Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

愛の不毛:田中絹代最後の監督作『お吟さま』

2018-05-04 | 田中絹代




 田中絹代「お吟さま」(1962年、文芸プロダクションにんじんくらぶ、配給・松竹)


 田中絹代最後の監督作もまた強いられた結婚の犠牲者を描く(「恋文」「乳房よ永遠なれ」「流転の王妃」)。そして愛のない結婚とはいわば売春と同義である(「女ばかりの夜」)。

 しかし田中の怒りは封建社会(もしくは現代社会の封建性)にたいしてというより、女の愛をうけとめられない男の不甲斐なさに向けられている。仲代演ずる高山右近は既婚者ゆえに吟(有馬稲子)の求愛にこたえられず、地上の愛のむなしさを説いて言い逃れをするばかりだ。右近はほとんどの場面で吟にたいして背を向けている。道端でみかけた引かれもの(岸恵子)に吟が勝手に投影するような純愛などもともと望むべくもないのだ。けなげなヒロインにわれわれがさっぱり感情移入できないのは有馬の大根演技ゆえである以前にこうしたブレヒト的もしくはアントニオーニ的なアイロニーゆえであろう。

 田中は雨を使った演出が好きなようだ。本作でもやはり仕組まれた密会の場面で雨を降らせるが、ロマンティスムをかきたてるべきその雨が醸し出すのはアイロニーでしかない(「この雨が早く降りやむよう」と高山は他力本願的な弱音を吐くことしかできない)。

 冒頭、時代背景を説明する字幕の背後で夜間の野営地を横切る複雑なクレーンショットや吟と引かれものを同一画面のなかへと導くトラヴェリングといったスコープ画面を駆使したダイナミックな移動撮影もどこか空虚だ。

 序盤に謎めいた場面がある。茶室に吟と母親(高峰三枝子)と右近が座っている。会話が途切れ、吟が行灯の火を消し、立ち上がって天窓を開ける。真っ暗な室内に陽光が満ち、右近が首からかけている十字架像を照らす。陽光をまぶしがったものか、右近がゆっくりと視線を下に落とす。

 本作をもって田中の監督としてのキャリアがポシャってしまったのはよくわかる。依田義賢の脚本を戴くリメイクは未見。


フェルメール的な映画作家:田中絹代の『女ばかりの夜』

2018-05-03 | 田中絹代




 田中絹代『女ばかりの夜』(1961年、東京映画、配給・東宝)


 赤線の娼婦の更生施設を経て社会復帰をめざす女性(原知佐子)が、世間の壁になんどもぶちあたっては挫折しかけるが、一部の理解者らを心の支えに前向きに生きていこうとする。

 逃れられない過去という宿命論によって本作はフィルムノワールの系譜に位置づけられるとどうじに、そうした宿命論への執拗な抵抗においてアンチ・フィルムノワールと名づけることもできるだろう。

 ちょっぴりだが“女囚もの”の香りも。ただし所長・淡島千景以下の“看守”は善意のひとたちなるも徹底して無力な存在として描かれる(施設では「知能指数」および性病の有無による隔離政策が敷かれている)。あるいみでは女囚もののあからさまに抑圧的な看守以上にたよりにならない人たちなのだ。

 監督デビュー作『恋文』につうじるテーマを扱った力作であり、今村昌平もしくは鈴木清順あるいは岡本喜八はたまたひょっとして増村保造さもなくば川島雄三が撮っていたとしてもおかしくないとおもえるほどの堂々たる語り口の歯に衣着せぬエネルギッシュな映画であるが、ぎゃくにいうと演出に田中ならではのものがかんじられず、物語展開も人物造形も型通りにすぎて驚きや発見があまりない。

 けれども手紙というモチーフへのこだわりはそのひとつかもしれない。教育のあるなしにかかわらず、田中映画のヒロインはすぐれて文をかわす女性である。画面上ではそれが手紙を書く、もしくは読む女性(おそらく『恋文』の森雅之もそうした“女性”たちのひとりである)のフォトジェニーとして定着される。そのかぎりで田中絹代をフェルメール的な映画作家といえるかもしれない。

 脚本・田中澄江。中北千枝子という女優の芸達者ぶりにはいつもながら驚かされる。たとえば高峰秀子や原節子がいなかったとしても成瀬映画はじゅうぶんに成立するが、中北なしに成瀬は絶対に巨匠たりえなかった。ここでの夫・桂小金治とのかけあいも絶妙。


