たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

歩く道(その12) <井上本荘・桜池ネットワーク?を歩く>+補筆

2019-03-02 | 人間力

190302 歩く道(その12) <井上本荘・桜池ネットワーク?を歩く>+補筆

 

今朝、寒椿を遠くから見ていて、ふとヒノキ林を見ると、なにやら小さな野鳥が梢にずっと泊まっています。一羽だけで長く逗留するのは珍しいので、なんという鳥か見定めようとするのですが、50m近く離れているので私の視力ではまったくお手上げです。遠近両用のメガネですが、最近は近くも遠くもよく見えない、高齢者らしいぐちでもでそうな状況です。

 

それで最近購入した望遠レンズのあるデジタルカメラで覗いてみると、はっきりと見えました。私のような一向にうまくならないカメラマンにとっては高級機種は猫に小判ですので、実はレンズ一体型の安価なカメラです。以前、海外調査で一緒した仲間が高級機種を持参してぱちぱちとっていましたが、後でみんなで画像を見たら、私が撮影したものでは遠い被写体はほとんど背後と一体となっているのに、高級機種の場合は(いや彼らの腕がよいのでしょうけど)さすがに生き生きとしていました。たとえば世界一美し鳥、ケツァールとか。

 

そういった高級機種に少しは憧れがあるものの、重い、値段が高い、私にはもったいないという理由でいまもって買う気が起こりません。それでも遠くを見たいと思い、今回、光学ズーム65倍といううたい文句に期待してキャノンのPowerShot SX70 HSを手に入れました。やはり期待通りの効果がありました。ファインダーでははっきり見えないのですが、画像にするとクリアで、これでほぼ同定できたと思います。

 

頭の形とか胴体の色合いとか、嘴の形、目の色などから、カワラヒワだと思います。ただ羽根の部分が見えない位置でしたので、あの特徴的な羽根は確認できませんでした。

 

いつもいろんな鳥がやってきても、大きさくらいしかわからず、色も反射があってほとんどわからないことが多いので、このカメラで今後はしっかり確認しようかと思います。

 

さて今日は歩く道の日ということで、どこにしようか考えたのですが、以前から気になっているため池群がどのようになっているのか、見ることにしました。紀ノ川中流域にある紀の川市の山裾付近から大きく広がる田畑(最近は住宅地が広がっていますが)を灌漑するため池です。紀ノ川に沿って上流部から下流までずっとため池はそれなりにあるのですが、たいていは紀ノ川北岸(右岸)でいえば、山裾付近に一つため池があって、一定の距離に散在している感じです。ところがとくに一カ所は見事なほど山裾から紀ノ川に向かって相当数のため池が数珠つなぎのように連なっているのです。これはどういうことか、とりわけ山裾や、さらに奥の谷間部分にため池がつくられるのが普通ですが、ここでは平坦な田畑の中にほとんどがあるのです。歴史を知りたいと思いつつ、とりあえず歩いてみようと思ったのです。

 

ほとんどのため池は、私がこれまで見てきた多くのため池のように堰堤が谷間に高くつくられているのと違って、緩やかな斜面、あるいは緩やかな段差をもちながら紀ノ川北岸まで延びている平坦な田畑の真ん中につくられていました。

 

ですので、その近くの道を歩いていても、気づかないで通り過ぎることもあります。ある通りを歩いていると、幅1m強くらいの脇道が家並みの間に通っていて、その先は田畑になっているようでしたので、ちょっと入ってみると、その先に高さ1.5mくらいの堰堤で囲まれたため池がありました。冬季ですので、水はわずかしか残ってなく、干上がっている状態に近かったですね。通常、ため池管理用の通路が周囲を走っていますが(歩く程度の幅)、この池では途中で切れていて、あぜ道をとおって先の道路に出ました。するとそこにため池が鎮座していました。

 

このため池の場合、満水とまではいかなくてもまるで夏場の灌漑期のように思えるほど豊富な水量でした。水鳥たちも気持ちよさそうに泳いでいました。そこからちょっといったところに今度は東側にやはり岸辺まで水が貯まっていました。

 

そういう池を次々と見ながら南北に連なるため池群をどんどん見ていきました。そうするとやはり完全に干上がっているため池がありました。汚泥はある程度たまっているようにも見えましたが(これは必ずたまるので、昔は水を抜いてこういった汚泥も除去していたようです)、それほどの量ではないように思えました。というのはこれらのため池の貯水容量はそれほど大きくないことが推測できたのですが、干上がった様子をみてやはりと思ったのです。

 

