Negative Space

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ビバ! ペプラム:『クレオパトラ』(1963年)

2012-08-26 | その他
ビバ!ペプラム あるいは、古代史劇礼讃。

 ペプラム peplum あるいはペプロス peplos とは、古代ギリシャの女性用長衣。フランス語の peplum(「ペプロム」と発音)は転じて古代史劇一般を指す言葉としても使われる。

 わが国ではもちろん、アメリカやヨーロッパ(イタリアが本場)でさえ長らく低俗なジャンルと貶められてきた。

 そんな風潮に風穴を空けるべく、以上のタイトルの下、古代史劇映画の名作を再発見するシリーズを立ち上げることにした。随時アップ。乞うご期待!

 1回目は、ジョゼフ・L・マンキウィッツ『クレオパトラ』(1963年)。まずは評価から(☆☆☆☆☆:満点)。

巨編度☆☆☆☆☆
ゴシップ度☆☆☆☆☆
史料度☆☆☆☆☆
シネフィル度☆☆☆☆
お色気度☆☆☆
キャンプ度☆☆

 キャストをおさらいしておくと、“リズ”・テイラー(クレオパトラ17世)、リチャード・バートン(アントニウス)、レックス・ハリスン(ユリウス・カエサル)、ロディ・マクドウォール(オクタウィアヌス)。そのほかにおなじみの顔としては、マーティン・ランドー(アントニウスの腹心ルフィオ)、ヒューム・クローニン(クレオパトラのブレーン、ソシゲネス)など。

 いわずと知れた超弩級スペクタクル大作。撮影の裏話には事欠かない。リズとバートンがどうなって、みたいなゴシップはだれもが知るとおり。いかに大金をつぎこんだかみたいなつまらん自慢話は製作者ウォルター・ウェンジャー(途中でダリル・ザナックに交替)の回想録(My Life with Cleopatra)にくわしいようだ。

 最初に監督を打診されたのはヒッチコックであったらしい(ウェンジャーは『海外特派員』を製作している)。当然、断られた。ルーベン・マムーリアンがいったん監督にきまって撮影が開始されるも、中断、けっきょくマンキウィツに落ち着いた。スペクタクル大作向きの監督ではないが、すでに『ジュリアス・シーザー』(シェイクスピアの脚色)を撮っていたりしたからだろう。クレオパトラ役には当初、ジョーン・コリンズが予定されていた。ソフィア・ローレン、ジョアン・ウッドワード、オードリー・ヘプバーンらの名前も取り沙汰された。カエサルにはケイリー・グラント、ローレンス・オリヴィエ、アントニウスにはバート・ランカスターも候補にあがった。

 カエサルが政敵ポンペイウスを追ってアレキサンドリアに到着するところからはじまり、アンティキオスの海戦をひとつのクライマックスにして、クレオパトラが死ぬところまでが物語のあらまし。

 おおざっぱに言うと前半が「シーザーとクレオパトラ」、休憩をはさんで後半が「アントニーとクレオパトラ」のお話。ただし、バーナード・ショーとシェイクスピアはちょくせつの霊感源ではなくて、脚本はプルタルコスやスエトニウスをベースに、マンキウィツ(ジョゼフ・L)、シドニー・バックマンらがまとめた。途中でロレンス・ダレルなんかも参加しているらしい(監督を引き受けたとき、マンキウィツは「アレキサンドリア・カルテット」映画化の企画を温めていた)。

 時代考証はかなり厳密であるようだ。パリの名門リセで古典学の教授をしていた批評家が請け負っているくらいだからたしかだろう。

 巻頭、ポンペイウスの生首の出し方がリアル。髪の毛をつかんで樽から額のところまで持ち上げてみせるだけなんだけど、血の気のなくなった肌の色なんかが生々しい。カエサル一行のリアクションも大袈裟じゃなくてグッド。

 クレオパトラの登場シーン。絨毯にくるまれた贈答品を士官がカエサルに差し出すと、なかから鮮やかなオレンジ色の物体が転げ落ちる。顔を上げるとそれがリズである。

 思い切り胸の開いた衣裳で肢体をくねらせることたびたびの前半のリズ。モニカ・ベルッチ(『ミッション・クレオパトラ』)なんかよりはるかにゴージャス。もちろん入浴シーンもあり。

 カエサル暗殺の場面は、予言者の口から起こりつつあることの一部始終を聞くクレオパトラのアップに、暗殺場面が炎の額縁に囲まれた「ヴィジョン」としてオーバーラップするというもの。『去年の夏突然に』のフラッシュバックで使われたオーバーラップとそっくりで思わず笑ってしまう(告白するリズの口のアップにトラウマ場面がオーバーラップする。最後は同じようなリズの絶叫で終わる)。

 英雄たちはみな疲れている。カエサルは癲癇の発作にたびたびおそわれるし、アントニウスは名誉の戦死を遂げさせてもらえず、自害にさえ失敗する始末。オクタヴィウスは戦勝を告げられても船酔いの床にうつぶせになったままだ。

