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訓読という行為:『柳橋新誌』を読むために

2018-09-19 | 文語文




 江戸時代、知識階級の子弟は父親などに漢文素読の手ほどきを受けていた。

 漢文とは訓読すべきものではなく、原文をそのまままるごと理解すべきものとされた。

 もちろん子供は漢文法を知らないが、“眼光おのずから紙背に徹す”で、訓練によって自然に理解できるようになったらしい。

 それはなにやら秘教的な術であったようだ。

 鷗外や漱石も苦労してその秘術を身につけたのであり、かれらの文学のバックボーンにはこのような秘術の効能がかいまみえる。

 高島俊男によれば、読み下し文は、支那文をまるごと暗記するためのツールにすぎない。それゆえ漢文訓読体それじたいはひとつの完結した言語(というか文体)たり得ない。

 あくまで原文とセットでしか存在しえない補助的な記号の体系にすぎないのだ。
 
 もちろん訓読じたいは平安時代にはすでにあった。初期の訓読にはいろんな流派があったらしい。

 現在でも訓読の仕方は一様ではない。訓読はいっしゅの翻訳だから、訓読のしかたにはその人なりの好みとか癖が反映される。

 江戸時代に佐藤一斎が考案した訓読法は、極端に音読を尊重したもので、そのままでは日本語として意味をなさなかったほどであるという。

 たとえば「人不知而不慍」をいまふうに「人知らずして慍(イキドオ)らず」とせず、「慍(オン)せず」と読み下すがごとし。(サイト「日本漢文の世界」による)

 訓読は原文まる暗記のためのツールとして割り切っていたということなのだろう。

 高島俊男はこれを以って訓読を日本語と認めない。

 遣唐使の廃止以来、中国語を学ぶ手立てがなくなっていたので、しかたなく訓読にたよっていたのだというわけだ。

 高島によれば、いまは中国語を習う手段はいくらでもあるのだから、漢文を読みたければ支那語を習えばいいという。

 しかるに日本語はやまとことばで書くのがいちばん効率的であるという。

 高島によれば、江戸時代のインテリがこぞって読んだ頼山陽の漢文はたんに下手くそであり、中国人には読めないデタラメな支那文である。

 頼山陽はもっぱら日本人の読者を想定して書いていたのだから、はじめから日本語で書けばよかったのだと高島は言う。

 当時のむだに漢文をありがたがる風土を高島は愚劣であるとする。

 もっとも、頼山陽が『日本外史』を漢文で書いたのにはそれなりの必然性があったという説もあるようだ。

 『漢文の素養』という新書本によると、なぜ日本だけに武家支配が生まれたのかというテーマを論ずるには漢文がうってつけであったという。

 これだけではよくわからないが、漢文でしか論じられないことがらがたしかにあるのだろう。

 本居宣長が言うように、漢文とはすぐれてもののことわりを説くためのことばである。ぎゃくにいえば、漢文を使うと、いやでもものごとを善悪で割り切ってしまうということになる。

 未読だが、高橋睦郎の『漢詩百首』は、漢詩本にはめずらしく、原詩を掲げずに読み下し文だけを紹介している。

 「日本語を豊かに」という副題から想像されるように、高橋睦郎は漢文読み下し文をひとつの日本語の詩の文体として積極的に位置づけようとしているらしい。

 これまた未読だが、この詩人には古代ギリシャ・ラテン文学論もあり、こちらも「和音羅読」というタイトルが告げているように、翻訳文を外国の詩を味わうためのたんなる副次的なツールとみなさず、翻訳文そのものに詩情をよみとろうとしているものと推測される。その逆転の発想はいかにも詩人のものである。

 読み下し文のとらえ方においてあるいみで高島俊男の対極にあるかんがえだ。

 『漢文スタイル』の斎藤希史は『漢詩百首』を高く評価しつつも、原詩を掲げない本書の方針に根本的な疑問を呈している(「訓読の自由」)。 

 斎藤によれば、読み下しという行為は、読む主体を漢文(視覚)と日本語(聴覚)に分裂させる。そして漢文の創造性はこの分裂にこそある。この分裂こそが読みの多様性(自由)を許容するのだ。