そもそもそれぞれのため池は、集水するだけの地形構造になく、暫定的な貯留機能を営む役割をもっているのではないかと思うのです。それは一番上部に設置されている桜池という県内最大の貯水量を誇るため池が集水し貯水し、それを下流にあるため池群を通して、うまく配分する構造になっているのではないかと思ったのです。

 

阪奈和道路の上方にある桜池は、ウェブ情報<桜池ダム>によると

<国土数値情報 ダム(作成:2005年度)

【ダムコード】1446

【水系名】紀の川水系

【河川名】桜池川

【形式】アースダム

【目的】灌漑、特定(新規)灌漑用水

【ダム規模(堤高)16メートル

【ダム規模(堤頂長)320メートル

【堤体積】256千立方メートル

【総貯水量】566千立方メートル(千が抜けていましたので補っています)

【ダム事業者】土地改良区>

 

ということですので、ダムという位置づけですね。たしかに堰堤が16mもあり、堰堤長も320mですので、思った以上にでかく感じました。

 

紀州初代藩主、徳川頼宣によって築造された県下最大の貯水池ということですが、当時これだけの規模のものがつくられたのでしょうか、現在の堰堤の様子からは少なくとも修築された印象です。規模があまり変わらないとすると、17世紀初頭、応其上人が紀ノ川上流部に多くのため池を築造(あるいは修築)した規模に比べて規模が違うということになりますね。17世紀後半(1653年)ということですので、そこまでの技術進化があったのでしょうか。

 

ところで、海南市にある<亀池>は<満水面積約13万平方メートル、貯水量約54万立方メートル、堤の長さ98メートル、高さ16メートル、周囲約4キロメートルもあるこの池を、延べ55,000人で、約3ヶ月の短期間に完成させています。>ということで、規模がほぼ桜池に匹敵する規模ですね。海南市情報では同市出身の井沢弥惣兵衛によって1710年に築造されたとされていますが、大畑才蔵が工事に立ち会ったとの記録があり、はたして大畑才蔵の関与がどの程度であったか気になるところです。

 

また脱線しましたが、このため池群がどのような役割をもっていたのか、だれがいつどのような経緯でつくったのか、興味のあるところで、いつか判明したら書いてみようかと思います。

 

なぜこの場所を歩いたかというもう一つの理由は、田仲荘、西行の実家があるところがこのため池群の灌漑地の一部であった可能性もあり、このあたりも検討してみたいと思っています。むろん西行の話に、このようなため池灌漑といった俗世の話は出ませんが、たしか邦生著『西行花伝』で荒川荘との紛争を憂うような場面があったような記憶で、当然、水争いもあっただろうなと思ったりしています。

 

暖かいようで、冷たい風が吹いてきたりで、結構歩いたかと思うのですが、歩いているうちは元気な印かと思っています。

 

きょうはこのへんでおしまい。また明日。

補筆

今朝、中世荘園のいい加減な知識を基に桜池が田仲荘に含まれるかのような記述をしたことが気になり、山陰加春夫編『きのくに荘園の世界上巻』をぱらぱらとめぐっていると、額田雅裕氏が書いた「井上本荘」があり、そこには井上本荘が東に粉河荘、西に井上新荘の間に位置する荘園で、桜池を中心とするため池の灌漑システムをしっかり現代と中世のため池名を比定しながら、丁寧な論述をされているのを知り、さすがに専門家は文献、地形・地質を踏まえた説得力ある言及をされています。

 

東側の粉河寺から井上本荘内に侵入され乱暴狼藉が絶え間なかったようで、境界の裁定を朝廷に求めた際の荘園絵巻も紹介されています。中世は寺社がかなりの武力を背景に領地拡大を図っていたことがうかがえます。井上本荘も結局、京都の随心院の傘下?にはいり、対処したようですが、やはり地元の粉河寺の圧迫は避けられなかったようです。随心院ときくと40年くらい前に友人と訪れた記憶がありますが、静かな佇まいの穏やかな雰囲気を醸し出していましたが(たしか門跡寺院)、中世は権力闘争の中に組み込まれていたのでしょうか。

 

額田氏の指摘で興味深かったのは、私には平坦な丘陵地と見えたのですが、和泉山麓の谷間から流出したのは川水だけでなく、砂利や砂礫などもあり、それらが堆積して段丘がつくられ、その段丘が雨風の侵食で、谷間が出来、開析谷(かいせきこく)という開けた低地部分というのでしょうか。そこには田畑がつくられ、またため池もつくられてきたようです。

 

この解説は説得力があり、いつかまた整理して取り上げたいと思います。今日は、田仲荘(田中荘とも)はもう少し下流域に当たり、桜池を中心とする膨大なため池灌漑システムは井上本荘のものでしたので、西行の話も含め訂正しておきます。




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