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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

大畑才蔵考 その2 川とのつきあい方と総合的な技術

2016-11-11 | 大畑才蔵

161111 大畑才蔵考 その2 川とのつきあい方と総合的な技術

 

今朝の毎日新聞に「神話の国の遺産を未来へ」という特集記事があり、そこで一人、村尾靖子という作家が異なる視点で発言しているのに興味を持ちました。村尾氏は、『悠久の河』という作品で、18世紀、松江市八雲町の庄屋、周藤彌兵衞が、「民が幸せにならなければ自分の幸せはない」と42年間かけて一人で岩山を削ったと取り上げています。同書によれば、洪水災害から地域を守るため、意宇川の流れを変えて氾濫を抑え新田開発に結びつけた周藤は、56歳から97歳まで、火と鑿で、剣山の硬い岩を切り続けたとのことです。

 

彼と同様に、江戸時代には各地で偉人による活躍の伝承が残っています。彼らが家族を犠牲にして生涯をかけたのは、おそらく見るに耐えられないような百姓の窮状が目の前に広がっていたのではないでしょうか。

 

私が好きな小説の一つ、帚木蓬生著『水神』は、筑後川という大河を堰き止め、潅漑用水を水のない田んぼに供給する、それはまるで水神が用水路を龍のように勢いよく流れ出すまでの物語ですが、とてつもない苦難の道のりを描いています。

 

まず、「オイッサ、エットナ。オイッサ、エットナ。」というかけ声が小説全体の底流に響き割っているようにお思えてきます。目の前には悠然と大量の水が流れる筑後川、しかし脇の高台にある大地には一滴の水も流れない、そのため2人の百姓が、「打桶」と呼ばれる、朝から晩まで毎日川の水を桶で汲み出して田んぼに流す、そのときのどこまでも響くかけ声なのです。彼らはこの作業を死ぬまで続け、その生活はこれだけまじめにやっているのに食べるものにも困る貧困の中にいます。このような窮状を救おうと立ち上がったのが庄屋5人で、数々の困難を乗り切り、水神の流れを完成させるのですが、一服の清涼感を与えてくれます。

 

さて、いつもながら前置きが長く、本題がなにかよく分からなくなりますが、再び才蔵に触れたいと思います。

 

才蔵は、紀ノ川に大規模な潅漑用水路を完成させ、紀州流の祖とも言われています。では、なぜこのような工事を遂行したのでしょうか。彼は、江戸初期の旺盛な新田開発が単に耕作面積を拡大しただけだと、百姓の能力を超え、耕作ができなくなり、かえって生産性がおちることを認識していたと思われます。そのため各地の農地の現状や百姓の意識を詳細に調べて、どこにどの程度水が必要か、十分な調査検討の上で、堰止め潅漑を進めたと思われます。と同時に、氾濫防止という川除についても配慮していたのではないかと思うのです。

 

最近、1123日予定の才蔵ウォークイベントで訪れる宝來山神社を訪れました。そのとき神社の方と話しをした際、和気清麻呂が開設し、中興の祖文覚上人がでた京都神護寺(元高雄山寺)ゆかりの神社だそうだとの話しを聞きつつ、宝來山という名前の由来をうかがったところ、やはり徐福伝説の「蓬莱」山思想も影響があるとも言われているようです。

 

そうなると、不思議なのは、蓬莱は海上の桃源郷、宝來山神社は紀ノ川の流れからはかなりの高台にあります。しかし、やはり神社の周りは氾濫原で、紀ノ川が荒れ狂ったときは水没していた記録も残っているようです。

 

江戸時代までは(いや最近でもかもしれませんが)、川除技術はそれほどしっかりしてなく、堤防も構造が十分でなかったのではないかと思います。現在、紀ノ川のさらに上流、吉野川を含め、多くのダムが建設され、また紀ノ川流域にも大規模な堰が開設され、洪水調節が格段に進みましたが、才蔵の時代、中小河川の流入を抑制するには、ため池での貯留機能に期待するくらいしか十分な策がなかったのではないでしょうか。




才蔵は、ため池の構造図(下記)を描き、個々の構成要素も用語を整理し、堤防づくりにおける安全な工法にも思案を働かしているように思えます。そして才蔵が書き残した用語は現在でも使われているものが少なくないのです。


 

最近の災害防止の視点から、改めて各地のため池の安全性が検討されたり、ハザードマップが作られたりしていますが、才蔵の時代に作られたため池の構造は、現代の科学的技術といわれるものにも匹敵するノウハウが結晶されているようにも思うのです。


余談ですが、専門業者が作ったため池の堤防決壊を前提とする洪水想定図は、残念ながら問題が少なくないものでした。一つは、単に海抜高さのみを基準に、当該場所の形状や、低地の広がり、鉄道法敷が適切にインプットされていなかったり、最悪シナリオを検討するのはいいのですが、ため池内に堆積している土砂を考慮しない設計上の過大な貯留水量を前提とするもので、現実的なハザードマップとしては有用性に疑問を持たざるを得ないものでした。

 

たとえば北米などでは、すでに四半世紀以前からこのようなハザードマップを詳細に、住民意見を反映しながら作っています。それは江戸時代の百姓が地域でヒアリングしながら地道に行っていた作業でもあったと思います。それが既存データを数字化するという机上の論理で科学性を示すものであれば、本当の災害に対応できないおそれがあります。

 

才蔵の『地方の聞書』や『積方見合帳』などは、より検討される必要を感じており、今後も時折触れてみたいと思います。