Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

少年と機関車:『蜂の巣の子どもたち』『みかへりの塔』

2014-08-23 | 清水宏

 清水宏 二題。

 『蜂の巣の子どもたち』(1948年)は、放浪する孤児たちの物語。ネオレアリズモの教科書だろう。日本人にデ・シーカやロッセリーニ見せてもピンと来んでしょ? クライマックスの登攀の場面は『ストロンボリ』そのものだ。あの子らもバーグマンと同じように何かに憑かれたように天を目指す。

 子役にお涙頂戴的な芝居もやらせてはいるのだが、芝居がへたくそすぎて、メロドラマが成立していないというか、大ロングショットのなかで子どもたちと風景があまりに生々しく交感しあうさまそのものがドラマで、そんな小芝居はどうでもよくなってしまう。

 画面の上半分が空みたいなジョン・フォードふうのショットが延々つづく。フレームを横切るラインを強調した鋭角的な構図にも清水の天才がいかんなく発揮される。

 画面手前に巨大な円形のオブジェを配したショットがある。墓地の場面では空を切り裂くように細長くそそり立つモニュメントを効果的なアクセントとしてあしらう。格子状の柵に追いつめられる復員者の女性。子どもたちを連れ歩く戦災障害者の跛行は『按摩と女』を想起させる。

 山地の高低差を利用し、画面手前に配された木立を通してはるか下方を走る子どもたちを捉えた大ロングの疑似クレーンショット。撮影の古山三郎によれば、「関沢[新一]や照明のチョーさん(山中長二郎)がタイヤの付いた移動車を一枚板の上で押すわけ。レールなんかないからね。子どもたちもみんな手伝わせて」というのがいつもの清水組のやり方(『映画読本 清水宏』)。この映画もそんなふうに撮られたのだろう。

 子どもらが小学校の授業風景を窓から覗き込むシーン。教室内に置かれたキャメラが右方向に移動しながら好奇心に満ちた子どもたちの顔を捉えると、画面奥で画面右側から機関車がフレームインしてくる驚くべきショット。機関車は『みかへりの塔』(1941年)でも要所要所で画面を横切る。冒頭近く、演説する笠智衆の背後を突然横切る。並んでブランコに揺られる年長の生徒らの下方を通り過ぎる。ラスト近く、段差のある園内を行く生徒と保護者らをとらえた大ロングショットのなかを走り抜ける……。

 『蜂の巣の子どもたち』でしばし子どもたちと行動を供にする復員兵は「みかへりの塔」の出身と自称しており、ラストは子どもらが鑑別施設「みかへりの塔」に到着し、走り寄って歓迎する生徒らの輪に合流するロングショットで終わっている。で、『みかへりの塔』も見ることにする。

 施設を見学中の和服姿の女性たちの先頭に立ってゆるい坂道をのぼってくる笠智衆をとらえたロングの移動ショットではじまる。見学者たちの視点で施設の内部が紹介されていくドキュメンタリー的なシーンがしばしつづく。寝小便の正確な回数を報告する笠智衆のナレーション。

 クライマックスはキング・ヴィダーの『麦秋(むぎのあき)』みたいに施設までの2キロに及ぶ水路を引く工事のシークェンス。『突撃』の塹壕シーンみたいな前進移動を使っていたりする。水路が開放され、流れ下っていく水のながれを興奮しながら追う子どもたち(『麦秋(むぎのあき)』にも似たような映像があったはずだ)。泥にまみれてとっくみあう男の子と女の子がちらりと映る。『白昼の決闘』はたまた『ルビー』?

