Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

二十八人の怒れる男:『牛泥棒』

2018-10-28 | その他




 西部瓦版〜ウェスタナーズ・クロニクル〜 No.61


 ウィリアム・ウェルマン「牛泥棒」(1943年、フォックス)


 1885年、ネバダ。二人の流れ者(ふたりのヘンリー、フォンダとモーガン)が町にたどり着く。建物を抱き込むようにカーブを描く坂道をゆっくりと下ってくる馬上の二人をとらえたロングショット。

 この印象的な地形のオープンセットはフォックスの西部劇でよくお目にかかる(『地獄への道』『無法の王者ジェシー・ジェームズ』などでも使われていたと記憶する)。

 酒場の扉を押して無言のままカウンターに陣取る二人。バーテンダーを無視して目の前の額に見入るヘンリー・フォンダ。額には半裸の眠れる美女に男が忍び寄るいっしゅの夢魔をモチーフにした絵がかけられている。絵の中の男は永遠に女性にたどりつけない、となにほどか哲学的なセリフをつぶやくフォンダ。

 物語の進行とともに、これがかれじしんの肖像にほかならないことがわかってくる。じっさい、彼が迎えに来た女性はすでに町を後にしていた。

 クライマックスのリンチ場面においてもかれは一介の傍観者的な立ち位置にとどまることを強いられるだろう。ほかのすくなからぬウェルマン作品どうよう、主人公は物語の終わるまで目前の状況にたいして絶望的なまでに無力なままである。

 牛の盗難および持ち主殺害の知らせが酒場にもたらされると、保安官不在のままたちまち犯人狩りの一隊が組まれ、総勢二十八名による山狩りがはじまる。

 山中で偶然、昔の女(メアリー・ベス・ヒューズ)に再会するも、すでに人妻となっていた彼女に主人公は手を出すことができない。

 偶然そこに野宿していた三人連れ(ダナ・アンドリュース、アンソニー・クイン、フランシス・フォード)がたちまち犯人に仕立て上げられる。

 裁判にかけるか否かが有無を言わせぬまま多数決にかけられ、フォンダら七名の反対を押し切ってリンチが決行される。

 リンチは画面外で進行し、ことが済んだあとで吊るされて揺れている死体の影だけがちらっと映る。

 揚々と引き上げてきた一隊はかれらを探しに来た保安官から被害者が生きており、真犯人が捕まったことを知らされる。保安官はその場で保安官補を解任し、一同を無罪放免とする。

 気弱な息子を男にするために無理やり人間狩りに引き立てていった自称元南軍大佐(フランク・コンロイ)は、息子になじられ自殺する(やはり閉ざされたドアの向こうでことが起こる)。

 バーのカウンターに意気消沈した一隊の面々が無言のまま並んでいる。リンチの犠牲になった男(ダナ・アンドリュース)に託された手紙をフォンダが一同に読んで聞かせる。

 そこには家族への愛情と法の超越的な力への一途な信仰が綴られていた。「法を無視した者はそれによって生涯くるしむであろう」との一節に一同の顔は凍りつく。

 手紙を読むフォンダの目は、画面手前に写り込んだヘンリー・モーガンの帽子の庇に隠されて観客には見えないようになっている。

 それによって主人公の心のうちをみずから想像することを観客は強いられるのであり、手紙のメッセージが生身の人間を超えた超越的な存在の声のように響くことになるのだ。

 俯いたまま身動きもできないでいる一同を残して、フォンダはそのまま酒場を出て行く。あわててついてきたモーガンが問いかける。「これからどうする?」「手紙を未亡人に届けねば。子供たちを世話する者も必要だろう」。

 くだんの坂道をふたたびゆっくりと上って行く馬上の二人のロングショットにフェイドアウト。THE END

 実際の事件に取材したというウォルター・ヴァン・ティルバーグ・クラークなる作家の原作を、『プリースト判事』『周遊する蒸気船』『若き日のリンカーン』『モホークの太鼓』といったジョン・フォード作品で知られるラマール・トロッティが脚本化。

 西部劇にしてはセリフが多く、舞台劇的な印象。予算の少なさをごまかすための窮余の策でもあるだろう。映画のほとんどが進行する舞台となる山中は低予算まる出しのシンプルこのうえないセットであるが、それが皮肉にも状況そのものの閉塞感をいやがうえにも際立たせる効果を出している。

 フォンダはこの十数年後、同じくきわめてディスカッション・ドラマ的な『十二人の怒れる男』においてまったく同じような役回りを演じることになるだろう。

 本作はクリント・イーストウッドのフェイバリット西部劇の一本である。『硫黄島からの手紙』が同じように手紙の朗読で終わっていることは偶然ではないだろう。

 ウェルマンは原作を読んでただちに映画化を心に誓った。およそ金になりそうのないこの企画に興味を抱いたのはダリル・ザナックだけであった。こういう野心的な作品のクレジットにじぶんの名前を掲げたいといういかにもザナックらしい見栄からではあったようだ。結果はもちろんヒットとはほどとおかった。ウェルマンは本作を撮る見返りとして気の進まない企画をいくつか手がけることを余儀なくされた。

 『怒りの葡萄』の母親役ジェーン・ダウェルが血に飢えた女傑をサディスティックに演じるという意表を突くキャスティング。リベラルな法治主義者役でハリー・ダヴェンポート。そのほかどれも一癖あるバイプレイヤーたちが脇を固める。

 撮影はフォックスの重鎮アーサー・ミラー。わずか75分の尺のなかできわめて密度の高いドラマが展開する。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