Negative Space

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もうひとつの『旅役者』:『サーカス五人組』

2016-11-01 | 成瀬巳喜男



 成瀬巳喜男『サーカス五人組』(1935年、P.C.L.)


 また見つかった
 なにが?
 成瀬の掘り出し物が



 山間の小村。夏の昼下がりである。氷屋にむらがっていた子供たちがチンドン屋の楽の音を耳にしていっせいに外へ飛び出す。

 大売り出しの幟を立てて通りを曲がってくる楽隊。フレームインしてくるそのひとりひとりがアップで捉えられる。デブの大太鼓、のっぽの小太鼓、喇叭(藤原釜足の足のアップがインサートされる)、また喇叭、そしてクラリネット(大川平八郎)。仕事を終え、峠で息をつく一隊。「つぎの温泉地までは三里か……」。顔には濃い疲れの色がにじむ。

 はるばる出向いた小学校での舞台はていよくキャンセルされ、安宿で無聊をかこつ一隊。ときあたかも村には曲馬団が公演におとずれている。閑にかこつけ花形の美人姉妹めあてに見物に出かける一隊。ただし釜足は夕食の刺身が当たったとかで宿に残る。昔の女がおしかけてくるも女中を口説くのに余念がない色男の釜足。

 ただしちょっかいを出す場面は見せず、部屋から逃げ出してきて同僚に被害を報告する女中だけを映す。

 さらに一隊が宿に戻る途中、薮で女が男に言い寄られているのを耳にする。一隊は男をつかまえようとするが、浴衣の袖だけ残して逃げられる。宿へ戻ると浴衣が釜足のものであることが判明。

 曲馬団の団長の娘姉妹の妹のほう(梅園龍子)はブランコ乗りと恋仲であるが、恋人の誘いに応じて逃避行に発つ決心がつかない。水辺で姉(堤真佐子)に身の振り方を相談するかのじょ。妹と姉が交互に立ち姿から腰を浮かして座る。そのアクションの途中で寄りぎみのショットからおもいっきり引いたショットへカットインしたりする。堤はしばしば空だけを背景に仰角ぎみに捉えられる。その空に浮かぶドライヤー的なまだら雲が複雑な感情を代弁する。

 こきつかわれていた曲馬団の男性団員らは団長(丸山定夫)に反旗をひるがえし、サボタージュにうってでる。団長は閑をもてあます五人組を臨時に雇い入れる。

 堤と大川のあいだにロマンスが芽生える。池で洗濯する二人(水のうえに浮かぶあひるが微笑ましさを醸しだす)。女はふたたび腰を浮かして座り、子供のようにうんこずわりで洗濯する男を母親のように眺めている。

 うらぶれた漁港で身の上を語り合う二人。大川にはバイオリニストとして大成する夢がある。海のショットからカメラが右方向にパンして浜辺に立つ堤を捉えるショット。「人間はだんだんわるくなっていく。……私なんかもうとうにあきらめているけれど」と堤。やはり漁村で水久保澄子と磯野秋雄が語らう『君と別れて』の名シーンを想起させる。あるいは画面右手前に大写しの漁船を、背景に火の見櫓を配したショットのなかに小さく二人のすがたをとらえるショット。ここでも堤は腰を浮かせて座っている。

 公演本番。梅園のブランコ芸の最中に男性団員たちが闖入。カメラに向かって足をつきだすブランコ上の梅園、団長のアップ、もみあう男たち(ブランコ上の梅園の見た目による揺れ動くショットもふくまれる)が交互にカットバックされ、そこに梅園の顔の超アップがオーバーラップされる。アップの梅園が目を閉じると無人のブランコのショットにつながれる。騒然とする客席のショット、駆け寄る団員たちのショットにつづき、観衆のざわめきだけをバックにまだ揺れている無人のブランコが映し出される。フェイドアウト。飛び降りる瞬間は(もちろんそのあとの一幕も)画面からはずされる。これぞ成瀬。

 楽屋で臥せっている梅園と枕元で見守る堤と同僚たちのショットにつながれる。「あたしばか?」「いつまでもそのきもちでいて。ただ、死んじまおうなんていうかんがえは卑怯だとおもうわ」。秋の虫の声が寂しく響いている。

 村を離れる一団。海辺の堤防で釜足の女が待ち伏せしている。歩き出した仲間たちの後方で、大川が堤に別れをつげている。「さよなら」と無表情の大川。「これが旅なのね」と堤。背を向けて歩き出す堤を見守る大川。ふりかえる堤。手をふる大川。同じく弱々しく挙げた手を敬礼するみたいに振る堤。強い風が二人の服をはためかせている。仲間に追いつこうとする大川を見守る堤を後退移動で捉えるカメラ。去って行く五人組と女。終。

 自転車乗りや樽回しなどの曲芸シーンをじっくりみせる場面がいくつかインサートされる。本作は芸人への篤いオマージュだ。のんだくれの曲芸団長は、その跛行に人生に疲れた人間の哀愁をにじませ、ロン・チェイニー的な倒錯性をかすかに宿す(娘を的にしたナイフ投げ)。

 本作に横溢するのんびりした空気感、停滞感は緊迫感にみちた音響効果とキャメラワークのたまものである。撮影は鈴木博。

 ロケ先の南伊豆の芳醇な風景が全篇をいろどるなかでスケッチされる淡い人間模様。いやがうえにも清水宏の映画を想起させる。シナリオのゆるさ(原作は古川緑波)はむしろエピソード映画としての魅力を際立たせる。本作は五年後のスケッチ映画の傑作『旅役者』のプロトタイプ的作品である。隙だらけの作品ではあるが、凡作あつかいされているのがまったく解せぬ。