。

 主人公が継母に押しつけられてきた“家の馬鹿息子”役の殻を破るべく決意する、というさかしまのシンデレラ・ストーリーは、本作をもってマーティンとのコンビにおいてパラマウントにわりふられてきた道化役をみずから踏み出したジェリーじしんのシンデレラ・ストーリーに重なる。

 クライマックスの舞踏会場面では(いかんせんそこにいたるまでのストーリー展開はもたつきにもたつく)、真紅のタキシードをまとった(なぜか)白髪の男がまずうしろすがたで登場し(おなじ演出が『底抜け大学教授』で再利用されるだろう)、列席者全員の見守るなか、超ロングでとらえられた巨大な白亜の石段をアクロバティックな足さばきをつぎつぎくりだしつつたっぷりと時間をかけて降りてくる。おもむろに義兄からパートナーの王女をよこどりし、カウント・ベイシー楽団(本物)のスウィンギーなビートにのせて、しばしユーモラスにしてエレガントなステップを踏んでみせる。ミュージカル映画史の隠れた名場面のひとつだろう。

 主人公をサポートする妖精役にエド・ウィン(『メリー・ポピンズ』)。

 この要となる作品において主人公の魂の導き手となる役どころに高名なユダヤ人コメディアンをふっているところもなにやらいみありげである。

 周知のごとくルイスはウディ・アレンとならぶハリウッドにおけるユダヤ・ジョークの代表的な継承者である。

 継母にジュディット・アンダーソン。陰険さに徹し得ずいかにも中途半端なキャラ。

 義兄のひとりにヘンリー・シルヴァ。いっけんさわやかなお坊ちゃんふうのたたずまいで登場するも、すぐにいつもの爬虫類的な性向をあらわにする。

 プリンセス役にアンナ・マリア・アルバゲッティ。ほぼ演技力のひつようない役。一曲だけ喉を披露。



文語文珈琲(カフエ)への誘ひ

2017-08-20 | 文語文




 文語文のあぢはひはコーヒーのたのしみに似てゐる。

 同じコーヒーでも酸味の勝つたやつから苦味の勝つたやつ、だれにもこのまれるすつきりした飲み口のから独特なエグみのあるのまでさまざまである。

 その日の気分に応じていろんな品種、いろんな産地、いろんなブレンドを淹れ分けるといふのがコーヒー好きの醍醐味だらう。

 文語文も同じであつて、おなじ文語文といつてもその style はさまざまである。

 まず、大雑把に漢文脈と和文脈といふちがひがある。純粋な漢文脈、純粋な和文脈といふものはおそらくないであらう。あらゆる文語文は漢文脈と和文脈のブレンドからなつてゐる。そのうちには前者が勝つてゐるものもあれば後者が勝つてゐるものもあり、あるいは両者が絶妙な配合を実現してゐるばあいもある(その極北が『平家』ではなからうか?)。

 少々乱暴であるが、とりあへずこれをコーヒーにおける酸味と苦味の対立にあてはめることにしやう。

 さらに、同じ漢文脈のなかにも漢文読み下し調のみてくれのゴツいのもあれば、簡素な清潔感ないし禁欲を旨とするものもある。

 よつて二つめの座標軸として、バロック←→ミニマルといふそれを導入する。これはコーヒーにおけるコクとまろやかさとの対立軸に相当するとみなせよう。

 どんな文語文も、(1)漢文脈と和文脈、(2)バロックとミニマルという二つの軸からなる座標のいづれかに位置づけられる。

 そしてそのうえにさらに甘みや風味といつた個性が「加味」される。

 たとえば鷗外の『即興詩人』は漢文脈と和文脈の絶妙な絡みに欧文翻訳調(ヨーロピアン・テイスト)の香りを一滴(もつとか?)垂らすことによつて濃厚にして貴族的とでもいふべき香り高いフレーバーを漂はせるにいたつてゐる。

 あるひはある種の新体詩や漢詩のたたへるノスタルジーゆたかな甘酸つぱさ(『青春の文語体』の安野光雅の好むタイプ?)。

 当店店主(またの名を文語文ソムリエ)の見立てによれば、和文脈の極北には一葉がゐる。一葉の文体がまろやか一辺倒でないことはいふまでもない。そのきりつとした後味には漢文脈の影響がまぎれもない。しかし、一葉が和文脈を極めた書き手であることに反論するひとはゐまい。究極の作品として『一葉日記』もしくは若き日の山本夏彦が飽かず筆写したといふ『通俗書簡文』を挙げておく。

 そして漢文脈の極北にはいふまでもなく露伴がゐる。『運命』の露伴であり、あるひは『譯註水滸傳』の露伴である。その容赦ない漢文読み下し調は日本語のひとつのリミットを画してゐる。

 そしてその中間点にあつて燦然と輝くのが文語文界のブルマンともいふべき『平家』である。

 いつぱう、バロックの極点にゐるのもやはり露伴である。鷗外のバロックもそれに一歩も、とはいはないが二歩とはゆづるまい。

 たいしてミニマルの極はなにかと問はれれば、正直のところ自信がないが、『断腸亭日乗』『日本外史』『米欧回覧実記』あたりをとりあへず挙げておく。(『戦艦大和の最期』といふチョイスもあるかもしれぬ)

 そのほか漱石の書簡は漢文脈とバロックの交点のどこかにくる。

 すでにお気づきのとほり、店主の好みは漢文脈に偏つてゐる。これは当店の個性として大目にみていただくほかない。もちろん和文脈にかんしてもおほいに勉強して豊富な品揃へをご提供してゆく所存であります。