Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

パーフェクト・ワールド:『ガン・ホーク』

2016-01-27 | その他


 ウェスタナーズ・クロニクル No.39

エドワード・ルドヴィグ『ガン・ホーク』(1963年、アライド・アーティスト)

 さすらいの拳銃使いロリー・カルフーンが喧嘩に巻き込まれた若造を救うが、仕返しに老父を殺される。カルフーンは復讐し、育ての親である保安官(ロッド・キャメロン)に追われる。保安官は馬で逃走するカルフーンを撃つが、急所をはずれる。カルフーンは“サンクチュアリ”と名づけられた無法者のコミューンに逃げ込み、最愛の女と余生を送ろうとするが、傷が化膿し、瀕死の状態になる。ベッドで死ぬことを潔しとしないカルフーンは、かれを慕う若造にみずからの轍を踏ませないためにかれをたきつけ、決闘を強いる。すでに視界の朦朧としたカルフーンの放った銃弾は外れ、若造は涙にくれながらカルフーンを撃つ。村を見下ろす高台から保安官は一部始終を見守る。

 高台から超ロングで見下ろされる村(模型のようだが人が蟻のようにうごめいているのが確認できる)のシュールでサイケな色彩、死にゆくカルフーンの不気味に充血した目の隈。音楽は始終鳴っているが、不気味な静寂感が支配する。飾りをそぎ落とし、抽象的なまでにエッセンスだけに凝縮された世界。この異世界感はジャック・ターナーの映画にどこかつうじる。

 『怒濤の果て』『血戦奇襲部隊』などジョン・ウェインと組んだ作品でつとに知られるロシア生まれのB級マイスター、ルドヴィグの遺作。超低予算みえみえのちゃちなセット(本作はオールセット)、90分に満たぬ尺、ロックンロール調の主題歌。『昼下りの決斗』、『荒野の用心棒』と同時代の作品。あまたある西部劇への挽歌のうちでも、慎ましくも深い感動をあたえる点において本作は白眉。

 脚本はのちに『恐怖のメロディー』『愛のそよ風』『ダーティ・ハリー』(クレジットなし)を手がけることになる女流ジョー・ハイムズ。と聞けば、いやがうえにも『センチメンタル・アドベンチャー』や『パーフェクト・ワールド』の世界が本作にまざまざとオーバーラップしてこようというもの。ルドヴィグは『ボナンザ』『テキサン』『The Restless Gun』といったテレビ西部劇のマイスターでもあった。やはりテレビ西部劇をルーツにもつイーストウッドとの太い精神的な繋がりを感じさせる。

 

オー!ブラザー:『ミネソタ大強盗団』『ロング・ライダーズ』『ジェシー・ジェームズの暗殺』

2016-01-19 | その他



 ウェスタナーズ・クロニクル No.38  特集:ジェシー・ジェームズ映画を観る(その3)

 コール・ヤンガー(クリフ・ロバートソン)を主役に据えた『ミネソタ大強盗団』(1972年)はシニシズムにおいて際立つ。ロバート・デュヴァル演じる頭髪の寂しいジェシーはその狂気が強調されている。ジム・ヤンガー役でルーク・アスキュー、クレル・ミラー役でR・G・アームストロング。隠れ家を襲われて負傷し、ジェームズ兄弟に置いてきぼりにされたコールらが檻に入れられて護送されていくのを住民たちがロックスターか恐竜(すなわち過去の遺物)でも仰ぎ見るような視線で見守るシーンで幕。女たちの視線を一身に集め、この期に及んでご満悦のコール。一方、逃亡に成功したジェームズ兄弟は、ボブを仲間に引き入れる相談をしながら荒野を進んでいく。原始的な野球の試合を延々映したシーンでコールが銃でボールをパンクさせるエピソード(「アメリカの国技はハンティングだぜ!」)、あるいは強盗団の捜索隊が無実の娼館の客らを問答無用で縛り首にする簡潔きわまりないエピソードが白眉か。音楽デイヴ・グルーシン。





  ジェームズ兄弟にステイシーとジェームズのキーチ兄弟、ヤンガー兄弟にキング版ボブ・フォードの3人息子デヴィッド、キース、ロバート、ミラー兄弟にランディ、デニスのクエイド兄弟、フォード兄弟にゲスト某兄弟をキャスティングした『ロング・ライダーズ』(1980年)は、ロマンティシズム(残酷な暴力描写と両立可能)に回帰している。タイトルバックで山地を駈ける強盗団の映像にいきなりスローモーションがかかる。数の多い人物を識別させるためなのか、テレビドラマ的なクロースアップが基本。異様に顔のデカいジェシーはコールに“family man”とからかわれ、ジム・ヤンガーとエド・ミラーは恋敵であり、コールはベル・スターをめぐってその夫とナイフで殺し合う。クライマックスのノースフィールド襲撃場面は『ミネソタ大強盗団』からのいただきと『ワイルド・バンチ』のへたくそなパスティッシュからなる(ウィンドーへの「飛び込み」にくわえて「飛び出し」まであって、いずれももったいぶったスローモーションがかかる。断崖からのダイブはなくて急流を横断するシーンでお茶を濁す)。ラストはフランクが探偵局に自首してジェシー埋葬の許可を要求する。ジェシーの遺体を乗せた列車が通過するのを一人の農夫が脱帽して見送るノスタルジックなショットで幕。南軍の退役軍人役でハリー・ケリーJr.、銀行員役でイライシャ・クックJr.が顔を見せる。ライ・クーダーの音楽は投げ槍。脚本家上がりの監督にしてはひどいシナリオだとおもったら、ヒルがはじめて他人の脚本で撮った作品であった。