 クレオパトラの最期はひたすら美しく描かれる。『アントニーとクレオパトラ』の狂乱の場とはだいぶちがう。毒蛇に手(胸ではないんだな)を噛ませながらリズがつぶやく。

 「不思議な気持ち。いままでの人生がずっと夢で、その夢から覚めたような。他のだれかがみていた夢が終わり、わたし自身の夢がここからはじまる。それは覚めることのない夢。アントニウス、アントニウス、いまいくわ。待っていて」

 言葉はマンキウィツの映画の命。シェイクスピアふうの大時代的な表現も、いっぽう当世ふうの言葉遣いも意識的に避けて全篇台詞をねりあげたという。

 マンキウィツのクレオパトラは、いわば『イヴの総て』のマーゴや『裸足の伯爵夫人』のマリア・バルガスの妹分だ(というか祖先?)。華やかな名声をほしいままにしながら、その影で夢をつかみ損ねた孤独な女性である。

 超巨大プロダクションにもかかわらず、マンキウィツはパーソナルなスタイルやテーマをかろうじてではあるが貫き通した。世間的には悪評高いこの作品がハードコアな一握りの映画通には評価の高いゆえんだ。

 同時期のサミュエル・ブロンストン製作になる古代史劇映画(『キング・オブ・キングス』『ローマ帝国の滅亡』)と同様、このラスト・エンプレスの物語にもハリウッドそのものの崩壊というリアルな現実が反映されていることは見やすい理というもの。

エッセンシャルな笑い:『網走番外地』『網走番外地 望郷篇』

2012-08-15 | その他
 石井輝男の『網走番外地』『網走番外地 望郷篇』(1965年、東映)。

 モノクロ画面に雪景色がよく映える。さいはての土地。もともと何もないところへきて、一面の雪のせいでスクリーンから余計な視覚的要素が排除され、わわれれの視線はいやがうえにも人間という動物のエッセンシャルな生態だけに注がれることになる……なんていうとおおげさだね。

 ある種の極限状況(とくに後半)をコメディーの舞台に仕立ているが、わらいの質はカフカやベケットというよりあくまでヒッチコックに近い。

 手錠のままの脱獄を決行した南原宏治と道連れの高倉健が吹きさらしの雪原で一夜を過ごすシーン。体をさすりあって暖をとろうとするが、じゃれつく南原に健さんがほんきで気色わるがる。わらいのオブラートにまぶしてはいるが、そのさりげなさが逆にリアルな同性愛的描写。寝ている相手をわざわざ起こして寝床(?)から離れた場所に用足しにいくのもたのしい。健さんは大のほう。『三十九夜』のロバート・ドーナットとマデリン・キャロルは、トイレはどうしてたんだろう? これはだれもが抱く疑問。ゴダールの『カルメンという名の女』に下品なシーンがありましたね。

 あやうく言い落としそうになったが、暴走トロッコの場面も手に汗握るド迫力!

 なぜか世評高い三作目の『望郷篇』。シリーズ最高作に推されることも少なくないほど。トレンチコートでの殴り込み、杉浦直樹演じる結核病みのダンディーな殺し屋なんていうそれなりにたのしいディティールが色を添えてはいるが、出来は一作目と比べてもきわめて凡庸。おくんちのシーンはどうせ疑似ロケだろう。さもなければもうちょっと使いようがあったはず。

演技者・渡哲也:『「無頼」より 大幹部』

2012-08-12 | その他
 舛田利雄の『「無頼」より 大幹部』(1968年、日活)。

 ニューアクションの先陣の一本。渡哲也がスクリーンを獣のようにしなやかに駆け抜ける。簡潔でタイトな語り口の青春やくざ映画。この爽快さは渡の無駄のない演技のたまものだろう。渡の簡潔な身のこなしがキャメラを自然に吸いつけ、物理的に映画を引っ張っている。

 渡哲也という俳優の演技はてっていして外面的だ(もちろん、いい意味で)。アクやクセがなく、余計なことをしない。必要最小限の身体の動きで伝えるべきことを伝える。渡にはデンゼル・ワシントンにつうじるものがある。だれもがかれらに絶対的な信頼をよせている。余計なことをしないだけに、逆にいうと失敗もない。かれらが映画をぶちこわしてしまうことはない。手練の職人。でもぎゃくにいうと、それだけかれらの演技は目につきにくい。あるいは言葉にしにくい。だからちゃんと評価してくれる人がいない。

 終盤にケレン味たっぷりのカットバックが二箇所。渡の弟ぶんの浜田光夫と恋人の甘いシーンが浜田の殺害という悲劇に急転する。この一連の流れが、暴力団どうしの合併式?と並行して映し出される。『ゴッドファーザー・パート』のフレドー暗殺シーンそっくり。
 ラストは、キャバレーのステージで青江三奈が歌う「上海帰りのリル」をバックに、同じキャバレー内で渡が大立ち回りを演じるようすがサイレントで映し出される。

