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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

人の死 納骨堂と土地利用規制

2016-11-01 | 人の生と死、生き方

1611101 人の死 納骨堂と土地利用規制

 

今朝の毎日(大阪版)社会面は、「納骨堂の設置 大もめ」とトップ見出しで取り上げています。大津市は、弁護士出身の市長になって、いろいろ話題となっているような印象もありますが、これは大津市に限らない問題です。

http://viewer.mainichi.jp/pc/2013/index_flash.html?pkg=mainichi.jp.viewer&mcd=MOM&npd=20161101&uid=fb95cf96d182377bed21ff12018e06d8f83923af&tkn=43609fe3bacbdece558dd6f1dad4ecb0d9a7b488&pn=0&checkidsetup=true

 

この記事から推測をまじえて事実整理すると、浄土宗のお寺が、所有ビルを納骨堂に改装する計画に基づき、大津市長に墓地埋葬法尾経営許可を求めたところ、市長が近隣住民かの反対を理湯に「宗教的感情に適合しない」などとして不許可処分し、寺側が異議申立、その却下を経て、大津地裁に不許可処分取消を求めて提訴したとのこと。

 

ところで、納骨堂の開設は、葬儀場や墓地と同様に地域で紛争が起こる一つの類型です。その意味で都市計画のあり方にも関係しますが、わが国の都市計画のゾーニングは、欧米の制度を換骨奪胎して?導入しているとも言われていますが、似て非なるものとの印象を拭えません。アジア式混沌として土地利用が戦後の混乱を経て定着したように思うのです(江戸期のまちなみは、異邦人が田園都市とか、田園風景とその見事に整序された美しさをたたえており、20世紀初頭欧米を席巻した田園都市構想の原型がわが国にあったかもしれません?)。

 

たとえば北米・シアトルの都市計画のゾーニング・マップは、一区画ごとに建物の配置(四方のセットバック)、高さ、ファサードなどが決められています。むろん建物利用も。デザインコードも詳細です。

http://www.seattle.gov/dpd/cs/groups/pan/@pan/documents/web_informational/p2402708.pdf

 

日本人が美しいビルのスカイラインとか、住宅地の整った景観美にあこがれを抱く北米のまちなみは、厳格な市町村のゾーニング規制によって成り立っています。そこには所有権の絶対といった観念は見られません。で、納骨堂といった新たな建物利用はゾーニング変更として議会の審議対象となると思います(確認はできていませんが)。そこには宗教的感情といった観点は大きな要素にはなりにくいと思われます。

 

他方、わが国の都市計画では、大津市で問題となっているような改装は、基本的に審議の対象ともなりにくいでしょう。墓地埋葬法も戦後制定以降、墓地・納骨堂の開設は経営許可の対象となっていますが、許可基準も定めず、許可権限のある首長が裁量で判断していました。指導要綱など法規制でない方法で距離制限などを定めていましたが、その合理性が問われる裁判がいくつかあったとお思います。

 

平成12年の地方分権一括法の下、この経営許可について、都市圏での自治体の中には条例をつくって許可基準や手続き規定を整備するものが横並び式に作られていきました。その多くは、厚労省が作っていた指針に則ったもので、地域性や火葬の普及に伴う墓地・納骨堂の形態の大きな変化に対応するものではなかったと思います。

 

また前書きがだらだらと続きましたが、要は「国民の宗教感情」(墓地埋葬法第1条の目的条項に規定)といったものを根拠に、大津市が不許可処分したのだとすると、時代錯誤というか、大いに問題だと思います。もう一つの目的条項「公衆衛生」や「公共の福祉」も、火葬処理した焼骨の収蔵施設として、具体的にそして科学的合理性をもって検討されるには、あまりに抽象的で、根拠とならないと考えます。

 

私たちは、自分たちの宗教的感情を大事にすることについて、他から、また行政から、尊重される必要がありますが、と同時に、他の宗教的感情も尊重すべきと考えます。

 

浄土宗の宗祖、法然は、幾多の迫害を受けながらも、抵抗することなく普及に専念しました。弟子親鸞も、いや日蓮などは反抗的な姿勢の中に、宗派を確立したのかもしれません。いずれにしても行政が国民の宗教感情という、明治時代の遺物(土葬中心)を現代の経営許可の基準にすることは避けるべきだと考えます。

 

と同時に、一人一人が墓地というもの、納骨堂というもの、そういった対象について、現代的な意味で考えを新にすることが求められているようにも思うのです。