Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

不思議の国のセリ:「愛の不時着」

2020-11-01 | ドラマ
 


イ・ジョンヒョ、「愛の不時着」(Netflix, 2019~2020)

 ネタバレ注意!

 金と地位を利用してそうゆう真似ができるのなら、最初からしてればいいのに。この人らバカなのかね? 38度線での悲痛な別れのシーンはなんだったの?……と言いたくなる不満の残る幕切れではあったが、そもそもがこのお話はいわばセリの見た夢。

 竜巻に巻き込まれてワンダーランド(「虹」ならぬ38度線の彼方)に不時着するという状況はいうまでもなく『オズの魔法使』をふまえている。夢の世界が日中の記憶のコラージュからでてきているとフロイトが言うように、『オズ』のワンダーランドとその住人たちはまさにドロシーの知人や身の回りの物体のコラージュでできている。ぎすぎすした商戦とどろどろした後継者争いのどす黒い世界から目覚めたセリの目の前にはドロシーにとってのテクニカラーならぬ韓流ドラマのファンシーなパステルカラーの北朝が広がっていた。ドラマ全篇が女子目線で物語られていることの理由もそこにある。(とゆうか、韓流ドラマって、すべからく女子目線で物語られているのだろうか?最後まで見たマクチャンドラマ?はこれがはじめてだからよくわからないけれど。)

 ふたたびフロイトを引けば、夢のなかで人は全能者になっている。セリが(そこそこの)美人で大富豪なのはそのせいだ。

 そしてフロイトのいう全能者の最たるものは幼児である。母親はじめまわりの者らが奴隷よろしく甲斐甲斐しく仕え、ただ鳴き声をあげるだけで即座に食べ物をあたえてくれるのである。幼児とは王様である(そしてたぶん王様とは幼児である。少なくとも幼児の比喩だ)。じっさいセリは童顔の若作りであり、周囲に長身の俳優(リ、ク、ダン、母親、義姉)を配すことで大柄なソン・イェジンを少女のように見せている。セリには子供がないだけでなく、そのアイデンティティは何よりも親(特に母親)との関係によって決定されている。そのいみでセリはすぐれて「娘」である。

 あらゆるメロドラマにとってそうであるように、子供(子供をもつこと、子供であること)は本作の重要なモチーフだ。セリの兄夫婦にはいずれも明らかに子供がなく、天涯孤独のチョも同じだ。子供をもたないことはメロドラマでは不幸の象徴である。占い師によって子を産まない一生を予言されてしまうダンはもっとも悲劇的な登場人物だ。しかし孤児であったクは人生の終わりにスラムで(いわばダンとの間の)「子供」を授かる。これは本作がキャラクターに捧げた贈り物の中でも最高のものだろう。リの四人の部下たちがセリの「息子」であることは言うまでもない。彼らの最大の存在意義はそこにある。

 銃弾の犠牲となり生死の境をさまようセリから同じく被弾して床に伏すチョへの違和感のあるマッチカットがある。おそらくセリの真の“恋敵”はダンではなくチョであろう。チョがセリの命を狙うために危険を冒すのはそのためだ。チョの「自死」は明らかにリとの心中という意味をもっている。こときれる前にチョがリに残す言葉は作中もっとも情熱的な恋の告白とも読める。そしてセリとチョには共通点がある。爬虫類的ともいえる(?)しつこいほどのしぶとさだ。

 ある研究者が本作が南北朝鮮の社会の同質性を描いているとしているが、南北の鏡像関係という舞台装置が徹底的に活用されているとはお世辞にも言えない。胡蝶の夢みたいなシュールな展開は期待すべくもないまでも、物語のロジックから言えばセリは(理由はどうあれ)もう一度北に入らなければならないのでは? ドラマのなかで南北統一させちゃえとまでは言わないけど。

