Negative Space

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理由なき反逆:『キング・オブ・キングス』(1961)

2013-02-20 | その他
 帰ってきた VIVA! ペプラム! (No.10)

 ニコラス・レイ『キング・オブ・キングス』(1961年)。

 すでにとりあげた『ローマ帝国の滅亡』と同じく、60年代、製作者サミュエル・ブロンストンによってスペインで撮影された一連の悪名高い歴史スペクタクル巨編の一本。

 アンチームな作風のニコラス・レイになぜかお鉢がまわってきた。ゼロプリントの編集権をふくめて契約条件はよく、ハリウッドで不遇をかこっていたレイはこの企画に飛びついた。

 少なからぬシーンをセカンドユニットが撮影しているのは誰にでも想像がつくけれど、けっして投げやりでとられた映画ではない。レイは綿密なリサーチを重ねて、この仕事に没頭した。製作条件の劣悪さは画面上におのずから見てとれる。レイのコンセプトは製作サイドによってめちゃくちゃにされた。

 レイの伝記にいわく、「ニコラス・レイはあまりにも弱く、無自覚だった。アンソニー・マンのようなタフで血も涙もない映画監督なら、こんなことが起こるのを決して許そうとはしなかっただろう。……[マンの『エル・シド』と『キング・オブ・キングス』は]同じ方法で私腹を肥やそうとする同じような詐欺師どもによって作られてはいるが、アンソニー・マンはおめおめと出し抜かれたりはしなかった」(ベルナール・エイゼンシッツ『ニコラス・レイ ある反逆者の肖像』キネマ旬報社)。ロマン主義者レイという紋切り型にのっとったコメントだとはいえ、一理ある。

 それでもニコラス・レイらしい精神性の高さ、ひらめきに満ちたヴィジュアルは随所に見られる。

 物語的にもヴィジュアル的にも本作のクライマックスといってよい山上の垂訓の場面。5台のカメラ、5400人のエキストラを動員し、5日間かけたという。

 山頂に不動の姿勢で立って説教するキリストという紋切り型のイメージがあるが、その場にいた聴衆の数(7500人)や、当時の布教のスタイルであった問答形式を考えると、じっさいにはキリストは聴衆のあいだを歩き回りながら説教したはずだと考え、斜面を埋め尽くした信者たちのあいだをキリストが歩き回るのを流麗な移動撮影でとらえている。(レイはこの場面をワンシーンワンショットで撮ろうとしたという説さえ囁かれた。)

 この場面にかぎらず、アングルが印象的なショットが多い。カメラアングルによって物語を語っていこうとするところはこの監督の真骨頂といえようか。

 ヘロデの暗殺シーンとイエスが十字架にかけられるシーンの真上からの俯瞰(たしかスコセッシが踏襲していた)とか‥‥。

 鮮烈な色遣いもこの監督ならでは。山上の垂訓のシーンでも、信者たちの色鮮やかな着物が目にしみる。

 別のシーンだが、全員真白なトーガ(そのへんのデパートでかき集めて来たシーツらしい)に身を包んだ信者たちが礼拝するイメージも異様。

 投獄された洗礼者ヨハネ(ロバート・ライアン)をイエスがたずね、鉄格子ごしに手を差し出すところも、名場面になってしかるべきシーンだったようだ。関係者の一人の述懐によれば、「わたしは生まれて初めてスタッフが、音声抜きのラッシュの上映で涙を流すのを見ました」(エイゼンシッツ、前掲書)。マジか!? 

 マカロニ・ウェスタンみたいに両目の超アップのインサートが効果的に使われている箇所がいくつかあったが、ここでもそれが効いてたのかもしれない。

 ちなみに、ヨハネの生首が出て来たりしないのも正解だ。(サロメのグロテスクなダンスはご愛嬌。)

 奇跡で病者を癒すシーンと、ラストのショットではキリストは影だけで登場する。奇跡の場面は、病者の顔もなかなか見せない暗示的な演出。

 甦りのシーンも淡々としてすばらしい。ノリ・メ・タンゲーレのところでのカメラのダイナミックな煽りといい。

 「幼児虐殺の部分のドキュメンタリー的でリズミカルな感覚」の編集(前掲書)。なるほど、そうかねえ。

 ヴィジュアル的な新機軸としては、多焦点レンズの使用があるらしい。画面の手前と奥にピントが合っていて、真ん中へんがもやもやとぼやけている感じ。画面手前に人物の超アップを配したこれみよがしのショットがいくつかある。

 そもそもが、福音書は断片的なエピソードの寄せ集め。マタイ書なんかはとくに断絶が強調されている。パゾリーニはそういう断絶をスタイルに組み込んで『奇跡の丘』を撮った。レイの映画がプロデューサーに痛々しくずたずたにされたのも善し悪しか? 出来のいい作品の場合でも、レイのフィルムの表面にはひりひりする痛みみたいなものが感じとれる。同じ後期の『バレン』や、ましてや『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』もひたすら痛々しいフィルムだったではないか。
 後期、などと言ってしまったが、『キング・オブ・キングス』は、前掲書の著者も言うごとく、『理由なき反抗』からたった5年後の作品である。

 脚本は『大砂塵』で組んだフィリップ・ヨーダンにレイが声をかけたが、撮影中、二人は敵対していたという。レイ・ブラッドベリの書いたナレーションをオーソン・ウェルズが淡々と読み上げている。ウェルズはキリスト役のジェフリー・ハンターと同じ扱いのクレジットかさもなければノン・クレジットという条件をつけ、結局、その名前はクレジットされていない。

 ウェルズとレイという同じウィスコンシン人がたどった同じような運命(ハリウッドを追い出されてのヨーロッパ遍歴)については何人かの論者が指摘している。
 
 スーパーテクニラマ70なるワイドスクリーンを仕切るのは、オフュルスのカメラ番フランツ・プラナーに加えて、ミルトン・クラスナー、ジョージ・フォルシーなど。

 スコアはペプロム御用達の巨匠ミクロス・ローザ。序曲で提示されるテーマをコーラスや金管が自在に彩っていく。

 超大作のわりにキャストは地味。リチャード・バートン、ジェイムズ・メイスン、サー・ジョン・ギールグッドなどにつぎつぎ出演を蹴られた結果、ジェフリー・ハンター(『捜索者』でもデュークにおともして荒野をさすらいつづけていた)以下、R・ライアン(洗礼者ヨハネ)、リップ・トーン(ユダ)。ほかにハリー・ガーディノ(バラバ)、ロイヤル・デイノ(ペトロ)、『追われる男』のヴィヴェカ・リンドフォース(ピラトの妻)など。

 フランスの高名な批評家=監督によると、ずたずたにされてるわりには「大いに驚いたことに、成功作と言えるほどで、聖書を題材にかつて撮られた映画の最高作のひとつかも」。

 わがバイブルであるレナード・マルティンの Movie Guideでも、★★★+1/2とハイスコア。