 訓読を退けることも、原文を無視することも、いずれも漢文を読むという行為のこの根本的な契機をスルーしている。

 斎藤は言語をすぐれて分裂した、不純なものとしてとらえている。

 あるいはあらゆる言語における翻訳という契機を重視しようとしているといってもいいかもしれない。

 おもえば中国人が母国語の平仄を発見したのは五世紀に鳩摩羅什らによって仏典が漢訳されたことを契機としていたのだし、あるいは現代ドイツ語はルターによる聖書の独訳によって誕生したとも言われている。

 言語的純血主義者の高島俊男を顔色なからしめる明察である。

 閑話休題。

 江戸の若者らの血を滾らせたのが『日本外史』であるとするなら、明治の文学青年の必読書とされていたのが万延元年に出た『柳橋新誌』である。

 『日本外史』どうよう、『柳橋新誌』は漢文で書かれている。岩波文庫版は読み下し文になっているが、もともとは漢文で右側に正訓、左側に戯訓が添えられていた。

 たのしいのはこの戯訓だ。「正妓」に「ホンモノ」、「軽浮」に「ウハキ」、「破瓜」に「ヤリクリ」、「軟軟痿痿」に「グニヤグニヤ」、「彼の兒驕れり」に「アノコツラガタカイ」といったように自在。

 岩波文庫の解説によると、『柳橋新誌』の文体は(これが範をとる『江戸繁盛記』に倣って)「鬼面人を威す類の固苦しい漢字に配するに、凡そそれとはかけ離れた下俗な口語を以ってした所」にその妙味がある。

 それゆえ『柳橋新誌』にはすくなくとも『日本外史』どうよう漢文で書かれねばならなかった必然性があるわけだ。

 『柳橋新誌』は著者二十三歳のときに書かれた「初編」とその十数年後、江戸幕府が滅びてから書かれた「第二編」とからなる。(「第三編」も書かれたが、出版を許されなかった。)

 江戸幕府消滅を挟んでの花街の変貌ぶり、 before とafter の対比のアイロニーに本書のモダニズム(浪漫主義と言い換えてもよい)があり、文学的な価値があるとされる(それゆえ岩波文庫の解説者は「第二編」のほうに作者の本領をみる。)

 大田南畝どうよう、成島柳北は幕臣であった。

 柳北フリークの筆頭である荷風は柳北を「戯作者」と貶める白鳥正宗(「下谷叢話」をこきおろした)に痛烈に反論する。

 「柳北成嶋弘は戯作者にあらず。旧幕府の時には奥儒者にして徳川氏歴代の実紀を編集補修せし人なり。維新の後には朝野新聞の記者なりき。足下大日本人名辞書奈の部を見ば直に其誤を知る可し。故に予一々之を言はず。足下は予が戯作者の文を読むを見て愚なりとなす。是亦其意を得ざるなり。書は汎く読破すべし。何ぞ其筆者の戯作者たると否とを問はんや」、云々(「白鳥正宗氏に答るの書」)。

 なにも幕臣であったから戯作者でないなどとは言えまい。反論する側から荷風が『柳橋新誌』のいわば“思想”に共感したのではないことが暴露される。

 すくなくとも、「初編」を浸す郷愁をいっしゅの「思想」とみなさないかぎりにおいて。

 荷風の南畝評価がその「徂徠学」(野口武彦)ゆえのものではないのとどうようである。幕臣だったから偉いなんて荷風はゆめにもかんがえないだろう。

 柳北の文才は、第一部の掉尾を飾る長大な哀歌にみなぎりわたる。

 アイロニー一辺倒のひとではない。

 ところで、『柳橋新誌』をよんでいて、西鶴が『遊仙窟』慶安本の戯訓をこのんで借用していることをおもいだした。

 先に言及したサイト「日本漢文の世界」によれば、訓読の限界は白話文(口語文)に適用できないことにある。

 同サイトは、白話文を強引に訓読した例として露伴訳の『水滸伝』を挙げている。

 まさに前述した一斎訓の極致みたいな過激な文体で、とても日本語として読めない文である。

 しかし白話体を能く訓読し得た唯一の例外、それも稀代の名訳があるそうで、それは平岡龍城という無名の訳者による『国訳紅楼夢』であるという。

 その一節が引かれているが、なるほど「忙忙的衣服を穿了」を「いそいできものをきて」と読ませたりする自在さがなんともたのしいが、中国語を解する読者にはその名人芸ぶりが実感できるという(悲しい哉、わたしはそのかぎりにあらず)。