 生徒らとの関係で悩む保母役で三宅邦子。戸外で生徒に手を上げるシーンのロングショットもいいが、アップも何度か(松竹の意向で入れたのか?)。

 坂本武の娘役が裸足で歩く際の、あるいは彼女の靴を盗んだ少女が校舎の影で靴を試し履きする際の足のアップ。
 

追憶のモダン・ガール:『不壊の白珠』

2013-06-06 | 清水宏
 フィルムセンターにて清水宏特集はじまる。

 及川道子のデビュー作『不壊の白珠』(1929、松竹蒲田)。

 冒頭、八雲恵美子のせつなげな表情のアップ。背景は闇。腕を組んで歩み去っていく男女の後ろ姿に切り返し。靄がかかっている感じ。……(男女の名前を呼んで)行かないで! 追いすがろうとする八雲。ディゾルヴ。靄が渦を巻くようにしてうなされる八雲の寝顔を縁取る。表現主義的な夢のシーン。で、これはすぐ正夢とわかる。

 階段を忍び足に上がってくる及川の足。床の中で前方を睨む八雲のアップ。着替えをする及川が脱いだものを椅子の背にかけるその手だけのアップ。

 寝室に入って来た及川が隣の布団に入る。その日、高田稔とデートしてきたという。高田稔は八雲と結婚を誓った仲だった。表情が曇る八雲。

 最初のうち、八雲はばかに暗くて隈取りふうの化粧のトラジェディエンヌ。結婚式で卒倒してうなされる狂乱の場(卒倒する直前、画面がモヤモヤとしばらく霞みっぱなしになるキッチュな視点ショット)。高田に介抱されると、いや、いや、およしになって!いや~ん、と妄言。一同ドン引き。対してあっけらかんと陽気な及川はよく笑い、目も眉も細く見える。地味で柔和な感じ。悪女?の八雲の引き立て役の清純派に徹するのかと思っていると、これが後半、逆転する。八雲が地味でいい人になるのと対照的に及川はとたんに太い眉と目ぢからにもの言わせ、ドスのきいたズベ公ぶりを発揮。

 話は相前後するが、高田稔は及川と結婚するも八雲に未練たっぷりで煮え切らない高田がまだるっこしい(見ている方もまだるっこしい)。で、結局浮気される。

 高田は八雲に手紙を出し、カフェーで密会。半地下みたいになっていて、かれらの背後に道行く人(の足)が曇りガラス越しにシルエットで行き来するデザイン性豊かなセット。トリュフォーもかくや? テーブルの下で二人ともそわそわと手をもんでいる。テーブルの下方から鋭角的な仰角で人物の顔をとらえるショット。席を立ち、出口まで歩いていく八雲をダイナミックな移動で捉える。そのままキャメラはもと来た方向に戻り、帽子をかぶって席を立ち上がる高田のショットでフェイドアウト。

 三人で連れ立って街に繰り出す場面の長い横移動。通行人のあいだを踊るように縫って進む長身モガ・スタイルの及川。ほれぼれする「振り付け」。帰りのタクシーの後部座席。及川が高田と八雲にはさまれている。
 ――私もあなた(及川)のまねをしようかな。
 ――結婚?
 顔を曇らせる高田。
 ――嘘よ。
 ――お姐さんは嘘を言う人ぢゃないわ。
 八雲はやもめの専務に求婚されている。専務の子供らに「タイピスト」の八雲が「新しい女中かとおもった」などとコケにされる場面がある。タイピスト、イコール不良娘みたいな通念があったのか。

 及川は昔の男と浮気、高田の下を去る。八雲は及川を高田の下に戻らせようとダンスホールを訪ねていく。

 ホール内には紐の簾がヴェール状に下がっている(スタンバーグの映画みたい)。そこをやはりダンスする男女を縫うようにこんどは八雲がよろめきつつ進む。

 結局、高田と及川のよりは戻りそうにない。思い合っていながら結ばれることのない八雲と高田がつかの間並んで歩く、作品中もっとも悲しく、もっとも幸福なシークェンス。でっかい雲を背景に土手に腰を下ろす二人を仰角で捉えたロングショットが目に染みる。

