161126 ガラスのボックス? ガラスの天井(A glass ceiling )は皮相的では
今朝は快晴。早朝の紀ノ川は川面から靄が立ち上がり、また、小高い丘には放射冷却を示す薄雲が長く伸びていました。
平日は作業をしていないせいで、体調はよく、今朝は約5時間竹を切り続け、相当量の切り株の山になりました。どっと疲れるのですが、この疲労感はなんともいえず、生きているという体の響きを感じてしまいます。
そうすると、再び、近世農民の生活が封建領主の強制で牛馬のごとく体にむち打って作業させられていたのかと、疑問の思いもわき上がってきます。こんなきつい作業をいやいや終日、休みもなく続けられるだろうかと、そういう思いがどうしてもぬぐえないのです。
電通の過労死事件のように、「鬼十則」という行動準則的なものが近世農民に課せられていたのではないか、という考えもありえますが、やはり違うと思っています。いずれこの点は、言及してみたいと思います。
ところで、クリントン女史が大統領選を進めているとき、また敗退したときも、ガラスの天井(A glass ceiling )という言葉が何度も聞かれました。そうかアメリカでもまだまだこの言葉が生きているのかと、呪術のような感じを受けました。
私がこのガラスの天井という言葉を知ったのは、20年以上前、映画「Disclosure」をカナダで見たときが初めてだと思います。当時はあまりぴんとこなかったのです。だいたいディスクローズされたのは何なのか、ぴんとこなかったのです(裁判用語としては結構意味があるのですが)。この映画、なかなか内容が濃く(以下の話以外に裁判審理類似する調停手続き(mediation)の審理方式やなじみのシアトル都心や郊外の分譲地の様子など盛りだくさん)、多岐にわたる情報が含まれ、簡単に理解できなかった(英語のヒアリングもですが)のですが、非常に印象に残りました。
この映画では、IT産業でも先端企業の開発部門の拠点を他社と合併し分離独立させ、そのトップの副社長に、開発部門外から若い女性を選ぶという、社長の大胆な選択の際、彼がこの言葉を使ったのです。当時は、アメリカでも企業のCEOなどトップに女性がそれほどいなかったように思います。他方で、この映画では、なんと上司の女性による部下へのセクハラが主要テーマの一つでした。なにかこの設定自体、どうも女性への偏見を感じてしまいました。
とはいえ、たしかまだWindows95が発売された頃で、私もようやくPCを使えるようになり、さまざまなソフトを楽しんでいたとき、この映画ではバーチャルリアリティの実践がこの企業の目玉商品で、その映像自体、とても先進的でした。とはいえ、その開発部門に所属する女性社員に対し、副社長からセクハラを受け、企業と対立する関係に追い詰められた主人公が、どちらにつくかと質問もしたとき、その女性は自分は大学でエンジニアを専攻し、この企業で7年?経験している、そのような質問はナンセンスといった回答をするのです。
この質問回答は興味深いです。アメリカ社会では、技術部門など専門分野での経験はそれ自体評価され、女性であっても重視されるとの自負を感じます。7年程度は専門家の世界ではまだまだとも思いつつ、懸命にやれば、性別の違いを超えて、十分に評価に値するという点は、強調されてもいいのでしょう。20年後の日本でもかなりそういう状態に近づきつつあるのかなと思いつつ、いろいろな壁を感じています。
それはトップないし社会的地位への登用において、ガラスの天井があることは明白でしょう。そしてそれは天井だけではなく、前にも横にも、床にも、歴然として壁がある、つまりglass boxではないでしょうか。それは女性だけでなく、さまざまなマイノリティに対して旧来の慣行が大きな壁となっているのではないでしょうか。
では私が勝手に「ガラス・ボックス」といま造語した理由を少し披露します。私は割とBSフジのプラムニュースを見ますが、ちょうど「配偶者控除」と「子育て支援経済成長」というテーマが連続して取り上げられました。キャスターの反町さんは当然ながらある立場でそれぞれのテーマについて議論を促しますが、その立場はある程度明らかなので、それを割り引けば、その質問は結構、的確になされていることが多く、その答えも参考になります。
で、配偶者控除ですが、旧態依然のしがらみで、安倍首相が働き方改革の一丁目一番地の一つではないかと思うのですが、なんとこれを維持してさらに150万円から200万円まで上限を嵩上げすることで、自民税調も是認したようですね。結婚しない女性、ジェンダーの人、への配慮はどうするのでしょう。
夫が働き女性が家で子育て家庭を守るというモデルは、日本の歴史の中でも、とりわけ庶民の世界ではほんのわずかな時期に、アメリカ白人層的な、それも一時的な家庭像を理想にしたにすぎないように思うのです。なお、異邦人が見た維新時の庶民生活では、親は夫も妻も子育てを担い、それを喜びにしている様子が描かれています。
子育て支援のテーマでは、京大准教授の柴田悠氏が著書「子育て支援が日本を救う」で、統計的手法で子育て支援の経済的有効性を主張しており、その説を中心に議論されました。詳細は、覚えていませんが、たとえば小池都知事を含め認可保育園の拡大など施設に比重が置かれていることに対し、保育士の給与を1.5倍に引き上げることの方がより重要だといった主張だったと思います。
この議論は、ある意味、施設と保育士を比較したとき、そのような議論も有効かと思います。しかし、この待機児童対策が問題にされているのは、都市部であり、その解決を目指すものですが、都市部へ女性が集中するという傾向をさらに促進させることを容認する内容です。
はたしてそれが女性の真の多様な活躍の場を提供することになるのだろうか、疑問があります。地方の豊かな環境で子育てする家族のあり方を、そして夫または妻が、容易に、自分に合った仕事、また高い給与で働くことができる場の提供を阻害するおそれも感じます。
子育て支援において、保育士像が女性に偏りすぎないかも、気になります。また、この制度設計自体、女性が働けないのは子育てを女性にだけに押しつけている現行のさまざまな潜在的な制度について、なんの問題提起もしないことを考えておく必要があると思います。
少し異なる観点では、夫婦別姓への抵抗も、女性が働く場を、働き方を、社会の仕組みとして制約している要因の一つではないかと思います。これも昨年12月の最高裁判決は否定的判断を下しましたが、女性が婚姻前の姓で社会的地位を確立していたとき、少なくないハンディになるでしょう。とはいえ15人中5人が違憲判断していることから、将来的には民法改正も検討が視野の世界に入ったかもしれません。
ガラス・ボックスは、多面的・重層的で、いま思いつきで書いたので、いつか整理して触れてみたいと思います。
なぜ人は、性別、ジェンダー、人種、貧富、信仰などなどで、差別するのでしょう。これは人の本質でしょうか。自分という存在が確立するには、他との差別が不可欠であると、いつのまにか思い込むのでしょうか。むろん公平・平等に対処するということ自体、簡単ではありません。でも自我はそもそも存在しないとも、禅の世界で言われています。いや般若心経自体、私とか、私を意味づけるものが無い、無だとも断定しています。
私のこのブログは、私なりのエンディングノートです。世間で言われているものとは趣を異にしますが、私というものがあるのかないのか分かりませんが、書いているとあるのかもしれないと思いつつ、いや私の言葉ではないと思ったり、いろいろです。いつまで続くか、この調子を当分続けてみたいと思います。