田中絹代は日本のダグラス・サークである:『流転の王妃』

2018-05-02 | 田中絹代



 田中絹代「流転の王妃」(1960年、大映)


 天城山中。薮に仰向けに横たわる片方の靴が脱げた女性の足、打ち捨てられた学帽、女学生の血の気のない顔のアップ、その顔を赤いブランケットで覆う女性の手のアップをつぎつぎ映し出す簡潔でスピーディーなモンタージュ。手の主はやつれた老けメイクの京マチ子である。かのじょが遠い目で前方を仰ぐと、色づいた銀杏の葉叢をバックにタイトルがあらわれる。

 キャメラがそのまま銀杏並木のあいだをクレーンでゆるやかに下降すると、画面右側から赤い表紙のスケッチブックとバッグを抱えた手に白い手袋をはめたセーラー服姿の女性(顔は映らない)がフレームインして足早に舗道を横切る。彼女の背後からこんどはカーキ色の軍服をまとった兵士らの隊列(やはり顔は映らない)がフレームインして、かのじょが横切ったばかりの舗道を軍靴の音も高らかに行進していく。立ち止まってかれらを眺める女学生は若き日の京。つづけて足早に行進する軍人らの足のアップを画面手前にとらえ、その奥にかれらと並行して歩道をゆっくりとあるきながらときおりかれらのほうをみやる京を小さくとらえるダイナミックな移動撮影にかぶせてクレジットが連ねられる。

 のっけから映画的な躍動感にみちた上々のオープニング。このタイトルバックのためだけでも一見の価値がある作品だ。

 前作『乳房よ永遠なれ』どうよう、ベストセラーとなっていた同名の原作をいち早く映画化。あいかわらず時流に聡い。いまの目でみると極端に省略的なアヴァンタイトルも、同時代の観客にはすぐに“あの事件”だとピンと来たわけだ。脚本は市川崑の片腕・和田夏十。京が『楊貴妃』につづいて中国の悲劇の要人を演じる。

 望まぬ結婚によって時代に翻弄される女性像は『恋文』『乳房……』を引き継ぐものだ。映画は記録映画さながらにヒロインのたどった数奇な運命を淡々と追いかけるだけだが、随所にヴィジュアル的な創意が盛り込まれて飽きさせない。

 サミュエル・フラーの映画どうよう田中の映画はしばしばエスタブリッシング・ショットを欠き、異化効果によって観者を不意打ちする。タイトルバックとどうよう足元のショットから入る場面が多いようだ。たとえば着物の女性と軍服の男性がはげしくもみあう下半身のショットがいきなりでてきたかとおもうと、女性が床に身を転がしてその上半身がフレームインし、かのじょが男から奪ったとおぼしきピストルを抱えていることから、京が溥傑(船越英二)の自殺をとめたのだとわかる場面がある。

 あるいはシュールなオレンジ色の夕陽に染まったテラスで絵を描く京の足元に娘の鞠が転がってくる場面。この場面では画面の奥行きを活用したフレーミングがあいかわらず冴える。蓋をしたピアノ鍵盤を画面左側に、ソファに腰かける侍女を右側に配し、扉の枠ごしに庭先で夕陽を眺める母娘の後ろ姿をとらえるエッジの効いたショット。あるいは下女と話しながら乳母車を押して庭を歩く京を追う長い移動撮影においてもまばらな立木を前景に配すことでダイナミズムがうまれている。

 窓越しのショットもあいかわらず多い。たとえば夫婦が扉を挟んで会話する長いシーン。柱が画面を二つに分断し、画面左側三分の一ほどの狭く薄暗いスペースに船越が立ち、いっぽう、なかば開け放たれ、鮮やかなブルーに染められた窓枠ごしに明るい室内に座った京を画面右側にとらえる鈴木清順ばりの奇抜なフレーミング。アンバランスに分断された夫婦の立ち位置が日満関係を脅かす見えない亀裂を暗示している。

 田中にとっては初のカラー作品。京のまとう真紅のチャイナドレスをはじめ、象徴性もゆたかな鮮烈な色彩感覚によって綴られたメロドラマ。


監督・田中絹代の隠れた大傑作:『乳房よ永遠なれ』

2018-05-01 | 田中絹代




 田中絹代「乳房よ永遠なれ」(1955年、日活)


