Negative Space

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『源氏物語』と漢文脈

2018-08-30 | 文語文



 和文脈の完成者のように言われることのおおい紫式部は、漢籍に通じていた。

 『源氏』冒頭における更衣への帝の哀悼は、あからさまに白楽天の『長恨歌』にオーヴァーラップさせられている。

 そのあとも『長恨歌』は通奏低音のように物語の基底に響き続け、「須磨」の巻における主人公の隠遁そして「幻」の巻におけるかれの死にさいしてもふたたびだいだい的に召喚される。

 『源氏物語と白楽天』の中西進によれば、作者は白楽天の「諷諭詩」を参照することによって世俗の恋愛を批判しつつ、そのいっぽうでそれをこえて生き延びるスピリチュアルな「長恨」を言祝いでいる。(とうじ猖獗を極めていた末法思想との関係が気になるところだ。)

 とうじの日本で白楽天は李杜を凌ぐ大詩人と遇されていた。

 中西によれば、白詩が日本でウケる素地がいくつかあった。

 そのひとつは白詩の音としての調子のよさである。とうじ漢詩は朗詠の対象だった。

 また、漢詩は和歌のお手本としてやくだった。漢詩の一句ないし二句を翻案してそのまま一首の和歌に仕立てやすかった。

 たとえば白の「鶯声誘引来花下」という七言の一句から大江千里が「うぐひすのなきつるこゑにさそはれて 花のもとにぞ我は来にける」という歌をでっちあげたごとくである。

 そうかんがえると、『源氏』と同時代にまとめられた『和漢朗詠集』が漢詩の対句ぶぶんだけを断片的に引いてきて和歌とちゃんぽんに掲げたことにはりっぱないみがあったのだ。

 「ひと呼吸の中で朗詠すべき質量は、和歌を基準として必然的に割り出されたであろう」ということだ。

 日本文学史における『朗詠集』の重要性を再認識させずにおかない指摘である。

 また中西によれば、白詩受容は憶良における陶淵明への心酔によって準備されていた。

 白が年を追うごとに陶潜の隠棲思想への傾倒を深めていったことはよくしられる。

 中西は憶良から白へのミッシングリンクとして白詩導入のパイオニアであり、しかも憶良と共通点のおおい道真を想定する(「白詩流行の原因」)。

 別の論文で中西は『長恨歌』が日本語に移しかえられた四つの形を分析している(「和歌的抒情と漢詩世界」)。

 たとえば伊勢は掛詞や枕詞といった和歌独自の技法によって白詩の詩趣を日本語に移植した。

 一例をあげれば、『長恨歌』の「秋雨梧桐葉落時 西宮南苑多秋草 落葉満階紅不掃」を踏んで「紅葉ゞに色みえわかてちる物は ものおもふ秋の涙なりけり」「くれなゐにはらはぬ庭は成にけり かなしきことのはのみつもりて」の二首をこしらえるといったぐあい。

 さらには白詩には一度しかでてこない「涙」といった和歌特有の抒情性の輸血。

 大江千里は白詩の一語一語をやまとことばにうつしかえようとした。

 その際、その翻訳は「歳月」を「としとき」、「黒鬢」を「くろかみ」とする直訳から、「不見洛陽花」を「みやこににほふ花をだに見ず」とするごとき文法構造を自在にずらして漢詩と和歌の字数および抒情の質のちがいをうめあわせるといったくふうがなされている。

 藤原高遠は千里ほど原語にとらわれず、白詩のことばづかいから喚起されるイメージを自在にふくらませ、「漢詩の句々を契機として和歌的な詠嘆を試みた」。

 では『源氏』において白詩はいかに日本語に移しかえられているか?

