ビバ!ペプラム あるいは、古代史劇礼讃。
ペプラム peplum あるいはペプロス peplos とは、古代ギリシャの女性用長衣。フランス語の peplum(「ペプロム」と発音)は転じて古代史劇一般を指す言葉としても使われる。
わが国ではもちろん、アメリカやヨーロッパ(イタリアが本場)でさえ長らく低俗なジャンルと貶められてきた。
そんな風潮に風穴を空けるべく、以上のタイトルの下、古代史劇映画の名作を再発見するシリーズを立ち上げることにした。随時アップ。乞うご期待!
1回目は、ジョゼフ・L・マンキウィッツ『クレオパトラ』(1963年)。まずは評価から(☆☆☆☆☆:満点)。
巨編度☆☆☆☆☆
ゴシップ度☆☆☆☆☆
史料度☆☆☆☆☆
シネフィル度☆☆☆☆
お色気度☆☆☆
キャンプ度☆☆
キャストをおさらいしておくと、“リズ”・テイラー(クレオパトラ17世)、リチャード・バートン(アントニウス)、レックス・ハリスン(ユリウス・カエサル)、ロディ・マクドウォール(オクタウィアヌス)。そのほかにおなじみの顔としては、マーティン・ランドー(アントニウスの腹心ルフィオ)、ヒューム・クローニン(クレオパトラのブレーン、ソシゲネス)など。
いわずと知れた超弩級スペクタクル大作。撮影の裏話には事欠かない。リズとバートンがどうなって、みたいなゴシップはだれもが知るとおり。いかに大金をつぎこんだかみたいなつまらん自慢話は製作者ウォルター・ウェンジャー(途中でダリル・ザナックに交替)の回想録(My Life with Cleopatra)にくわしいようだ。
最初に監督を打診されたのはヒッチコックであったらしい(ウェンジャーは『海外特派員』を製作している)。当然、断られた。ルーベン・マムーリアンがいったん監督にきまって撮影が開始されるも、中断、けっきょくマンキウィツに落ち着いた。スペクタクル大作向きの監督ではないが、すでに『ジュリアス・シーザー』(シェイクスピアの脚色)を撮っていたりしたからだろう。クレオパトラ役には当初、ジョーン・コリンズが予定されていた。ソフィア・ローレン、ジョアン・ウッドワード、オードリー・ヘプバーンらの名前も取り沙汰された。カエサルにはケイリー・グラント、ローレンス・オリヴィエ、アントニウスにはバート・ランカスターも候補にあがった。
カエサルが政敵ポンペイウスを追ってアレキサンドリアに到着するところからはじまり、アンティキオスの海戦をひとつのクライマックスにして、クレオパトラが死ぬところまでが物語のあらまし。
おおざっぱに言うと前半が「シーザーとクレオパトラ」、休憩をはさんで後半が「アントニーとクレオパトラ」のお話。ただし、バーナード・ショーとシェイクスピアはちょくせつの霊感源ではなくて、脚本はプルタルコスやスエトニウスをベースに、マンキウィツ(ジョゼフ・L)、シドニー・バックマンらがまとめた。途中でロレンス・ダレルなんかも参加しているらしい(監督を引き受けたとき、マンキウィツは「アレキサンドリア・カルテット」映画化の企画を温めていた)。
時代考証はかなり厳密であるようだ。パリの名門リセで古典学の教授をしていた批評家が請け負っているくらいだからたしかだろう。
巻頭、ポンペイウスの生首の出し方がリアル。髪の毛をつかんで樽から額のところまで持ち上げてみせるだけなんだけど、血の気のなくなった肌の色なんかが生々しい。カエサル一行のリアクションも大袈裟じゃなくてグッド。
クレオパトラの登場シーン。絨毯にくるまれた贈答品を士官がカエサルに差し出すと、なかから鮮やかなオレンジ色の物体が転げ落ちる。顔を上げるとそれがリズである。
思い切り胸の開いた衣裳で肢体をくねらせることたびたびの前半のリズ。モニカ・ベルッチ(『ミッション・クレオパトラ』)なんかよりはるかにゴージャス。もちろん入浴シーンもあり。
