清水宏 二題。
『蜂の巣の子どもたち』(1948年)は、放浪する孤児たちの物語。ネオレアリズモの教科書だろう。日本人にデ・シーカやロッセリーニ見せてもピンと来んでしょ? クライマックスの登攀の場面は『ストロンボリ』そのものだ。あの子らもバーグマンと同じように何かに憑かれたように天を目指す。
子役にお涙頂戴的な芝居もやらせてはいるのだが、芝居がへたくそすぎて、メロドラマが成立していないというか、大ロングショットのなかで子どもたちと風景があまりに生々しく交感しあうさまそのものがドラマで、そんな小芝居はどうでもよくなってしまう。
画面の上半分が空みたいなジョン・フォードふうのショットが延々つづく。フレームを横切るラインを強調した鋭角的な構図にも清水の天才がいかんなく発揮される。
画面手前に巨大な円形のオブジェを配したショットがある。墓地の場面では空を切り裂くように細長くそそり立つモニュメントを効果的なアクセントとしてあしらう。格子状の柵に追いつめられる復員者の女性。子どもたちを連れ歩く戦災障害者の跛行は『按摩と女』を想起させる。
山地の高低差を利用し、画面手前に配された木立を通してはるか下方を走る子どもたちを捉えた大ロングの疑似クレーンショット。撮影の古山三郎によれば、「関沢[新一]や照明のチョーさん(山中長二郎)がタイヤの付いた移動車を一枚板の上で押すわけ。レールなんかないからね。子どもたちもみんな手伝わせて」というのがいつもの清水組のやり方(『映画読本 清水宏』)。この映画もそんなふうに撮られたのだろう。
子どもらが小学校の授業風景を窓から覗き込むシーン。教室内に置かれたキャメラが右方向に移動しながら好奇心に満ちた子どもたちの顔を捉えると、画面奥で画面右側から機関車がフレームインしてくる驚くべきショット。機関車は『みかへりの塔』(1941年)でも要所要所で画面を横切る。冒頭近く、演説する笠智衆の背後を突然横切る。並んでブランコに揺られる年長の生徒らの下方を通り過ぎる。ラスト近く、段差のある園内を行く生徒と保護者らをとらえた大ロングショットのなかを走り抜ける……。
『蜂の巣の子どもたち』でしばし子どもたちと行動を供にする復員兵は「みかへりの塔」の出身と自称しており、ラストは子どもらが鑑別施設「みかへりの塔」に到着し、走り寄って歓迎する生徒らの輪に合流するロングショットで終わっている。で、『みかへりの塔』も見ることにする。
施設を見学中の和服姿の女性たちの先頭に立ってゆるい坂道をのぼってくる笠智衆をとらえたロングの移動ショットではじまる。見学者たちの視点で施設の内部が紹介されていくドキュメンタリー的なシーンがしばしつづく。寝小便の正確な回数を報告する笠智衆のナレーション。
クライマックスはキング・ヴィダーの『麦秋(むぎのあき)』みたいに施設までの2キロに及ぶ水路を引く工事のシークェンス。『突撃』の塹壕シーンみたいな前進移動を使っていたりする。水路が開放され、流れ下っていく水のながれを興奮しながら追う子どもたち(『麦秋(むぎのあき)』にも似たような映像があったはずだ)。泥にまみれてとっくみあう男の子と女の子がちらりと映る。『白昼の決闘』はたまた『ルビー』?
生徒らとの関係で悩む保母役で三宅邦子。戸外で生徒に手を上げるシーンのロングショットもいいが、アップも何度か(松竹の意向で入れたのか?)。
坂本武の娘役が裸足で歩く際の、あるいは彼女の靴を盗んだ少女が校舎の影で靴を試し履きする際の足のアップ。