Negative Space

日本映画、文語文学、古代史劇映画、西部劇、フィルムノワール、hip-hopなど。

再見! 李香蘭:『「蘇州夜曲」より 支那の夜』

2014-09-18 | その他

 李香蘭 forever !


 伏見修『「蘇州夜曲」より 支那の夜』(1941年、東宝)


 両親を日本軍の爆撃で殺されたらしい少女が自分を助けた軍人に恩を返すべく軍人の下宿に住み込む。ふつうの映画としてみると、ばかにテンポがのろい。

 これは歌謡映画あるいはほんらいのいみでの「メロ・ドラマ」であり、演出は物語を前進させることにはない。エキゾチックな風景のなかを人物が歌いながら(「支那の夜」が何度も歌われる)あるいはものおもいにふけりながらさまよいあるく耽美的なイメージショットが延々つづく。

 抗日派の賊と日本人の抗争を背景としたメロドラマという筋書きがあるにはあるが、まんまスタンバーグのフィルム・ノワール、長谷川一夫が『脱出』のボガートみたいなハワード・ホークスふうのアクション映画、李香欄が廃墟のなかをさまようロッセリーニふうのネオレアリズモなどいろんな味付けのエピソードがイメージショットのあいまあいまにゆるく繋げられているという印象。

 チャン・ツィーを売り出した『初恋の来た道』みたいなアイドル映画の系譜にもつうじるものがあるだろう。スタンバーグのディートリヒものというのも、ようするにそのスタイルを徹底させたところにモダニティーがあるわけだ。

 脚本・小国英雄、撮影・三村明、音楽・服部良一。ちょうど戦前から戦中にかけての成瀬を集中的にみていたところなので、成瀬組のなじみのキャストたちの登場ににんまり。

 ぼさぼさ髪の浮浪児じみた少女として登場する女史、風呂あがりの再登場シーンのパジャマ姿とド派手な美貌のとりあわせがラブリー。ラスト近く、夫を失ったかなしみをまぎらわせるために山林をうろつく李香蘭の白いマントが強風になびいているロングショットなどはかなりいいかんじ。


撃ちてし已まぬ:戦中の成瀬巳喜男4連発!!

2014-09-16 | 成瀬巳喜男

 戦中の成瀬巳喜男 4連発!


 『はたらく一家』(1939年、東宝)

 徳川直原作のプロレタリア「庶民劇」。父親役に徳川夢声。一つ部屋で別々の教科を暗誦する兄弟たち。ラストは同じ部屋でのでんぐり返りの饗宴。夜の場面が多く、画面がくらいイメージ。受験参考書?に挟んだディアナ・ダービンのブロマイド。


 『母は死なず』(1942年、東宝) 

 「風の中のスバル」が聞こえてきそうなお話。失職し、仕事を探して街を歩き回る菅井(竹中直人ふう)の足のオーバーラップ。足の映画作家・成瀬。自害した妻・入江の手紙の文面にスクリーンプロセスの街の風景がオーバーラップし、そのまえを菅井が浮遊するみたいに歩いているふしぎなシーン。『麦秋』ふうにものおもう菅井。画面奥の木漏れ日のなかに拝む人物をとらえた墓参りの場面は美しい。新婚旅行のフラッシュバックは余計か?婚礼の後の宴席の場面はちょい小津ふう。入江の死のシーンはもちろん見せない。入り口に施錠されているのを不審に思った菅井が垣根を回り込んで家に入る。妻を呼ぶ悲痛な声が垣根の向こうに聞こえる。女優のブロマイド隠し持っていた息子が菅井に「不良」扱いされる。本好きの「喫茶店の女」役で『まごころ』の加藤照子が出ているのを見逃すなかれ。


 『歌行燈』(1943年、東宝)

 林間で舞いのレッスンをつける名場面は、クレーンも駆使して幽玄さを演出。撮影・中井朝一。旅の空で出会った相棒が五十鈴の運命を物語るナラタージュは大袈裟で笑える。鏡花の原作の、現在と過去が複雑に交錯するプロットラインを活かしていたら傑作になっていたかもしれない(久保万がリニアなストーリーラインに脚色した)。 