 中西によれば、それは和歌と地の文の分離という歌物語ならではの構造を巧妙に利用したものになっている。

 つまり、和歌においては原詩のうち欲しいところだけをつまみぐいし(たとえば、不吉な事例を引きつつ、そこから不吉さを除去してそれにともなう愛の永遠というモチーフだけを詠み込む)、白詩のモチーフをいっけんしたところ裏切りつつ、そのいっぽうで白詩の「大筋」を物語のバックグラウンドとして利用するという二段構えのアプローチがなされているのだ。

 前置きがすっかり長くなった。実際に『源氏』をあたまから読んでみると、さっそく最初のページに「目を側(そば)め」ということばづかいがみつかる。

 これは「長恨歌」の「側目」を意識したものである。源氏において白詩はこのようにさりげなくやまとことばに翻訳され、その背後に透かし見られるというかたちであらわれる。

 たぶん、白詩にかぎらず、紫式部の漢籍の素養はこういうかたちで生かされているものとおもわれる。

 漢籍の教養を衒った清少納言にたいする作者の軽蔑をいまいちど想起しよう。

 漢文脈をすべからくなだらかなやまとことばのなかに溶け込ませるという試みが紫式部における和文脈の完成の内実であったのだ。

 そのいみでは源氏の和文脈は漢文脈を手本としており、漢文脈なしには成立しえなかった。

 「桐壺」に戻る。先をすこし読み進めていくと、「上は下に助けられ、下は上になびきて」「琴笛の音にも雲居を響かし」といったモロ漢文脈調のフレーズにつきあたったりするが、すくなくとも後者のばあい、大野晋が言うように「葵」の巻(大野によれば五番目に書かれた巻ということになる)あたりまでの作者の和文がまだ下手くそだったためではなく、なま学問への皮肉であることが文脈から明らかだ。

 源氏の漢文脈受容については清水好子が昭和二十四年に発表した刺激的な考察がある。清水好子は私が使用する新潮日本古典集成版の注釈者でもある。

 いっけんだらだらと果てしなくつづいていく源氏の長大なフレーズは、凝集的な漢文の文体の対極にあるようにみえる。

 とはいえよく読むと、源氏のフレーズは、名詞に長々と形容詞節をつらねるという形をとくちょうとする。見方をかえていえば、それまで述べてきたことがらを一旦「〜こと」「〜ほど」「〜さま」といった名詞で受けて集約させたうえで、すぐあとにつづく述語に対置させる。
   
 清水によれば、この対置の鮮やかさは漢文のリズムを想起させてあまりある。

 清水の仮想敵はとうじ世間的な権威であったとおぼしき谷崎訳である。

 『文章讀本』の谷崎はまさに日本語のとくちょうをいかした曖昧調に源氏の意義をみいだしている。谷崎訳(まだ「新新訳」は未刊行であったが)が源氏の文体の上のような凝集性を無視し、「〜こと」「〜ほど」といった名詞をいちいち訳し落としていることを清水は膨大な引用によって例証しようとしている。

 なるほどとはおもうが、翻訳者というものは一冊の書物を訳すに当たって立てた原則をどこまでも堅持すべきものであり、ぎゃくに谷崎の翻訳者としての優秀さが際立ってしまっているともいえる。

 清水はさらに「の」の独特の使用法による合成語の形成、あるいは複合動詞の多用などによって語を塊としてとらえようとする志向が漢文における字と字のちょくせつ的な並置と似た効果をもたらしているとして、源氏文体のどうようの「凝集性」をそこにみてとっている。





西鶴のサンプリングネタ(その3):『隅田川』

2018-08-06 | 文語文




 世之介二十三歳、先立つ物もない旅の空で、かつて贔屓にしていた役者にばったり再会。事情を打ち明けられた役者は「定めなき世のならひ、今歎き給ふ事なかれ」とたのもしい返事。

