Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

ドラキュラ vs ヘラクレス:『ヘラクレス 魔界の死闘』

2016-03-25 | その他


 Viva! peplum! ~古代史劇映画礼讃~ No.31

 『ヘラクレス 魔界の死闘』(マリオ・バーヴァ、1961年)

 ヘラクレスは、留守中に眠り姫と化していた妻を回復させるため、巫女シビラのお告げにしたがい、聖なる宝石を求めて冥界に潜る。妻を操っていたのは叔父のライコス王であり、ヘラクレスはライコスがハーデースによって地上に送り込まれた使者とも知らずに妻の身柄を預けていたのであった。

 『血塗られた墓標』で華々しく監督デビューを飾ったバーヴァが、クリストファー・リーのドラキュラ・キャラを当て込んで撮った際物で、フランスでの公開タイトルはずばり『ヘラクレスvs吸血鬼』(原題の直訳は『地の底のヘラクレス』)。とはいえ「吸血」シーンはなく、リーが「吸血鬼」であるのかも曖昧。ラミアーとかエンプーサとか真夜霊(吸血牝犬?)といったかたちで、ギリシャ神話にも一応ヴァンパイア的なモチーフはあったらしい。

 脚本にはドゥチオ・テッサリが参加、11番目と12番目の難業をベースに、ギルガメーシュ伝説(不死の花を求めて海底の王国へ旅立つ)とか、若きテセウスの冒険(シニス、プロクルステスのエピソード)とか、キリスト教的な地獄観(『神曲』の火の河)とかをやけくそ気味にぶちこんだごった煮ふうのストーリーで、山場といえる山場もなく坦々と進む。

 映像はキッチュかつ厳密(撮影もバーヴァが兼任)。極彩色のライトにスモークをたきまくったサイケな冥界のセット。全体的に予算の少なさを編集でカバーしている。土中から手が何本も突き出てヘラクレスを襲うとか、密室でリー演じる黒装束のダンディーに純白のペプロムをまとった美女が追いつめられるとか、バーヴァらしいホラー演出もちらほら。

 ヘラクレスとデイアネイラには、『アトランティス征服』のレグ・パークと『豪勇ゴライアス』(『ヘラクレスの復讐』)のレオノーラ・ルフォと、コッタファーヴィ作品におけるヘラクレス夫婦をスワップした組み合わせ。シュワが師パークを発見したのはどうやら本作においてであるらしい。


旅路の果て:『荒野の女たち』

2016-03-22 | その他


 西部瓦版 ~ウェスタナーズ・クロニクル~ No.43
 
 ジョン・フォード『荒野の女たち』(1966年)