 本作のいまひとつの魅力はスマートなアイロニーだ。一例を挙げれば、最年少の中隊員が自販機のしくみについてのほらを信じているの背後でピョ・チスとキム・ジュモクが口を押さえて笑い転げているだとか(もちろん二人に対する皮肉である。そもそもこのシーンはつぎのサスペンスシーンとのコントラストによって記憶に残りにくい)、あるいは、二組の兄夫婦が金銭欲と権力欲に取り憑かれるあまり性的にはきわめて潔癖(儒教的?)に描かれているが、長兄の嫁がイケメンのリに興味津々で、理由をつけてセリを見舞うと言い張り、旦那に叱責されるとか。
 
 なぜか未亡人の姉と同居している中途半端に美男のコミックリリーフであるダンの叔父が可笑しい。

ツイン・ピークス・ノー・リターン:『ツイン・ピークス The Return』

2018-03-29 | ドラマ






 デヴィッド・リンチ「ツイン・ピークス The Return」(2016年)


 オリジナルシリーズから四半世紀の月日が経ち、功成り名遂げたセレブなアーティストとなったリンチにはやりたい放題が許されるようになった。

 難解さはもはや野心の高さというよりは安心できるブランドイメージをしかいみしない。

 光量を落としたテレビらしからぬライティングの多用が目を引くが(本作はなによりもまずフィルム・ノワールであることをおもいだそう)、ブラウン管時代ならさておき、解像度がすばらしく上がっているきょうびの受像機をかんがえれば前衛的でもなんでもない。

 ぐっとハイブラウでアーティーになったぶん、オリジナルシリーズを彩っていたソープオペラ的な要素は薄まっている。

 このスタイルをストイックにワンシーズン貫いたのは天晴れだが、“映像作家”としての文体をつきつめて純化させる見返りとして、『The Return』は連続ドラマとしての豊かさの同義語であるいわば“雑味”をうかつにも洗い落としてしまった。

 俺にとってオリジナルシリーズはこれまでにもっとも入れあげた“海外ドラマ”でありつづけている。

 ただし俺にとっての「ツイン・ピークス」は、ファーストシーズンの幕切れ、すなわちもっとも感動的なキャラであったリーランド・パーマーの死とともに終わってしまった。

 “リーランド・ロス”に陥った俺は、クーパーと狂気の上官との対決にヘザー・グレアムとの安っぽいラブストーリーが絡むかなんかのセカンド・シーズンには最後までノレないままだった。

 『The Return』にはオリジナルシリーズ(もはや通して見直す気力はない)の懐かしい面々が顔を揃える。

 マイケル・オントキーンとララ・フリン=ボイルの不在は寂しいかぎりだが、クーパーもアンディもルーシーも“ローラ・パーマー”さえも、その面影は意外なほどに昔のままだ。ホークの精悍さには渋みのある貫禄が加わった。

 ミゲル・ファラーの頭髪の薄さは従弟のジョージがまだ無名だったあの当時そのままだが、その人格はかなり丸くなり、かつてのむちゃくちゃな毒舌は影を潜めている(御大演じる上官ゴードン・コールのお守役がすっかり板についてしまった)。

 ウェンディー・ロビーとエヴェレット・マックギルの変態夫婦ぶりはオリジナルシリーズの最大の見所のひとつであったと記憶するが、出番もすくなくなり、ずいぶんとアクが抜けてしまった。

 丸太オバサンはつねに同一のアングル、同一の暗い照明によるショットでしか登場しないが、前作と同じ女優が演じているはずだ。

 メッチェン・エイミックは年相応に贅肉がついてキツネ目の度合いが増した(たいして娘役のアマンダ・ゼイフライドは日野日出志の漫画の登場人物みたいな目玉の持ち主だ)。

 ペギー・リプトンはオリジナルシリーズにおいてその瞳にたたえていた神秘的な深みさえ消えたようにみえるが、どうみても七十路とはおもえぬほどの若々しさを保ち、てっきり別の似た女優にバトンタッチしたものと思い込んで勝手に落胆してしまっていたほどだ(いまでも一抹の疑いが消えない)。