 『隅田川』の一節を踏まえる。
 
 「定めなき世の慣らひ 人間愁ひの花盛り 無常の嵐音添ひ 生死長夜の月の影 不定の雲覆へり げに目の前の憂き世かな」「今はなにとおん歎き候ひてもかひなきこと」

 このくだり、「一読名文、熟読難解と評されている」(伊藤正義)というのも宜なるかな。


 『隅田川』は元雅作。いっさいの「母もの」のルーツで、女物狂い能の定番。
 
 とはいえ、ハッピーエンドで終わらないこと、登場人物の数が限られていることなどにおいて、じゅうらいの物狂い能の定石をやぶっているという。

 さらわれた息子を探してあずまくだりする母親が、『伊勢』の業平にオーバーラップさせられる。


 サンプリングネタとして使えそうなフレーズを拾ってみた。

 「今日は(コンニッタ)」

 「思ひしらゆき」

 「上の空なる風だにも」

 「面白う狂うて見せ候へ」

 「妻を偲び 子を尋ぬるも 思ひは同じ 恋路なれば」

 「これは夢かや あらあさましや」

 「死の縁」

 「あれはわが子か」「母にてましますか」

 「いよいよ思ひはますかがみ」


 名句とされる「あるはかひなきははき木の……」は取らない。野暮ったすぎる。

 「雲霞 跡遠山に越えなして」は『朗詠集』からのいただき。


西鶴のサンプリングネタ(その2):『井筒』

2018-08-05 | 文語文




 『一代男』の開巻劈頭、世之介七歳のみぎりの挿話は、かれがこのあと四十余年の半生において交わることになるにょしょうに野郎の数を詳らかにしたあとでこう結ばれる。

 「井筒によりてうなゐこより已来、腎水をかへほして、さても命はある物か」

 いうまでもなく謡曲『井筒』のフラッシュバックの劈頭、「宿を並べて門の前 井筒によりてうなゐ子の 友達語らひて 互ひに影をみづかがみ」に依る。

 
 『井筒』は前号でとりあげた『松風』どうよう世阿弥流複式夢幻能の名作。

 『松風』どうよう女の亡霊が男の形見の衣を身につけて踊り狂う。

 男に一体化する女を男であるシテ方が演じるというバロック的倒錯図。

 衣服フェチのモチーフは元ネタ『伊勢』にはなく、世阿弥の独創である、と土屋恵一郎はのべる。

 地名ないし人名が題名化されていることがほとんどの謡曲にあって、『砧』と並んで例外的に「物」が題名になっていることもこれとむかんけいではないらしい。

 そしてここでの物の名は『伊勢』をとおして(「砧」は『朗詠集』をとおして)ほとんど固有名詞化されていると、これも土屋。

 
 閑話休題。


 以下、サンプリングネタとして使えそうなフレーズ集。


 「遠くなりひら」「ここにいそのかみ」「いさしらなみのたつたやま」

 JK語。

 
 「知る人ありて」

 愛人の意。


 「うたかたのあはれ」

 掛詞。


 「かのまめ男」

 なりひらくんのニックネーム。


 「筒井筒 井筒にかけしまろがたけ」「振り分け髪も肩過ぎぬ」「君ならずして 誰か上ぐべき」

 ぜんぶ『伊勢』。


 「昔を返す衣手に 夢待ち添へて仮枕 苔の筵に臥しにけり」

 ここで後場となる。


 シテ「今は亡き世になりひらの 形見の直衣身に触れて」「恥づかしや 昔男に移り舞」 地謡「雪を廻らす花の袖」

 ここで序の舞。


 「松風や芭蕉葉の 夢も破れて」

 風、芭蕉、夢とつなぐ幕切れ。



西鶴のサンプリングネタ:『松風』

2018-08-04 | 文語文


 