 失意のうちに外国へ発つ高田。八雲は見送りに港に行く。
――帰国するときはきっと妹が迎えに来るわよ。
――きみもそのころには専務夫人だね。
――だといいけど。

 ラスト、風に舞う船出のテープが八雲の悲しみを伝える(このへん『港の日本娘』でも反復される)。幕切れのショット。シルエットで捉えた後ろ姿の八雲がもたれる欄干に一本巻き付いたテープが激しく舞い上がっている。

及川道子、吃驚変化之巻:『港の日本娘』

2012-12-03 | 清水宏
『港の日本娘』(1933年)。

 清水宏のサイレント作品。『泣き濡れた春の女よ』ふうのメロドラマ。舞台は横浜(ハマ)から神戸へ、また横浜へ。

 見どころは、なんといっても伝説の女優・及川道子。可憐なセーラー服姿から高島田の淪落の女へ。

 大柄で面長、濃い眉、強いまなざし。原節子ふうのバタ臭さがある。

 ほかの人物にもバタ臭いのが多い。脇に江川宇礼雄、井上雪子というハーフ俳優。役名もヘンリー(江川)とかドラ(井上)とかシェリダン燿子(この人もバタ臭い)とか。シェリダン燿子が男装のディートリヒみたいに二本指で敬礼してみせたり。やはりバタくさい斎藤達雄が及川道子のヒモ(というより飼い犬)のベレー帽かぶった画家役。あからさまに洋画のコピー。ただし及川道子の役名は砂子と和風。

 女子高生の及川道子が恋敵のシェリダン燿子を教会で撃ち殺そうとしたりするナンセンス。かのじょはそれで身を落とす。

 ロケ撮影がすばらしい作品だが、教会は表現主義というかアール・デコふうの抽象的なセット。礼拝室に入ってきた及川道子のロングショットからたたみかけるようにカットインして拳銃のアップ。銃弾が放たれたあと、同じようにたたみかけるように徐々に引いたショットに。

 ハマに戻ってくると、かつての親友ドラと結婚したヘンリーとのあいだにむかしの感情がよみがえる。

 ドラはヘンリーの赤ん坊を身ごもっており、赤ん坊の靴下などを編んでいる。及川がたずねてきた折、転がってくる毛糸玉をたどっていくと、レコードにあわせてチークダンスを踊っている夫と及川の足に毛糸が巻きついているというエロティックな演出。

 けっきょく及川が身を引く。

 キャメラはじつによく動く。川縁を歩く二人をとらえたトラッキング・ショット、日傘の女、窓枠越しのショット、ロケを活かした抒情的なロングショット。清水節が冴える。ラスト、風に舞う船出のテープがメロドラマ的なエモーションをいやがうえにもかき立てる。

ディクションは女優の武器:『信子』

2012-08-03 | 清水宏
 清水宏の『信子』(1940、松竹)。

 地方出身の教師・信子(高峰三枝子)が東京の女学校に赴任するが、理事長の娘である問題児(三浦光子)との確執に悩む。画面に映る男といえば、最後のほうに出てくる理事長と寮に忍び込む泥棒(日守新一)くらい。

 赴任早々、きつい訛りを直すよう校長に言われるものの、何か言うたびに語尾につい「ケ」とつけてしまい、そのたびに口をおさえるというアクションがくどいくらいに反復される。『簪』でも似たタイプのギャグがあった。

 にもかかわらず、その後の高峰、えらく早口のべらんめえ調?で押し通している。このへんいい加減だが、切れのいいディクションが耳に心地よい。とにかく高峰の表情が自然で生き生きしている。あのきつね目が閃くように何度も光るのが妙にエロティック。

 清水宏のトレードマークのひとつと言えよう長い横移動が何度も使われる。ハイキングのシーン、行方不明になった三浦光子を同級生たちが捜してかわべりを歩くのを俯瞰でとらえた移動撮影がとくにいい。陽光が水面に反射してきらきらしている。