 訓読が詩であり、文学であり得る格好の例だろう。


 さて・・・以上は『柳橋新誌』を紹介するための前置きである。同書については項を改めてまたとりあげたい。



荷風の江戸文学者論:「葷斎漫筆」「下谷叢話」「為永春水」

2018-09-16 | 文語文




 大正十四年に雑誌連載の開始された「葷斎漫筆」は文語体の随筆。タイトルの「葷斎」は「葷菜」にひっかけたもの。「羶腥」(または西洋かぶれの「バタの臭味」)よりもなお抜きがたい臭気におのれをやつした雅号の謂。

「人生の至福は読書に在り」ではじまるこの随筆、鷗外史伝へのオマージュから話題は館柳湾、ついで大沼枕山経由で平松理準(密乗)、林鶴梁へとつながり、霊南坂に長垂坂をのぼりくだりしたあげくに後半はまるごと鷗外の「伊沢蘭軒」にも言及される蜀山人大田南畝の評伝となる(荷風全集には荷風のまとめた南畝の年譜がこれに続く)。

 この随筆は明治時代には“頓知の神様”みたいな扱いだった南畝像をおおいに転換させたという。

 野口武彦は、荷風は松崎観海に師事した南畝を「徂徠学の系譜に位置づけ」ることによって「インテリのものに」したのだとし、つぎのくだりを引く。

 「南畝は儒学に造詣する所ありて、然る後狂歌稗史をつくるの奇才ありき。狂歌の才あり戯作の才ありて而も其名声に恋々たらず。古今の典故に通暁するも其博識を衒はず。烟花の巷に出入りするも甚しく酒色に沈湎せず。襟度磊落にして其の為すところ往々人の意表に出るものありと雖、亦謙譲の徳を失はざりき」

 なるほどここだけ読ませられると荷風が南畝を模範的な儒者に仕立てているようにとれてしまうが、じっさいにはそんな鹿爪らしいものではない。

 牛込あたりを根城にしたいなせな知的コミューンの存在を浮かび上がらせようとしているところなどを踏まえての言であろう。

 いっぽう加藤郁乎は「荷風は、半醒半睡の風流家南畝の文事篇什また行実ことごとくを大なり小なり真似ようとしたふしがある。そして、それらは私淑などといったなまやさしいのめりようではな」かったとする。

 これもじっさいのところはよくわからないが、たとえば家の間取りを日記の一節をながながと引用しながら推測しているくだりなどのたのしげな筆づかいからは、なるほど南畝への愛が伝わってくる。

 荷風の縁者にあたる鷲津毅堂と大沼枕山の二重の足取りをたどる『下谷叢話』(大正十五年)はもっと本格的な評伝である。

 こちらは口語体で書かれているが、漢文の引用がやたら多いことに加え、地の文にも「夙に詩を以つて儕輩の推す所となつた」だの「駒込に⬜︎(「就」にニンベン)居し帷を下して徒に授けた」だのといった漢文調の言い回しが頻出するごつごつした文章。

 「安政六己未の年、枕山は四十二歳、毅堂は三十五歳である」といった章ごとの書き出しがリフレインのようで、「渋江抽斎」の「抽斎没後の第二十五年は明治十六年である」というおなじくリフレインのような書き出しを思い出した。

 荷風自身、鷗外の史伝に触発されてこの評伝に手を染めたと明言している。

 岩波文庫の解説によれば、いみじくも日夏耿之介が「雑然紛然たる雑叙」と評したごとく、「『下谷叢話』を考証的伝記として読むかぎり……鷗外に及ばない」。

 遠く及ばない、というべきであろう。『渋江抽斎』のあのあまりにも鮮やかに演出された文章とくらべるのは酷というものではあるが。

 『下谷叢話』と「葷斎漫筆」をならべて収める旧荷風全集第十五巻には、「為永春水」(昭和十六年脱稿)という拾い物も収録されている。

 前二篇にくらべて荷風はずっとみずからの心の内を吐露している。

 同時に無二の江戸文学読書案内であり、すぐれた批評作品でもある。

 荷風のもとにはすでに春水作品の現代語訳や舞台化にあたっての脚本および出演の依頼が舞い込んだりしていたというが、荷風は春水について「読後の感想をすら筆にすることを躊躇した」。