 リドリー&トニーのスコット兄弟が製作に加わったアンドリュー・ドミニク『ジェシー・ジェームズの暗殺』(2007年)は、アクションシーンを省き、晩年のジェシー(ブラッド・ピット)の淡々とした日常を緩慢なテンポ(160分になんなんとする尺。いいかげんにせい)で描写したオセアニア流西部劇。テレンス・マリックかガス・ヴァン・サントかという感じの風景ショットがやたらインサートされ(撮影ロジャー・ディーキンス)、もったいぶっていることこのうえない。ジェシーの「静かな狂気」みたいなものにスポットを当てたつもりか? 原題(The Assassination of Jesse James by The Coward Robert Ford)からわかるように「バラード」の視点をアイロニカルに引き受けた作品で、白痴性を誇張されたボブ・フォード(ケイシー・アフレック)が真の主役であるところはフラー作品を踏襲する。ボブは少年時代からパルプ雑誌を読みあさってジェシーに憧れていたという設定。かれはいわばじぶんのかけがえのない分身であるジェシーをころしたのだ。レイ作品では黒人、フラー作品ではそばかす顔の白人が演じていた流しを豪州人ニック・ケイヴが演じ、フラー作品のような本人との鉢合わせ場面が最後のほうに出てくる。暗殺されるジェシーは額のガラスの反映でじぶんを撃つフォードの姿を見ながら死んでいく。つまりジェシーの視点から暗殺が描かれる。ジェシーの自殺的な傾向を強調した演出か? フランク・ジェームズにサム・シェパード(歳離れ過ぎ)、ロバート・フォードにサム・ロックウェル、チャールズ・フォードにジェレミー・レナー、ゼーにメアリー・ルイーズ・パーカー。ズーイー・デシャネル嬢演じるボブと恋仲の歌手は、フラー作品のバーバラ・ブリトンにあたるのだろうか。



ジェシー・ジェームズを射った男:『地獄への挑戦』

2016-01-18 | その他


 ウェスタナーズ・クロニクル No.37 特集:ジェシー・ジェームズ映画を観る(その2)


 承前。年代は前後するが、この「バラード」をより効果的に使っているのがサミュエル・フラーのデビュー作『地獄への挑戦』(1949年。原題 “I Shot Jesse James”)。タイトルバックで「バラード」が流れ、壁いっぱいの指名手配ポスターを縦横になめていくパンショット。その一枚に監督名のクレジットが確認されるや否やカメラが右にスピーディにパン、ジェシー(リード・ハドリー)のクロースアップ。キャメラが引くと、銀行の支配人にピストルを突きつけていることがわかる。支配人が足下の非常ベルのボタンを踏むまでのスリリングなモンタージュがひとしきりつづく。非常ベルのために失敗した襲撃を伝える新聞が逃亡中の一党のイメージにオーバーラップ。非常ベルは当時の最新テクノロジーであったようだ。劇場で暗殺シーンをどうしても再現できず舞台を降りるボブ・フォード(ジョン・アイアランド。『赤い河』の演技がフラーの目をとまってのキャスティング)、子供に命を狙われるフォード(このエピソードがのちにキング=ド・トスの『拳銃王』に繋がっていくらしい)、サルーンで流しに「バラード」を強要するマゾヒスティックなエピソード、ラストでフォードにこれみよがしに背を向けてみせる保安官(プレストン・フォスター)と、見せ場たっぷりで大ヒットした。フォードが一方的に思いを寄せる歌手(バーバラ・ブリトン)が愛人の所業にたいする、そして保安官にたいするおのれの恋心にたいする困惑ぶりを伝えるかずかずのクロースアップの素晴らしさ。フラーは当初、シーザー暗殺を企てたカシウスについての脚本を書こうとしていたが(「犠牲者は退屈だが殺人者はおもしろい」)、「古代史劇映画=ホモ映画」という先入観にとらわれた無学なプロデューザーが難色を示し、ボブ・フォードを主役に据えることに落ち着いた。フラーによればこれはフロイト的なドラマである。入浴中のジェシーの背中のアップ(暗殺の最初のチャンス)、ジェシー自慢の「銃」をさするしぐさ、フォードの臨終の言葉(“I loved him.”)からは同性愛的な主題があからさまに読みとれる。フランク・ジェームズ役にトム・タイラー、チャールズ・フォードにトム(トミー)・ヌーナン。『地獄への道』およびその続編で鉄道会社の弁護士を演じていたどんぐり眼のJ・エドワード・ブロンバーグが歌手のマネージャー役で。