 そのリプトンがすこし気をもたせたあとで長年思い合ってきたエヴェレット・マックギルに求婚し接吻をあたえる場面は新シリーズ中でもっとも幸福感にあふれた一幕であり、涙なくしては見られない(「俺はあまりにも長いあいだお前を愛してきた……」と歌うオーティス・レディングをバックに、薄雲が刷毛を引く爽やかな青空のショットがその余韻をしばし引き継ぐ)。

 オリジナルシリーズきってのファム・ファタールにしてディーヴァというべきシェリリン・フェンにいたっては酷いまでにオバサンと化してしまった(かのじょはどこかにすてきなほくろがなかったか知らん)。

 てっきりもう聞けないものと思っていたかのじょオードリーのテーマ曲がシリーズ終盤、第16話の幕切れに至ってニューアレンジで突然奏されるところは新シリーズ中でもっとも驚きにみちた瞬間だ。

 ローラに捧げたシンプルな曲をステージで再演するジェームズの高音の歌声も心にしみる……。(以上の条りには歳月の経過ゆえのとんだ記憶ちがいがまじっている可能性大いにあり。)

 青春時代は去った。『The Return』はもじどおりかれら“帰還者=幽霊”たちのものがたりである。舞台はいまや俗界を離れてスピリチュアルな空間(くだんの Red Room?)へと移動し、世俗のしがらみから解き放たれた物語はフィルム・ノワールにやつした聖杯探求(“Lancelot Court”)の旅路を一直線に突き進む……。

 新シリーズのコンセプトをさしずめそんなふうに要約できようか?

 宜しい。しかしハリー・ディーン・スタントンがもちまえの存在感にどんなにものをいわせ、ナオミ・ワッツや裕木奈江がどんなに熱演してみせたところで、オリジナルシリーズに匹敵するような魅力的な新キャラをただの一人もクリエイトできなかったという厳然たる事実は否定できない。

 俺的には、たとえば周囲の誰からも“寒がられる”検死官の見せ場をもっとつくってほしかった。

 それいじょうに、もうちょっと若い世代に花をもたせてやってもいいのではないか?

 なんでもありの予定調和的なリンチワールドと死臭ただよう過去への郷愁が『The Return』のいっさいである。

 郷愁そのものがいわばシリーズの中心的なテーマであり(ローラ・パーマーが象徴するものにたいしてひとつのコミュニティぜんたいが無意識のレベルで抱くことになるそれだ)、シリーズがリンチにとっての「失われた時」であることはさておいて。

 やはりあの「ツイン・ピークス」は帰ってこなかった。全18話をさいごまでみるにはよほどの忍耐力が要る。ただし「スターウォーズ」に飽き足らない子供の視聴者は目を輝かせて食いつくことだろう。リンチもさいしょからそれを見込んでいたのではないか?


地獄でなぜ悪い:『ザ・ワイヤー/THE WIRE』最終シーズン

2015-08-12 | ドラマ



 『ザ・ワイヤー/THE WIRE』シーズン5(2009, HBO)

 マルロ捜査への予算を引き出すためにマクノルティが捏造したシリアル・キラー事件に「ボルティモア・サン」の記者テンプルトンが功名心とルサンチマンからのっかり、上から下まで虚偽と腐敗に隅々まで冒されつくした一社会の地獄絵があぶりだされてくる。

