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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

高倉健を考える 「トランプ現象」と遺作「あなたへ」

2016-11-10 | 人間力

161110 高倉健を考える 「トランプ現象」と遺作「あなたへ」

 

昨日はアメリカ大統領選の結果が世界中に激震を与えたようです。とはいえ、新大統領となるトランプ氏は、その差別的言動や暴言など品格のなさはマスコミや身内の共和党からも非難されましたが、私にはなにか似たような状況が繰り返されてきたような印象もあるのです。ジョージ・W・ブッシュがアル・ゴアを、レーガンがカーターを、それぞれ破ったときも、そこにはアメリカ特有の民主主義が反映していたように思うのです。

 

いずれも相手をやり込める点では、言葉の巧みさでは優れていたように思います。それは大事なことだと思いつつ、表現の自由を基礎にしつつ、ある意味差別的な意識の下に、節度のない言動が大衆の支持を集めているようにも感じられます。そして他国というか、反抗する人種や勢力に対して、極めて好戦的です。その差別と暴力をいとわない姿勢は、アメリカ憲法が銃所持の自由と、男女平等を認めていないことと関係しないのか、気になります。

 

たとえば次の1990年以降にアメリカで起こった衝撃的な銃乱射事件に対してアメリカが銃規制ではなく、警備の拡充や銃所持により自ら守る姿勢に、私はアメリカ社会の脆弱性を感じるのです。

 

1 ルビー・カフェテリア事件 19911016日にテキサス州キリーンにあるルビーズ・カフェテリアで、ピックアップトラックに乗った男がガラス窓を突き破り乱射した後、駆けつけた警察官と銃撃戦となり、トイレに隠れた後銃で自殺。死者24名、負傷者20名の犠牲。

 

2 コロンバイン高校銃乱射事件 1999420日コロラド州のジェファーソン郡立コロンバイン高等学校で、同校の生徒2人が銃を乱射、12名の生徒および1名の教師を射殺し、両名は自殺した。重軽傷者は24名。

 

3 バージニア工科大学銃乱射事件 2007416日にバージニア州のバージニア工科大学で発生した銃乱射事件、33名の犠牲者、犯人は同大学の4年に在籍していた韓国籍の男子学生。

 

4 サンディフック小学校銃乱射事件 2012 1214日東部コネチカット州のサンディフック小学校で発生した銃乱射事件では、当時20歳だった犯人(同校卒業生)が銃を乱射し児童20人を含む26人が死亡。同人はその場で自殺。

 

 またこのような悲劇的事件にも劣らない、最近も頻繁に発生する警察官による黒人射殺事件(他のヒスパニックに対しても少なくない)のニュースを知るたびに、人種間の対立の根は深いと考えざるを得ないのです。

 

そしてアメリカの各州が独自に成立させている正当防衛法の中には、驚くべき先制攻撃的な銃の使用を認めています。違法な侵害は主観的な見方でも認められるのです。

 

ついでにいえば、夫婦間のDVもそして児童虐待も、アメリカから大きな潮流が生まれたのかもしれません。

 

他方で、トランプ氏は、主な経済政策で、米国第一主義をあげ、アメリカが主導したTPPを就任初日に離脱するとし、法人税や富裕層の所得税減税、相続税廃止を訴えました。グローバル経済、タックスヘイブンなどの大企業の好き勝手を許さないという、大衆向けの施策としては、それなりの理由がありそうともいえますが、それで大企業がUターンしたり、外国企業がやってきて、雇用が改善するのでしょうか。そこには何のイノベーション施策も見られません。金持ちが喜ぶ施策であっても、低所得や仕事がない人には、チェンジという夢を与えてくれるかもしれませんが、厳しい現実にさらされるように思うのです。

 

前置きが長すぎて、高倉健さんの話しが彼の寡黙な姿勢と同じで、簡単になりそうです。若い頃、安保闘争で世間が騒がしいとき、あの「網走番外地」の映画を見ていました。刑務所という特殊な秩序の中の不条理に対し異なる正義を、言葉よりも行動をという形で示す内容に、鮮烈な印象を受けていました。そこにある暴力は正義の鉄拳のように、法の支配で対応できない世の不条理を解決してくれるような思いもあったのかもしれません。そして「君よ憤怒の河を渉れ」では検察官として違法な権力に対して果敢に対抗する姿勢にすがすがしさを覚えた思いがあります。当時の健さんは鉄のような体で、一本筋が通った、憧れの対象でした。その後の映画では次第に暴力的な姿勢は抑制的になり、むしろ節度と礼儀、誠実さを示す健さんがより魅力的になりました。

 

そして一昨日の夜、たまたまBSNHKで、映画「あなたへ」を見ました。亡くなった直後にも見ましたが、再び、見て、改めて健さんの外観がとても弱々しく感じるとともに、それ以上に優しさを深く感じてしまいました。そこには二つの死と生が交錯していたように思うのです。田中裕子役の奥さんが病死し、その意思で郷里に散骨する健さん。奥さんの最期の手紙が「さよなら」と一言。自分は郷里で生まれ育ち、そして郷里の海の懐で安らぎの世界に入る。あなたは新たな生き方をという思いがあるのでしょうか。もう一つの生と死は、佐藤浩市役の漁師で事業に失敗し多額の借金をかかえ、遭難にあったのを契機に遭難事故を装い、死亡保険金を家族に残し、自分は宛所のない孤独の人生を歩くというものです。

 

散骨をする健さんの姿は敬虔で彼の一貫した生き方を象徴しているように感じました。本来は饒舌で人と語り合うのが好きで気配りを大切にする人のようですが、映画では寡黙を通したように思います。人を批判することも少なかったと思います。このような彼の姿勢は、日本人が明治以前の時代に美徳としてきた感情ではなかったのか、それが現代のわれわれの中にも多くの支持というかファンがいるのかなと思ったりします。

 

私自身、9110月、ちいさなヨットに乗り、会の仲間と一緒に、自然葬という散骨を相模灘で実施するのに参加しました。TVのクルーも一緒でしたが(翌日大変な報道となりました)、ヨットマンと私をのぞき、全員船酔いでした。でも散骨する時点では、全員が立ち上がり、それぞれ自然葬への思いを語り、散骨を実施しました。何か海と一体になった気分に包まれ、荘厳な感覚になりました。これを実施するのに、当時の厚生省や法務省の担当官といろいろ協議して説得するなどしっかり詰めながら、法的紛争も辞さない覚悟で臨んだ決行でもあったのです。

 

健さんの散骨場面を見て思い出してしまいました。あこがれの健さんが映像で表現してもらえる時代になったのかと感慨も新になりました。

 

トランプ氏の登場と健さんの死はなんら関係ないですが、私の意識の中には日本人というか、人の生き方を考える、また法の支配や国家というものを考える一つの契機になったように思うのです。まとまりがなく失礼しました。