 To Furiosa


 1930年代の中蒙国境というのはじつは口実で、いつのどことも知れない文化果つる辺境。ファナティックなオールド・ミス(マーガレット・レイトン)率いる女たちのプロテスタント布教団は騎兵隊の亡霊のようでもある。人里離れた施設に立てこもって暮らす彼女らは、一人(若いブロンドのスー・“ロリータ”・リオン)を除いていい加減薹が立ち、人生に疲れた風をしている。更年期にさしかかろうかというそのうちの一人(ベティー・フィールド)はあろうことか最初の子を孕んでいる。その初老の夫(エディ・アルバート)も、牧師になる夢を実現するために高齢の妊婦をアジアの奥地に同伴させたことを悔やむ負け犬であり、女だけの世界に完全に埋没している。
 そこに呼ばれてきた医者は革ジャン、乗馬ズボンにテンガロンハットという出で立ちで、たえず煙草をふかし、食卓でウィスキーを煽る蓮っ葉な女(アン・バンクロフト)。たちまち団長とのあいだに火花が散る。性にかんして極度に潔癖性な団長は、じつはスー・リオンに気があり、スー・リオンがバンクロフトに好意的な態度をみせたことがそれに油を注ぐ。女医は8年に及ぶ医学修行と引き換えに女の幸福をあきらめたうえ、既婚の男に騙されて体よく捨てられ、この辺境に流れてきた。使節団の女たちもそれぞれわけありの身の上。スクリーンのうえに男っ気がなくとも、女たちの内面は男の想い出やら男への欲情やらにあふれかえっている(このへんは同じく男の登場しない室内劇であるジョゼフ・ロージーの遺作『スチームバスの女たち』、あるいはロバート・アルトマンの『わが心のジミー・ディーン』あたりを思わせる)。
 コレラの発生を女医の如才ない対応で乗り切るも、モンゴルの獰猛な馬賊があたりに出没との報を受けて、優柔不断なエディ・アルバートが偵察を買って出るが、死体で戻ってくる。馬賊の手がついに施設にまで伸び、引き取って育てている子供らは虐殺され、女たちは人質にとられる。ときあたかも妊婦が産気づき、薬とミルクを確保するために女医は馬賊のボス(マイク・マズルキ)におのれを委ねる。発狂状態の団長は女医を娼婦と罵り、良識を代表する団員(ミルドレッド・ダノック)がその団長を罵る。他の団員たちはといえば、すでになんらかの反応をする気力すら失っている。スー・リオンの懇願によって団員全員を解放するべく馬賊のボスに進言した女医は、その代償としてかれの囲いものとなることを約する。別れ際に女医を抱きしめにきたミルドレッド・ダノックの唇に乱暴に接吻するバンクロフト。団員たちが無事施設を後にするのを見送った女医は、グロテスクな芸者風スタイルに身を包んで新たな「主人」の部屋を訪う。誇張したお辞儀と愛想笑いとともに「主人」に杯を手渡す女医。杯に口をつけたその瞬間、椅子から滑り落ちて画面の外に消えるマズルキ。死体に目をやることもなく、一言 ”So long, bastard!” と吐き捨て、一瞬のためらいのあとで同じ毒の入った杯を干し、床に叩き付けて割るバンクロフト。すかさずキャメラが手前に引いてくると同時にフェイドアウトがかかり、赤い文字でエンドマークがかぶさる。

 本作はフォードの実質的な遺作である。So long, bastard! ――奇しくもこれがジョン・フォードによる、観客への永遠の別れの台詞となったのである。

 オールセットで撮られた本作の舞台は施設を一歩も出ることがなく、息苦しい緊張が全篇を覆う。その大胆きわまりない省略技法はリュートン=フレゴネーゼの『Apache Drums』をはるかにしのぐ効果を挙げている。これほどに身震いさせるホラー演出はほかにない。

 『肉弾鬼中尉』のように演劇的な作風の、『駅馬車』(『脂肪の塊』)のようなカトリック的メロドラマ。どこからともなく姿を現す女医は、地平線の彼方から亡霊のように近づいてくるイーサン・エドワーズであると同時に、怪物の血に汚れた姪デビーである。フォークダンスの楽の音はすでに遠く、松明が囲む野蛮人たちのレスリングに飛び交う恐ろしい怒号だけが響く。

 隅から隅まで異様にして衝撃的な映画。保守的なフォードのファンに本作が認知されていないのは、先住民に徹底して寄り添った『シャイアン』で「政治的に正しい」西部劇の極北に立ったフォードが、ここでふたたび馬賊という「他者」を文明の対極にある極悪非道なモンスターとして描いているためにほかなるまい。就中、馬賊の一人を演じさせられているのは『バッファロー大隊』のアフリカ系ウッディ・ストロードである。So long, bastard!  この台詞は訳知り顔の世間の良識にたいしてフォードの放った痛烈な最後屁でもある。

 女医役に予定されていたのはゲイリー・クーパーとのロマンスで知られ、ジョン・ウェインが最後に恋の炎を燃やした美しきパトリシア・ニール。急病のニールに代わって登板した友人バンクロフトの“侠気”にしびれる。



美女と剣闘士:フレーダ版スパルタカス

2016-03-14 | その他



 Viva! Peplum! ~古代史劇映画礼讃~ No.30

 リッカルド・フレーダ『Spartacus』(1953年)