 理由は「過去の文学についての評論は昭和の読書士には何の興味をも与へまいと思つたからである。江戸時代の風俗や、天保時代の恋愛を描写した人情本の批評の如きは、現代の文明には全く必要のないものと思惟したが故であつた。風流好事の士はいつの世にも少数ながら決して跡を断つまい。過ぎ去つた世の風俗と文芸とに興味を持つ好事家は各自随意に春水の著作を閲読して半日の閑を消するであらう。わたくしの如きものが今更ことごとしく梅暦の翻訳本をつくつたり人情本の評論を試みる必要はない筈である」。

 かくもペシミスティックな前置きによって心の重荷を下ろしたせいか、荷風の筆は軽快そのものである。

 「馬琴の作には漢文の基礎がある。其愛読者には武家の子弟が多かつた。種彦の文には和学の影響がある。其読者には良家の婦人が尠くなかつた。然るに春水の文には何等の基礎もなく何等の背景もない。唯その時代の、殊に一方面に限られた日常生活に関する作者の観察が存するのみである。馬琴種彦の二家に比して、春水が其人物と其著述との二つながら、共に時人から卑しまれてゐたのは蓋しこれが為に外ならない」。

 明快な見立てである。


 「洒落本は諷刺の軽妙と筆致の洗練とに、此種の文学の模範を示してゐるが、之を要するに短時間の光景を描写した断片にすぎない。春水は言はば此れに蛇足の脚色を加へて平坦なる物語となしたのであるが、それが却て通俗一般の読者に喜ばれ、偶然人情本または中本と称する小説の一体を完成せしめた」。

 おもえば鷗外の『渋江抽斎』の魅力も、断片的な描写(史伝というジャンルのしからしめる必然である)が、断片的であるがゆえに放つディティールの輝きではなかっただろうか。

 「わたくしは春水の佳作中でも辰巳園の此末節を以つて最絶妙の所となしてゐる。かくの如き一齣一段の佳所、断片的なる妙味は、読過の際屡文筆専攻の人のみならず、厳格なる読書士をも感動せしめ、人物脚色、共に千篇一律の弊あることを忘れしめ、知らず知らず全篇を読了せしめる。ここにわたくしの心づいた二三の例証を挙ぐれば『春色恵の花』の作中芸者米八が人目を忍んで小梅村の百姓家の縁先に、恋人丹次郎の来るのを待つてゐる間、ふと軒端に匂ふ梅の花を見て其蕾を摘み取り歯に噛んで其蕾を口の中に移す。其場の情味と情趣とは浮世絵にも描く能はず、新内の節奏も亦能くこれを伝へること能はざるものであらう」。

 どうです?春水をひもときたくなったでしょう。こういう具体的な読みどころの紹介がほかにも何箇所もある。たとえば、

 「ここに一人の男が根岸の里の静な垣根道を通り過ると、唯(ト)ある家の庭越しに一中節の吉原八景をひく冴えた撥音が聞えるので、何心なく門際に立寄つて耳を済ましてゐると、突然花曇の空から雨がふりそそいで来る。三味線の音がハタと止んで、庭下駄の音と共に、年は二十ばかりのそれ者(シヤ)らしい意気な女が、門口をあけて、雨でお困りならばご遠慮なくと言つて、其男を内へ入れる」。

 「濹東綺譚」そのものの出だしだが、実は二人は互いになんとなく見覚えがあり……とつづき、いかにも読んでみたくてたまらなくなるようにさせる天才的な要約ぶりなのである。

 

『源氏』を読む兼好法師:『源氏物語』の名言を求めて(その2)

2018-09-10 | 文語文




 前号で芭蕉がなかなかの源氏読みであったらしいと述べたが、兼好法師も負けてはいないようだ。

 たとえば『徒然草』73段に「鼻のほどおごめきて言ふは」とあり、「新潮日本古典集成」の頭注は、これを「鼻のわたりおごめきて語りなす」との「帚木」の一節に送り返している。

