Negative Space

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口パク戦後民主主義:成瀬巳喜男の『俺もお前も』

2017-06-30 | 成瀬巳喜男





 成瀬巳喜男『俺もお前も』(1946年、東宝=吉本興行)

 しがない昭和のサラリーマン、エンタツ&アチャコは社長(菅井一郎)から「下駄」さながらに半人前扱いされ、飼い犬として重宝がられている。宴席ではもじどおりの太鼓持ちを演じさせられる毎日。

 やもめのエンタツは長女(山根寿子)の求婚者が訪ねてくるその日も荷物運びのために伊豆へ狩り出されたうえ、パーティー(くだんの荷物はそのために闇市で仕入れた食品であるらしい)の余興係を命ぜられ、あまつさえ長女をも手伝いとして体よく徴用される。

 パーティーには長女の求婚者が来ていた。父親のみっともないすがたはみせられないと、余興を中止するよう頼み込む長女。父親はその言葉にしたがい、あとを相棒に託すが、コンビでなければ役に立たないと社長の不興を買い、厄介払いされた相棒も帰宅を命じられる。

 怒り心頭に発した二人はとって返し、社長室に乗り込んで不満をぶつける。すっきりした顔の二人が道を遠ざかっていくロングショットで幕。

 アチャコは隣室で息子とその学友らが稽古する社会劇をとおして現実に目覚める。お告げのように、メッセージはすがたなき声としてもたらされるのだ。アチャコが社長に叩き付けるのは襖越しに仕入れた受け売りの台詞である。さらに社長室の扉の前に集まり、二人に声援を送る同僚らがつぎつぎに叫ぶ要求を、そのまま社長にむけてくりかえす。

 まさに口パク戦後民主主義。いうまでもなく戦後民主主義そのものがいわば口パクすべき芝居の台詞として日本国民にもたらされたのであった。

 奪われた声というモチーフは『浦島太郎の後裔』のそれを継承するものである。そしていうまでもなく本人(映像)と声のずれ、ひいては分裂は、映画のメディウムそのものの最大の特性である。

 コンビはたびたび現実世界からスリップしたかのごとく、キャメラのこちらがわの観客に向けていっときかけあい漫才に興じたりする。
 
 さらにかれらは新婚旅行中のカップルを真似、エンタツは無人の社長室で社長の椅子でそりかえってみせ、かれの息子は帰宅する父親の真似をする。

 エンタツ&アチャコが“腹話術人形”であり、芸人であるかれらが“芸人=俳優”を「演じる」というからくりは、占領軍へのこれいじょうない皮肉になっているのだ。
 
 成瀬の脚本やおそるべし。

 主人公らが自宅付近の住宅街をひたすら歩く昭和の世相もゆたかな出勤風景が何度も映し出される。べつに歩くことにキリスト的な寓意をみいだすひつようはないであろうが。

 屋内場面は画面の奥行きを活用した構図が決まっている。立っている娘のスカートの端だけを画面手前に配して画面奥に座っている人物を捉えるといった座敷のショット。それぞれの自宅の玄関を出るエンタツとアチャコを、廊下越しのシャープな縦の構図で並行的にとらえたショット(二人の分身性がきわだつ)。柵のような窓格子越しに室内を捉える「牢獄的」イメージのショット。

 社長室のある二階と社員のいる一階とは二度のクレーンショットで繋がれる。

 二人が荷物を運んで疎水の傍らを歩くさまを俯瞰でとらえた伊豆のショットは情緒豊か。下駄のアップに玄関の閉まる音がかぶさって主人の帰宅を伝えるといったクロースアップのつかいかたもわるくない。


虚匠の迷作を斬る!:『切腹』

2017-06-11 | その他



 
 「虚匠」の「迷作」を容赦なく斬って捨てる新シリーズ「時代劇映画千本斬り!」。

 今回は“巨匠=虚匠”の代名詞、小林正樹『切腹』(1962年、松竹)の巻!


 話としては最高にエンターテイニングだ。セットをほぼお白洲だけに最小化するというコンセプトやよし。小林は松竹にまっさらなセットをわざわざ新調させたらしいが、予算がかからないから、むしろほんらいB級映画向けの素材だろう。いわば新東宝的なおどろおどろしさにも事欠かないし。

 一方的に他家に押しかけていってずうずうしい注文をつぎつぎくりだして懲りない異様におしゃべり好きな主人公は、それこそ三船タイプの役者にやらせれば、それをギャグにできたろうし、もっとちゃらんぽらんな(つまりは「人間くさい」?)キャラに仕立てることもできただろう。黒澤へのつまらぬ対抗心ゆえ、小林正樹としてはそうしたくなかったのかもしれないが(本作は『椿三十郎』と同年の作品である)。

 むしろ、そういう一面を暗示させるにとどめた仲代のニヒル一本槍の演技だからこそいいのかもしれない。好意的にかんがえればそんなふうにもいえるだろう。ただし結果的に、魅力もないかわりに欠点もない中途半端なキャラにおさまってしまったことはいなめない。立ち回りのシーンはスーパーヒーローもかくやの恰好つけぶり。

 いまだに本作が「封建主義批判」の映画だなどと信じられているのは(しかし誰が本気で信じているのか?)小林がこの話をわかりやすい勧善懲悪のメロドラマに落とし込んでしまった証拠である。いうまでもなく、わかりやすさとエンターテインメントはまったく別物だ。

 御殿場ロケになる仲代と丹波の決闘シーンは真剣を使ったことが売りであるそうだが、それがなんだというのか?「様式化」は演出の放棄とは別物である。サッカーの長友をおもわせる貧相などぜう顔メイクの仲代は実年齢よりも三十も上の人物を演じるために発声の際にもっとも低い音域を貫いたという。が、どこからみても初老の男には見えない。リメイク『一命』において、歌舞伎と映画の区別をまったく心得ず、ナルシスティックに朗々と声張り上げるだけの某海老蔵も殺人的にひどく、見られるものではなかったけれど(察するに三池崇の食指をそそったのは本作のマカロニウェスタン的側面ではないか?)。

 演出は説明的に流れ、監督は省略ということを知らぬようだ。これではせっかくのミニマル化というコンセプトそのものが台無しである。切腹詐欺の流行を石浜に改めて説明させるひつようがどこにあるのか?娘と孫の死の場面は省略してくれているので、岩下志麻の「狂乱の場」を見せられたりせずに済みたすかりはしたが(それらしき場面は存在するけど)。

 公開当時、後半部におけるストーリーテリングの弛みを荻昌弘が「あまりにも息抜きのない緊張感」ゆえと控え目に指摘したそうだが(岩波書店刊『映画監督 小林正樹』参照)、その事実は誰の目にも明らかである。もともとの素材が長尺向けではないのだから。

 春日太一が指摘するように、三國の演技については出色だ。本作の見せ場は仲代と三國のインタープレイにありとは一応うなずける。ただしそれは仲代のミスキャストを正当化しない。