 トラキア人の通行を禁止された道を渡ろうとした執政官を百人隊長が斬り捨てる。執政官の娘が隊長を罵倒して捕えられる。その場に居合わせた同じトラキア人の部下スパルタクス(マッシモ・ジロッティ)が娘をかばって隊長に盾を突き、娘ともども身分を剥奪されて奴隷となる。

 グラディエーター養成所に送り込まれたスパルタクスにクラッススの娘サビーナが一目惚れ、執政官の娘とともにスパルタクスの反乱を密かに援助する。

 反乱を事前に食い止めるためクラッススはサビーナをスパルタクスのもとに送り込んで折衝に応じさせるが、折衝のさなかに反乱奴隷が蹶起、スパルタクスは多勢に無勢の戦いに加勢するために自陣に戻り、命を散らす。累々と積み重なる死体の山をかきわけて死に際のスパルタクスを探しあてた執政官の娘が形見の剣を捧げて高々と天に差し上げるショットで幕。

 製作されたのはムッソリーニの独裁政府の記憶もいまだ生々しい頃。「ローマ人の残酷さを描こうとした」というエジプト出身のフレーダの意図は、当局の妨害を受け、一時は撮影が中断され、拷問場面などに鋏が入れられた。

 物語は単純明解ながら、奴隷堕ちという同じ境遇の娘と世襲貴族の娘という対照的な二人の女の愛のあいだで揺れ動き、道徳的な葛藤に苦しむスパルタクスは、キューブリックのスパルタカス同様、あからさまなキリスト的含意を担わされていながらも、キューブリック版の救世主的な反乱の指導者というわかりやすいお子様向けの英雄像におさまっていない。

 キューブリックの駄作の主役にして製作者のカーク・ダグラスが、すでに企画が進行していた自作がかすんでしまうのをおそれ、本作のネガフィルムを買い占めてアメリカでの公開を阻止したというのも宜なる哉。

 「特別出演」格でクラッススの娘を演じるのはフレーダの奥方にしてミューズであるにとどまらず、われらがコッタファーヴィ作品や『闘将スパルタカス』なるコルブッチ作品(スパルタクスの息子が主人公)にも出演ましますイタリア古代史劇映画の大ディーヴァ、ジアンナ・マリーア・カナーレ。




 1947年のミス・イタリアの座をルチア・ボゼーと競って逃すも、そのときの三位がジーナ・ロロブリジータであったというエピソードが雄弁にものがたるその美貌に加え、ボゼーもロロブリジータも寄せつけぬダイナマイト・ボデエを武器に堅物の剣奴をメロメロに。

 一方、執政官の娘を演じるのはマイケル・パウエル作品でおなじみの元モンテカルロ・バレエ団エトワール、リュドミラ・チェリーナ。円形競技場での大セレモニー(エキストラで埋め尽くされたヴェローナの円形競技場でのロケ)では大開脚あり、半裸の男優らにねっとりとからだを擦りよせ誘惑するシーンありの扇情的なダンスをたっぷり披露し、さしものカナーレも客席でたじたじ、じぶんとスパルタカスのロマンスを勝手にダンスに投影して傍らの父親に妄言を吐く始末。おまけに舞台上に縛られ、放たれたライオンの餌食にされかかるというおいしい役どころで、ルックス面で絶対的に劣るハンディをはねのけカナーレを食いまくり。

 もちろん寸でのところでスパルタクスに救われるわけだが、スパルタクスとライオンの格闘シーンの困難な撮影を手がけたのはマリオ・バーヴァ(クレジットなし)であるという!