 「おごめく」を辞書で引くと、用例に『徒然』のこの一節が採られていることがおおいようだ。

 この例をみただけではたんなる偶然の類似ではないかともおもえるのだが、たとえば同104節の「荒れたる宿の、一目なきに」という箇所に似た「一目なく荒れたる宿は」なる一節が「花散里」にあると指摘されたりすると、やはり兼好法師の脳裡に『源氏』の記憶がかすめていたのだとかんがえたくなる。

 ほかにも「若紫上」の「御垣が原の露分け出て」を踏まえた「御垣が原を分け入りて」というのがあったり、235段の「狐・ふくろふやうの物も、人げに塞かれねば、所得がほに入りすみ……」云々の描写に酷似したくだりが「蓬生」にあるとなると、もはや兼好が源氏を読み込んでいたことに確信をもたずにはいられなくなる。

 そもそもタイトルになっている「つれづれ」が源氏オマージュであることをうかがわせるくだりさえある。

 17段の「仏に仕うまつることこそ、つれづれもなく」が「賢木」の一節を下敷きにしているらしいふしがあるのだ。

 ちなみに『徒然草』でよく参照されている書物に『白氏文集』(やはりよく引かれている『朗詠集』経由かもしれない)があることも『源氏』との親近性を感じさせる。

 『徒然草』は鎌倉時代最末期の作品である。

 そしてその百年後にこの作品をいわば「発見」したのが正徹である(その歌論『正徹物語』は文庫で読める)。

 正徹は最後の勅撰和歌集が編まれた頃の歌壇を先導していた。

 応仁の乱前夜のことである。

 戦国時代への突入によって宮廷文化は崩壊し、それとともに和歌の伝統は永きにわたって途絶えることになる。

 最後の勅撰和歌集『新続古今和歌集』に正徹の歌が一首も掲載されなかったことに丸谷才一は和歌がすでにして死に体であったことを見てとっている。

 正徹はいわば“最後の歌詠み”である。

 時代はすでに連歌のものになりつつあった。

 正徹が二条良基の天敵であったことはぐうぜんではない。

 連歌は同時代に生まれた能とともに権力と結びついて花開いた。

 ちなみに正徹は世阿弥の女婿であった金春禅竹の歌の師匠である。

 定家の衣鉢を継ぐ正徹の幽玄趣味は「芭蕉」(そしてその名も)「定家」といった禅竹の能作品において継承されたとみることもできる。

 しかしそもそも『古今和歌集』以後、王朝文化の弱体化によって和歌はすでに勢いを失っていたが、他ジャンルの作品である『源氏物語』をとおして生きながらえていた(フランスで17世紀に死に絶えた[叙情]詩が演劇をとおして命脈を保っていたのに似る?)。『新古今』の編者である定家はそれゆえ『源氏』を特権視したのだ。

 正徹と世阿弥の時代にあって和歌はエスプリを旨とする連歌によっていわば世俗化される。その後、権力に取り込まれ高級芸術化した連歌に反旗を翻したのが芭蕉ら俳諧師である……。文学史はそのように教えている。
 

 ところで連歌に「寄合」集なるアンチョコがあることはご存じだろう。

 発句に振られたモチーフに呼応するような語彙を集めたいっしゅのシソーラスである。

 そのなかに源氏に特化した「源氏寄合」というのもあって、たとえば「桐壺」と引くと「まうけの君」「かゝやく日のみや」「うちゑみて」「おくり物」「おたき」「きぬ一くだり」「こま人」……といった付句に使えそうな語彙が列挙されている。

 リストを眺めていると、たとえば「薄雲」に呼応する「春秋のあらそひ」なるタームがあるが、これはすでに『徒然草』にも使われている(「新潮」の頭注は「野分」に送付している)。

 寄合はのちの俳諧師や謡曲作家によっても重宝されていたらしい。

 「新潮日本古典集成」の「謡曲集」の頭注には代表的な寄合『連珠合璧集』の引用(「橋トアラバ柱」といったような)が大々的になされているが、なるほどと思わせられることがおおい。

