脚と角

関西を中心に国内外のサッカーシーンを観測する蹴球的徒然草。

喜怒哀楽の真髄は蹴球にこそ有り。

「天皇杯」だから観に来ない??

2007年11月08日 | 脚で語る天皇杯


 ウィークデーの万博では肝を冷やしたJ2相手のPK勝ちに、片や遠く中東の地ではACLファイナルの初戦を浦和が価値あるアウェイゴールを挙げてのドローで、より優勝に近づいた。リバプールが爆勝を飾った欧州CLの結果も頭の隅に吹き飛んでしまうほどトピックスに事欠かない水曜日となったが、万博で行われた天皇杯4回戦のレビューはひとまず置いておいて、このゲームがいかに細々と行われたかに関して着目したい。

 2,638人。昨日のG大阪VS山形の有料入場者数である。ほんの4日前にナビスコ杯で優勝したチームの試合とは思えない。特に筆者を含めたゴール裏の住人たる人種には実に寂しい数字に見える。ちなみに興味深い数字を紹介するならば、5,148人。これは10/24の水曜日に長居で行われたJ247節C大阪VS山形の有料入場者数の数字である。どうだろう、ほぼ半分の数字ではなかろうか。
 先日足を運んだホムスタの神戸VS福岡が3,300人余りであったが、まだサッカー専用のスタジアムは全体的にまとまりがあり、ゴール裏の応援はよく反響するおかげで、観客数の少なさを補って余りある雰囲気をまだ何とか構築できる。しかし、ピッチとの距離が遠い陸上競技場タイプのスタジアムになれば、さすがに虚無感すら漂う雰囲気になってしまうのは否めない。

 今季、カップ戦も含めてウィークデイのゲームで観客数が少ないのは何も今に始まったことではないが、ナビスコ杯のグループリーグにおいて水曜の万博で行われたゲームには最低でも6,200人以上が詰め駆けている。10月の鹿島戦には8,157人の観客が集まった。ここからしても例年の如くこの天皇杯は注目度が低すぎる。前述したC大阪の観客数も考えれば、「天皇杯だから」という理由が最もこの閑古鳥が鳴くことの正当な理由として挙げられるだろう。
 まず、この注目度の低さを招く一つとして宣伝の少なさは大きい。何しろ主管が大阪府サッカー協会になるために、リーグ戦では主管として試合日のスタジアムをオーガナイズできるクラブ自体が関われない。年間パスを使用できないのはここに原因があるのだが、協会の宣伝活動自体が主催の日本協会頼みに近いこの大会は観客が集まらないのも当然かもしれない。「この日に天皇杯が開催されている」という認識に欠けた人もたくさんいるに違いない。必ずしもJ1同士の対決になるとは限らないこの大会。そうであれば、いかに純粋におらがチームを熱狂的に愛して追いかけるサポーターが少ないかを露骨にこの数字は語りかけてくれる。実に寂しいものではないか。
 そして、続いて挙げられるのが、5回戦以降は特に日頃リーグ戦やカップ戦といったJリーグとは無縁の地方スタジアムで開催することが多い点だ。今年の大会では5回戦の会場として、フクアリ、桃太郎、丸亀、広島ビ、長崎、神戸ユ、カシマ、松江とJチームが本拠地としている以外で計4ヶ所で開催される。G大阪は次戦フクアリであり、筆者が日本で最も評価できるスタジアムだけにもう一度今年足を運べるのは嬉しい限りだが、長崎で行われる浦和VS愛媛の勝者VS横浜FCや、松江で行われるHonda FCVS名古屋のサポーターのことを考えれば何ともこの大会の難しさを感じずにはいられない。こういった本来であれば全国的にトップカテゴリーの試合を観れる機会を作ることが満員の会場を作ることができないことの弊害に繋がっているのは何とも皮肉な点である。

 いかに日本のサッカー熱が如実に現われる大会であろうか。クラブの実質的な人気も問われているといっていい。また逆を言えば、日頃からどれだけそれぞれのクラブが広告宣伝を重ね、試合当日のスタジアムを盛り上げてくれているかといった面での労力もよく分かる。しかし、Jチームに関しては初戦はほぼホームスタジアムが会場としてアサインされるだけにここには足を運んでもらいたいものだ。
 1回戦を観戦した際に非常に興味深かったのは、大会の運営スタッフがほとんど奈良育英高のサッカー部員で占められていた。スタンドを所狭しと歩いては大会パンフレットを売り歩く姿には主管である県サッカー協会の苦労が窺えた。また、2回戦の滋賀守山に至っては、主管の滋賀県サッカー協会で大規模な大抽選会が開かれていた。佐川急便SCとバンディオンセ神戸双方のチームグッズを大盤振る舞いで観客に持って帰ってもらおうというもの。日曜日ということもあって地元クラブの子供たちが飛びついていたが、ここにも県サッカー協会独自の工夫が見られた。

 アマや大学生同士の対決ならともかく、Jチーム同士の対戦でここまで閑古鳥が鳴く天皇杯。様々な角度から見える課題は日本のサッカー熱の現状をダイレクトに伝える物差しだということをここでもう一度考えたいものである。