 本作の見どころはなんといっても、クヮトロチェントの名画群を彷彿とさせるようなゴージャスきわまりないヴィジュアルである。おもわず黄金比という言葉を口にしたくなる決まりまくったフレーミング、ロングのモブシーンを整然とカメラにおさめる悠揚迫らざるクレーン撮影、繊細このうえないフィルライト、コントラストの大きい陰影ゆたかなモノクロ画面、ダイナミックな仰角のかずかず。すべてのショットにヴィジュアル的なひらめきがある。

 ハンガリー出身の撮影監督ガボール・ポガニーは、作家の映画から娯楽映画にいたるまでなんでもこなした多作な人。このヴィジュアルスタイルは明らかにフレーダその人の天才に由来するものだ。フィルムセンターで代表作『神秘の騎士』のニュープリント版を見たときの興奮がまざまざと甦った。

 



極(きはみ)の露伴:『運命』『幽情記』

2016-03-07 | 文語文



「世おのづから数(すう)といふもの有りや。有りといへば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。」

 明治三十年代に入つて口語体に乗り換へた露伴は、そのうち自然主義的な風潮に愛想をつかし、小説の筆を半ば折つて『女仙外史』といつた中国のふるい文献に没頭するやうになる。その後大正八年、十四年間のブランクをへて発表された『運命』は、芥川が絶賛し、谷崎が熱狂した露伴文語文学の極北である。

 「古より今に至るまで、成敗の跡、禍福の運、人をして思を潜めしめ歎を発せしむるに足るもの固より多し。されども人の奇を好むや、猶以て足れりとせず、是に於て才子は才を馳せ、妄人は妄を恣にして、空中に楼閣を築き、夢裏に悲喜を画き、意設筆綴して、烏有の談を為る。或は微しく本づくところあり、或は全く拠るところ無し。」

 元から明への移行期、建文帝と永楽帝による亡き太祖の後継者争ひ。後継者の座を得た永楽帝は早逝し、破れた建文帝は、露伴によれば出家して生き延びる。建文帝は永楽帝に責められた際に城内で死亡したといふのがもつぱらの定説。露伴は創作のうたがひがつよい建文帝延命説にあへて与し、対照的な二人の人物の数奇なる運命の交錯を謳つてみせる。

 「是の如きの人にして、帝となりて位を保つも得ず、天に帰して諡(おくりな)を得る能はず。廟無く陵無く、西山の一抔土、封せず樹せずして終るに至る。嗚呼又奇なるかな。しかもその因縁の糾纏錯雑して、果報の惨苦悲酸なる、而して其の影響の或は刻毒なる、或は杳渺たる、奇も亦太甚しといふべし。」

 史料の引用が間々あることもあり、全篇ハードな漢文読み下し調。とても日本語とはおもへぬ見た目にもごつごつした漢語の語彙がつぎつぎ繰り出される。太祖にいたるまでの王朝の変遷の一部始終とホメロスふうのドライな合戦の記述が中盤までの大半を占める。土地の名、人の名、かの国の夥しい固有名詞が洪水のやうにぶちまかれ、人物関係を正確に辿ることは不可能。それがそこかしこで一般名詞とごつちやになる。この混沌とした読書体験は至福。ただ文体だけが読者を運んでいく。

 「建文帝は今は僧応文たり。心の中はいざ知らず、袈裟に枯木(こぼく)の身を包みて、山水に白雲の跡を逐ひ、或は草庵、或は茅店に、閑座し漫遊したまへるが、燕王今は皇帝なり、万乗の尊に居りて、一身の安き無し。」

 雌雄が決せられたあと、永楽帝に味方した男たちの人生が長々と回顧されていく。とくに異僧・道衍のそれを描く端正な筆遣ひ。一方、破れた建文帝に仕へた者らは先帝をしのびつつ自害して果てる。

 「永楽帝既に崩じ、建文帝猶在り、帝と史彬と客舎に相遇ひ、老実貞良の忠臣の口より簒国奪位の叔父(しゅくふ)の死を聞く、世事測る可からずと雖、薙髪して宮を脱し、堕涙して舟に上るの時、いづくんぞ茅店の茶後に深仇の冥土に入れるを談ずるの今日あるを思はんや。あゝ亦奇なりといふべし」