 たとえば、『好色一代男』につぎのフレーズあり。

 「谷中の東七面の明神の辺、心もすむべき武蔵野の、月より外に友もなき呉竹の奥ふかく、すひかずら・昼顔の花踏みそめて道を付け」

 「月より外に友もなき」は、

 「浦曲の波のよるよるは げに音近き海士の家 里離れなる通い路の 月より外は友もなし」

 という『松風』の一節をふまえているとされる。

 謡曲は西鶴の代表的なサンプリングネタのひとつ。西鶴が謡曲に通じていたとはよくいわれるところ。

 談林派の俳諧では謡曲の一節を本家取りして幽玄を滑稽味に換骨奪胎するみたいな遊びが流行り、西鶴も芭蕉もこの試みに手を染めている。

 そもそも当時、謡曲は寺子屋でも教えられ、町人の嗜むべき教養のひとつであった。西鶴の雅俗混淆体の源流が謡曲にある。

 知られるとおり、謡曲作者たちのもっぱらのバイブルであったのは『和漢朗詠集』である。たいていのレパートリーには「朗詠集』からの引用がひとつふたつあったりする。

 『朗詠集』は『声に出して読みたいナントカ』のルーツみたいな本だ。

 じじつ、いちじきの「声に出して読みたい」ブームにあやかって、あの石原慎太郎が『声に出して詠もう和漢朗詠集』なる本をちゃっかり出したりしている。

 朗詠という目的の下に和歌と漢詩をちゃんぽんに並べたこのアンソロジー(大胆なメディアミックス!)が、やがては『平家』や『太平記』の和漢混淆文を生み出すにいたるというのが文学史のもっぱらおしえるところだ。

 そして謡曲もまたその後塵を拝する。謡曲の『古今集』ごのみは『朗詠集』経由である。

 ちなみに謡曲のいまひとつの元ネタが『源氏』であることはぐうぜんではない。

 『源氏』と『朗詠集』とはまったくの同時代の産物であり、同じ趣味を分け合う。

 たとえば和文脈の極北みたいに言われる『源氏』が白楽天の漢文を最大のレフェランスにしていたのとおなじく、『朗詠集』がその『文集』を特権視していることはその見やすい証拠。

 『松風』はその源氏もの謡曲の筆頭。完成までに亀阿弥、観阿弥、世阿弥三大巨匠の手を経ている。

 「痛はしやその身は土中に埋づもれぬれども、名は残る世のしるしとて」なる序盤のワキのセリフで、早くも『朗詠集』経由の白楽天オマージュがくりだされる。

 「海士の呼び声幽かにて」。これは『万葉』から。

 「うらやましくもすむ月の」。『拾遺集』の藤原高光の名歌が「出潮を汲」むへとつながれる。


 以下、キラーフレーズ集。

 「よせては返るかたをなみ、寄せては返る片男波」

 「更け行く月こそさやかなれ」

 「月はひとつ 影はふたつ みつしほの よるの車に月を載せて」
 
 「なほ執心の閻浮の涙」
 
 「後より恋の責め来れば」(西鶴も引いている)


 ツレ「あさましやそのおん心ゆゑにこそ」

 「執心の罪にも沈み給へ 娑婆にての妄執をなほ忘れ給はぬぞや あれは松にてこそ候へ」とつづく。

 シテが応じる。

 「うたての人の言ひ事や」

 「あの松こそは行平よ たとひ暫しは別かるるとも まつとし聞かば帰り来んと 連らね給ひし言の葉はいかに」とつづく。

 
 幕切れの地謡。 

 「関路の鳥も声ごゑに 夢も跡なく夜も明けて」

 「村雨と聞きしも今朝見れば 松風ばかりや残るらん 松風ばかりや残るらん」

 
 西鶴の常套句「残るものとて‥‥ばかり」がここに由来する。







日本のいちばん長い日:『世間胸算用』

2018-08-03 | 文語文





 「松の風静かに、初曙の若恵比壽/\、諸商人買うての幸ひ売つての仕合せ。さて帳綴、棚おろし、納め銀の蔵びらき、春のはじめの天秤、大黒の打出の小槌、何なりともほしき物、それ/\の知恵袋より取出す事ぞ。元日より胸算用油断なく、一日千金の大晦日をしるべし」

 森銑三は西鶴の正筆になるこの序文を「一読胸の透くような名文」と絶賛し、「『胸算用』の本文を西鶴の文として見る時、やや平板で、分別臭くて、冗長に失しようとしている」としながら、辛うじて数章に西鶴らしさが見て取れるとする。