 『芝居道』(1944年、東宝)
 
 落ちぶれた芸人・一夫が都落ちするが、最後は五十鈴の許に戻るというのは、同じコンビの『鶴八』、花柳章太郎と五十鈴の『歌行燈』と同じパターン。こんど一夫が演じるのは戦争芝居。とりどりのメイクした一夫の顔がオーバーラップされる場面にはうっとり。古川緑波のなめらかな台詞まわし。大空を覆う爆煙……ついで花火。
 

全線:『愉しき哉人生』

2014-09-13 | 成瀬巳喜男

 成瀬巳喜男フェスティバル! 戦中篇


 『愉しき哉人生』(1944年、東宝)

 撃ちてし已まぬ。ほのぼのコメディーのオブラートにくるんで戦時下の国民に銃後の心得を説く国策?映画。タイトルバックは水車の映像。チャーリー扮するヒンケルふうの床屋(エンタツ)。「ぜいたくは敵ですからな……」。早くも飛び出す戦時下標語。店頭の時計がすべて別の時刻を指している時計屋(渡辺篤)。しゃちほこばった歩調で歩いてくる眼鏡のサラリーマン。毎日十時に店の前を通る。村の時計代わり。カントか? 靴音が時刻を刻む音になっているのがご愛嬌。あぜ道を農作業にむかう村人。足許の「幸せ」押し売りするサトー・ハチローの戦争詩。村の通りに突如大風が吹く。パニクる住民をとらえたクレーンショット。見知らぬ一家が越してくる。みるからにストレンジャーの和服姿の禿頭の巨漢(金語楼)に若い女(山根寿子)、小学生くらいの女の子(中村メイ子)。父と娘二人らしいが、ぱっと見、続柄がわかりづらい。転居祝いに招待され、町内会代表で赴くエンタツと渡辺。ものものしいドイツ語のメニュー。実際の料理はジャガイモの皮や人参のしっぽを調理した究極のスローフード。メインディッシュはゆで卵。卵一個の中には鶏まるまる一羽のみならず、将来その鶏から生まれる鶏、さらにその鶏が生む鶏……すべてが含まれているのじゃ、こんなゼイタクはない、みたいなへりくつをのたまうと、鶏の大群のイメージショットがオーバーラップ。渋い顔の渡辺を尻目にエコなポジティブシンキングにほいほい感化されたエンタツの手の中で、卵が一瞬、鶏に変身するオーバーラップ(こんどは『黄金狂時代』か?)。近所の顰蹙買う念仏も桶屋のトンカチもたちまち妙なる楽の音に聞こえ出すから、あなふしぎ。何でも屋稼業だが、時計修理の心得はないと、わざわざ無能な時計屋に修理させた時計を届けにきた金語楼。そのまじないのような暗示の言葉に一同トリップ、想像力が狂い咲き、殺風景な床屋の店内も「花」、「滝」、「雪」に飾られて百花繚乱の体。“不平を言うべきではない。愉しさはどこにでもある”。つられてにわかに勤労奉仕に出たくて出たくてたまらなくなる町内の若い娘。憂鬱な雨模様でも雨粒の「ダンス」に子どもらも大喜び。からのショットにポルターガイストみたいに茶碗や薬缶が飛び交う夫婦喧嘩?の場面、音声の回転数を早めた井戸端会議はアバンギャルド。エンタツの友人の菅井一郎。子どもができて「銃後の国民としての責任を果たせた」。足のわるい女性の押し付けがましい美談語って涙。エコ料理のレシピやエコ玩具(葉っぱの舟etc.)の製作法、図入りで説明される啓蒙場面。住民はみな、はじめは山師あつかいしていた金語楼に洗脳される。彼の不在に二度にわたり、黒塗りの車でお仕着せの男が訪ねてくる。要人なのか? やんごとなき人なのか? 最後まで正体は明かされぬまま、町民のモラルを発揚させるミッション果たし終えた一家、荷馬車(西部劇の幌馬車の体)に揺られ、にこやかに次の町へと(?)去って行く。