 歌集『乳房喪失』で知られる歌人・中城ふみ子の伝記映画。ふみ子は1954年に逝去している。映画的なダイナミズムにあふれた、ちからづよく、はげしくこころゆさぶられずにはいない傑作である。

 思いを寄せる男(森雅之)がありながら親に不幸な結婚を強いられたふみ子は、短い人生の最後に若い記者とつかの間の、最初で最後の恋に落ちる。

 映画はふみ子をあっさり、美しく死なせない。映画の後半は闘病生活の息苦しい描写がつづくが、これはメロドラマの押し売りであるどころか、いわばその描写のくどさそのものによってヒロインの生命力の勁さを表現している。本作がメロドラマの誘惑に屈することは一瞬たりともない。月丘夢路一世一代の名演に刮目すべし。

 縦の構図が効果的に使われる。たとえば、離婚した夫の許へと去る息子のうしろすがたを二階の窓から見送るショット。そして同じアングルのショットが、ラスト近く、東京へ呼び戻される記者(葉山良二)を最後に見送る場面でも反復される。

 それ以上に、病院の中庭をよこぎって向かいの病棟へとつづく長い通路はその最たるものである。

 最初にこの通路が画面に映るのはふみ子の母親と見舞いに訪れた親友(杉葉子)の目をとおしてだ。薄暗い通路をとおしてくだんの病棟から女性の泣き声が聞こえてくる。「今月に入ってもう三人目ですって……」。

 すこしあとの場面では、ふみ子をたずねてきた記者が通路の向こう側に目をやり、「陰気だな」と顔を曇らせる。

 ついである晩、同室の老女(飯田蝶子)が別の病室に「引っ越し」た直後の場面。夜中にベッドのなかで創作中のふみ子が壁越しに女性の泣き声を聞きつけ、そのまま泣き声に誘われるように病室を出て行くと、キャメラがかのじょを追って廊下に出る。キャメラは看護師らが担架を押しながらフレームアウトするのをショットの端で一瞬だけ捉える。手にした歌帳を落とし、そのまま夢遊病者のようにそれについていくふみ子。闇のなか、遺体を乗せた担架がくだんの通路を進んでいくのをキャメラは前進移動で追う(誰の遺体かはわれわれには知らされず、看護師らの顔も画面には映らない)。ついていくふみ子をとらえた後退移動のショットに切り返し。担架が通路の果ての病棟の敷居をまたぐと、ふみ子の目の前で鉄柵が轟音とともに閉められる。柵を閉めた職員はふみ子の存在に気づくようすもない。鉄柵をつかんで薄暗い扉の奥を見きわめようとするふみ子。ふと顔を上げたふみ子の目に「遺体安置室」の文字が飛び込んでくる。恐怖におののくふみ子のアップ。パニックを起こしたふみ子は振り返り、二、三歩あともどりしたところでその場に倒れこむ。照明ひとつない通路に戸外の光源から格子状の光線が差す表現主義的なライティングがこの場面の異様さを際立たせている(『月は上りぬ』で北原三枝が横切る夜の廊下でも似た照明が使われていた)。

 そしてこの通路が最後に現れるのは最後から二番目のシーンにおいてである。今度は担架に乗せられているのはふみ子自身であり、担架をについてきたかのじょの二人の子供の目のまえで鉄柵が閉められる。鉄柵の向こうに消えた母を呼ぶ子らのシルエットが溶暗する。『ショック集団』のサミュエル・フラーを除いて病院の長い通路をかくも不気味で運命的な空間として画面に定着し得た監督をほかに知らない。

