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成瀬巳喜男『俺もお前も』(1946年、東宝=吉本興行)
しがない昭和のサラリーマン、エンタツ&アチャコは社長(菅井一郎)から「下駄」さながらに半人前扱いされ、飼い犬として重宝がられている。宴席ではもじどおりの太鼓持ちを演じさせられる毎日。
やもめのエンタツは長女(山根寿子)の求婚者が訪ねてくるその日も荷物運びのために伊豆へ狩り出されたうえ、パーティー(くだんの荷物はそのために闇市で仕入れた食品であるらしい)の余興係を命ぜられ、あまつさえ長女をも手伝いとして体よく徴用される。
パーティーには長女の求婚者が来ていた。父親のみっともないすがたはみせられないと、余興を中止するよう頼み込む長女。父親はその言葉にしたがい、あとを相棒に託すが、コンビでなければ役に立たないと社長の不興を買い、厄介払いされた相棒も帰宅を命じられる。
怒り心頭に発した二人はとって返し、社長室に乗り込んで不満をぶつける。すっきりした顔の二人が道を遠ざかっていくロングショットで幕。
アチャコは隣室で息子とその学友らが稽古する社会劇をとおして現実に目覚める。お告げのように、メッセージはすがたなき声としてもたらされるのだ。アチャコが社長に叩き付けるのは襖越しに仕入れた受け売りの台詞である。さらに社長室の扉の前に集まり、二人に声援を送る同僚らがつぎつぎに叫ぶ要求を、そのまま社長にむけてくりかえす。
まさに口パク戦後民主主義。いうまでもなく戦後民主主義そのものがいわば口パクすべき芝居の台詞として日本国民にもたらされたのであった。
奪われた声というモチーフは『浦島太郎の後裔』のそれを継承するものである。そしていうまでもなく本人(映像)と声のずれ、ひいては分裂は、映画のメディウムそのものの最大の特性である。
コンビはたびたび現実世界からスリップしたかのごとく、キャメラのこちらがわの観客に向けていっときかけあい漫才に興じたりする。
さらにかれらは新婚旅行中のカップルを真似、エンタツは無人の社長室で社長の椅子でそりかえってみせ、かれの息子は帰宅する父親の真似をする。
エンタツ&アチャコが“腹話術人形”であり、芸人であるかれらが“芸人=俳優”を「演じる」というからくりは、占領軍へのこれいじょうない皮肉になっているのだ。
成瀬の脚本やおそるべし。
主人公らが自宅付近の住宅街をひたすら歩く昭和の世相もゆたかな出勤風景が何度も映し出される。べつに歩くことにキリスト的な寓意をみいだすひつようはないであろうが。
屋内場面は画面の奥行きを活用した構図が決まっている。立っている娘のスカートの端だけを画面手前に配して画面奥に座っている人物を捉えるといった座敷のショット。それぞれの自宅の玄関を出るエンタツとアチャコを、廊下越しのシャープな縦の構図で並行的にとらえたショット(二人の分身性がきわだつ)。柵のような窓格子越しに室内を捉える「牢獄的」イメージのショット。
社長室のある二階と社員のいる一階とは二度のクレーンショットで繋がれる。
二人が荷物を運んで疎水の傍らを歩くさまを俯瞰でとらえた伊豆のショットは情緒豊か。下駄のアップに玄関の閉まる音がかぶさって主人の帰宅を伝えるといったクロースアップのつかいかたもわるくない。