 悪の化身マルロは警察の違法捜査の標的になる一方、伯父ブッチーを殺されて復讐の鬼と化したオマールも、亡霊同然のすがた(モップの杖)になりはてつつ日夜通りをさまよいながら鵜の目鷹の目でかれを狩り出そうとする。ブレヒトあるいはフリッツ・ラングをおもわせるシニカルな人間喜劇。ご都合主義的に現れた精神薄弱者のホームレスにすべての責任がなすりつけられる。それをよしとしないなんにんかのばか正直たちは左遷され、あるいは失職する。プロップ・ジョー、オマール、スヌープ(’’How my hair look, Mike?’’)、ついでにチーズが殺される。釈放されたマルロは闇夜にみずからの血の匂いに興奮する。マイケルは後戻りできない地点を踏み越える。先行するシーズンのいくつもの悪夢が反復強迫的にくりかえされ(ワンシーンのみ登場のプレッツのみる悪夢)、最終シーズンで“救済”されるのはワンシーン出演のネイモンドをのぞけばシーズン1からの影の主役のひとりバブルズだけだ(公式ガイド本「THE WIRE, TRUTH BE TOLD」にはマクノルティとバブルズの平行性を指摘する考察がある)。マクノルティの賭けは、フランク・ソボトカやバーニー・コルヴィンやストリンガー・ベルの思い描いた挫折したユートピアの夢につらなるものだろう。ラストで反復される wake のシーンでそれらの夢が葬り去られ、笑い飛ばされる。ボルティモアの朝。シーズン1の最初のエピソードのラストで通りを睥睨していた二体の巨大な彫像の下で今日も新たな死体が発見される。

 『ザ・ソプラノズ』がスコセッシのパロディーであり、『ブレイキング・バッド』がタランティーノへのオマージュであり、『バッドメン』がヒッチコックとダグラス・サークのブレンドであるとすれば、『ザ・ワイヤー』はロバート・アルトマン的な手法の可能性をテレビシリーズという枠組みのなかで全開させようとしたシリーズと思いっきり贔屓目な評価もできようか。

 錯綜した社会関係全体を描きとろうとするヴィジョン、アクションはじめ刑事もののクリシェを排した脚本、地元密着型のリアリティあふれるキャスティングとスタッフワーク、目先のテクニックを拒絶した禁欲的な演出。なるほどアヴァンギャルドではある。映画的というよりはコミックス的なタイプ・キャスティングはブレヒト的ふうと受け取っておけばよいのだろうか。しかし、一応の主役ジミー・マクノルティ=ドミニク・ウェスト(一挿話の演出を担当している)に積極的な魅力が欠けていることは、やはり決定的なウィークポイントだろう。そのために最終シーズンの不条理劇が図式に落ちてしまったのは惜しまれる。突出した中心人物のいない「群像劇」だから、キャラへの余計な感情移入はいらないということにはならない。この点がいい時のアルトマンとの決定的なちがいであろう。もっとも、ドン・ドレイパーにしても、トニー・ソプラノにしても、ウォルター・ホワイトにしても、われわれの感情移入を拒むように最初から造型されている[としか言いようがない]ところがある。きょうびのテレビシリーズ[いわゆる「海外ドラマ」]のひとつのトレンドなのか知らん。


それでも夜は明ける:「THE WIRE / ザ・ワイヤー」シーズン4

2015-07-12 | ドラマ


 「THE WIRE / ザ・ワイヤー」シーズン4(HBO、2006年)

 子供をメインキャラクターに据えてもあいかわらずクールな本シリーズ。

 そしてあいかわらずペシミスティックな世界観。『仁義なき戦い』シリーズみたいに一作ごとに若い命が散って行く。今回はシーズン1からおなじみのボディーが最後に犬死にする。

 プレッツはデューキーを救えず、カーヴァー(『アリスのままで』に一瞬出てた)はランディを救えず、カッティーはマイケルを救えず、マクノルティ(本シーズンでは脇)はボディーを救えず、バブルズはシェロッドを救えない。教師に転身したコルヴィンが引き取る天使的なネイモンドにわずかな希望が託される。レックスもケヴィンも死体が発見されるが(ホークのチョンボが発見に結びつくというアイロニー)、捜査に政治的な横槍が入って浮かばれるどころではない。とはいえ、骨抜きにされた防犯課のキャップにレスターが抜擢され、最終シーズンへの期待は高まる(「ボルチモアの夜明けだ。目を醒してコーヒーの香りをかげ」とダニエルズ)。