ジェシー・ジェームズ映画を観る:『地獄への道』『無法の王者ジェシー・ジェームズ』

2016-01-17 | その他


 ウェスタナーズ・クロニクル No.36

 特集:ジェシー・ジェームズ映画を観る(その1)

 ジェシー・ジェームズを英雄として描いた映画はサイレント時代にもあったが、そうしたイメージを決定づけたのは大ヒットを記録した『地獄への道』(1939年)である(不ランクを主役とするその続編『地獄への逆襲』はすでにとりあげた)。この作品は西部劇というよりもファミリー・メロドラマであり、その価値は、ジェシーが実際に暮らしていたミズーリの小村付近にロケを敢行し、フランク・ジェームズの息子に話を聞き、地元住民をエキストラに雇って、瑞々しい田園風景を贅沢なテクニカラー画面に定着させたドキュメンタリー的な側面にあるといえる。ノースフィールド襲撃場面で騎乗したままウィンドーに突っ込むジェームズ兄弟(タイロン・パワー、ヘンリー・フォンダ)、ノースフィールドから逃走中、やはり騎乗のまま崖からダイブする兄弟、列車の屋根を中腰で伝うジェシーのシルエットといった名場面のストックショットは、ニコラス・レイの『無法の王者ジェシー・ジェームズ』(1957年)にそのまま借用された。




 「ジェシー・ジェームズの真実の物語」をタイトルに謳った『無法の王者……』は『地獄への道』の脚本家ナナリー・ジョンソンの物語に基づくとクレジットされているから、リメイクと言ってよい。ただし、複数のフラッシュバックを使った複雑な構成と、メロドラマ的な要素を排除した淡々とした語り口によって『地獄への道』とはまったくちがった映画に仕上がっている。ノースフィールド襲撃で幕を開け、逃走する一党の描写にフラッシュバックが絡む。故郷の母親の安否を気遣う兄弟の会話から病床の母親(アグネス・ムーアヘッド)の場面へ移行し、そこから母親のフラッシュバックでジェシーが兄を追って南軍に入隊するために家を飛び出すまでのいきさつが物語られる。ついで、看病しているゼー(ホープ・ラング)のフラッシュバックが続き、二人の出会い、洗礼式(洗礼を施すのはキング版で裏切り者を演じたジョン・キャラディン)、結婚して家庭を持つまでが綴られる。『地獄への道』の家庭的なジェシー像を、母親とゼーのフラッシュバックによって代表させているといえよう。その後、洞穴での兄弟の会話からフランク(ジェフリー・“キング・オブ・キングズ”・ハンター)のフラッシュバックへと移行し、昔の敵に復讐したために恩赦が取り消され、地獄(ノースフィールド)への道を辿ることになったいきさつが運命感豊かに説明される。前二者のフラッシュバックとは異なり、ここでは無法者としてのジェームズ像が提示される。それが閉じられると舞台は冒頭のノースフィールドに回帰し、冒頭で使われたいくつかの映像がそのまま反復される。フラッシュバックが開いたり閉じたりするたびに赤い煙がもくもくと立ち上るが、これは筋を追いやすくするためにレイの意向を無視して撮影所が入れたもの。
 母親が犠牲になる実家の爆破(ここでは負傷)、暗殺に先立つ子供の遊びは『地獄への道』を踏襲している。ジェシーが撃たれたことを知って野次馬が押し掛け、記念の品をくすねていく。かつてジェシーの強盗を支持したミズーリの民衆の面影はもはやそこにはない。アイロニーたっぷりの幕切れ。『地獄への道』が時系列に沿った安定的なプロットによって家庭的なジェシーを描いていたとすれば、ここでは分断され入り組んだ時系列によってジェシーの流浪の人生が物語られているといえようか。レイは主役にジェシーやジミー・ディーンと同じぽっと出の田舎の少年であるプレスリーを想定していたが、専属俳優(ロバート・ワグナー)を起用したい撮影所の圧力で実現しなかった。キング版同様ジェシーの地元にロケするという希望も叶わなかった。農場の未亡人の借金の肩代わりをしてやるエピソードは、コール・ヤンガー(アラン・ヘイル)がパルプ雑誌で英雄視されているジェシーを揶揄うくだりに先立たれることで、このエピソードの虚構性(神話性)を強調している。ラストは「ジェシー・ジェームズのバラード」を歌いながらジェシーの家からの坂道を下ってくる黒人の流しをとらえたロングショット(『ジェシー・ジェームズの暗殺』に似た構図がでてくるが、このシーンはその地形から判断するに『ワーロック』などで使われているフォックスのセットで撮られたものであろう)。黒人の流しはノースフィールドへ赴く直前のシーンでもちらっと登場し、いわば予言者的な狂言回しの役割を割り振られている。