 二度に及ぶ入浴場面は『乳房よ永遠なれ』の成瀬的な側面といえるかもしれない。あまつさえ最初の場面で湯船につかっているのは森雅之であり、キャメラの右正面に象嵌された浴室の小窓から妻の杉葉子が顔をのぞかせて湯加減を尋ねている。二度目に同じ浴室が現れる場面は、浴槽のなかの女性の腕のアップではじまる。心地よさそうに腕をさすっているのはふみ子である。病気のせいで幼児返りが進行しているふみ子は、かつて愛した森雅之がつかったのと同じ浴槽につかりたかったとその妻に向かって無邪気に言う。先行するシーンと同じ杉葉子が同じアングルでとらえられた小窓から顔を開けて顔を出すが、乳房を除去したふみ子の胸部をまともに目にして驚きのあまり「ご免なさい!!」と叫んで乱暴に小窓を閉める。それと同時にふみ子は頭を浴槽に潜らせる。壁にもたせた腕に顔を伏せて荒い息遣いのまま自分を落ち着かせようとする杉。乳房を除去したあとをみてくれとふみ子が小窓を開ける。小窓ごしに浴室のふみ子が見える(胸から下は死角になっている)。恐怖に怯えた杉は体を背けつつ「ばかなこと言ってないで早くあがりなさい」と平静を装おうとする。月丘と杉の真に迫った演技が凄みを帯びる。女性監督にしてはじめて撮れた場面ではないか。ちなみに成瀬映画における杉葉子という女優の日常的身振りの的確さと優雅さは田中絹代も評価するところであったのであろう、『月は上りぬ』につづいて杉の着替えの場面をまたも登場させている。月丘が胸パッドと乳当てを装着する場面もある。ラストちかく、病室で記者の葉山良二に愛撫をねだる場面では、ベッドの上に置かれたままの胸パッドと乳当てが涙を誘う。

 本作にかぎらず、田中作品における窓越しのショットの多さも成瀬的だ。ふみ子と記者の長い言い合いは病室の窓の外から鉄格子ごしにとらえられ、愛の成就の不可能性を暗示する。鏡の使い方も面白い。杉がはじめて見舞いに訪れる場面は、病室の壁にかけられた鏡ごしに登場する。ふみ子が最後に葉山良二と視線を合わせるのも手鏡ごしのことである(葉山が不意に病室に戻ってきて、自分の顔を見るふみ子の背後の扉を開ける)。

 ふみ子が森雅之と最後に別れる場面は、雨に濡れた地面を映した俯瞰のロングショットに雨傘がフレームインするところからはじまる。キャメラはそのままバス停まで並んで歩く二人のすがたを移動撮影で追うが(『恋文』の靖国の場面のような強風が吹きすさんでいる)、バス停にたどりついた二人が立ち止まったあともそのまま移動をつづけ、すこし先から振り返って超ロングで二人を捉える。画面右側に写り込んだ糸杉のような三本の背の高い木がわれわれの視線を惹きつける。このすぐあとの場面でわれわれはこの奇妙なショットが森の死を暗示していたことに気づかされる。

 ふみ子が病院を抜け出して小学校の息子のようすをひそかに見に行く場面もすばらしい。宙を飛ぶボールのショットにつづき、ホイッスルを吹きながら生徒らを指導中の杉のショットが映る。ついでグラウンドの端へと転々とするボールを追う息子を移動で捉えたロングショット。百葉箱の影からそのボールを受け止めて息子に転がしてやる手のショットにつづいて息子を幸福そうに見守るふみ子のアップがくる。息子は手の主が母親であることに気づくことがない。今を盛りと萌え立つ自然とおもうさま戯れるふみ子のショットに自作の歌が字幕でかぶさる。

 前後するが、タイトルバックではまず豊かな乳房の女性の彫像が大写しになり、つづいて晴天を抱く洞爺湖のショットがくる。女性像は皮肉なことに病に倒れたふみ子に贈られた短歌賞の記念品となる。そして女性の象徴ともされてきた乳房を喪失することでふみ子は女性として花開く。映画はタイトルバックと同じ洞爺湖のショットによって幕を閉じる。

映画作家の誕生:監督・田中絹代の傑作『恋文』

2018-04-29 | 田中絹代




 田中絹代「恋文」(1953年、新東宝)

 終戦から五年、殊勲をあげて出征先から帰還した真弓(森雅之)は弟(道三重三)の下宿に居候して主夫のような暮らしをしている。かれはにちや街頭に立って東京に嫁いだ昔の恋人・路子(久我美子)を探していた。偶然再会した兵学校の同窓生・山路(宇野重吉)に誘われ、パンパンらが帰国した情夫と交わす手紙を代読・代筆する仕事をはじめる。ある日、路子が代筆の依頼に訪れ、ふたりは再会を果たす。未亡人となったあと、寂しさをまぎらすために米兵に身を委ねた路子を真弓はなじる。弟が二人の和解を画策し、夕食の席を設けるが、真弓は来ない。意気消沈して帰宅の途に着くみちみち、路子は知り合いらしきパンパンらに親しげに声をかけられるが、知らぬふりを決め込む。路子は真弓弟にじぶんはパンパンではなく、進駐軍の事務員をしていたときにかのじょらと知り合ったのだと弁解する。半信半疑の体の真弓弟に路子は絶望し、ふらふらと車道に歩み出る(俯瞰のロング)。画面外で急ブレーキの音がする。駆け寄る真弓弟。いっぽう約束に赴かず戻ってきた真弓は山路にその意固地さを責められ、約束の店へ連れて行かれる。とうに路子のすがたはなく、下宿をたずねると、巡査がきて事故のことを知らせる。病院に駆けつけるタクシーのなかで山路は真弓に言い聞かせる。「罪なき者まず石を投げよ」。病室に横たわる路子が目を開くアップ。終。