戦火の馬:『旅役者』

2014-09-12 | 成瀬巳喜男

 成瀬巳喜男『旅役者』(1940年、東宝)

 田舎芝居のポスター「江戸大歌舞伎……六代目菊之助」。「口伝て」に芝居の噂が村中にひろまる(ツーショットの連続)。馬で出征していく兵士を見つめる二人の男。「戦地へ行くんだね」「なんだか他人のような気がしねえな」……
 興行主をむりやりまかされた床屋が駅へ一座を迎えに出ると、乞食のような一団が汽車から降り立つ。釜足は冬瓜?をかじっている。狐につままれたようなおももちで、文字どおりかれの足許から頭のてっぺんまでを眺める床屋。釜足が土を後ろに蹴ると、同じく土を後ろ足に蹴る馬の蹄に一瞬オーバーラップ、そのままティルトアップし、釜足の顔を映し出す。釜足は馬の役専門の役者。後ろ足を五年、前足を十年演じた筋金入りのプロフェッショナル。職人芸に賭けるその役者魂は半端じゃない。その後も、宿の大部屋で盆踊り?踊る釜足の足のアップ。火鉢の脇に座った足をひっかく指のアップ。座布団を蹴飛ばす足。役を失った釜足が相棒と川へ水浴びに出かける場面では、土を蹴って進む草履のアップから、草むらに分け入る足のアップへディゾルヴ……。歩く馬の足と、並んで歩きながらそれを観察する釜足の真剣な顔を何度もカットバックするくだりはすばらしい。視線繋ぎよりアクション繋ぎが多い。移動は少ないが、茶屋の前?で釜足と相棒が小料理屋の女らに芸を見せる場面ではクレーンが効果的に使われる。この頃、成瀬はクレーンをよく使っている。『歌行燈』の森での舞いの特訓シーンは言うまでもなく、『愉しき哉人生』の神風?の場面でも。ほんものの馬では意味がなく、人間が演ずるところに妙味があり、リアリティがある。釜足の演劇哲学はほんものとにせものという『なつかしの顔』の主題につうじるものがある。女っ気はほとんどなく、相棒と座長を除き、一座の他の連中との交流も描かれない。ラストは逃げた曲馬団の馬を追って、馬のハリボテに入ったままのコンビが田舎道をどこまでも追いかけて行く。悠揚迫らざるテンポ、釜足の燻し銀の名演。なんとも味わいのある小品である。
 その他の細部。床屋にいやがらせをするフラッシュフォワード、雷 etc.


映画と表象不可能性:『なつかしの顔』

2014-09-11 | 成瀬巳喜男

 成瀬巳喜男『なつかしの顔』(1941年、東宝)

 何を措いても発見されなければならない小品だ。いかなる意味でも成瀬の代表作ではあり得ないが、かれの映画を語るうえで絶対に外せない一本だろう。

 晴天をバックに飛ぶ紙製の模型飛行機を捉えたショット。それを追って畑のあぜ道を走る子供らの後ろ姿。戦時下の子供たちは戦闘機に夢中。貧しくて飛行機を買ってもらえない少年が、木に引っかかった友人の飛行機をとろうとして木によじのぼるが、転落して足を折る。