カエサル暗殺の場面は、予言者の口から起こりつつあることの一部始終を聞くクレオパトラのアップに、暗殺場面が炎の額縁に囲まれた「ヴィジョン」としてオーバーラップするというもの。『去年の夏突然に』のフラッシュバックで使われたオーバーラップとそっくりで思わず笑ってしまう(告白するリズの口のアップにトラウマ場面がオーバーラップする。最後は同じようなリズの絶叫で終わる)。
英雄たちはみな疲れている。カエサルは癲癇の発作にたびたびおそわれるし、アントニウスは名誉の戦死を遂げさせてもらえず、自害にさえ失敗する始末。オクタヴィウスは戦勝を告げられても船酔いの床にうつぶせになったままだ。
クレオパトラの最期はひたすら美しく描かれる。『アントニーとクレオパトラ』の狂乱の場とはだいぶちがう。毒蛇に手(胸ではないんだな)を噛ませながらリズがつぶやく。
「不思議な気持ち。いままでの人生がずっと夢で、その夢から覚めたような。他のだれかがみていた夢が終わり、わたし自身の夢がここからはじまる。それは覚めることのない夢。アントニウス、アントニウス、いまいくわ。待っていて」
言葉はマンキウィツの映画の命。シェイクスピアふうの大時代的な表現も、いっぽう当世ふうの言葉遣いも意識的に避けて全篇台詞をねりあげたという。
マンキウィツのクレオパトラは、いわば『イヴの総て』のマーゴや『裸足の伯爵夫人』のマリア・バルガスの妹分だ(というか祖先?)。華やかな名声をほしいままにしながら、その影で夢をつかみ損ねた孤独な女性である。
超巨大プロダクションにもかかわらず、マンキウィツはパーソナルなスタイルやテーマをかろうじてではあるが貫き通した。世間的には悪評高いこの作品がハードコアな一握りの映画通には評価の高いゆえんだ。
同時期のサミュエル・ブロンストン製作になる古代史劇映画(『キング・オブ・キングス』『ローマ帝国の滅亡』)と同様、このラスト・エンプレスの物語にもハリウッドそのものの崩壊というリアルな現実が反映されていることは見やすい理というもの。
ペプラム peplum あるいはペプロス peplos とは、古代ギリシャの女性用長衣。フランス語の peplum(「ペプロム」と発音)は転じて古代史劇一般を指す言葉としても使われる。
わが国ではもちろん、アメリカやヨーロッパ(イタリアが本場)でさえ長らく低俗なジャンルと貶められてきた。
そんな風潮に風穴を空けるべく、以上のタイトルの下、古代史劇映画の名作を再発見するシリーズを立ち上げることにした。随時アップ。乞うご期待!
1回目は、ジョゼフ・L・マンキウィッツ『クレオパトラ』(1963年)。まずは評価から(☆☆☆☆☆:満点)。
巨編度☆☆☆☆☆
ゴシップ度☆☆☆☆☆
史料度☆☆☆☆☆
シネフィル度☆☆☆☆
お色気度☆☆☆
キャンプ度☆☆
キャストをおさらいしておくと、“リズ”・テイラー(クレオパトラ17世)、リチャード・バートン(アントニウス)、レックス・ハリスン(ユリウス・カエサル)、ロディ・マクドウォール(オクタウィアヌス)。そのほかにおなじみの顔としては、マーティン・ランドー(アントニウスの腹心ルフィオ)、ヒューム・クローニン(クレオパトラのブレーン、ソシゲネス)など。
いわずと知れた超弩級スペクタクル大作。撮影の裏話には事欠かない。リズとバートンがどうなって、みたいなゴシップはだれもが知るとおり。いかに大金をつぎこんだかみたいなつまらん自慢話は製作者ウォルター・ウェンジャー(途中でダリル・ザナックに交替)の回想録(My Life with Cleopatra)にくわしいようだ。
最初に監督を打診されたのはヒッチコックであったらしい(ウェンジャーは『海外特派員』を製作している)。当然、断られた。ルーベン・マムーリアンがいったん監督にきまって撮影が開始されるも、中断、けっきょくマンキウィツに落ち着いた。スペクタクル大作向きの監督ではないが、すでに『ジュリアス・シーザー』(シェイクスピアの脚色)を撮っていたりしたからだろう。クレオパトラ役には当初、ジョーン・コリンズが予定されていた。ソフィア・ローレン、ジョアン・ウッドワード、オードリー・ヘプバーンらの名前も取り沙汰された。カエサルにはケイリー・グラント、ローレンス・オリヴィエ、アントニウスにはバート・ランカスターも候補にあがった。