 露伴はスピリチュアルなものに憑かれた作家。ここで描かれた運命(「数」)は、晩年の連作における「連環」へと繋がつていく。

 同年の『幽情記』は短い歌物語を連ねた連作。天才的な詩人が、同じくらゐ天才的で多くのばあい絶世の美女でもある才女と運命的に邂逅し、やがて結ばれてしばし桃源郷にあそぶかのやうな幸福を謳歌するも、これも運命が約したかの如き悲劇的な別離を迎える。二人の運命は、どれもきわめて数奇な仕方で最後に死を越へて結ばれる。この単純な物語、単純な調べが都合十三回、リフレインのやうにくりかへされる。二人の運命を導くのはつねに歌である。歌は単なる媒体ではない。最後には人も世界も消え、ただ歌だけが読者の現前に残る。篠田一士はいみじくもさうのべた。つまりスピリチュアルな世界だけが残る、といふことだらう。ものみな歌でをはる。

 雄渾な『運命』が交響曲であるとすれば(べつに洒落ではなく)、和文脈を交へた親密な小曲である『幽情記』のはうは言はば室内楽。スタイルこそちがへおなじ精神が脈打つてゐる、とも篠田は喝破した。『幽情記』のどれも捨てがたい十三の挿話中、篠田が(しばし迷つたすゑ、とことはつたうへで)筆頭にあげるのは「共命鳥」である。このチョイスに深く頷く。これほどの美、これほどのかなしみはない。匂ひたつエロス、うねるやうに濃密な文章。ここでの露伴の筆は神がかつている、あるいは魔ものに憑かれているとでもほかいはうやうがない。

 「銭牧斎の愛姫を柳夫人といふ。[……]風流温雅、画を能くし、詩を善くし、好んで書を読みて日に霊根を培ふ。しかして其の姿色の美、技芸の精は、もとより一時に冠絶して、三千の粉黛を圧倒するものありければ、公子才人、争ひてこれに趨り、花の下に車を停め、柳の陰に馬を繋ぐもの麕(むれ)至りて断えず、君と席を同じうして語を交すをもて、璧を得、蟠桃を受くるの思を為せり。されば黄金を軽んじて誠をあらはし、千篇を寄せて才を示し、願はくは君と一生を共にせんといふ者も多かりけれど、如是君これを意に上せず、たゞ心ひそかに牧斎に許して、虞山の隆準公、未だ古今に夐絶せずと雖、亦一代英雄を顛倒するの手(しゅ)なりとて、其の才に服して之を重んじたり。牧斎もまた紅花の影揺らぐ筵に文君の奇を認め、緑酒の瀾(なみ)皺む宵に眄々の志を察し、昔の人も、蓬島に遊び桃渓に宴するは、一たび好き人を見るに如かずとなせり、吾が世に当たりて此の人を失ふ可けんやとて、遂に幣を委ねてこれを迎へ取りぬ。願へるなり望めるなり、所を得たるなり人を得たるなり、金蘭の好、琴瑟の情、如何ばかり濃やかにやありけむ、牧斎は山荘を築きて、紅豆と名づけ、姫(き)と与に其内に吟味し、茗椀薫炉、繍床禅板、いと楽しくぞ日を送りける。
 紅豆は亦相思子といふ。木質蔓生にして高さ丈余、莢を成して子(み)を結ぶ、其の大さ豌豆の如く、色鮮やかに紅にして、甚だ愛すべし。嶺南暖地の産にして、中土には稀なり。昔人ありて遠き境に歿しけるが、其妻これを思ひて樹下に哭して卒りしといふ伝説あるより相思子の名あり。されば其子(み)のしほらしく美しく、其名のなつかしく韵(にほひ)あるに、唐以来の詩人のこれを詠せるもの多し。牧斎の山荘、此の樹ありて、此の樹の伝説愛す可きあるより、取りて以て名とはなしけむ」。

