Negative Space

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ポスト真実の時代の信仰とは?:『沈黙 サイレンス』

2017-02-24 | その他






  〜時代劇映画千本斬り!〜  其の六


 マーティン・スコセッシ『沈黙 サイレンス』(2016)
 
 『影の軍隊』みたいなレジスタンスもののノワールを予想して劇場へ。霧のなかから映像が現れるという『シャッター・アイランド』とおなじオープニングをみてまずは予想どおりとほくそえむ。

 行方不明の前任者を捜索するという宣教師らのミッションは『地獄の黙示録』そのもの。スコッセシのエキゾティシズムごのみは周知のとおり。

 裏街道から抜けようとしても抜けられずにけっきょく同じ轍を踏むというすべてのギャング映画=フィルム・ノワールに通底する宿命論的プロットが、本作では信仰の共同体を舞台に反復されている。

 そのいみではマネー界の寵児の半生を成り上がりのギャングの盛衰に重ねて描いた前作(だっけか?)『ウルフ・オブ・ウォールストリート』とおなじ発想に基づいている。

 どんな人間を描いてもリトル・イタリーのチンピラにオーバーラップさせるのがスコセッシ流だから、さいしょから予想できたことだけど。

 おもてむき本作の原作は狐狸庵であるが、真の原案はさながら宗教を「阿片」というヤバいブツにたとえたカール・マルクスだ。清水富美加もその「阿片」の味を知ってしまったということだろう(?)。

 スコセッシいちりゅうのマゾヒズムは窪塚とアンドリュー・ガーフィールドのあいだで演じられる。ガーフィールドにとっての黒い天使を演じる窪塚のドストエフスキー的というべきキャラが秀逸。接吻ひとつ出てこないおもてむき禁欲的な映画だが、二人の関係に焦点を絞ることによって濃密なエロスを表現できたはず。焦点の定まらない演出は窪塚には気の毒。

 すでに何度も転んだ窪塚がついに転ばされたガーフィールドに告解を請う。ガーフィールドは曖昧な態度を取るが、そこに「お上は転向者がほんとうに転んだかをたしかめるために定期的に転向者をためした」とのナレーション。窪塚がスパイ(『ディパーテッド』etc.)なのかとおもったら、転向者らがあらためて踏み絵を踏まされている場面に繋がり肩すかしをくわされる。とはいえもちろん窪塚がスパイである可能性は残る。この間合いを外した演出はわるくない。

 が、全体的に会話シーンではアップの切り返しがえんえんつづき、ときどきそれらしい絵画的なフレーミングや極端なアングルのショット(真上からの俯瞰がまさか“神の視点”をあらわしているわけでもあるまい)を織り込んでごまかすという手抜きの極みの演出。ガーフィールドの踏み絵におおげさなスローモーションがかかったときは冗談かと目を疑った。満月を見上げる人物に「名月じゃのう」と呟かせる必要があるのか(その台詞なしで済ませるために月を見せてるわけだろう)? 長年の念願の企画にしては御大、安易すぎないか? あるいはたんに焼きが回ったのか?

 笈田ヨシのアラカンみたいなたたずまいは微笑ましいし、塚本晋也の百姓顔と禿頭(自前)もまじリアルだが、イッセイ尾形はいつものようにひたすらわかりやすいだけ、浅野は英語の発音のよさをひけらかしているだけで、袈裟すがたの加瀬亮のアップはマヌケ、小松菜奈のどん百姓メイク&ファッションも期待はずれ。

 おおかたの客は、民のくるしみへの“神の沈黙”をまえにしたイケメン宣教師アンドリュー・ガーフィールドくんの苦悩に涙することでそれなりの文化的欲求とストレス解消の欲求を満足させるがせいぜいだろう。なんとも罪な映画である。

 教義の「真理」たることをやたらと口にする宣教師がおもしろいように転びまくる「ポスト真実」の時代の寓話。