カエサルが政敵ポンペイウスを追ってアレキサンドリアに到着するところからはじまり、アンティキオスの海戦をひとつのクライマックスにして、クレオパトラが死ぬところまでが物語のあらまし。
おおざっぱに言うと前半が「シーザーとクレオパトラ」、休憩をはさんで後半が「アントニーとクレオパトラ」のお話。ただし、バーナード・ショーとシェイクスピアはちょくせつの霊感源ではなくて、脚本はプルタルコスやスエトニウスをベースに、マンキウィツ(ジョゼフ・L)、シドニー・バックマンらがまとめた。途中でロレンス・ダレルなんかも参加しているらしい(監督を引き受けたとき、マンキウィツは「アレキサンドリア・カルテット」映画化の企画を温めていた)。
時代考証はかなり厳密であるようだ。パリの名門リセで古典学の教授をしていた批評家が請け負っているくらいだからたしかだろう。
巻頭、ポンペイウスの生首の出し方がリアル。髪の毛をつかんで樽から額のところまで持ち上げてみせるだけなんだけど、血の気のなくなった肌の色なんかが生々しい。カエサル一行のリアクションも大袈裟じゃなくてグッド。
クレオパトラの登場シーン。絨毯にくるまれた贈答品を士官がカエサルに差し出すと、なかから鮮やかなオレンジ色の物体が転げ落ちる。顔を上げるとそれがリズである。
思い切り胸の開いた衣裳で肢体をくねらせることたびたびの前半のリズ。モニカ・ベルッチ(『ミッション・クレオパトラ』)なんかよりはるかにゴージャス。もちろん入浴シーンもあり。
カエサル暗殺の場面は、予言者の口から起こりつつあることの一部始終を聞くクレオパトラのアップに、暗殺場面が炎の額縁に囲まれた「ヴィジョン」としてオーバーラップするというもの。『去年の夏突然に』のフラッシュバックで使われたオーバーラップとそっくりで思わず笑ってしまう(告白するリズの口のアップにトラウマ場面がオーバーラップする。最後は同じようなリズの絶叫で終わる)。
英雄たちはみな疲れている。カエサルは癲癇の発作にたびたびおそわれるし、アントニウスは名誉の戦死を遂げさせてもらえず、自害にさえ失敗する始末。オクタヴィウスは戦勝を告げられても船酔いの床にうつぶせになったままだ。
クレオパトラの最期はひたすら美しく描かれる。『アントニーとクレオパトラ』の狂乱の場とはだいぶちがう。毒蛇に手(胸ではないんだな)を噛ませながらリズがつぶやく。
「不思議な気持ち。いままでの人生がずっと夢で、その夢から覚めたような。他のだれかがみていた夢が終わり、わたし自身の夢がここからはじまる。それは覚めることのない夢。アントニウス、アントニウス、いまいくわ。待っていて」
言葉はマンキウィツの映画の命。シェイクスピアふうの大時代的な表現も、いっぽう当世ふうの言葉遣いも意識的に避けて全篇台詞をねりあげたという。
マンキウィツのクレオパトラは、いわば『イヴの総て』のマーゴや『裸足の伯爵夫人』のマリア・バルガスの妹分だ(というか祖先?)。華やかな名声をほしいままにしながら、その影で夢をつかみ損ねた孤独な女性である。
超巨大プロダクションにもかかわらず、マンキウィツはパーソナルなスタイルやテーマをかろうじてではあるが貫き通した。世間的には悪評高いこの作品がハードコアな一握りの映画通には評価の高いゆえんだ。
同時期のサミュエル・ブロンストン製作になる古代史劇映画(『キング・オブ・キングス』『ローマ帝国の滅亡』)と同様、このラスト・エンプレスの物語にもハリウッドそのものの崩壊というリアルな現実が反映されていることは見やすい理というもの。