 中国戦線に出征したその少年の兄がニュース映画に映っているという噂が村に広がる。少年は寝込んでいて観にいけないので、その代理としてまず母親が、つづいて嫁(花井蘭子)が観にいくが、いずれも目当ての映像を確認できないまま帰ってくる。母親は上映中始終ハンカチで涙を拭っている。われわれ観客が目にするのは、ロングショットのなかで銃撃する一団の兵士の姿だけであり、その顔は見分けられない。帰ってから、涙で息子の姿を見逃したと家族に言い訳する。本当は映ってなかったのではないか? 家族を失望させないために嘘を言っているのではないか? われわれ観客はそんなふうに思う。少年に、何が映っていたか聞かれると、野原で敵をやっつけていた、と曖昧な返事しかできない(これは事実を述べた正直な答えである)。
 嫁の方は、映画館の前まで行くものの、なぜか入場しない。同じ日に見にいった近所の人が鑑賞している場面で、われわれ観客もスクリーンのうえにはじめて少年の兄のアップを確認し、噂が本当であることを知る。嫁は少年の欲しがっていた飛行機をおみやげとして持ち帰り、映画で夫の姿を見たと嘘をつく。映画を見た近所の人が、会場に嫁の姿がなかったと言うのを聞いて、少年は嫁が嘘をついていたことを知る。自分に飛行機を買って帰るために映画代を節約したのだと考え、おみやげの飛行機を地面に投げ捨てる。嫁は、考えが変わって、見なくてもいいとおもった、と弁解する。つづけて、映画に映っている兵士たちはすべての兵士の代表であり、個々の兵士に対する個人的な感情から映画を見るのは正しくないと言う。へりくつとも言えるし、正論とも言える。戦時下の国民ならとうぜん言いそうな台詞だ。これがまったくの嘘なのか、あるいは本心なのか、われわれにはわからず終いだ。母親は映画館に行く途中で、町の玩具屋の店先に下げてある飛行機に目をとめる。値段をたずね、さんざん迷ったあげく、けっきょくは買わない。翌日、姉も行きがけに同じ店先に飛行機を認める。ただしほとんど関心を示さない。したがって、姉がわざわざ飛行機を買うために見たい映画を見るのをやめたのではなく、映画を見たくなくなったので、使わなかった金で飛行機を買って帰ったとも十分考えられる。よって、「ヒコーキを買ってしまって入場料がなくなり、映画館には行けなかった」(『映画読本 成瀬巳喜男』)というような要約のしかたはかならずしも正確とはいえない。映画館の前で入場を迷っている嫁のショットはいろいろな解釈を許容する。嫁の弁解に共感させるために、わざと曖昧にしてあると邪推することさえ可能であるかもしれない。

 話が前後するが、バスで町に向かう途中で、実は娘は戦場の兵士たちを「見ている」。バスの窓を眺める彼女の切り返しショットのなかに畑のまんなかで銃撃する兵士たちの姿が映る。のみならず、画面奥へと走り去って行くバスの手前に戦闘場面を配したショットさえある。もちろん、そこで実際に戦闘が行われているはずはない。機関銃の音が鳴り響いているのに、バスの乗客たちは何ごとも起こっていないかのように平然としている。母親の話から想像をふくらませ、かのじょが頭のなかに描いている映画の場面がスクリーンに展開しているのだ、と考えることは可能であるが、それが幻想であると判断できる材料はスクリーンのうえにはなにもない。この謎めいた場面については、山根貞男の鋭利な分析がある(『成瀬巳喜男の世界』筑摩書房)。
 というわけで、かのじょが少年に映画を「見た」、夫の姿を「見た」と言うのは、満更偽りではないのである。あたりまえのことだが、映画に夫が映っているとしても、その夫は映像でしかなく、夫本人ではない。「たかが映画」なのである。その意味では、想像の中で戦場の夫の姿を「見る」こととほとんど何のちがいもないのだ。映像を見て、本人に会ったかのように錯覚して喜んだりするのは、考えようによっては、狂気いがいのなにものでもない。

 『なつかしの顔』は、そもそも映像とは、映画とはなんなのか、という哲学的ともいえる問いをなげかけている。そのいみでは、アッバス・キアロスタミの『トラベラー』や『風の吹くまま』といった作品を先駆けている。これらの作品もやはり、めあての映像を目撃できないという状況を描いた寓話であった。
 冒頭の玩具の飛行機のショットについてはすでに述べたが、もっとあとのほうでは本物の戦闘機が飛んでいる同じような構図のショットが現れる。この対比もやはり現実とその表象という主題に通じている。
 映像を欠いている、という点では、作品の最初の方で、飛行機が木に引っかかるところ、少年が木から転落するところは、巧妙な省略的描写によって描かれている。

 成瀬自身の脚本。33分の「短編」(中編?)で、創設から終戦までの間に東宝が製作した二本の「短編」のうちのひとつという。