 シーズン3におけると同様、コルヴィンのプロジェクトが失政ゆえに潰されるという反復強迫的なヴィジョン。権力側の描写はあいかわらず戯画に堕す。というか、それがぎゃくにアリズムなのか? あいかわらずワルどもから甘い汁を吸い上げてるオマール(オバマのフェイヴァリット・キャラ)。ホモの愛人との熱い夜(?)が明け、ブルーのナイトガウンすがたでハチミツ味のシリアル買いにいく。

 ミソジニーもあいかわらずで、女性キャラの大半は男勝りのキャリアウーマンかヤク中の母親かそれに類した役どころ。そんななかでマルロの殺し屋スヌープの存在感が光る(シーズン3ではちょい役ではあったがすでに気になる存在だった)。あっけにとられるホームセンターの店員をよそに商売道具のネイル・ガンについて蘊蓄をかたむけるかのじょの饒舌でシーズンは幕を開ける。演じるフェリシア・ピアソンはじっさいにああいう環境で生き抜いてきたらしい。むろんレズのキーマも健在である(殺人課に転属)。

 主役の四人組が『ミスティック・リバー』の少年たちをおもわせるとしたら、デニス・レイハンが脚本に参加しているせいもあるかもしれない。四人組の演技コーチについたのはプロップ・ジョー役のロバート・チュー。脚本にはほかにジョージ・ペレケーノス、リチャード・プライスが参加、演出には前シーズンにつづいてアーネスト・ディッカーソン、アグニェシカ・ホランドが名を連ねる。主題歌は DoMaJe なる地元のティーンズ・グループ。わるくない。カッティーが病室のベッドで見ているのはもちろんHBO(『デッドウッド』)。

感情教育:『THE WIRE/ザ・ワイヤー』シーズン3

2015-06-22 | ドラマ



『THE WIRE / ザ・ワイヤー』シーズン3(HBO、2004年)

 港湾地帯の人間模様をエキゾチックかつノスタルジックに描いたシーズン2につづき、シーズン3でも、あるしゅのユートピアの終焉が物語られる。

 フリーゾーン “Hamsterdam“ は、犯罪率低下のノルマをドラスティックにこなすことを可能にしたが、コルヴィンの思惑は他所にあった。

 ストリンガー・ベルの死も、やはりひとつのユートピアの挫折といえるだろう。正直、ベルがその投機的な野心ゆえに昔気質のギャングスタである相棒のエイヴォン・バックスデイルを裏切るといった展開を予想していたが、さすがは本シリーズ、そんなパロディみたいな現代資本主義論は鼻も引っかけない。

 夜のビル街を眺め下ろしながら二人が最後に語り合う場面は、さながら『感情教育』のラストである。ガキの時分にバドミントン・セットをくすねた思い出(かれらの最初の悪事である)に笑い興じる二人。

 ベルの殺害場面は、室内に飛び立つ鳩がジョン・ウーふう。死後にかれの本棚にマクノルティが『国富論』をみつけるディティールも味わい深い。

 クリエイターは、権力にも犯罪者にも肩入れすることがない。すべてのキャラクターが敗北者である。けっして物語の表舞台に立つことのないカッティーの無垢なまなざしは、救いのないこのシリーズの世界に灯された炎ともいえ、もっとも印象に残る要素のひとつだ。最終話では、ファックするダニエルズとパールマンと、シャドーボクシングするカッティーがしつこくカットバックされる。

 アーネスト・ディッカーソンがいくつかの挿話を演出しているほか、『トリーム』のパイロット版を手がけることになるアグニェシカ・ホランドが一挿話の演出を担当している。主題歌はネヴィル・ブラザーズによるレゲエ・ヴァージョン。