たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

教育のあり方 「高校生レストラン」の番組を見て

2016-11-27 | 教育 学校 社会

161127 教育のあり方 「高校生レストラン」の番組を見て

 

今朝は体が重い。昨日の疲れがずっしりのしかかるよう。窓の外は静寂な中潤いを感じる。どうやら雨のよう。こういうのを慈雨というのは的外れかもしれないが、私の体にとってはまさにそう。小糠雨は詩情豊かにしてくれる。体もやさしく包んでくれる。というわけで、伐採した竹の野焼きを予定してましたが、晴れて休止宣言。

 

それで朝から少しTV鑑賞。NHK総合で、「サキどり「高校生がレストラン!?学校がつくる地域のミライ」というのを途中からですが、おもしろく最後まで見てしまいました。

 

北海道のかつての炭坑町にある廃校寸前だった三笠高校で、教師が率先して高校生に料理教育からレストラン開業、そして休耕田などの草刈を始め農産物の生産、地域との交流と見えない糸のようにつながっていきました。生産から消費にまで広がり、それがこんどは各地の企業・産業とも結びつくという話題です。単なる地域興しに止まらない。最後には、なんと和歌山JAが柿の食材としての活用を高校生に検討してもらいと依頼案件まででて、たくさんの実験的な調理品が生まれました。個々の高校生の熱心なまなざし、創意工夫、それが地域や各地の悩む大人たちとのコラボが生き生きと伝わってきます。

 

他方で、現在のわが国の教育システムは、あくまで閉鎖的で大学受験までのステップアップを中心にカリキュラムが作られ、それを支援する塾が周辺に拡大し、それらは一大産業となっていますが、極めて閉鎖的で、現在の各地で困窮しているさまざまな問題とは一切向き合わない特異な状況ではないかと思うのです。

 

20年以上前でしたか、カナダの大学で時折、さまざまな研究者のセミナーを聴講しながら、大学院や大学の授業を聴講していましたが、教授から与えられたいろいろなテーマについて学生同士のディベートがどんどんエスカレートし、特定の結論を見いだすより、そのディベートを的確に軌道修正するといったことが教授の役割のように感じました。

 

そんなときたまたま、知り合いの日本の大学教授が二人、コスタリカで開催されたある国際会議に参加した後私を訪ねてくれましたが、そのとき大学授業の違いを話し合ったことがあります。いずれも日本の大学では教授側が一方的に講義する形で、学生から質問があっても教授とのやりとりで、それも極めて少ない。ただ、留学生になると議論が活発で、これは受験教育の影響かなと悲観的な思いで語っていましたが、それは現在でもあまり変わっていないように思うのです。

 

私自身、10年以上前に、3年ほど、非常勤講師という立場で、大学で授業を担当したことがありますが、私なりに、実験的に、ディベート方式を導入してみました。まだ「白熱教室」が話題になる前だったかと思いますが、結果は私の準備不足と課題の難しさもあって、思ったような成果は得られませんでした。とはいえ、多くの学生は、一週間前に事前に課題に関わる資料を読み込み、議論できるよう長時間かけて授業に出て、発表するのですから、大変だったと思います。それは他の授業ではまさに講義を受けるという受け身で十分なわけですから、大変な負担だと思います。でもこれが北米の大学では普通です。

 

このような授業方式は、企業に入って社会の中でもまれることにより、初めて実践的な感覚や、創意工夫を生み出す、わが国の教育と産業の一般的なあり方だったのかもしれません。それが破綻したと言われたのは四半世紀以上前だと思うのですが、一部を除き、なかなか変わっているようには見えません。

 

そんな中、先にあげた三笠高校の実践的教育スタイルは、教育と産業、そして地域との連関を見事にやりとげているように思えるのです。教育というのは、一つの方向だけではないと思います。それは大学に入学することが当然の前提と言うことではないでしょう。あるいは社会で一旦、仕事に就き、改めて学ぶ必要を感じて、大学で学ぶ形態も(かなり以前から社会人教育として採用されていることは事実ですが、亜流の位置づけではないでしょうか)本流の一つとして確立する必要があるのではないでしょうか。

 

駅前に塾が乱立したり、受験教育を第一義に挙げて有名大への入学率を競う中高や小学校の存在が当たり前のように是認され、さらに教育費として多額の支出をする現行の状態は決して望ましいとはいえないように思うのです。社会福祉費の増大を嘆く前に、必要とされている教育への支出の中身を見直す必要を感じています。

 

三笠高校が選択した料理教育、高校生レストランは、ある種総合芸術、文化、伝統を学び、地域共同体を学ぶ総合教育として一つの立派なモデルとなるように思います。そして高校教育という一つの中にとどめるのではなく、さらにレベルアップする社会教育制度や資格付与など、周辺の制度設計も必要だと思います。

 

このことは、料理という世界に止まらないと思います。いまグローバル化の過激な競争にさらされている農業、林業、漁業など一次産業としても、真剣に教育のあり方を考える必要があると思います。「近大マグロ」は大学教育が地域漁業との連携などで見事な成功を収めていますが、このことはそれぞれの産業の担い手になりうる人には、現在の教育システムの変更を促しているように思えるのです。

 

たとえばピアニストやバイオリニストなど音楽家は、当たり前のように、幼児から英才教育を受け、それでも限られた人のみがプロとしてやっていけると言われています。単純に比較できませんが、農業や林業、漁業も、いま総合的な知見、経験、技能が求められていると思います。

 

それを補助金行政で現行の産業実態のまま、支援するだけでは、現在の社会に適合する産業に蘇ることは厳しいと思います。中でもその担い手に対する教育システムは残念ながら極めて貧弱です。

 

たとえばスイスの「森の人」と呼ばれる森林管理の担い手は、森林が本来もっている多様な機能・価値を実現し、持続的管理と経営を行うわけです。現場で作業する人には充実した3年程度の職業訓練学校があり、実地研修が必須です。卒業により国家資格が与えられますが、さらにステップアップするためのフォレスター教育制度が整備されています。この詳細は浜田久美子著『スイス式「森のひと」の育て方』が参考になります。

 

森林も、農地も、そして海や河も、本来多様な価値をもち、私たちに大きな恵をあたえくれました。しかし、一歩間違えば、アルド・レオポルトが指摘したように、あるいはレチェル・カーソンが警告したように、いずれも脆弱な母なる存在が露呈されるのです。私たちは、もっとも大事な対象に対して接する人の教育に幼児から適切な教育を怠ってきたのではないかと危惧しています。維新前は自然に家族の生活の中で身についていた事柄が現在は見えなくなっているのではと思うのです。

 

トランプ式、習近平式など、金が一番のような国の運営は、極端な差別化を推し進め、子どもの心に深くそのことを根付けさせ、子どもの、そして大人の、さまざまないじめ、ハラスメントなど学校、家庭、職場ではびこる病を生む大きな要因となることを心配します。