 ガス自殺をはかった三浦光子の長い告白は、横たわる三浦を彼女の頭頂からとらえたワンショット。布団をかぶった三浦の表情も、傍らで聞いている高峰の表情も見えない。その後、三浦が画面に一度も登場しないことも含めて、洗練された演出だ。

 思いっきりシンプルな話だが、さればこそ活きる清水調。 

壊滅的な物語をかろうじて救ったムルナウ的感性:『金環蝕』

2012-08-02 | 清水宏
 清水宏の『金環蝕』(1934、松竹)。

 トーキーとばかりおもっていたら、サイレントだった。原作は久米正雄。

 東京で法学士となった神田が帰郷する。村人のうわさでは、嫁さがしのためらしい。神田は絹枝(川崎弘子)にご執心。いかにも意志の強そうな女。神田は親友で絹枝の従兄弟である大崎(笑うせ~るすまん藤井貢)にそれとなくたずねる。きみと絹枝さんとは何でもないのかい? 二人は猿のように木の枝にぶらさがっている。ぶらぶらする二人の足だけを写したとぼけたショット。清水宏は足のアップがほんとにすきだ。

 夜。水車をバックにした絹枝と大崎。やっと二人だけになれたわね。この時を待っていたの。誤解しちゃいけない。神田の気持ちを伝えにきたんだ。顔を曇らせる絹枝。

 神田は絹枝と婚約にこぎつける。大崎は勉学のためとかで突然東京に発ったという。

 舞台は一転、東京へ。同郷の代議士宅の家庭教師の職にありついた大崎。代議士の娘のモダンガール鞆音(これがデビューの桑野通子)は彼に夢中。運転手の妹の清純派・嘉代(坪内美子)にも惚れられる(勝手にせい)。

 ある日、神田がたずねてくる。神田はかつて鞆音の家庭教師のようなことをしていたのだった。絹枝さんはどうしてる? ぼくのほうが知りたいね。あの後きみを追って家出したんだ。

 神田と大崎と鞆音で映画を見に行く。闇のなかで鞆音が大崎にささやく。ほんとはあなたとふたりだけで来たかったのに。スクリーンでかかっているパラマウント作品は何だろう。実在の作品か?

 政権交替で代議士は廃業する。大崎はタクシー業に転じた運転手の助手になり、嘉代ともども三人暮らし。嘉代はビヤホールの女給になっている。慣れない勤め先で、影のある女に親切にされる。絹代であった。仕事が終わって、連れ立って帰る二人。夜の川沿いを行く二人をやや後方から捉えたロングショットは風情たっぷり。あるひとをさがして東京に出てきたの、と絹代。私は兄さんと、もうひとりの兄さんと暮らしてるの、とうれしそうに話す嘉代。家に寄って行くよう絹代をさそう。そこで大崎と鉢合わせする絹代。長時間見つめあう二人。尋常でない空気をさとった嘉代。あなたのさがしてたひとって、この大崎さんじゃないの? あわててたずねる絹代。神田さんはどうなさってる? わたしのさがしてるひとはその神田さんて人なのよ。神田くんは鞆音さんと結婚するらしいよ。

 このあとなんやかやあるのだが、概して通俗的であほらしい展開。ラストは、汽車の最後尾にたたずむ絹代と大崎をとらえたショット。開け放たれたドアから暗い車内に射しこむ光で、むかいあってうつむくふたりがシルエットになっている。画面奥に流れ去って行く線路が余韻を残す。もうちょっとぴりっとしたストーリーであれば、さぞ活きたであろうエンディング。はたして客足はわるかったらしい。

 川崎弘子演じるディートリヒふうの淪落の女はなかなかさまになってる。桑野通子のフラッパーぶりは鮮烈。このあと傑作『有りがたうさん』を含め、清水作品に立て続けに出演するが、女優としてのキャリアは短かった。