 丹羽文雄の原作を木下恵介が脚本化。成瀬のサポートを仰いで完成された田中絹代の監督第一作で、女性映画の傑作である。

 路子はパンパンであったのか?映画はあえてその可能性を否定しさらずに終わる。田中じしんが『西鶴一代女』のお春をおもわせる年増のパンパンを演じていることからもわかるとおり、映画はパンパンを貶める世論にたいするつよい怒りに貫かれている。かのじょらをパンパンにおいやったのはとうの国家であり社会である。じぶんだけ手が汚れていないかのように思い込んでパンパンのモラルをことあげする卑劣な戦後日本人の代表が真弓である(甲斐甲斐しい“主夫”ぶりは敗戦による“去勢”の象徴か?)。

 再会したふたりが強風ふきすさぶ靖国神社で語り合うシーンは露光多寡ぎみで白日夢のような雰囲気に浸されている。パンパンらの追っ手を逃れた路子が真弓弟に真相を告げる場面ではカットを割らずに久我の横顔をとらえつづける。ラストでよこたわる久我がゆっくりと、ちからづよく目を開くアップは、頭を包む包帯と枕とによって背景が消され、久我のまなざしだけに観者の目がいくように撮られている。雨の午後に路子の下宿をたずねた真弓弟が川を挟んで対岸の反対側から歩いてくる路子に気づく場面も素晴らしい。この場面で久我がカメラの向こう側に振り向いてさしている傘がちょうどワイプのような効果を出している箇所がある。これに先立つある場面においても降り出した雨に傘を開く通行人らを印象的にとらえたロングショットがある。再会の場面ではまず代書屋をたずねてきた久我を宇野が応対し、隣室で昼寝していた森がその声にぴんときて飛び起きる。カーテン越しに覗く森に久我の顔は死角になって見えない。店を出た久我を森が遅れて追いかけるが、帰宅ラッシュの駅の群衆を縫ってのスリリングな追跡劇がしばしつづくあいだ(さながら助監督についた石井輝男作品のノリ)、久我のすがたは目に眩しいストライプの服と白いハイヒール、手に提げた白い手袋だけによって示され、その顔は映らない。すでに車輛に乗り込んだ久我が森の声に振り向き、乗客の波に飲み込まれそうになりながら必死に車外に出る。ホーム上で向かい合う二人を閉まるドア越しに車輌内から捉えたロングショット。電車が動き出し、かれらのすがたが画面外に消えるのと入れ替わりに四日市の少年少女時代へとおもむろにフラッシュバック。女学校の制服に身を包んだ久我が真弓の母(夏川静江)と語り合う場面は川と市街を遥かに見下ろす高台が舞台となる。手術室から出てきた医師に真弓弟が容体をたずねる場面では、医師と真弓弟の顔が影に沈み、セリフも消されている。毅然として背中を見せる医師と肩を落としうつむく真弓弟の姿勢だけから生命の危機が伝えられる。映画冒頭はタクシーを降りた真弓弟が兄と所帯をもつぼろアパートに帰ってくる場面。「月三千円の恋人」が車中からかれにしきりに手を振るが、車体がバウンドして椅子の背に投げ出される。めげずに愛想笑いを浮かべて何度も手を振るパンパンふうの女。こぎたない部屋で洗濯物を干していた兄に甲斐甲斐しく迎えられた弟(古本を横流しした利ざやで稼いでいる)は実は兄思いの好漢。とはいえすべてのキャラがスネに傷もつ身として描かれる。

 撮影・鈴木博、音楽・斎藤一郎。香川京子(弟の女友達の書店員)、入江たか子(久我の下宿のおかみ)、笠智衆(レストランの客)ほか多数が友情ないし賛助出演。

 溝口的? むしろドライヤー的というべき映画だ。