 おもむろに挿入される植物学的記述。散文的なことばのまとふなんといふ艶かしさ。

 詩人・牧斎は無実の罪で獄中の身となり、妻と引き裂かれる。獄中では筆も紙も使へない。獄吏に詩を暗誦させて妻に思ひを伝へる詩人。泣ける。やがて詩人は獄中で死ぬ。夫の遺した多くの借金と年端のゆかぬ子供を抱えた妻のもとに借金取りらがおしかけ、弱みにつけこみ非道な所業をはたらく。妻はお上に訴へ出て外道らを告発したうへで首をくくつて果てる。彼女の死後、その訴へが聞き入れられ、詩人の名誉は守られる。愛は勝つ。


私と王様:ウォルシュ&バーヴァの『ペルシャ大王』

2016-03-03 | その他



 Viva Peplum! ~古代史劇映画礼讃~  No.29


 ラオール・ウォルシュ&マリオ・バーヴァ『ペルシャ大王』(Ester and the King, 1960年、フォックス)

 「エステル記」は旧約を読むかぎりではおよそ無味乾燥なストーリーだが、ラシーヌにインスピレーションをあたえただけでなく、サイレント時代から何度も映画化の素材になっている。

 もともとは1950年頃ヘンリー・キングが温めていたが実現できずに終わった企画の監督に、マーヴィン・ルロイとともに『ヘレンのトロイ』の演出を担当したことのあるウォルシュが抜擢された。ペルシャ王と攫われてきた花嫁であるエスターの関係は、あるいみその数年前の『南部の反逆者』(フランスでの公開タイトルは「自由な奴隷」)におけるゲーブルとイヴォンヌ・デ・カーロの関係を反復しているともいえ、ウォルシュが本作を手がけていることにはそれなりの必然性がある。

 王の後妻選びに国中の美女がつぎつぎ搔っ攫われてくるシークェンスなどを除き、印象的なロケシーンは少ない。『イワン雷帝』みたいに陰謀渦巻く王宮内の閉所恐怖症的な空気が支配し、キャメラのマリオ・バーヴァのトレードマークであるおどろおどろしくも官能的なカラーフィルターが全篇をいろどる。その象徴性にみちた色彩の使い方だけからしても本作は立派にバーヴァの作品と言えるとおもわれるが、バーヴァはじっさいに一部演出をも手がけており、エスターに嫉妬してエスターから黄金のストールを奪ったハマン(セルジオ・ファントーニ)の愛人が、それがためにエスターの身替わりとなって絞殺される場面(ヴァイオレンスシーンとしてはいちばんの見どころ)は、ウォルシュがセットを離れたあとで追加撮影されたものらしい。

 ペルシャ軍がエジプト遠征から凱旋するシーンにはじまり、ギリシャに敗北した同軍の帰還シーンに終わるも、戦闘シーンは皆無。饗宴での女たちのセクシーダンスは、ペルシャ王みずからの横槍で(「こんなアホな余興考え出したのだれだ!?」)中断される。この禁欲性は、権謀術数の支配する王宮でいわば武器を奪われた王の境遇(ライオンの仔という小道具)を象徴する演出だろう。とはいえ、ハーレムにきれいどころをそろえ、王の先妻(ダニエル・ロッカ)による度肝を抜くようなストリップシーンもあって(同じウォルシュの『裸者と死者』ではストリップシーンに鋏が入れられ、「死者」だけの映画になった)、お色気度はじゅうぶん合格点に達しているし、生首だとかの残酷シーンも多少は用意されている。公開時にカトリックの映画検閲機関(The National Legion of Decency)からケチがついたという。

 ナイスバディで現代的なルックスのジョーン・コリンズ(『ピラミッド』)がヒロインを演ずるも、ほとんど芝居らしい芝居をしていない。本作はむしろ腹心に妻を寝取られ、戦にも負けたペルシャ大王の孤独(最後にヒロインの愛を勝ち取る)にスポットをあてようとしているようだが、物語は最後まで盛り上がりを欠き、『スパルタ総攻撃』ではほかならぬクセルクセスと戦ったリチャード・イーガンもいっこうにペルシャ人っぽくない。