 ちなみに世阿弥は源氏を読んでいた形跡がなく、「源氏大綱」といったレジュメ本および寄合をもっぱら参照していたらしい。

 源氏に昏い者(筆者はその一人)にはピンと来ない語彙がおおいが、その裏に多くの暗示をふくむ凝縮された語彙たちとしてサンプリングのヒントになることはうけあいだろう。


『源氏物語』の名言を求めて

2018-09-05 | 文語文
 



 「いづれのおんときにか、女御、更衣、あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめきたまふありけり」。

 だれもが知る『源氏』の書き出しである。

 そして、(重要なのはこのことなのだが)たいていのひとはここだけしか知らない。

 冒頭いがいの一節が口をついてでてくるというひとは、おおかれすくなかれ『源氏』の玄人だ。

 その知名度に比して、『源氏』にはいわゆる名言がすくない。

 たいして『枕草子』や『徒然草』は名言の宝庫である。

 その理由はまず『枕』や『徒然』にくらべて、『源氏』の古文が格段にむずかしいということがかんがえられる。

 その長大なフレージング、形容詞の細かなニュアンスの厳密極まる使い分け、複雑な敬語の体系にくわえ、自在な省略技法が駆使される。

 宮廷文学である『源氏』は17世紀のフランス文学が端的なかたちで発達させたようなプレシオジテを身上とする。たとえば「あやしきわざ」なる言い回しにスカトロジックな含意をもたせ(「桐壺」)、「人知れずおぼすこと」は妊娠をいみする婉曲語法である(「若菜」)といったぐあい。

 角が立つ言葉は徹底して排除され、おおくのことが暗示に委ねられる。

 人物の外見描写も(末摘花のそれを特殊な例外として)あたうかぎり切り詰められる。たとえば冒頭の「ときめきたまふ」いがいに桐壺の更衣の外見について知る手がかりはない。

 そしてこれも暗示の技法のひとつである引歌がある。和歌の教養のない読者はあらかじめ門前払いにされる。(とゆうか、もともと作者は不特定多数の読者ではなく、はっきりと特定された、いわば顔の見える少数の読者たちだけに向けて書いていたのだが。宮廷文学とはそういうものである。)

 たとえば、「なくてぞ」とか「しのぶの乱れ」とかの断片的なフレーズの絶妙な引用は、紫式部のサンプリングの才能を示してあまりある。

 式部が現代に生きていたらカリスマ女DJとしてもてはやされたであろうことは受けあいだ。

 そしてこれらの引用はそれじたいのことばのかっこよさというよりは、言われざる部分を隠すための引用であることによってよけいにクールだ。

 こうしたかずかずの「引用」自体を『源氏』の名言とみなすことはじゅうぶんに許されよう。

 さいきんでは本歌取りという技法が「知的財産権」の議論に絡めて問題にされるようであるが、笑止である。そもそも言葉とはコミュニケーションの手段としてしかありえないものであるかぎりでコモンズの最たるものであり、言葉にパテントなどありえないのだ。

 閑話休題。

 『枕』がいわば「キメ」のフレーズだらけなのにくらべて、『源氏』にはそうゆうキメのフレーズっぽいものがない。

 紫式部の美学がそういうものを許さなかった。

 とくていの言葉が文章ぜんたいのながれから浮き立ってしまうことをかのじょはよしとしなかった。

 たとえていえば、これみよがしのテクニック満載のオーソン・ウェルズとかヒッチコックよりも、ハワード・ホークスのようなスムースなストーリーテリングを理想としたのである。

 ちょっと乱暴にいうなら、ウェルズやヒッチコックがキメのショットにすべてを収斂させていくのにたいし、ホークスの映画にはひとつのシーンぜんたいのなかで突出したショットがない。

