Negative Space

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愛に言葉はいらない:『狂熱の季節』『憎いあンちくしょう』

2012-08-04 | その他
 蔵原惟繕の『狂熱の季節』(1960)と『憎いあンちくしょう』(1962年、日活)。いずれも脚本・山田信夫。

 『狂熱の季節』は、一貫して太陽族(?)の視点で描いた映画といっていいのかしら。とにかく葛藤みたいなものがない。主人公の経歴や家族環境はまったく不明。口うるさい大人なんか一人も出てこない。いま現在をやりたい放題で生きる主人公の姿を、手持ちキャメラをブンブンふりまわしながら追う。かれらの生活に侵入してくる〝現実〟は、夢のようにしかみえない(相棒のやくざが殺される場面)。
 
 一重まぶたもくっきりの川地民夫は、野獣のよう。しきりに太陽を見上げ、汗を掌で拭い、雄叫びを上げる。

 ひとつだけ、かれらを外側からとらえたシーンがある。いかれた芸術家たちのサロンに闖入する場面だ。かれが文字どおり「野獣」と形容される。あーら、すてきなフォービズムぢゃなあい、紹介してよ。

 『憎いあンちくしょう』は青春映画の最高峰とよぶべき傑作だ。

 「マスコミ青年」裕次郎とマネジャーのルリ子はすでに730日間恋人どうしだが、体の関係はもたないと誓いあっている。

 雨の宵、せまいマンションの一室で空いた時間をもてあましているふたりの一幕は、ベッケルか初期のゴダールみたいにキュートだ。長いシーンのあいだじゅう、ふたりともほぼ下着姿。

 じぶんたちとはちがう愛しあい方をしているきまじめなカップルに感化された裕次郎は、仕事をうっちゃって、かれらの慈善活動を手伝うために、熊本までひとりでジープを運転していくことになる。ここから映画は、『太平洋ひとりぼっち』みたいなおおきな空間をいっぱいにつかった冒険物語に移行する。

 かれを阻止しようとするルリ子。かれの行動を感動的なドラマに仕立てあげ、ひとやまあてようとするテレビマン。

 もはやヌーヴェルヴァーグというより、『バニシング・ポイント』とか『続・激突! カージャック』みたいなニューシネマののりに近い。

 ルリ子はある時点から裕次郎をとめることをあきらめるが、かれを追っていくことはやめない。その胸中にはふくざつなおもいが去来している。

 ぼろジープとジャガーのチェイスが、まったく台詞をまじえずに延々つづく。微妙に伸縮する二台のくるまの距離が、どんなラブシーンよりも雄弁に恋人たちのこころの揺れを物語る。日本各地のなつかしい風景が背景に流れ去って行く。これぞ映画というべき至福の瞬間。

 このながいながいチェースは、博多どんたくかなにかの祭りの場面で幕を下ろす。山車の行列をとりまく群衆にのみこまれるルリ子。雑踏をかきわけてかのじょを追う裕次郎。倒れてもみくちゃにされるルリ子を裕次郎がかかえあげる。見つめ合うふたり。ロッセリーニの『イタリア旅行』そのままである。

 このあと、ふたりはジープに同乗して目的地へとひた走る。かれらをしつこく追ってくるテレビカメラがアイロニーをかもしだす。ラストは雄大な阿蘇山がバックだ。雲ひとつない空。緑まぶしい草原。上半身はだかで白い帽子の裕次郎。ルリ子の藤色のシャツと青いパンツ。カラリストとしての蔵原の面目躍如だ。

 裕次郎は言う。愛に言葉はいらない。その台詞のなんと説得的に響くことだろう。

 いまさらながら、浅丘ルリ子はすばらしい演技者だ。スター女優をもたなかった日本のヌーヴェルバーグを代表する女優として再評価すべきではないか。