Negative Space

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言葉、言葉、言葉:『ジュリアス・シーザー』(1953年)

2012-08-27 | その他
 <ビバ!ペプラム>2回目。前回にひきつづき、マンキウィツ作品をとりあげる。

『ジュリアス・シーザー』(MGM、1953年)

 ストア派度☆☆☆☆☆
 朗々度☆☆☆
 金言度☆☆
 任侠度☆☆☆
 ゴア度☆
 マシスモ度☆

 シェイクスピアの戯曲の脚色。シーザー暗殺前夜から、ブルータスが自殺するまでを描く。例の et tu, Brute はラテン語のままだったりするし、オリジナルの台詞を最大限活かしつつ、要領よく約めている印象。

 キャシス(Sir ジョン・ギールグッド)、ブルータス(ジェームズ・メイスン)、アントニー(マーロン・ブランド)、キャスカ(エドモンド・オブライエン)、シーザーの妻(グリア・ガースン)、ブルータスの妻(デボラ・カー)、シーザー(ルイス・カルハーン)。

 ひたすら禁欲的なこの映画のいちばんのセールスポイントは、やっぱりギールグッドの台詞まわしがたっぷり味わえることだろう。メイスンは可もなく不可もなし。シーザー役のカルハーンは言わぬが花。

 ひとりだけラテン系まるだしのブランド。浮いているが、そのぶんリアル。『欲望という電車』のランニングシャツをトーガに着替え、マッチョな上半身こそ封印してはいるが、秀でた額が美術学校のレプリカふうで真に迫っている。ビーフジャーキーを噛んでるような台詞まわしでシーザー追悼の大演説をぶつ。

 陰鬱な鉄砲玉オブライエンは、ワーナーのギャング映画からそのまま抜け出てきたみたいでわるくない。

 文芸映画御用達のグリア・ガースン、古代史劇常連のデボラ・カーは、いずれも演劇学校の生徒風。いやしくも古代史劇なのにきれいどころは事実上ひとりも出てこない。
 
 エセ思想家ロラン・バルトは、前髪と汗が本作の演出のキモだと言っている。前髪が乱れている(無垢のしるし)のは深夜に起こされるカルピュルニアとブルータスの使用人の少年だけであり、汗をかかない(苦労していない)のはシーザーだけであるとかなんとか。古代史劇映画をなめきった「映画におけるローマ人」というタイトルからして、この知識人の通俗性を露呈してあまりある。

 『白い恐怖』『深夜の告白』のミクロス・ローサは、古代史劇映画の巨匠でもあったコンポーザー(『クウォ・ヴァディス』『ベン・ハー』『キング・オブ・キングズ』……)。お得意のライトモチーフのテクニックをこの作品にも導入している。そういえば、『プロビデンス』にもギールグッドが出ていたなあ。古代史劇ではないが、どこか通じる精神をもった映画だった。

 戯曲の映画化ということもあり、セットは簡素。『クレオパトラ』は画面の隅々まで金のかかったカラフルな小道具がごてごてとてんこ盛りにされていて目が疲れるが、モノクロの『ジュリアス・シーザー』ではむしろ、簡素な衣裳、壁、階段の白さを(象徴的な意味あいをも込めて)効果的につかっている。撮影はMGMの巨匠ジョゼフ・ルッテンバーグ。この人のキャメラにはいつも天才ならではのキレを感じる。

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