 ホークスの映画はショット単位ではなく、シーン単位であじわうべき映画である。

 フラッシュバックやクロースアップや極端なアングルの不在もこういうストーリーテリングのひつぜん的な結果である。

 そして『源氏』もまた、文単位というよりは、場面単位で物語ろうとする志向においてきわだっているようにおもわれる。

 『源氏』の場面がきわめて視覚的に組み立てられていることはこれとむかんけいではないだろう。

 読者の記憶にはことばづかいのひとつひとつよりも場面ぜんたいの「絵」が記憶に焼きつくように書かれているのだ。

 もともと『源氏』の書き方そのものが、『絵巻』の量産をうながすような構造をもっていたのだ。

 ひいては現代語訳の量産を。

 というわけで、時代を継いでくちずさまされることによって名言化したフレーズがないことは、ぐうぜんではないのかもしれない。

 とはいえ、『源氏』のことばの音楽性はサンプリングへの欲望をかきおこしつづけてきたにちがいない。

 冒頭のフレーズにもどろう。

 たとえば、「女御、更衣」「さぶらいまひ」「き」「と」「あ」と小刻みに同音を重ねていくリズムの妙はどうだ。

 『源氏』からキャッチーなフレーズを抜き出していくことはいくらでもできるだろう。

 「末摘花」あたりまでの巻からあくまでもランダムに引いていくと、

 
 「まみなどもいとたゆげにて」

 「露けき秋なり」

 「くれまどふ心の闇」

 「まことのうつはもの」

 「あふさきるさにて」

 「あだごとにもまめごとにも」

 「あくがれまかりありく」

 「なま人わろく爪はるれど」

 「腰折文」

 「霧ふたがりて」

 「胸あらはに、ぼうぞくなるもてなし」

 「わろきによれる容貌(かたち)を、いといたうもてつけて」

 「笑の眉ひらけたる」

 「人の身宿世」

 「あなかま」

 「わが結う下紐」

 「いつき娘」

 「この膝の上に大殿籠れよ」

 「御けはいの漏りにほいくるをば」

 「なま女ばら」

 「かきたれ」

 「かひなで」

 「ねび人」

 いかがでしょう。中間テスト勉強中の中高生が反応するレベルのくだらなさだが、いうまでもなくかれらの言語感覚の鋭さはゆめゆめあなどれない。

 『源氏』のキーワードであるかどうか、作者の言葉か引用であるかどうかにはまったく頓着していない。たとえば「あふさきるさ」は万葉歌の引用である。

 おもえば西鶴も和歌や謡曲をこんなかんじでよく引いてはいなかっただろうか。

 「笑の眉ひらけたる」なんて、謡曲『鉢の木』幕切れの西鶴お気に入りのフレーズ「喜びの眉を開きつつ」をおもわせて味がある。

 西鶴といえば、かれの同時代人にして好敵手の芭蕉はなかなかの源氏読みであったようだ。

 源氏の引用というと、作中の和歌を引くのでないかぎり、上に述べてきたような理由によって、語句をちょくせつ引くというよりも、たんに巻名とか人物名を詠みこんだり、場面のイメージを踏んで本歌取りするといったやりかたがおおいのではあるまいか。芭蕉にもそうゆうのはすくなくないが、いっぽうで地の文の細部のことばづかいに見事に反応して俳諧に仕立てている例もある。

 たとえば、「横笛」の巻の「たかうなをつと握り持ちて雫もよよと食ひ濡らし」なる一節を踏まえて「たかうなや雫もよよの笹の露」という句をひねり出している。

 「新潮日本古典集成」の頭注によれば、「露」はいうまでもなく、「よよ」に竹の「節々(よよ)」をかけているという。

 また、「箒木」の「月ごろ風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服し」をふまえて「水無月は腹病やみの暑さかな」と詠んでいる。

 とうじ俳諧を嗜んだものはこのへんの引用にピンとくることを要求されていたということだろう。

 「源氏見ざる歌詠みは遺憾」をふまえた「謡曲は俳諧の源氏」とは聞いたことがあるが、どうやら源氏そのものも俳諧師の必読書だったということのようだ。

 隠れ名言みたいなものは実は探せばいくらでもあるようで、たとえば露伴が『芭蕉七部集』のなかで去来の「うき友にかまれて猫の空なかめ」という句にかんして、古今集の酒井人真の一首とともに「夕顔」の巻の「たとしへなく静かなる夕の空をながめたまひて」を引き合いに出して絶妙のコメントを加えているのを読んで以来、「夕顔」のフレーズは私にとって鳥肌ものの名言となっている。

 いうまでもなく露伴という一読者、一注釈者がこの「名言」を創り出したのだ。