 とはいえ、さいしょの章「問屋の寛闊女(「バブリー妻」と読む)」の冒頭も序文に一歩も譲らない、これが西鶴でなくて何なのだと、浅学の筆者などはついおもってしまう。

 「世の定めとて大晦日は闇なる事、天の岩戸の神代このかたしれたる事なるに」

  暦の太陰に掛けている。


 「銭銀なくては越されざる冬と春の峠、これ、借銭の山高うしてのぼり兼ねたるほだし」

 こうゆう「山」の比喩は『永代蔵』にもけっこうあった。

 子供への出費も山と積まれる。

 「はきだめの中へすたり行く破魔弓、手まりの糸屑、この外雛の擂鉢われて、菖蒲刀の箔の色替り、踊だいこをうちやぶり、八朔の雀は数珠玉につなぎ捨てられ、中の玄猪を祝ふ餅の米、氏神のおはらひ団子、弟子朔日、厄払ひの包銭、夢違ひの御札を買ふなど、宝舟にも車にも積余るほどの物入り」。

 ヴィジュアルアピールたっぷりのガラクタの列挙。滲む一抹の侘しさ。

 以下は巻一の二より、質草の列挙。

「古き傘一本に綿繰ひとつ、茶釜ひとつ」、その隣家からは「嬶が不断帯観世紙縒に仕かへて一筋、男の木綿頭巾ひとつ、蓋なしの小重箱一組、七ツ半の筬一丁、五合桝・一合桝二ツ、湊焼の石皿五枚、釣御前に仏の道具添へて、取集めて二十三色にて、一匁六分借りて年を取りける」

 プレヴェールの「財産目録」もかくや。

 爆笑篇「鼠の文づかい」から以下、鼠の引っ越し道具のいちいち。

 「穴をくろめし古綿、鳶にかくるる紙ぶすま、猫の見付けぬ守り袋、鼬の道切るとがり杭、桝おとしのかいづめ、油火を消す板ぎれ、鰹節引くてこまくら、その外娌入りの時の熨斗、ごまめのかしら、熊野参りの小米づとまで、二日路ある所をくはへてはこびければ」

 「桝おとしのかいづめ」というのにくっすん大黒。
 
 森銑三が西鶴の手が認められるとする「訛言も只はきかぬ宿」より。

 「取りみだしたる書出千束のごとし」

 「あそび所の気さんじは、大晦日の色三絃、誰はばからぬなげぶし、なげきながらも月日を送り、けふ一日にながい事、心におもふゆゑなり」


 以下、ランダムに。

 「頰さきの握り出したる丸顔」

 「さるほどに今時の女、見るを見まねに、よき色姿に風俗をうつしける」とあって、京都の呉服屋の奥さんは遊女に、奉公人あがりの人妻は「風呂屋もの」に、下町の仕立物屋や仕立て直し屋の女将は「茶屋者」にみえるなど、身分相応にめかしこんでいるとする観察眼。

 かくしてみかけでは判別できない商売女と堅気の女の見分け方が列挙される。たとえば「床で味噌・塩の事をいい出」すのは後者である。

 「大晦日のかづき物」にされて「茶屋は取りつく嶋もなく、夢見のわるい宝舟、尻に帆かけてにげ帰り」

 「善はいそげと、大晦日の掛乞手ばしこくまはらせける。けふの一日、鉄のわんらぢを破り、世界をゐだてんのかけ回るごとく、商人は勢ひひとつの物ぞかし」

 「わけざとは、皆うそとさへおもへば、やむもの」

 「世の月日の暮るる事、流るる水のごとし。程なく年波打ちよせて、極月の末にぞなりける」

 「年の波、伏見の浜にうちよせて」

 「台碓の赤米を栴の秋と詠め」

 「銭は水のごとく流れ、白銀は雪のごとし」


 お約束の元禄おめかし事情。

 「ぐんない嶋の小袖」

 「ぎんすすたけの羽織」

 「葉付きのぼたんと四つ銀杏の丸」

 「柳すすたけに、みだれ桐の中形」

 「千本松の裾形もふるし。当年の仕出しは夕日笹のもやうとぞ」