 女優陣では松尾嘉代演じる極道の妻のからっとした現実家ぶりが、いかにもこの人らしくてほほえましい。

彼女たちの夏:『おんな地獄唄 尺八弁天』『(秘)湯の街 夜のひとで』

2012-08-11 | その他
 渡辺護の『おんな地獄唄 尺八弁天』『(秘)湯の街 夜のひとで』(1970年)。

 いずれも脚本は日野洸こと大和屋竺。

 『尺八弁天』。闇のなかではげしく打ち鳴らされる警鐘。櫓からすばやくティルトダウンし男のけわしい面持ちをとらえるキャメラ。瓦屋根を伝って逃げ、忍者のように地上に舞い降りる女の影……。巻頭いきなり伊藤大輔ふうのダイナミックな捕り物の一幕。とおもいきや、きこえてくるギターの音色はマカロニ・ウェスタンふう。

 このミスマッチ。汽笛をあげて通り過ぎる機関車といい、甘いマスクの詰め襟男といい、鈴木清順の大正時代ものを彷彿させる。 

 渡世の女・弁天の加代がふしぎな絆でむすばれた男に命をたすけられる。幻想的な任侠映画。

 静まり返った境内。闇に光る山中のせせらぎ。ドライヤーの映画に浮かんでいるみたいな雲を見上げる旅の女……。


 『夜のひとで』のヒロインもさすらいの身だ。エロ写真やブルーフィルムのたぐいを製作して温泉街を売り歩く三人組。「女優」と芸術家気質のその情夫(演出家)、それにお調子ものの営業担当とでいっぱしの「独立プロ」を運営している。

 DVDのパッケージに福間健二さんが紹介文を書いている。「大月麗子演じる雀のしなやかな肢体は、可愛い女・負けない女・不幸な女のメロドラマを突き抜けて、この世の悲しみの奥の奥へと転落する」。

 福間さんはたしか、キネマ旬報増刊の“心に残る日本映画ベスト10”でもこの作品をあげておられた。そういえば、福間さんじしんの映画にどこかつうじるものがあるような。鼻につかないモダニズム、スクリーンをとおりぬける風のようなノスタルジー、それから女性の描き方。『夜のひとで』のヒロインが『わたしたちの夏』の三世代の女性像を集約しているなどといったらおおげさだろうか。

呪われた傑作テレビドラマ?:『ヘヴンズストーリー』

2012-08-10 | その他
 瀬々敬久の『ヘヴンズストーリー』(2010)。

 4時間半の大作。殺人事件の遺族である少女。犯人は死んだので、復讐もできない。どうすればじぶんの気持ちがおさまるのか。同じく殺人事件の遺族である男をはじめ、こころにふかい傷を負ったいろんな人物が交錯しあいながらからむ群像劇。

 タイトルのついたチャプター。劇画ふうの突飛なキャラクターと状況設定。じぶんはくるしいんだよお、つらいんだよお、と涙ながし絶叫する人物たちをデジタルカメラがアップで追う。つまり、テレビドラマの文体で撮られた劇場用映画。

 いまどきのテレビドラマ、これくらいゴージャスな映像はめずらしくないし、テレビシリーズとして発表されていれば、野心的な傑作として歴史にのこったにちがいない。(ただし、呪われた傑作におわった可能性は大きい。)

 人物設定に無理がありすぎるせいか、あるいは人物のほうからおしつけがましいまでにじぶんのこころのうちをぶちまけてくれるせいか、人物に謎というか深みというものがない。例外的に興味を抱かされるのは、海島という人物の息子くらい。キャラの設定にしろ、演技にしろ説明的すぎて、逆にあらかじめ感情移入を禁じられているようなところがある。

 廃墟のつかいかたといい、人形芝居=舞踏のつかいかたといい、死のシーンと誕生のシーンのカットバックといい、えらく紋切り型である。(ただし廃墟の団地も人形芝居も、ヴィジュアル的にはすばらしい)。柄本明が親族に死なれて涙流したりといったような、なんどもみたような既視感のまといつく映像も随所に。

 同じトラウマもの、ヒアアフターものとしては、長い尺といい、青山真治の『EUREKA』の向こうを張ろうという意識が勝ち過ぎたのか、ぎゃくに『EUREKA』を想起させる要素が多すぎる結果となってしまった。冒頭のナレーションからすでに悪い予感がしたのだが、案の定、ラストでヒロインの宮凬あおいふうアップが出てきたりする。

 いろんな材料をぶちまけてあれこれ問題提起をしておいて、さいごの舞踏とかのじょのアップですべて納得しろと言われても無理な相談である。

 瀬々監督には、ぜひテレビでじっくりセルフリメイクしてほしい。